約 3,906,934 件
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/513.html
+灼嵐に舞う金眼の大鷲ミルヴァ 「わぁ……ありがとう、グラフィードさん!」 そう。 この日、ボクは十歳の誕生日を迎えたんだ。 父さんの友人のグラフィードさんから贈られた品を頭上に掲げ、父さん譲りの金色の瞳を輝かせるボク。 「グラフィードよ。今日来てくれたことには感謝するが……息子の誕生日祝いが生肉というのは、どうなんだ?その……一般的に」 「仕方ねぇだろ……祝いの品なんて真面目に考えたこともなかったんだからよぉ……俺なら喜ぶぜ?」 「ふふ。ミルヴァも嬉しいわよね?今晩の夕食はあなたの大好きなハンバーグにでもしようかしら」 「だろ?たんまり肉食って、もっと男らしい身体にならねぇとな。今のままじゃ線が細すぎるぜ?」 ボクの頭を、グラフィードさんがワシワシとぶっきらぼうな手つきで撫でまわしている。 男にしては軟弱で気弱、体つきもほっそりしていたことから、昔から女の子に間違われることが多く、そのことがボクのコンプレックスだった。 その桃色の髪からもわかるように、きっとボクは母さん似だったんだと思う。 だからこそ、かつてシャムール義勇兵団で遊撃隊の隊長を務めていた父さんや、傭兵として名を売っていたグラフィードさんのような屈強で、いかにもな男らしい人に憧れた。 いつか、この人たちみたいに強い男となって、誰かを守れるような人になりたいと。 そう、強く思った―― ――……ヴァ?ミルヴァ?もぅ……いつまで寝てるの? 「ん…………あれ……?」 「やっと起きたのね。さ、今日の鍛錬の時間よ」 夢……? また、昔のことを思い出してしまった。 「あ……ご、ごめんなさい、おじさん!急いで支度します!!」 「やぁねぇ……おじさんじゃなくて、お姉さんって呼びなさいってば。何度言ったら覚えてくれるのかしら?」 ボクの目の前で、口を尖らせながらお尻を振っているこの人は、ジョセフィーヌおじさん。 母さんの実のお兄さん。 つまりはボクの叔父にあたる人で、それ故にボクは彼のことを『おじさん』と呼ぶ。 ただ、そう呼ばれるのをなぜか嫌い、自分を『お姉さん』と呼ばせようとするのだけど、こんなにも逞しい身体を持っているのに、あえて女の人のように呼んで欲しいだなんて、理解に苦しむばかりだ。 「さ、とりあえず眠気覚ましに一発かかってらっしゃい」 いつも特訓の相手をしてもらっている屯所の中庭に着くと、早速と言わんばかりに斧を構えるおじさん。 「はい!」 ボクは手にする短弓に矢を番えると、おじさんに向かって引き絞り…… 放つ。 「ん~……ダメダメ。そんなんじゃアタシのハートは射貫けないわよっ!」 自分の胸を目がけて飛んでくる矢を、人差し指と中指のみを使って、意図も容易く受け止めるおじさん。 そうなることは知っている。 だから、それはただの目くらまし。 矢を受け止めることに集中した隙を突いて、ボクは彼の頭上へと飛び上がり、続けざまに三発の矢を放つ。 「はあっ!!」 この角度と手数なら、一本くらいは…… 「数打ちゃ当たるで引っかかるのは尻の軽い女だけ……アタシを落とそうと思うなら、それじゃ甘いわね」 「うわぁ!?」 彼が手にする斧をグルンと振り回すと、生じた風圧で矢が全て巻き上げられ、ボクの身体まで空高く押し上げた。 経験したことの無いような高さに、恐怖で身体が凍り付き、着地体制を整えられないまま落下したボクは、地に勢いよく叩きつけられることとなる。 「うっぐ!痛たたた……!」 「六十点ってとこね。アプローチの仕方は悪くなかったのに、最後のキメがダメダメよ。いける!と思ったのなら、一撃で相手を落とすつもりで攻めなさい。保険を掛けるような真似してウジウジしてたら、一発一発が軽くなって、簡単にいなされてしまう。今みたいにね」 「うぅ……うまくいったと思ったのに…………」 渾身の出来と思ったはずの攻撃でさえ、文字通り子ども扱い。 それもそのはず。 この人はここ楽都『アルモニア』が保有する最高戦力であるところのアルモニア音楽騎士団の団長を務める方なのだから。 そして、そんな凄い人がボクの師匠でもあることは、とても幸運なことだと思う。 「ま、相手がアタシじゃなくて、そこいらの三下だったなら今のでも十分なんでしょうけど、あなたが辿り着きたい場所はそんな低いところじゃないはずよね?」 「……はい!」 おじさんの指導を受け始めたのが一年ほど前。 ボクは、自分の弱さが原因で父さんと母さんを亡くし、生まれ故郷であるシャムールの街まで失った。 思い出したくもない記憶。 危うくボク自身も命を落とすところだったけど、そこをおじさんに助けられ、今のボクがある。 こんな小さな命だけど、それを立派に守ってくれたおじさん。 でも、おじさんはその日のことを心から悔やんだ。 妹であるボクの母さんと、友であったボクの父さんを救うことができなかったのは、まだ自分に強さが足りなかったからだと。 それはボクも同じ気持ち。 心から悔しく思う。 あの時、ただ震えて泣きすがることしかできなかった弱さを。 父さんと母さんを見送る葬儀の場で、ボクとおじさんは誓った。 強くなって、いつか必ず、シャムールの街を取り戻すと。 「さ、もう休憩も十分でしょ?もう一回戦……いくわよ?」 「はい!お願いします!!」 こんなに強いおじさんでさえ、自身の強さはまだ足りないと思ったんだ。 だったらボクは、もっともっと努力をしなくちゃいけない。 「やぁっ!」 「こらこら……また動きが雑になってるわよ?熱くなると一心不乱になっちゃうのは悪い癖ね。初々しいのは嫌いじゃないけど」 強く。 「てやぁああああ!」 「ちょっと、聞いてるの?ミルヴァ?」 もっと強く。 「はぁああああああああ!!」 「ちょ、タンマ!落ち着きなさい!!」 せめて、彼と同等の位まで駆け上がって、一緒に更なる上を目指せるように! 「これで……どうだぁああああ!!」 「ちょっ――待てって……言ってんだろぉがぁああああ!!」 「う……はぁ!?」 鉄のように堅いおじさんの腕の筋肉の感触。 それが凄まじい衝撃となって首元を襲ったところで、ボクは我に返った。 「……っは!?大丈夫!?!?ミルヴァ!!!!」 「う……ごほっ…………!」 おじさんがボクの元へ駆け寄ってくるのが見える。 そこで、ボクが彼の一撃で何メートルも吹っ飛ばされていた事実を知った。 「やだぁ、もう!アタシとしたことが思わず本気でがっついちゃった……傷は付いてないでしょうね!?特に顔は乙女の命なんだからね!?ほら、ちゃんと見せなさい!!」 「だ、大丈夫です……それにボク、男ですし」 あれ? 今、おじさん『本気』って言ったような…… 「あら……そうだったわ。アタシが嫉妬しちゃうくらい綺麗な顔立ちだから、たまにうっかり忘れちゃうのよね……ごめんなさい」 思えばこの一年。 この人に全力を出させた試しなんてなかった。 いつも簡単にあしらわれてばかりで、一撃も入れたことはない。 そんなおじさんが、ボクに本気を出してくれた? 「ど、どうでしたか!?ボクの攻撃!?ちょっとがむしゃらみたいになっちゃいましたけど、ボクなりにけっこう頑張れたかなって思うんですけど!!」 「えぇ。そりゃもう、めちゃくちゃだったわ……でも、攻めの要所要所には確かにアタシのハートを揺さぶるものがあった。大したものよ?基本がしっかり染みついてきてる証拠ね。安心なさい。あんたは成長してるわ!」 「そ……そっかぁ……!!」 込み上げる喜びに、ボクは両手をギュッと握り締めた。 ボクは近づけている。 この人のいる高さまで。 「あんた、これだけ吹っ飛ばされておいて、よくめげないわね……ホント、そういうところはアギラとそっくりだわ」 「……父さんと?」 「昔、あいつを殴り飛ばしたことがあってね。そしたらあいつはすぐに立ち上がって、涼し気な台詞を吐いてたわ……プ!膝はこっちが笑っちゃうくらいカックンカックンしてたんだけどね!ンフフフフフフ!!」 「そっか……ボクも父さんみたいに…………!」 「それと、さっきみたいに夢中になると、後先考えずに行動しちゃうところはアタシの妹譲りね。あ~あ……面倒なところばっかり引き継いじゃって……あんたこれから大変よぉ?」 「母さん……父さん…………」 「さ、今日はこれくらいにしときましょ。なんてったって……今日は昼から可愛い新人ちゃんたちの入隊式があるのよ!あんたも見ていきなさい!いい子がいたらチェックしといて、後でアタシに教えること。いいわね!?」 「はい!」 今日は、自分が確実に強くなれていると実感することができた。 もっともっと頑張ろう。 誰かを守れる強い男になれるまで。 誓いを果たせるだけの強さを手に入れるまで。 同日、午後。 アルモニア音楽騎士団屯所のメインホールには、数多くの人々が足を運んでいた。 これより行われるのは今期の新規団員入隊式。 格式高く、長き伝統を持つアルモニア音楽騎士団への入団志願者数は年々増加傾向にあるという話は前におじさんから聞いていたけど、これほどのものとは思わなかった。 新たに団員となる人たちと、その親族といった関係者。 式を執り行う現団員と街の有権者たち。 ざっと見まわしただけでも、五百人以上の人々が、所狭しとホール内にうごめいている。 「す、すごい数ですね……」 ホールの舞台の裏手袖から会場を見渡し、その光景につい息を呑んでしまう。 その隣で、挨拶の言葉が綴られた原稿を優々と眺めているおじさんは、あっけらかんとした口調で話す。 「他の騎士団では厳しいふるいにかけたりして、有望そうな子だけ拾うとこもあるらしいけど、うちは基本来るもの拒まずなの。だから、自然と入団者も多くなるのよ」 「えっと……その……実際、団員としては大丈夫なんですか?なんというか……思ったよりも厳しくて辞めちゃったりとか……」 「勿論、そういう子も多いわよ。でも、こういう仕事だもの。基本的には心も身体も強くなくちゃやっていけない。そういう資質を見極めるためには、訓練や試験じゃなくて、実際の現場で見定めることが必要になるってアタシは思ってるわけ。ん!?ヤダ!あの子いいじゃな~い?将来有望ね……!」 「遅いか早いかの違いってことですか?」 「そうね。それに、たまにいるのよ。最初は見向きもされないような雛だったけど、メキメキと頭角を現して、すごい才能を発揮する子ってのが。そういう子が入団試験で埋もれてしまうのはもったいないってもんでしょ?ちなみに、あそこに座ってるあの子もそんな一人よ」 そう言って、舞台上を指差すおじさん。 ボクはその指し示す方向を見て、すぐにそれがどの人物を指しているのかを察した。 「え……?あれって……こ、子供じゃないですか!!」 そこは、現アルモニア音楽騎士団の各隊長が並んで座る長机。 その一番端に、ボクよりも若そうな子供が堂々と座っていることに目を疑う。 「そ。入団からわずか数年。若干十二歳にして二番隊隊長に就任。しかし、その実力は団内の誰しもが認める天才。その名も……エリオットちゃんよ!!」 「じ、十二歳……!?」 十二歳といえば、まだボクがシャムールで何不自由なくのんびりと暮らしていた頃。 その実力は隊長どころか、父さんの狩りに付き添い、少し弓を教えてもらっていただけの、ひよっこ以前の次期。 「あの子は……ちょっと訳ありで、アタシが騎士団に推薦したようなもんなんだけど、それでも普通の騎士団の試験だったら落とされてたでしょうね。ついでに言っちゃうと、あんたもその口よ」 「そ、そうですか…………」 「だから気落ちする必要はないんだってば!あくまでもそれは出発点が他の人より少し離れたところにあっただけで、そこからどこまで進んでいるかは自分次第なの。事実、あのエリオットは想像を絶するくらいの経験と努力の末にあそこに座っているのよ?」 「十二歳で隊長になるような天才でも……」 「そう。だからあなたも頑張りなさい!アタシと一緒にシャムールの街を取り戻すんでしょ?」 ボクには、そう言いながら舞台上に歩いて行ったおじさんの背中がすごく遠くに思えた。 少しでも近づけたなんて思ってしまったことが今は恥ずかしい。 遥か遠くの場所に立つ隊長たちの、まだ先に彼は立っている。 でも、諦めない。 おじさんも言っていた。 出発点が遠くとも、どこまで進んでいけるかは自分次第だと。 必ず追いつきます。 だから、もう少し待っていてください。 「やっと終わったわ……たくさんかわいい子が来てくれるのは嬉しいけど、それだけ式も長くなっちゃうのが悩みどころよね……」 ひとしきり式の様子を見学し、いち早く稽古場に戻ったボクが弓の調整をしていると、おじさんが戻ってきた。 「あ、お疲れ様です!おじさん!」 「こら。お姉さんでしょ?いい子にしてたら素敵なサプライズをプレゼントしてあげようと思ったけど、やめちゃおうかしらぁ?」 「サプライズ……ですか……?」 「ほら、この子よ。さっき話したミルヴァ。軽く挨拶してあげなさいな」 「団長……先程も言いましたけど、僕はまだ仕事が残っているのですが?」 聞き覚えのない声。 その主が、おじさんの大きな背中の影から歩み出て、ボクの前に立つ。 「あ……あなたは…………」 「初めまして。アルモニア音楽騎士団二番隊隊長を務めているエリオットです。団長がどうしても顔を見せたい人物がいると無理やり連れてこられたのですが……あなたがそうなのでしょうか?」 「あ、えっと……そ、そうみたいです。は、初めまして!ミルヴァです!よろしくお願いします!」 「刺激になると思って、連れてきてみちゃった!どう?ミルヴァ」 「え、えっと……突然過ぎて、何を話していいのか……」 おじさんの意地悪…… ボクが人見知りなのを知っててやってるんだから、もう! 「ところで……確か、ミルヴァさんは団長の甥であると聞いたはずですが……団長、この方は……?」 「ふふ……ふふふふははははは!でしょ!?いたいけな少女が困ってるように見えたでしょ!?でも、ざ~んねん!この子には立派な男の証がついてるのよぉ~!でも、そこがいいの!わかる?わかるかしら!?」 「また団長にからかわれたわけですね……その気持ちについても、わかりたくはありません……」 「あ……ははは……なんか、すみません……ボクのせいで混乱させてしまったみたいで……でも、おじさんの言う通りボクは男ですので、そういうことでよろしくお願いします」 「あ、いえ。あなたが気にすることではありません。団長の親族の方とあれば、僕にとってもあなたは大切な方です。騎士団員一同、団長とあなたを全力でお守りしますので、どうかご安心を」 「えぇ!?いや、そうじゃなくて……!えっと……ボクは騎士団の人間でもないですし――」 「騎士が民の命を守るために戦うことは当然のことです」 「だから、そうじゃなくて!ボクも……ボクも、誰かを守れるような人になりたくて、おじさんに稽古してもらってて……だから、ボクを守るよりも、もっと他の人を守ってあげてください!」 「んふ……んふふ…………」 一体、何が楽しいのか。 おじさんはボクらの様子をニヤニヤと笑みを浮かべながら目を細めて眺めるばかり。 「団長が直々に鍛錬を……?」 「まぁね。もう一年くらいになるかしら。そういえばあなたが入団して間もない頃、よくアタシや団員連中が相手をしていたわね。エリオット。昔を思い出すかしら?」 「えぇ。まぁ、そうですね……」 「そこでエリオットちゃんにお願いがあるんだけど、聞いてくれるかしら?」 「ボクにミルヴァさんの相手をしろというお話ですか?」 「流石に察しがいいわね。ミルヴァが使うのは短弓。斧使いのアタシとは相性が良いとされているけど、実戦となるとそうはいかないわ。相手がどんな武器を使ってくるかはその時次第だし、人であるとも限らない。そろそろいろんな相手と戦う経験を積んでもいい頃だと思うの」 「ぼ、ボクがエリオットさんの相手ですか!?っていうか、おじさんと相性が良いなんてとんでもない!!まだまだ軽くあしらわれてるのに!」 「それはまだあなたが色々と経験不足だから。それに、一人の相手に練習を続けるのは基礎を学ぶ分には問題ないけど、相手を知りすぎてしまう分、癖が付くの。それはこの先のことを考えてもあまり良くはないわ」 「そ、そんなぁ……」 やっとの思いでおじさんの動きに慣れてきたと思ったのに、それを攻略する前に新しい相手。 しかも、天才とまで言われたエリオットさんが相手だなんて…… 「団長のお考えは正しいと思いますし、僕としても協力してあげたいとは思います。ですが、僕にも仕事があります。ミルヴァさんに都合を合わせることは難しいと思いますが……」 「手が空いた時だけでいいわ。なんだったら、あなたからエリオットちゃんを見かける度に襲っちゃってもいいのよ?ミルヴァ?」 「そんな強引な!?エリオットさんだって忙しいって今――」 「これもあなたが強くなるため。言ってる意味、わかるわね?」 「おじさん…………」 そうだ。 こうでもしないと、ボクはいつまでたってもひよっこのまま。 おじさんやエリオットさんに追いつくことなんてできやしない。 「わ、わかりました……ボク、やってみます!エリオットさん!どうかお願いします!!」 「ミルヴァさん!?」 「決まりね。それとも、デスクワークばかりでプニっちゃったお腹じゃ不安かしら?エリオット」 「……そうまで言われては引けませんね。わかりました。ミルヴァさん。いつでもかかってきてくれて構いません。僕は全力でその全てを打ち払います!」 「……はい!」 「いいわねぇ、若いって……食べちゃいたいわぁ…………」 それから、ボクは隊舎内でエリオットさんの姿を見かける度に勝負を仕掛けた。 「エリオットさん!勝負です!!」 「またいきなりですね……でも、いちいち声をかける必要なんてありませんよ?実戦ではそれが当たり前ですから」 それくらいのことはボクでもわかってる。 相手は自分より年下ながら隊長に抜擢された天才。 でも、だからこそ正面切って勝てるくらいまで強くなりたい。 「エリオットさん!勝負です!!」 「相変わらず真面目ですね……あなたは!!」 せめて一撃。 少しずつでも近づいてみせる。 「エリオットさん!勝負です!!」 「またですか……見た目よりもしつこい性格ですね……」 何度弾き返されたって、諦めない。 せっかくおじさんがボクのためにこんな機会を用意してくれたんだから。 全てはボクと一緒に誓ったあの約束のため。 「おじさん!また負けました!!」 「またやったの!?これで何度目よ!?」 「今日はまだ二回です。通算では三十二回目になります」 「で……あの子の鼻は明かせたかしら?」 「全然、歯が立ちません!!」 「はっきり言ってくれるわね。今日で丁度一カ月。あんた悔しくない――わけないわよね……」 「…………グスッ!」 死ぬほど悔しい。 こんな思いは初めてだ。 いくら隊長だからって。 いくら天才だからって。 相手はボクよりも年下。 あの手この手で攻めてみても、ボクの矢は一本たりともかすることもしない。 「はぁ……どうせ、また力任せに突っ込んでるんでしょ。あの子はアタシより器用だし、速さにしてもアタシより上なのよ?同じやり方が通用するはずないじゃなぁい!」 「でも……他にやり方が…………」 「……まぁ、だいぶ基礎はできてきてるし、そろそろ次のステップに進みましょうか」 「必殺技ですか!?」 「こら!調子に乗らないの!必殺技だなんて、それこそ実戦を何度も経ることで見つけて、磨き上げていくもんなの!」 「じゃあ……」 「魔素の取り扱いね」 「魔素……魔術のことですか?」 「あなたの父さんも使ってたでしょう?確か、アギラは風の魔素を扱うのが得意だったわね」 「はい!矢の軌道を変えたり、速くしたり……いろいろやってました!」 「まずはあんたのタイプを知って、そこから開発ね。魔素をある程度扱えるようになれば、戦略の幅も広がるし、単純に攻撃力も上がるわ。もちろん扱い方を間違えれば自分自身が大火傷する羽目になるけど、ちゃんと練習すれば大丈夫。やってみる?」 「はい!!それで強くなれるなら!!!!」 一カ月。 エリオットさんに返り討ちにされ続けた時間。 そして、また一カ月。 エリオットさんに勝つために、強くなるために魔素の修行に励んだ時間。 「お久しぶりです。エリオットさん……」 「最近、姿をお見掛けしなかったので、奇襲を狙っているものとばかり考えていましたが……その様子を見る限り、僕の予想は外れたようですね」 「はい。あなたに勝つため、特訓してきました!今日のボクを、今までのボクとは思わないでください!」 「一度たりともあなたを侮ったり、手を抜いたことはありません。それが騎士として、男としての礼儀だとわきまえているので。今日とてそれは変わりません」 「ありがとうございます…………いきますっ!!」 「来いっ!!」 ボクは思い切り地を蹴って、エリオットさん目がけて真っ直ぐに突っ込んだ。 エリオットさんの視線が針のように突き刺さる。 その眼光に、油断は微塵もない。 これまで通り、言葉通り、全力の天才騎士。 でも、ボクは変わった。 「はっ!!」 「――っ!?これは!?」 エリオットさんが手にする槍の間合いに入る直前、ボクは彼の頭上を飛び越えるように宙を舞う。 その背に、炎の翼をはばたかせて。 ボクには炎の魔素を扱う適性があった。 おじさんはボクの眼を見て、ボクらしいと笑っていた。 理由を聞くことはしなかったけど、ただただボクは嬉しかった。 炎の魔素は、おじさんが操る属性の魔素でもあったから。 「魔素を扱えたのか!?」 驚きの言葉とは裏腹に、体勢を崩すことなく頭上目がけて槍を突き出してくるエリオットさん。 これも予想通り。 「ぐっ!?」 だけど、狙いは確かに逸れ、刃先はボクの脇をかすめていく。 燃え散る火の粉と炎の翼のせいで、ボクの姿を一瞬見失ったからこそのミス。 「ここだっ!!」 いつか聞いた、おじさんの言葉。 『隙を突けたのなら、一撃で相手を仕留めるつもりで攻撃するようにしなさい』 それを今、噛み締めながら実行する。 「ちっ……させるかっ!!」 「はぁああああ!!」 母さんから授かった髪の色や体つき。 父さんから授かった瞳の色や弓の扱い。 そして、おじさんに授かった炎の魔素と教え。 皆の愛を注がれて、今のボクがここにいる。 ボクを信じ、育ててくれた人たちの気持ちに応えるためにも、今こそ一矢報いて見せる! 「勝てなかった……」 結論から言うと、エリオットさんに勝つことはできなかった。 必殺を意識して放とうとした一撃だったけど、矢から手を離す直前、エリオットさんの身を案じてしまったことで行動が遅れ、ギリギリのところで矢は盾に弾かれてしまったのだ。 その後はいつも通りがむしゃらに戦ってみたけど、結局良いとこまでいけたのはその一発だけ。 魔素の扱いを多少身につけたことで、エリオットさんも以前よりやりにくそうには戦ってはいたけど、まだ実力の差は大きかったということなのだろう。 「はぁ…………」 泥だらけになったボクは、そのまま屯所の風呂へ足を運んだ。 こうして暖かい湯に浸かっていると、悔しい思いばかりが頭に浮かんでくる。 「もう出ようかな……」 ――ガラガラッ! 「「あ……!」」 大浴場の扉を開いたところで、エリオットさんと鉢合わせした。 なんだか、気まずいような、くすぐったいような気持ちになる。 あれだけの大見えを切って挑んで、結局手も足も出ずに負けたのだから、それも当然か。 「ど、どうも!ボクはもう出ますので――」 「し、失礼しましたぁああああ!!」 ボクを見るなり、脱衣所を通り越して廊下まで走り去って行ったエリオットさん。 顔を合わせにくいのは僕も同じ気持ちだけど、さすがにこの反応は傷つく…… 「あ、あれ?やっぱり……ミルヴァさん?」 と、思いきや、すぐに戻ってきたエリオットさんだが、まだ廊下から脱衣所に足を踏み入れようともしない。 「は、はい……先ほどはどうも……」 「…………なんだ……そういうことでしたか」 「はい??」 彼曰く、女子用の浴場と間違えて入ってしまったものと思ったらしい。 それは、裸のボクが女性に見えたということなんだろうけど、この手の勘違いはもはや慣れっこ。 何度も顔を合わせているとはいえ、場所と恰好がこうも違えば、随分とモノは変わって見えるものだから。 「すみませんでした……僕としたことが、早合点を……」 「いえ……なんというか……これまでもこういう所に来ると、たまにあったので……はは……」 エリオットさんも勝負の最中、汗をかいたので、さっぱりしに来たとのこと。 自分で言うのもなんだが、結果はともかくとして、激闘と呼べるものだったと思う。 そして、その相手であった彼と、今背中を流し合っていると考えたら、少し笑えてくる。 「そんなに気を落とすことはないと思います。本当にいい勝負でしたから。僕が敗れてもおかしくはありませんでした」 「うぅ……負かされた人に言われても嬉しくないです……」 勝者に慰めの言葉をかけられながら、背中を流してもらう。 この歳にして、なかなかできない経験をしている気がする。 「まだあなたは戦術も魔素の扱いも発展途上です。それは僕にしてもそうですが、それでもあなたよりは多少経験が長い。その長さが今回の勝敗を分けたのでしょう」 「エリオットさん程の人でも、自分はまだまだだって思ったりするんですか?おじさんもそんなことを言ってましたけど、ボクには想像もできません。それだけの実力がボクにあったとして、同じことが言えるかどうか……」 「あまり誇れる内容でもないので、今は詳しくは話しませんが、僕にも目的というか……目標みたいなものがあります。それを果たせるようになるまでは、まだまだ道半ばだと思っていますので」 「そう……だったんですね……あんまり軽々しく言える事じゃありませんけど、なんとなくわかる気がします。ボクにも大事な約束がありますから」 「はは……あなたの姿を見ていればわかります。そうですか……いつか語り合ってみたいですね。共に目的が果たせた時に」 「はい……!」 ――ガラガラガラガラッ! 「エリオットちゃんとミルヴァちゃんがお風呂場で全身洗いっこしてるって話はホント!?」 「だ、団長!?!?」 「キャァアアアアアアアア!!なによ、なによ!美少年が二人して泡まみれで濡れ濡れでキャッキャウフフなんてマジで眼福ものじゃない!!うぉい!誰かカメラ持ってこいやぁああああ!!カメラァアアアア!!」 「ぼ、ボクはこれで失礼しますので、あとはミルヴァさんとごゆっくり――」 「逃がさないわよぉおおおお!」 「うわぁああああ!?」 「エリオットさん!?」 いつになくハイテンションなおじさんがエリオットさんの手を引いてそのまま浴場でダンスしている。 今日はめずらしい経験が多い日だなぁ。 「いつもアタシが風呂に入る時間を避けてるエリオットちゃんと浴場で遭遇!しかもミルヴァまで!!とりあえず、アタシの背中を流してもらいましょうか!?その後はサウナへゴーよ!!蒸し暑い小さな個室でハァハァと吐息を漏らしながら、あの日あの時の思い出を語らうの!!そうね、少なくとも三時間……いや、五時間は付き合ってもらうわよ!!!!」 「う……!?こうなったら……!!」 「あぁああああああああああああああああ!?!?」 途端、大浴場内に電流がほとばしる。 エリオットさんが発生させたであろうそれは、彼の身体から飛び散る飛沫を通じておじさんの身体を直撃。 けたたましい悲鳴と共に、屈強な肉体をブルブルと震わせるおじさんだったけど…… 「あぁ……!いいわ、これ!電撃マッサージなんて、なんだか流行りそうな響きじゃない?」 「ミ、ミルヴァさん!お願いします!!何とかしてください!!」 ケロッとしているおじさんの顔を見て、エリオットさんの顔が見たこともない表情に変わる。 恐怖や焦りを隠すこともせず、心から救援を望むその声に、ボクは無意識のうちに駆け出していた。 「お、おじさん!エリオットさんを離してくださ――」 ――ツルンッ! 「え?」 「「あ!」」 それからの記憶は無い。 気付けばボクはおじさんの膝の上で眠っていた。 話によると、石鹸で足を滑らせたボクは床に頭をぶつけ、そのまま気を失ってしまったらしい。 エリオットさんはというと、まるで何かに怯えた様子で、その時のことを頑なに語ろうとはしなかった。 翌日、二番隊を率いて任務のためにラキラの街へと発って行ったエリオットさんの背中は、相変わらず委縮したように小さく、ボクは彼の身に何があったのか気になったけど、聞いてはいけないような、そんな気がした。 そして、ボクが初めて戦士として戦場に立つ日は、突然やってきた。 エリオットさんがラキラの街に向かってから三日。 その日は朝から、おじさんを始めとした騎士団の上層部が作戦会議室を占有し、長時間何かを話し合っていた。 「急ぐのよ!非番で手が足りないところは他の隊から補充を手配して!!」 そして、部屋の扉が勢いよく開け放たれたかと思うと、おじさんの声が廊下の端まで鳴り響く。 「何があったんですか?おじさん」 「ミルヴァ……あんたは気にしなくていいの。ただ、ちょっと急がないといけないことがあっただけよ」 ボクに優しく声をかけるおじさんの顔は、その声とは裏腹に、とても静かな怒りで満ち満ちている。 ボクは知っている。 おじさんがこういう顔をするときは、決まって大切な誰かのことを強く想っている時。 特に、騎士団の仲間のことを想っている時。 「……エリオットさんに、何かあったんですね?」 確信はない。 でも、タイミング的にそれしかないと思い、彼の名前がボクの口を衝いた。 「いい?ミルヴァ。これは騎士団内だけの機密情報なの。わかるでしょ?」 「そんなこと言わないでくださいっ!!」 「ミ、ミルヴァ……!」 「おじさんだって知ってるはずです!ボクは団員じゃないけど、エリオットさんにはすごくお世話になったし、それに……もう友達なんです!仲間なんです!仲間は家族なんですよね!?おじさん前に言ってましたよね!?」 「……誤魔化せないものね。そりゃ、この一年ずっと一緒にいたんですものね」 「やっぱりそうなんですね!?」 「ええ。二番隊が向かったラキラの街を…………帝国軍が襲撃しようとしているわ」 「帝国軍……!!」 その名を聞いた瞬間、ボクの心の内から、今まで感じたことがない程の怒りが溢れてきて、同時に、火に包まれた街の記憶が蘇る。 傷つきながら、一人強大な敵と戦う父さんの姿。 血を流しながら倒れ伏す母さんの姿。 涙を流しながら、怒りに打ち震えるおじさんの姿。 帝国軍。 他でもないシャムールの街を攻め落とした憎き敵の名。 魔物の襲撃に便乗し、思い出に溢れた故郷を、そして父さんと母さんを奪った誓いを果たすべき相手の名。 「……ミルヴァ、落ち着きなさい」 「あ……」 呆然と立ち尽くしていたボクの肩に手を置き、心配そうな表情のおじさん。 「元々エリオットたちは、帝国軍の侵略を阻止する防衛任務の援軍としてラキラに向かったの。ただ、帝国軍について、嫌な噂が聞こえてきてね……念のため、アタシたちも援軍に向かうことになったわ。正直、間に合うかどうか微妙だけど……あんたはアタシとエリオットのことを信じて、ここで待っていてちょうだい」 今まで見たことも無い程に悲痛に歪むおじさんの表情。 ただ、それはエリオットさんを思うがためのものだけではない気がした。 それもそのはず。 ボクの母さんはおじさんの妹で、父さんは親友だった。 おじさんにとってもまた、帝国軍は怨敵なのだ。 「ぼ、ボクも連れて行ってください!!」 「ミルヴァ…………」 今までも、ボクがおじさんの任務に同行をせがむことはあった。 自分の力を試したかった。 少しでもおじさんの役に立ちたかった。 でも、おじさんはボクのお願いを聞いてくれることはなかった。 そもそも正規の騎士団員ではないボクを、騎士団の任務に同行させることは規則に反したものであり、同時に、おじさんはボクが傷つくことを無性に避けようとしていたから。 ただ、今回は違う。 騎士団員を家族のように想うおじさんと同じく、ボクにとってもエリオットさんは恩人であり、友であり、かけがえのない人。 それに、ボクがおじさんと共に誓ったあの日の約束。 それを果たすための一歩を踏み出す時が来たのだと、ボクは胸に手を当てて確信する。 「……いいわ。一緒に来なさい。いつまでもアタシの手の中で守られるわけにもいかないものね」 「おじさん……!!」 「羽ばたく時が来たわよ、ミルヴァ!あんたの力、アタシに見せてみなさい!」 「はいっ!!」 ラキラの街までは、どんなに馬を急がせても五日はかかる。 既に動き出している帝国軍は、それよりも早く到着するだろう。 ボクたちの救出作戦が間に合うかどうかは、ラキラの街で戦うエリオットさんたち次第。 どうか……どうか間に合って!! 「――っ!やはり遅かった……!!」 五日後、ラキラの街を目前に控えたボクらの視界に、天高く立ち上る黒煙が見えてくる。 「お、おじさん……エリオットさんは……!!」 「大丈夫よ!あの子を信じなさい!!」 目の前の光景は、言葉にするのも躊躇われるほど悲惨で悲しいものだった。 街の外に広がる美しい花畑は無惨に踏み荒らされ、一部は火に焼かれて灰に。 高い外壁が囲う街の至る所から、戦闘による煙があがっている。 聞こえてくるのは怒声、悲鳴といった、耳を覆いたくなるような声ばかり。 「あれね……!」 おじさんの目線の先。 そこに街の外縁に陣を敷く帝国軍の姿があった。 「陣形を展開!ここに本陣を置くわ!」 団長の号令を受け、無数の騎馬の隊列が、一つの生き物のように速やかに形を変える。 「リーベルト、バートン!ラキラ突入の二番隊救出部隊を編成!一個小隊を編成完了次第、行動開始!」 「「はっ!!」」 おじさんは流れるような指示で部下のリーダー格二人に指示を出し、部隊を二分する。 片や街の外で帝国軍と睨み合う本隊と、ラキラ内部で救出任務にあたる分隊だ。 ただ、ボクは一つだけ気がかりだった。 「おじさん……その……エリオットさんたちだけじゃなく……!」 街で煙が上がっているのは、既に街の内部に帝国軍が侵入し、戦闘が行われている何よりの証拠。 そこには二番隊の皆だけでなく、同じくラキラの街を守ろうと戦う人や、恐怖に震えながら逃げ惑う住民たちが多く存在するはず。 でも、おじさんは救出部隊を『二番隊救出部隊』と強調した。 まるで、任務の目的が二番隊の救出のみを指しているように。 「ミルヴァ……あんたの気持ちはわかるわ。アタシだって全員を助けられるならそうしたい。でもね、アタシたちもまた彼らと同じく人間なの。できることには限界がある。それを理解せずに、多くのモノを抱えてしまえば、結局、全てが不意に終わってしまうこともあるのよ……!」 おじさんは、ボクの気持ちを全て汲んだ上で、そう言葉にした。 唇を強く噛みしめ、眉をひそめながら。 「ご、ごめんなさい…………!」 まさに断腸の想いだったことだろう。 それなのに、ボクはそんなおじさんに鞭を打つことを口にした。 少し考えればわかること。 あの優しいおじさんが、助けを求める人々を目の前に、ただ座することの意味を。 ボクはおじさんに謝罪すると同時に、自分の弱さを再び呪った。 「団長!部隊の編成が完了!これより二番隊救出に向かいます!」 「頼んだわよ!外のことはアタシたちに任せて、必ず救い出して来なさい!!」 「はっ!!」 今しがた指示を受け、救出部隊を編成していたリーベルトさんたちがラキラの街へ向け、馬を走らせていく。 お願いします。 どうか間に合って! 「しばらくは様子見ね。気を抜いちゃダメよ?あそこで待機している帝国本隊が動けば、アタシたちが対応することになる。絶対に目を離さないように気をつけなさい」 「わかりました……!」 本隊の陣頭で、ラキラの外縁部を見つめるおじさん。 刺すような視線は、街の外に陣を敷く帝国兵たちを捉えたまま微動だにしない。 ラキラの街には、東西南北に備えられた大きな門が四つある。 その内、帝国が陣を築いているのは北の正門前。 おじさんは、そこから最も近い東門前に本陣を構え、あえて帝国に姿を晒している。 それが牽制であることはボクにも理解できた。 門外で睨み合いをすることで、彼らの意識をこちらに釘付けにする狙いだ。 そうなると、帝国軍は街内での侵略作戦を推し進めるための援軍を向かわせることはできない。 本陣が手薄になれば、こちらから仕掛けてくるかもしれないと考え、迂闊に動くことができないからだ。 同時に、それはこちらの街内での救出作戦が遂行しやすくなることも意味している。 こちらも第一目標はあくまでも二番隊の救出。 だから、こちらから動くことはない。 つまり、このまま街の外は膠着状態に入る。 おじさんも間違いなくそう睨んでいる。 「――は!?嘘でしょ……何でよ!?」 だけど、そんな思惑は大きく外れることとなる…… 「迎撃態勢!突っ込んでくるわよ!!」 街の外で陣を敷いていた帝国兵たちは隊列を組み、なんとこちらに向かって進撃してきたのだ。 「お、おじさん……帝国軍が……!」 「安心なさい。まだ大丈夫よ」 予想に反した動きを取り始めた帝国軍だったけど、おじさんは冷静なままだった。 敵方は数十人程の小隊規模。 対してこちらは、部隊を二分したとはいえ、未だ百名を数える。 おじさんの号令により、迎撃態勢を整える騎士団員たちにも、まだ余裕が伺える。 大丈夫。 その通りだ。 「…………おかしい……何でそんな無謀な突撃を?」 でも、帝国が徐々にこちらとの距離を詰めていくにつれ、おじさんの表情がゆっくりと困惑に染まっていく。 これにはボクも同意見だった。 ここでどちらかの本陣が大きな打撃を受けることになれば、均衡は崩れ、どちらかが壊滅、もしくは撤退するまで続けられる掃討戦になる。 彼ら帝国兵たちの胸に、どんな誇りや意志があるのかは知らないけど、そのことがわからないわけではないはず。 それなのに、なぜ彼らは足を止めようとしないのか。 次の瞬間、ボクらの渦巻く思考は怪しい光によって寸断された。 『ゴァアアアアアアアアアアアアアア!!』 「あ……あれは…………!?」 アルモニア音楽騎士団の本陣に突撃してくる帝国兵たちの一部が手を前に掲げたかと思うと、その手先が眩く光り輝き、光の中からヤツらは現れた。 紫色に光る鉱石のような鱗に包まれた皮膚。 大木のような太い尾と、陽光を遮る二枚の巨大な翼。 ボクはそれを知っていた。 「なんで……なんであの竜がこんなところに……!?」 再び脳裏をよぎるあの日の光景。 傷つきながらも、父さんがたった一人で立ち向かったヤツの姿。 間違いない。 あの日、シャムールの街を襲った魔物。 ヤツらの襲撃が原因で、シャムールの騎士団は帝国の攻撃に対応が間に合わず、結果として敗北。 シャムールの街は失われることになった。 そんな魔物が、たった今、ボクの目の前で帝国兵の手によって召喚された? 「おじさん…………」 「えぇ……ミルヴァ。ようやくわかったわ。どうして、あの日シャムールの街中にあれが突然現れたのか。どうして、その出現を予期していたように帝国軍の侵攻が開始されたのか……」 シャムールを失うことになった原因と、その実行犯。 別々だと思っていた二つの畏怖の対象が、一つの敵として、おじさんとボクの頭の中で混ざり合っていく。 「「帝国軍っ……!!」」 突如出現した巨大な魔物の姿にうろたえる団員たちの前で、二人して目を見開き、心に怒りの火が灯る。 「貴様らぁああああああああああああ!!」 誰よりも早く駆けだしたのは、おじさんだった。 「やぁああああああああ!!」 毛ほども躊躇することなく、ボクもそれに続く。 ――カッ!! 再度瞬くあの光。 帝国兵が、彼らを迎え撃つために走り出したボクらを見て、新たに魔物を召喚する。 それでもボクらが止まることはもうない。 「くたばれやぁああああああああああああ!」 召喚され、視界を得た時には、もう目の前まで迫っていたおじさんの剣撃。 魔物はそれに反応することすらも許さないまま、一方的な衝撃に晒される。 『グゴッ……ォオオオオオオ!?』 「はぁっ!!」 天に舞ったボクは、無抵抗のまま地に伏した魔物の顔面めがけ、これ以上ないほどの力を込めて一撃を見舞う。 『ガッ!?…………ォオオオオ…………!』 ボクの着地と同時に、力無く動くことをやめた竜型の魔物。 これで一匹。 残りも全て倒してやる! 「「おぉおおおおおおおお!!」」 ボクとおじさんの突撃から、数瞬遅れて戦列に加わる団員たち。 ラキラの街外は乱戦模様の戦場へと変わった。 「ふんっ!!おらぁああああ!!」 おじさんは吼え、目の前の敵をことごとく切り伏せていく。 「やっ!!はぁっ!!!!」 ボクも負けじと弓を引き絞り、矢を放つ。 気付けば、帝国軍の戦力は既に大部分が機能を失い、撤退を始めていた。 「このっ!!このっ!!!!」 「がっ!?」 「た、助けて――ぎゃぁああああ!!」 戦意を失い、背を向け逃げ惑う帝国兵に向かって、なおも矢を射続けるボク。 今の彼らがそうしているように、生きたいと願っていた人々の命を、彼らは多く奪い去った。 それなのに、いざ自分たちが同じ状況に陥ると、命乞いまでし始める始末。 ボクにはそれがたまらなく許せなかった。 自分たちがしたことの報いを受けろ。 お前たちが殺してきた罪のない人たちの恨みを思い知れ。 一本。 また一本。 ボクは矢を番えるたびにそう念じ、弦を引き絞る手を離した。 「ミルヴァ!!」 「――はっ!?」 強く腕を引かれたことで、ボクは我に返る。 「お、おじさん……」 「もう十分よ。これ以上はあなたの心が傷を負うことになる」 荒くなった息を整えながら、ボクはゆっくりと思考を取り戻していく。 ふと、自分の手を見ると、指先を弦で切ったのか、右手は血まみれになっていた。 こうして帝国軍を退けたボクたちは、再び本陣を構え、彼らの動向に気を払った。 幸いだったのは、その後帝国軍がこちらに仕掛けてくることはなかったこと。 もしも彼らが第二陣、三陣と、ボクたちを執拗に攻撃し続けてくるようなことになっていれば、ボクは同じように戦い続けることはできなかったと思う。 初めて戦場という場所に立ち、どす黒い感情に身を任せて戦った経験は、これ以上ない恐怖と辛さをボクの心に深く刻み込んだ。 「アタシはあんたをできることなら戦いに参加させたくはなかったわ……あんたの何かが変わってしまう気がしたから。どう?一つ戦いを終えてみて……何を思った?」 「ボクは……」 正直、もう二度と御免だとも思った。 戦いに勝利したとしても、こんなにも辛く、悲しい思いをすることになるのなら、と。 でも、おじさんやエリオットさんは、もっと悲惨な戦いをいくつも乗り越え、今を生きている。 例え自分や相手を傷つけても、その手で守れる命が沢山ある。 それを糧にして彼らは懸命に戦っている。 ボクもそうならないといけない。 そうしないと、おじさんとの誓いも果たすことはできない。 だからこそ、胸を張らなければいけない。 「大丈夫です。ボクも、おじさんたちみたいに強くなりたいと思います……!」 「そう……やっぱりあんたは強いわね。その心根の強さは、まさしくアギラから受け継いだものよ」 その時のおじさんの顔は、今までのどんな顔よりも静かで、優しいものだった。 「救出部隊、ラキラの街より只今帰還しました!」 丁度、そのタイミングで本陣へ帰ってきた救出部隊。 ボクらが帝国軍の本隊を足止めしていたこともあり、救出部隊の皆は一人として欠けることは無かったという。 でも、救出部隊に連れられ、足を引きずりながら歩く二番隊の騎士たちの顔を先頭から順番に見て、ボクはあることに気が付いた。 「エリオットさんが……いない?」 「隊長は……戦闘中に消息を絶って、今もその所在が不明のままです……」 おじさんの元を訪れた二番隊の隊員が、顔を伏したまま報告を口にする。 「そんな…………!」 「エリオット……一体どこで油売ってんのよ……!」 その言葉は、おじさんがエリオットの生存を信じているからこそのもの。 ボクもその気持ちは同じだ。 でも、帝国は既に再度態勢を整えつつある状況。 街内にもまだ別動隊がうろついてもいるはず。 撤退か、待機か。 おじさんが判断を迫られる。 その時だった―― 「団長!ラキラ東門よりこちらに向かってくる人影有り!!」 その声を聴いた面々の顔が緊張でこわばる。 「あれは……エ、エリオット隊長!傭兵らしき男と一緒です!」 エリオットさんの名に、喜びに沸く一同。 「――っ!?その背後から帝国兵!二人を追ってきている模様!」 「救援に向かいなさい!あの子を死なせるんじゃないわよ!」 「「はっ!!」」 おじさんの声を受け、馬に乗っていた騎士数人が二人の救出へと走る。 「隊長!ご無事ですか!?」 「お前たち……!」 エリオットさんの救出に走った面々と、その後方で陣を構えたまま鬼の形相で睨みつけてくるおじさん。 それを見て、追ってきていた帝国兵たちの足は止まり、すごすごと門の中へと引き下がっていくのが見えた。 「命、拾っちまったな……」 「そのようですね……」 救護班の元に運ばれていくエリオットさんの無事を心から喜び、涙で視界をにじませていたために、ボクは気づけなかった。 その隣。 彼に肩を貸し、共にラキラから逃げ延びてきた傭兵の正体に。 「おい、お前……ミルヴァか……?」 「え?」 自らも傷ついていながら、その足でエリオットさんを救護班まで運んでくれた傭兵に声をかけられ、ボクはハッとする。 その声には聞き覚えがあった。 遠く懐かしい日によく聞いた、低くて野太い声。 「グラフィード……さん?」 「なんでお前がこんなとこに……」 「良かった……グラフィードさん!あの日からずっと会えずにいたから……生きてたんですね!!」 父さんの友であり、幼い頃、よくボクの世話をしてくれていた、ボクにとってもう一人のおじさんとも言える人。 ボクはその胸へと飛び込み、彼の命がまだこの世界にあったことを確かめ、その有り難さを噛み締める。 「痛っ……つぅ……………!」 「あ!ご、ごめんなさい!つい……!」 「いや、大丈夫だ……これくらい掠り傷だからな」 ボクを受け止めた衝撃で、グラフィードさんの顔が歪んだ。 でも、すぐに笑顔に変わり、改めてこの人の温かさを思い出す。 幼い頃、抱き上げてもらった時に感じた力強い胸板も昔と変わらない。 「それよりも、ミルヴァ。お前はこんなところで何を――」 「一人の戦士としてここまで来たのよ。仲間を助けるためにね」 「あんたは……」 遅れてボクらの元までやってきたおじさんが声をかける。 「確か、ジョセフィーヌだったな?あんたにミルヴァを預けたのは正しかったのかどうか、気になってはいたんだが……どうだ?」 「彼は立派に成長しているわ。アギラにも負けないような、誰かを守れる立派な騎士になりつつある」 「そうか……俺の目も節穴じゃなかったらしい……」 「エリオットの治療が済んだら、あんたも診てもらいなさいな。その掠り傷とやらをね……?」 「はは……んじゃ、有り難くそうさせてもらうよ」 「グラフィードさんは……これからどうするんですか?」 「俺はこれからも傭兵として、あちこち顔を出すつもりだ。お前ともゆっくり話はしたいが、先に挨拶してやらねぇといけない奴がいる……悪いが、数年越しの大事な客だ」 「そう……ですか…………」 そう口にしたグラフィードさんは、少し思いつめたような、何かを決意したような、そんな表情をしているように見えたのは、ボクの気のせいだったんだろうか。 ただ、その客というのが、エリオットさんのことを指しているのであろうことはなんとなくわかった。 二人の間に、どんな過去があるのかは知らないけど、きっと大切な何かがあるんだ。 そのまま彼は、エリオットさんが運び込まれた救護班のところへ歩きながら、こう続けた。 「ま、戦場を渡ってりゃそのうちまた会える。その時、立派になったお前の姿を見ることを楽しみにしてるぜ?」 「……はい!」 もう少しゆっくりと彼と話していたい気持ちはあったけど、彼もこう言っていた。 『そのうちまた会える』 これは、共に戦場に立つ一人の戦士として、少しはボクを認めてくれたということ。 そう思いたい。 彼やおじさんが認めていた、ボクの父さんのように。 今日は多くのことを経験し、学んだ。 そして、これからもそれは続く。 これから激化するであろう戦乱の世を予感しながら、この景色を目に焼き付けると共に、今一度誓いを立てる。 シャムールの街を取り戻す。 「おじさん。ボク、もっともっと強くなります!まだ父さんや、おじさんや、エリオットさんにも、グラフィードさんにも追い付けていないけど、いつか絶対、皆に追いついてみせますから!」 「あんたならなれるわ……待っててあげる。でも、あんまりもたもたするんじゃないわよ?エリオットはともかく、アタシたちはもう若くないんだからね?」 「はい!」 「そこっ!!否定するところでしょ!!それから、最近すごく自然に『おじさん』って呼んでるけど、アタシは許したわけじゃないから!?ツケは全部アルモニアに帰ってから払ってもらうつもりだから、覚悟しておきなさぁい!」 「……は、はい。お姉さん」 +理を廻す歯車ヒューズ・ガリギア 「ヒューズさん、コーヒーをお持ちしました」 「あぁ、置いといてくれ」 研究室の入り口に目を向けることなく、ヒューズは設計図にペンを走らせる。 部屋に入ってきた助手は、彼の真剣な表情を見て何かを察し、湯気の立つカップを音を立てないよう静かに置いた。 ヒューズが現在手がけているのは、半永久的に自立稼働し続ける機械兵器。 この研究がうまくいけば、今まで成し得なかったことが実現するだろう。 感情という不確定要素を持ち合わせておらず、どんなに無慈悲であろうとも、どんなに無茶であろうとも、ただただ命令に忠実。 そんな兵士が大量生産されれば、大陸のパワーバランスは一気に傾くことになる。 今までこの研究を成功させた者がいない理由として、魔素をエネルギーに変換する機械のコアとなる部分の摩耗が激しく、長期的な運用が難しいとされていたからだった。 しかし、光の魔素が結合、そして反射させる際に生まれる屈折の圧力エネルギーを利用することで、ソリッドステート状態のコアの開発を成功させた。 つまりは、従来ネックになっていた“機械は動き続けることで消耗し壊れる”という機械の根本にある欠陥を一つ解決してしまったのだ。 光の屈折エネルギーを抽出するにあたり、必要不可欠となったのが絶魔状態の空間の確保。 この絶魔空間というものは、ガリギアの技術者ならば概念として幼い頃から触れてくるものだが、その実現に達した者はいない。 全く魔素のない空間を作り出すということは、空気中に漂う魔素を全て排除した後、外気からの干渉を一切許してはならない、または常に魔素を取り除いた空気を入れ替え続けなければならない。 これまでも理論上では実現可能という論文がいくつも世に出回ったが、反対に未来永劫実現不可能という内容の論文も世の中から一定の評価を得ているのだから、一流の科学者の中でも自らの答えを持っている者は少ない。 その雲を掴むような発明を、ヒューズは成し遂げた。 それこそが、“発明の父ガリギア”と呼ばれている由緒ある血筋が、ただの噂や伝説ではないという証明となるだろう。 「ふぅ、しばし休憩しよう。脳に糖分が足りてない」 糖分がどうのこうのよりも、ここ3日間眠らずに作業し続けている方が余程問題なのではないかと助手は呆れそうになるが、その気持ちは胸の中に留めることにする。 彼はこういう人間なのだ。 それはこの開発本部研究棟、通称“時計塔”に配属されてから毎日のように思い知らされてきた。 「ラキラの砂糖菓子がありますので、召し上がって下さい」 「あぁ、そうさせて貰うよ」 眉間を指で押さえながら、深刻そうな表情を浮かべるヒューズ。 「それと、少しは休んで下さいね」 「あぁ、そうさせて貰うよ」 いつもの反応に肩を落としながらも、彼らしいと笑ってしまいそうになる。 しかし、伝えなければいけないことを思い出し、気を引き締め直した。 「ヒューズさん、少しお話してもいいですか?帝国から新たな要求がありまして……」 「またか。要件は?」 ヒューズは顔色一つ変えずにコーヒーを一口啜り、受け皿にカップを戻しながら椅子に腰掛けた。 「先日に続き、帝国軍への軍事融資の件です」 「……」 1年程前、突然ガリギア中に警報が鳴り響いた。 正門の防衛システムが何者かに破壊され、周辺にはむせ返るような焦げた鉄の匂いが立ち込める。 幸い、死者は出なかったものの、数年をかけ科学者達が作り上げた要塞のような壁が破壊されてしまったのだから、只事ではない。 少数の帝国軍兵士が、夥しい数の魔物を手懐けて街の中に入って来る。 “反抗の意志がなければ危害を加えるつもりはない” 黒髪で黒い剣を持ったリーダーのような男は、不安そうな住人達に向けてそう告げた。 しかし、彼の言葉に安堵する者は少ない。 言葉の裏にあるものは『降伏』。 そして『支配』であった。 あの日から、少数の帝国兵が街に常駐し、事ある毎に様々な要求をしてくるようになった。 無論、帝国にいい顔をしようと考える者などおらず、街から排除しようとする者達さえ現れたが、そんな声は理不尽な力の前に太刀打ち出来ず、ただ消えていくのが必然だ。 ヒューズもそのことは知っている。 街の最高責任者なのだから、当然と言えば当然のこと。 だが、感心が薄いのか、帝国に対して他人事のような態度を取ることが多い。 現に、帝国が攻め入ってきた際にも『その程度の要求なら飲んでも良い。それよりも、正門の修繕に相応しい技術者を集めて、設計書を早急に作るよう手配してくれ。設計の段階で僕も目を通す』などと、帝国兵が街を襲ったという事実よりも、長年使い込んできた正門を作り直すというプロジェクトに目を輝かせているように見えた。 助手は、住民の暮らしに気を揉む領主のような役回りより、その方がよほど彼らしいと頷きながら、街の方針を周知し、正門の改修チームを編成した。 その方針に口を出す者も多少いたが、それよりも街の発展、更には技術の発展のためにと多くの科学者が携わり、僅か9ヶ月という短い期間で新たな防衛システムを組み込んだ正門が作り上げられたのだった。 しかし、正門が出来た途端に目標を失った技術者達は、帝国への不満を露わにし始めている。 どんよりと淀んだ空気をその肌でひしひしと感じていた助手は、ヒューズへ打診する機会を伺っていた。 「以前、要求のあった新型の魔導装置ですが、ザクセン砦というメルキスの北側にある施設に配備して欲しいとのことです」 「わかった。では手配してくれ」 ヒューズにすれば、それは気にするまでもない些細なことなのかもしれない。 しかし助手には懸念があった。 悪い言い方をしてしまえば、深く考えず、ただ帝国の言いなりになっているだけなのではないだろうか、と。 「あの、ヒューズさん……私から言うのもなんですが、本当にこれでいいのでしょうか?」 「ん?なにか問題点でも?」 「その……このまま帝国の要求を飲み続けるのは、個人的になのですが、技術者の士気を下げるのではないかと思うのです……我々には信念があるはずです。プライドもあります。原点魔素の基礎方程式も分からないような連中に大きな顔をさせておくのは、このガリギアの科学者のためにならないように思うのですが――」 ヒューズは助手の話を聞き終わる前に結論に達する。 「マーニルに勝利を譲ると言うのか?」 「えっ?そんなことは……どうしてそうなるのでしょうか……」 幼い頃から話を飛ばして結論から話す癖があった。 ヒューズの父を知る人間の前でこの癖を出してしまうと、親子だなと言われてしまうので、極力治したいとの自覚はあるが、『少し思考すれば、自ずと答えにたどり着きそうなものだ』と頭の隅で考えてしまうと、どうにも素直に歩み寄る気持ちにはなれない。 しかし、それはそれ、これはこれ。 相手に自分の意思とプロセスが伝わらなければ、この会話すら無意味なものになる。 それどころか、諦めてしまえば、相手がより理解できる人間へと成長するチャンスを奪ってしまうことにすらなり得る。 ならば、分かり易く噛み砕いて説明をすることはむしろ害となるだろう。 「今君が言ったように、我々には信念がある。マーニルの術士が扱う魔法よりも、我々の科学が優れていることを証明する。そのために誰もがこの街の勝利を確信できるような素晴らしい魔法科学を発明するのだ。この街の総戦力を持ってすれば、帝国兵を街から追い出すくらいのことはできるだろう。しかし、それではマーニル側の人間に今の我々の手の内を明かすことになってしまう。そうなればこの街の勝利は遠ざかるどころか、我々の長い歴史に最悪の形で終止符を打つこととなるかもしれない。全くナンセンスだよ」 そんな言葉は冷たいトーンで淡々と吐かれたが、その芯には燃え盛るような闘争心が確かにある。 代々ガリギアの血に受け継がれてきた宿命。 それこそがこの地に街を築いた先祖の魂であり、決して負けることが許されない戦争。 マーニル、ガリギア。 互いに相容れることなく、双方が最高の魔法科学の名を冠するために続けてきた長い争い。 時には血を流し、時には長い沈黙を続けてきた。 助手もその歴史は知っている。 科学研究所では、子供の頃から耳が痛い程この話を聞かされてきた。 しかし、実際には長い冷戦状態に入ってから久しく、本当に争っているのかも分からない。 ガリギアにいる科学者は戦争に興味をなくし、既にマーニルとの関係は過去のものだとされているようにも見える。 現に、魔法に勝つために、などと熱を上げている者など、この街にはいない。 この男、ヒューズ・ガリギアを除けば。 助手は小さなため息を床の上に落とすと、ヒューズの機嫌を損ねないように慎重に切り出した。 「それはもちろんそうかもしれませんが……えっと、少し変な話をするかもしれませんが、その戦争はここ百年くらい冷戦状態ですよね?私達は授業で学びましたが、戦争と言われてもピンとこないというか……」 「言いたいことは解る。既にガリギアの科学者の闘争心がマーニルではなく、肩を並べている科学者に向けられていることは重々承知の上だ。そして、今の状態を招いたのが僕や父、祖父だということも理解している。しかし、これは祖父が出した結論なのだよ」 そう。 ヒューズの祖父、アンペル・ガリギア。 彼こそが、マーニルとガリギア間の争いを今の状態に持ち込んだ張本人と言っても過言ではない。 長い歴史の中で、マーニルの魔術師がガリギアに攻め込んだことはほぼないと言っていい。 例外として、少数の過激派がガリギアの門にありったけの魔法を叩き込んだり、ある氷魔法の使い手が街中に紛れ込み、テロを働いたことはあったが、どれもこれも歴史に語られる大戦に比べれば、事件とさえされないような小さなもの。 では、マーニル軍は何故、ガリギアへと本腰を入れて攻め入ることをしないのか。 その答えは、当時アンペルが提案した戦法にあった。 今までガリギアがマーニルを打ち破ることが出来なかったのは、ガリギアの長所を活かしきれなかったことに起因する。 長所とは、ガリギアの門にも配備されている自動で動く迎撃装置の存在。 それらは目的、規模、基礎原理などで幾重にも渡って種を枝分かれさせ、今では数千種にも及ぶと言われており、今なお科学者各々が日々開発に熱中しているため、もはや正確な数を数えることは難しい。 この力を持ってすれば、いかに強大な魔法を操るマーニル側の術者とて苦戦は必至。 しかし、そんな力を人の力を介さずに発動しようとすれば、自ずと兵器本体は肥大化。 動力のことも考えれば持ち運べる物はかなり限られ、遠くマーニルの地まで移動させるとなると、性能にも大きな制限がついてしまう。 そこで、アンペルは装置群の力を最大限に生かせるガリギアに留まり、専守防衛の構えでマーニル軍を迎え撃つ戦法を提唱した。 だが、ここからがアンペルの誤算。 マーニルの魔術師は、待てど暮らせどガリギアの街に出兵してこなった。 わざわざ相手が有利な土地で戦う必要はない。 至極当然の考えだが、プライドが高く、自分たちの魔法に絶対の自信を持っているマーニルの人間ならば、それでも躍起になって攻めてくるはず。 そんな当てが外れたのだ。 これこそが、百年にも及ぶ冷戦状態が続くきっかけとなる。 「だから僕は思うんだ。このままではいけないと。百年待ち続けてもあちら側から攻めてこないのであれば、我々から攻める以外に勝利する方法はないとね。攻めてこないのであればね……」 助手には、話しながらヒューズの表情が僅かながら変化したように思えた。 「それは確かにそうかもしれませんが……もしかしたら、マーニルの魔術師達ももう忘れているかもしれませんよ?戦争のことも、勝ち負けのことも。もしそうだとすれば……」 「忘れておる訳がないであろう!」 突如、どこからともなく飛んできた甲高い声。 まだ声変わりもしていない小さな子供のような……。 しかしその落ち着いた雰囲気が幼さを否定する。 「だれですか!?」 助手は声の出処を探す。 ここはガリギアの中枢、時計塔。 幾重にも張り巡らされた電磁ドアが外部からの侵入者を許さないことで知られている。 その最上層ともなれば、文字通りねずみ一匹通さない、大陸内外でも最高のセキュリティと言えるだろう。 助手は辺りを見渡すが、侵入者の影を見つけることはできない。 目線をヒューズに戻すと、彼は椅子に座ったまま落ち着いた様子でコーヒーを啜っている。 「ヒュ、ヒューズさん!?」 「落ち着いてくれ。ついにその時が来たということだろう……ここまでどんな手を使って入り込んだのかは本人に聞いてみればいい。いや、正確には時計塔に穴を開けたあの光の正体か。聞きたいことは魔素の種類よりも多いが、まずは目的を聞こうか」 コーヒーカップを皿に戻し、返答を待つ。 時計塔の最上層に何者かが入り込んだことなど、歴史上初の事件であることは間違いない。 それ程のことを成す人物。 そしてここに用事がある人物。 そして“あれ程”の魔法を扱う人物。 ヒューズの中に答えは出ていた。 「なぁ、マーニル」 「えぇ!?」 助手は驚きのあまり、思わず大声を上げてしまう。 そんな状況でも、ヒューズは依然として落ち着いていた。 「相変わらずせっかちな奴じゃのぉ……まぁ、そんな所もガリギアの血というやつなのかもしれんが……」 「えっ!?」 助手は更に大きく驚いた。 今度は声の方向が分かったのはいいものの、それは頭の上、天井の方向だった。 見上げると、フワフワと大きな紺色のローブを靡かせながら、大きな帽子を抑えた少女がフワフワと落ちてきている。 落下速度は遅く、まるで何か透明なエレベーターのようなものに乗っているのではないかと錯覚してしまう程。 その異常な光景に目を奪われ、その場から動くことができない。 よく見ると、少女の周りには光の魔素が大量に集まり、キラキラと輝いているように見える。 それはこの科学都市でなければ、神やらその類に見えてもおかしくないだろう。 そのまま低速で地に足を付けると、少女は杖でトンッと床を鳴らした。 大きくてヘンテコな帽子から伸びる桃色掛かった白髪、天球のような形をした金色の杖。 教科書に記された因縁の相手の特徴のまま。 「ル、ルティア・マーニル!!!??」 青ざめた顔で腰を抜かし、バランスを失った助手は目の前の机に思わず手をついた。 中央に足のあるテーブルは大きく傾き、激しい音をたてながら上に置かれていたカップがバラバラになっていく。 目の前にいるのが生ける伝説のような人物なのだから、登場の仕方にこそ目を瞑ることができても、こちらはそうはいかない。 ――800年間、名前の変わらない魔法学校の学長 そんなおとぎ話のような噂。 現代科学においては不可能とされている不老不死。 歴史の中で何人もの科学者がそんな装置を作ろうとしているが、良くても冷凍保存したネズミの蘇生を成功させた程度。 人間のコールドスリープ、ましてや不老不死など到底不可能と言われる技術。 そんなものを作れる人間がいたとすれば、マーニルとガリギアの戦争をも一瞬で終わらせられる程の、最高の科学として未来永劫讃え続けられるだろう。 しかし、この噂話は大陸の住人であれば誰しもが聞いたことがある程に有名な話。 もちろん、伝説は伝説でしかなく、実在はしないと口にする者も多いが、その伝説が目の前にいるのだから、もはや信じる意外の選択肢はない。 「調子はどうじゃ?新しい研究は進んでおるか?」 助手のことなど全く気にせず、ヒューズに話しかける少女。 ヒューズは眉をしかめることもなく、涼しい顔で対応する。 「初対面の相手に、まるで友人のように話し掛けてくるのだな。敵である我々の研究施設に不法侵入。こちらの質問は無視。更には研究の進捗を報告しろとなると、心良く言葉を交わそうとする者はいないと思うのだが?それが君の国での礼儀作法なのか?」 少女は楽しそうに研究室を歩き回りながら、ヒューズの話を聞いているのか聞いていないのか、部屋の中にあるもの手当たり次第に物色しているようだ。 「ドアから入って正面に何もないスペース。少し進んだ所に休憩用のテーブル。そして左側に本棚。それから作業机があり、広げられているのは大きな設計図。ふふふ……やはりガリギアの血が濃いのじゃな」 一通り部屋を見回ったと思うと、ヒューズの方へくるりと顔を向ける。 「な、何をしにきたんですか!?あなたは……ルティア……ルティア・マーニルですよね!?ヒューズさんを狙ってきたんですか!?えっと……今警備を呼びます!!」 助手は慌てながらバタバタとうまく動かせない足を必死に前に出しながら出口へと向かう。 しかし、その足をヒューズの言葉によって止められた。 「まぁ、待ってくれないか。彼女は何やら話をしに来たようだ。君はまず倒したテーブルを元に戻して、割れたカップを拾うこと。そして新しいコーヒーを2杯持ってきてくれ。彼女を……彼女を僕の客として扱うように。他の者には他言無用で頼む」 「えっ……!そんなのわからないじゃないですか!マーニルとは長い戦争をしてきたってさっきも言っていましたよね!?私だって知らない訳じゃありません!そんな相手が急に部屋に入って来たんですよ!?安全だなんて言い切れる訳が――」 「問題ない。もしこの魔法使いが僕の命を狙ってきたのならば、部屋に侵入した時点で僕を攻撃していただろう。金属で組み上げられたこの研究室の天井に音もなく穴を開ける魔法を扱えるのならば、僕を殺傷することは十二分に可能だったはず。このコーヒーの表面に彼女の姿が映ってから喋りだすまでの時間でそれをしなかったということは、彼女の目的は他にある。そうだろう?」 少女はどこか狡猾さを含んだ笑顔を見せながら、ゆっくりと首を縦に振る。 「そうじゃな。お主がそんなにも丁寧に助手に説明ができる奴じゃとは、驚きを隠せんな」 「僕を知ったような口を叩くのだな。これで言うのは二度目だが、初対面だろう?」 「ふふふ……そうじゃな。“お主とは”初対面で間違いない」 何か含んだ言い方に聞こえたが、いちいち突っ込む気にもならないヒューズ。 今までのやり取りで、この少女の一言一句に質問をしていては、いつまでたっても確信に迫れないと考えが至っていた。 少女はポカンとしている助手に向けて笑顔を向ける。 「驚かして悪かったの。お主らの大事な“ガリギア”に何かしようとは思っておらぬから安心するのじゃ」 「そういうことだ。僕の客として扱ってくれ」 助手はヒューズがどうしてそこまでこの少女を信じられるのかと頭を悩ませながら、倒れたテーブルを元の位置に戻し、割れたカップを拾うと部屋を出ていった。 「さて、本題に入ろうかのう。ワシがここに来た理由じゃったな。どこから話せば良いかのぉ……」 「前置きはいらない。単刀直入に頼む」 「ふふふ……そうじゃな。ではそうさせて貰うとするかの」 少女はそう言うと、テーブルを挟んでヒューズの前に座った。 「ワシがマーニル魔法学校の学長ルティアじゃ。お主とある賭けをしたいと思っておる」 「賭け?」 「どちらが早く帝国軍を滅ぼせるか。互いの技術をぶつけてみる気はないかのぉ?」 ヒューズが想像していた内容よりも、随分とまた突拍子もない打診に困惑する。 色々と想像しては破綻し続ける仮設の山で、頭の中が埋まった。 「ガリギアとマーニルはここ数百年、戦争を繰り返してきた。その事実を知っているのか?」 「そうじゃな。知らぬわけがないじゃろう」 彼女からその言葉が出るということは、本当に800年以上生きているとでも言うのだろうか。 「帝国の戦力は、お前たち魔術師だけでは手に負えない程の相手なのか?」 「どうじゃろうな。やってみんことにはわからんが、王都レミエールを堕としたんじゃ。一筋縄でいく相手ではないじゃろうな」 「何故、帝国を敵視する?」 「敵視というよりも、この大陸を支配して何をしようとしておるのか、何故王都を潰せるまでの力を急につけたのか、そこに興味があるというのが本音じゃな。お主もそうじゃろう?」 確かに、小国である筈のガルヴァンドが、一夜で王都を陥落させたと報告を受けた時には耳を疑った。 この街に攻めてきた時に従えていた魔物。 あの魔物達をどのようにしてコントロールしているのか―― 「興味がないとは言わない。だが、我々の争いに決着を付けるためとはいえ、わざわざ帝国とまで戦争をするなどと……あえて回りくどい方法を望む理由が理解できない」 「ふむ……そうじゃのぅ……」 それまでは筋書き通りに話していたかのようにテンポ良く返ってきていた言葉が止まる。 彼女は天井を、いや、その上の空を見上げているような、そんな目をしていた。 時間にして数秒。 しかし、その間に思考していることにこそ、ルティア・マーニルという人間の本質があるのではないだろうかと、ヒューズは次の言葉に身構えた。 「元々ワシは人が争うことを嫌っておる。それは今でも変わらん。しかし、ある男は違ったのじゃ。争うことで、技術を発展させようとしておった。争えば争う程、技術が発展すると」 それには一理ある。 闘争心がもたらす相乗効果。 好敵手という存在が人を飛躍的に成長させる様に、戦争は技術力を飛躍的に進化させる。 しかし―― 「争いが必要なのであれば、我々ガリギアとマーニルの直接対決でも叶えられることだ。その方がどちらに軍配が上がったかも分かりやすい」 「先程も言ったように、帝国は今や大陸の脅威となっておる。ワシらが戦い、消耗したところで、帝国が本腰を入れて大陸全土を滅ぼしに掛かってきたらどうするのじゃ?敵の敵は味方と言う言葉があるじゃろう?」 ヒューズは椅子の背もたれにもたれ掛かりながら、しばし思考する時間を取る。 この少女の言葉には、何か裏があるような、そんな気配を感じるのだ。 そして、結論は出た。 「やはり……断らせて貰う」 「何っ!?なぜじゃ!?互いの研究の成果を帝国にぶつけて競おうというだけじゃぞ!?帝国軍を常駐させているガリギアにも利はあるはずじゃろう!助手も言っておったではないか!」 この女……いつから話を盗み聞きしていたのだろうか。 「理由は簡単だ。君を信用することができない」 「なんじゃと!?」 ヒューズは厳しい視線を少女に向ける。 「先程、君はルティア・マーニルだと名乗った。僕も君がこの部屋に入ってくる時はそう確信があったのだが、顔を見てからというもの否定的な要素が多すぎる。君はあのルティアではない」 「……何が信じられないというのじゃ」 「噂では、君はマーニルの街ができた頃から生きている。だが、君はどこからどう見ても幼すぎる。化物のような年齢であれば、染色体からなる遺伝子や、それが作り出す細胞に劣化が生じるはず。噂が本当であれば、僕はてっきり身体を機械化しているのだろうと想像していたが、その様子もない。君が800年以上の時を生きてきたなど、まるで少女の夢物語。君はルティア・マーニルを騙る他人。そんなどこの輩と知れない者と協力し、帝国に対して宣戦布告するなど……受け入れられる人間がいるのか疑問だな」 それは思想ではなく、状況からの推察で導き出した理屈。 しかし、目の前の少女は依然として不敵な笑みを浮かべている。 この年齢で、ここまでの振舞いができているところを見ると、何かしら特殊な教育や訓練を受けているのだろうか。 一考の余地はあるが、それでもここで受けるべきではない。 それがヒューズの出した解答。 少女は、大きな法衣を翻し、ヒューズに背を向けた。 「少し予定が狂ってしまったのぉ。筋書き通りに進まんのは昔と同じという訳か……」 「諦めがついたならば、大事になる前に帰って貰えるか。君が僕の期待していたような人物ではないとなると、僕が君を匿う必要もなければ、これ以上話をする時間さえ惜しい」 少女は何か思い直したようにひとつ頷くと、首を回して横目でヒューズを見る。 「やはり、何も知らないのじゃな。お主達らしい……ガリギアの技術で人をこんな身体にしておいてからに……」 最後の方はギリギリ聞き取れるかどうかの小さな呟き。 しかし、その声はなんとかヒューズの耳に届いていた。 「おい、今のはどういう意味だ?」 少女はまた背を向ける。 大きな帽子でその表情は一切分からない。 「今日は諦めるとするかの。お邪魔したぞっと……」 そう言い終わるや否や、少女の身体は光に包まれる。 質量を持つ程に圧縮した眩い光の魔素に少女が足を乗せると、そのまま空中へと浮かびだす。 マーニルの魔術師は、自身の体内で術式を構築し、魔素を操ることが出来ると聞くが、これ程までに高度な術式を脳内で組むことができるとでも言うのだろうか。 機械に組み込もうと思えば、文字にして数十万行の式を組み込む必要があるだろう。 「待て!!僕の質問に答えろ!!」 少女を包んだ光は急激に高度を上げ、入ってきた時に開けた穴へと消えていく。 「おい!!くそ……!」 光は穴から空へと飛び去り、研究室には静寂だけが残った。 それから数日間、ヒューズは進めていた研究を止め、資料館にこもって過去のレポートや書物を読み漁っていた。 「ガリギアの技術で人をこんな身体にして……あれは一体どういう意味だ?本当にあの少女がルティア・マーニルだとすれば、不老不死の身体は我々ガリギアの技術の成果ということなのか……?」 この街の歴史を遡る。 膨大な量の資料。 800年にもこの街の歴史となれば、それもその筈。 『不老』『蘇生術』『時間走行』 それらしい言葉を片っ端から漁っていくが、不老不死という答えには到底たどり着けない。 それどころか、研究の失敗、断念、打ち切りという、スタートラインにすら立てていない文献の数々。 やはり、全てはお伽話。 ルティア・マーニルは実在せず、あの少女がその名を騙っているだけ、という仮説は覆らない。 800年以上生き続ける人間など、存在する筈が―― 「待てよ……!!僕は何故こんなに単純なことに気が付かなかったんだ……」 至極簡単な話。 もし、不老不死などという技術が確立しているのであれば、ガリギアに住む人間がそれを知らないということはあり得ない。 それが倫理観に反するという理由で闇に葬られていたとしても、何かしら痕跡は残る。 仮に、それを何者かが隠蔽したとしても、当時の記録に残されるはずの空白や矛盾が存在するはずなのだ。 歴史の改竄、抹消とはそういうもの。 しかし、どの歴史年表や資料にもそれが皆無である事実は、その技術の存在はこの街、科学都市ガリギアの歴史上の出来事ではないことを指している。 そもそも、ルティア・マーニルが本当に800年以上生きているのであれば、その時間はこの街が紡いできた歴史の長さと重なる。 それだけでも、必死にこの街の歴史を洗っていた作業が如何に無駄であったのかを思い知らせてくれる。 こんなにも簡単なことを何故見落としていたのか……。 「僕としたことが……滑稽だな……」 身長の倍以上はある本棚に背中を預けると、額に手の甲を当て、ため息を付く。 「ふぅ…………」 「あの……ヒューズさん、お疲れでしたらお休みになった方が良いのではないでしょうか?もう丸4日は横になっていませんよね?」 聞きなれた声が耳に届く。 「君か……。そうだな……そうさせてもらおうか」 フラフラと歩くヒューズの肩を、助手が支える。 「もう!無理しすぎですよ?」 「頼みがある……僕が休んでいる間に、この街の一番古い文献を集めておいて貰えないか?街が作られた経緯が知りたい」 「わかりました。任せて下さい!……でも、そんなことなら授業で習いましたよ?機械が好きな人達が集まって研究都市を作った。そのリーダーとなったのが初代のコイル・ガリギアさんですよね」 「その話を詳しく調べ……たいんだ……」 「でも意外ですねぇ……ヒューズさんが歴史を学びたいなんて!魔素と回路くらいしか興味がないと思っていました!」 「…………」 「あ、すみません、失言でしたね。悪気はない――」 「…………スー……スー……」 「寝ちゃいましたか。もう、せめてベッドまで歩いてからにしてくれたらいいのに……」 ヒューズが目を覚ますと、そこは研究室のベッドだった。 深い眠りについていたのか、少し頭がボーっとする。 上半身を起こし、辺りを見渡すと、机の上に助手が運んだであろう資料が積まれていた。 彼は無意識にその中の一冊を手に取ると、静かに頁をめくりはじめた。 「ちょっとヒューズさん!?ヒューズさん!?」 読んでいる本の文字が左右にブレる。 どうやら誰かが肩を揺さぶっているようだ。 「君か……どうしたんだ?」 「どうしたんだじゃないですよ!どれだけ呼んだと思ってるんですか!聞こえてましたよね?」 「呼んでいた?僕をか?」 「もう!!食事を用意しましたから、食べて下さいね!」 「あ、あぁ……」 どれほど没頭していたのだろうか。 横のテーブルには、暖かそうなスープが湯気を立て、隣にはふわふわとしたパンが並んでいた。 「絶対食べて下さいね!」 頬を膨らませた助手が部屋から出ていくと、ヒューズは椅子の背もたれに体重を預けて天井を見る。 「オウルホロウ……か……」 古い歴史書に記された記録。 伝えられている通り、この街が出来た当時のリーダーはコイル・ガリギア。 しかし、どこか不自然なことがある。 65回目の街の設立記念日にコイル・ガリギアは死去している。 だが、『享年67』という記述があったのだ。 両の数字をどちらも真実とするなら、コイルがリーダーとなった時点での年齢は2才。 いくら天才といえど、歩き始めたばかりの子供をリーダーにするとは思えない。 となると、今ガリギアの街に伝えられている歴史は間違っていることになる。 しかし、誰が何のために歴史の改竄をしたのかという疑問は現状の資料からは読み取れなかった。 そして、核心に迫る情報がまた一つ。 科学都市ガリギアを創設する前身の街。 魔導研究都市『オウルホロウ』の存在。 その場所は記されていなかったが、ある情報から位置を特定することができた。 ――マーニル派との抗争が続いていた頃、装置が誤作動を起こした ――魔素が枯渇し、土地を移動せざるを得なかった 端々に散らばった情報ではあるものの、これが意味するは何かしらの実験が失敗して大惨事となったということだろう。 そして、その結果街から魔素が無くなり人が住める状態ではなくなった。 大陸で一箇所、魔法都市マーニルと科学都市ガリギアの中間にある不思議な土地。 『絶魔地帯』 基本的に立ち入りが禁止されているが、そこには人工物があるという。 遺跡調査の兵団が何度か立ち入ったようだが、魔素がない状況で魔法も機械も動かすことはできず、その中心地へ辿り着いたという話は聞いたことがない。 そして注目しなければならないのが、このオウルホロウの事故がおよそ800年前だということと、オウルホロウにはマーニル派とガリギア派という人種が住んでいたということ。 今では考えられないマーニルとガリギアの共存。 そこでは一体何が行われていたのだろうか。 もし、あの少女が本当にルティア・マーニルだったとして、かつてオウルホロウに住んでいたのだとすれば、ガリギアの技術に触れる機会もあったかもしれない。 だとするならば―― 「確かめる必要があるな……」 ――2日後 「それでは出発するとしようか」 「はい。私が運転しますね」 船に乗り、科学都市ガリギアのある島から大陸本島へ。 そこから自走車に乗り、絶魔地帯へとハンドルをきるヒューズの助手。 この最新型であれば、僅か半日程度で目的地へと辿り着けるだろう。 「しかし助手席に助手が乗っていないっていうのは何かおかしいですね~あはは」 ヒューズの耳に助手の言葉は届かない。 頭の中は、あの少女との会話でいっぱいになっていた。 (元々ワシは人が争うことを嫌っておる。それは今でも変わらん。しかし、ある男は違ったのじゃ。争うことで、技術を発展させようとしておった。争えば争う程、技術が発展すると) (やはり、何も知らないのじゃな。お主達らしい……。ガリギアの技術で人をこんな身体にしておいてからに……) オウルホロウでも、マーニルとガリギアは技術を高め合い、そして争った。 その結果、ルティア・マーニルは不老不死に。 それは、ガリギアの技術が原因で…… 「何がなんだか……さっぱりわからんな……」 ヒューズは慣れない陽の光を遮るために手首を額に乗せる。 「いや、ただの冗談ですよ!まさかヒューズさんに運転させる訳にはいかないですから」 「何の話だ?」 「え……いえ……なんでもないです」 慣れない揺れに身を預けながら、東へ東へと進んでいく。 日が傾きかけた頃、明らかに周りの空気が変わった。 「車を止めてくれ。これ以上進めば魔素がなくなり帰りは徒歩になるぞ」 「わかりました」 絶魔地帯まで数kmという所で、最低限の荷物を肩に掛け歩き始める。 濃い霧が立ち込め、この先には生き物がいないということが直感できるような、まるであの世の入り口のような場所。 思わず、足を止めたくなるのも無理はない。 「この先が……絶魔地帯か……」 「不思議ですね。霧が出ているのに水の魔素がないなんて……」 「そうだな」 魔術師は魔素を自らの感覚で捕えることができるらしい。 その魔素を集めて魔法を放つのが魔法使いという人種だ。 科学者が作る機械は、魔素を集める、または魔素を充填する装置を使って魔素を集めるため、扱う者には特別な資質や訓練も必要ない。 それこそが、人の暮らしを豊かにする科学なのだ。 そんな科学者でさえ、違和感を感じずにはいられない。 魔素がない空間というのは、それ程までに常軌を逸していた。 「ん……?霧が晴れた……?」 つい先程まで、数歩先の視界も確保できないほど濃い霧が続いていたのだが、急にその霧が晴れている。 「何という光景なのだ……」 思わずヒューズが目を疑ったのも無理はない。 後ろを振り向けば、先程まで歩いてきた濃い霧の壁。 その壁は空を覆い、ドーム上に空間を作っている。 そして、その中心には建物がいくつも見える。 これだけ年月が経っているというのに、荒廃もしていないということは、雨風に晒されることがないのだろうか。 太陽は出ているはずなのに薄暗く、物音が何ひとつない。 「これが……オウルホロウか……」 2人は街の中へと足を踏み入れる。 「800年前の街なんて想像もできなかったですけど、思ったよりも近代的なんですね」 緩やかな坂道を登りながら助手が話し掛ける。 街の至る所に回路に使うケーブルが張り巡らされているので、躓かないように身長に足を上げていた。 「金属で出来た建造物が見受けられるな。しかし、鉄ではない何かだ……全てが分厚く、加工に苦労しそうだな。きっと圧延する技術がなかったのだろう」 「回路を乗せる基盤を作るのも大変そうですね。あと重くなりそうです」 「ここまでぶ厚い金属を加工する技術が既に確立されていたということでもある。それにしても、このケーブルは何だ?」 地面に張り巡らされたケーブルを目で追うと、決まってどこかの施設に繋がっている。 もしかしたら、これで魔素や電気、あるいはそれに類する何かを送っているのかもしれない。 しかし、ケーブルがこうもむき出しになっていては、歩行するのに邪魔で仕方がない。 地下に収納するなどという技術がまだなかったのか、それとも収納する手間を惜しんで突貫で作業したためか。 「ん?あの建物は……入ってみるぞ」 一際太いケーブルが伸びる先。 そこには、所狭しと並ぶ大きな建物の中でも、一際背の高い建物があった。 今となっては見かけないレトロな機械が無数に取り付けられた塀が、その建物を守るように囲んでいる。 どうやらケーブルはこの中に続いているようだ。 「研究施設ですかね?ここだけ機械の量が……」 塀を回り込むように入り口を探す。 取り付けられた機械の中には水晶体がついたものもあるようだ。 これらは、現在ガリギアの街を守っている門に取り付けられた自動迎撃システムと同じようなものなのだろう。 今も昔も考えることは変わらない。 根本の思想は当時、既に構築されていたということになる。 革新的な技術改革が進んでいないことを恥じるか、今の技術の根本を当時作り上げた技術者達を褒めるか、複雑な所だ。 「枝は別れ、延び、何かを実らせようとも、根の成長は止まったままということか。これを開発した先人達が嘆いているような気がする」 「なんの話ですか?」 助手は不思議そうな顔を向けてくるが、今は余計なエネルギーを使いたくはない。 ただでさえ魔素がない状況で、ただ歩いているだけでも身体への負担が普段の比ではないのだ。 「あ、塀が途切れています。中に入れそうですよ」 「これは……」 助手が言うように、確かに大きな門が口を開けていた。 しかし、何か様子がおかしい。 門は門としてあるのだが、そこには何重にも付け足されたようなバリケードが設置されている。 そしてその中央は、入り口として開いているというよりも、何かによって破壊されていた。 「高熱によって焼かれているな……街が機能していた頃のものか」 バリケードの切れ目は鉄が黒く変形しており、よく見ると焼き切られていることが分かる。 鉄を構成している元魔素が風の魔素と反応して爆発的なエネルギーを発生させる。 鉄が燃焼するという事実は、鉄を扱う者にすれば比較的一般的な知識だが、これだけ巨大な鉄の塊を燃焼させるエネルギーを想像すれば嫌な汗が噴き出してくる。 現代における最大出力レベルの炎吐機が使われていたのか、難しいと言われている光の魔素を操ることが既に出来ていたのか定かではないが、オウルホロウにおける争いでは、こうしたものが当たり前のように使われていたということだ。 以前、ガリギアがマーニルの街に攻め込んだ際にも、様々な兵器が用いられたが、あくまでも降伏を促すための威嚇射撃をする程度の運用だった。 それが街中で堂々と発射されていたとなると、どれだけの犠牲者を出したのか。 そして、この現象を再現しようとすると必ず魔素が必要となる。 つまりは、絶魔地帯となる前の出来事であると、簡単に推測することができた。 更にはこの塀に取り付けられた迎撃システム。 今ガリギアにあるものと比べると随分大きいが、目標を定め、鉛の弾を射出する装置だろう。 こんなものが人に当たれば、運が良くても重症。 多くの場合は即死だろう。 この街で具体的に何が起こっていたのかは分からないが、日常的に戦闘行為が横行していて、沢山の血を流されていたことだけは間違いない。 焼かれたバリケードを抜けて中へ入ると、いくつもの建物が並んでいる。 所々に見える横断幕。 『打倒マーニル!』『ガリギアに勝利を!』『科学が正義!』 資料にあった、マーニル派とガリギア派の裏が取れた。 やはり、この街で両者は争っていた。 我々の戦争の発端は、ここにこそあるのかもしれない。 正面には大きな掲示板のような物があり、近づいてみるとこの施設の地図が記されていた。 地図の一番上には『オウルホロウ科学研究所』と大きな文字が目を引く。 ガリギアの前身である施設がここだとすれば、あの少女が言っていた謎に近づけるかもしれない。 保証はないが、期待するくらいならばバチは当たらないだろう。 地図で見る限り、施設の敷地はかなりの広さ。 一つ一つじっくりと見聞してみたいが、これら全てを周ることは叶わない。 ここにいられる時間は有限なのだ。 「文字は変わらないのですね。800年という歴史を経ても同じということは、この文字は殆ど完成されていると言ってもいいのではないでしょうか」 「確かにそうかもな。ん?これは……」 地図のほぼ中央に位置する大きな建物。 その名を見た助手とヒューズは目を丸くする。 「開発本部研究棟!?ガリギアの時計塔の正式名称と同じじゃないですか!」 「ここからの名残でそう命名されているのかもしれないな」 2人は迷うことなく開発本部研究棟へと足を運ぶ。 見えてきた建物は周囲の建造物と比較しても一際大きく、階層こそ高くないものの最上階付近には大きな時計が堂々と敷地を見下ろしている。 「真昼間か……」 「えっ?何がですか?」 「魔素が無ければあの時計も動かないだろう。これだけ大きな施設だ。故障したままにしておくことも考え辛い」 「んー??……あっ!なるほど。事故が起こって魔素が無くなった瞬間に時計が止まったということですね。確かにそうですね!」 時計の文字盤に記されている構成は現代のものと変わらない。 ということは、時刻も同じように示しているだろう。 針の指す時刻は太陽が登りきった昼過ぎ。 つまり、人が活動している時間帯だ。 「ふむ……」 何かしらの天変地異によるものか。 それとも人為的なミス、または意図的に引き起こされたものか。 絶魔地帯が作られたと原因を究明するためには、まだピースが足りない。 だが、少しずつ核心に迫っているような、そんな気がする。 この施設には、何かがある。 そんな“非科学的な予感”。 「柄にもないな……絶魔地帯で精神もやられているのか……?」 「ん?どうかしました?」 頭を抑えるヒューズの顔色を伺うように助手が覗き込む。 「いや、何でもない。進もう」 「あっ!待ってくださいよ~!」 研究棟の中に入ると、棟内の地図が壁に張られていた。 「第01、第02研究室!!本当に時計塔と同じですね!」 各部屋に振られた番号。 これは今の時計塔と同じように振られている。 「これは面白いですね!本当に私達の祖先がここに居たんだって証明されているような、そんな気がします!……ん?」 確かに、ここまでくれば助手の言う通りなのだろう。 機械に囲まれた塀、建物の名前、ガリギア派の人間の痕跡、そして今回の部屋の名前。 何世代前の者かは分からないが、ガリギアの名を持つ人間が800年前にここに立っていたとしても何らおかしくはない。 「ヒューズさん!これ見て下さい!第38研究室がありますよ!」 「何っ!?」 『第38研究室』 唯一、時計塔にはない研究室の番号。 それは部屋数が足らない訳ではなく、理由は分らないが38番は欠番となっているのだ。 噂では、かなりの頻度で目にするが修正が面倒なエラーコードが「38」だからという説や、以前はあったが自殺者が何人も出て誰にも見つけることが出来ないように細工をされているから等、オカルトのような話がいくつもある。 真意を確かめることも出来ないので、面白がっている人間がいるという程度だ。 しかし、ここに『第38研究室』があるというのは引っ掛かる事案であることも確か。 「行ってみるか……」 「まるで、何かが私達を吸い寄せているような気がします!」 確かに、ここに来てから何かがおかしい。 魔素がないことで身体に何かしらの異常を来していることも考えられるが、今まで感じたことのない何か……。 まるで、誘い込まれているような、そんな空気すら感じるのだ。 「……非科学的だ」 何かを振り払うように頭を横に振り、自分の気を確かめる。 ここに長く居座るのは危険だ。 「先を急ぐぞ」 「はい!」 「本当にありましたね」 目的地は地図上と同じ位置にしっかりと存在した。 地図上に存在するのであれば、それは当然の成り行き。 だが、いわく付きの『第38研究室』という部屋に限っては、疑う気持ちが多少生まれるのも仕方がないといえよう。 「入るぞ」 扉は元々機械仕掛けで開閉するタイプのようだったが、都合が良いことに開け放たれている。 「これは……」 部屋に入るなり、視界に飛び込んでくる大きな機械。 中央にはカプセルのような物があり、大の大人がすっぽりと入れるくらいの空間がある。 太いケーブルが部屋の外からこの装置に繋がっていた。 「どうやら街に張り巡らされたケーブルは、この装置のためのようですね」 助手が興味津々という顔で装置に近づいていく。 「その装置は僕が調査しよう。君は他に目ぼしい物がないか探してみてくれ」 「わかりました」 多少残念そうにしている助手だったが、ヒューズの声にすんなりと頷く。 機械のことはヒューズに任せた方が手っ取り早い上に確実。 彼女も優秀な人材には違いないが、相手がヒューズであれば比べるまでもない。 ヒューズが調査を初めて一刻程で、この装置の大体の概要が掴めてきた。 どうやらこれは生命体の治癒のために作られたようだ。 多少形式は違うが、やろうとしていることは理解出来る。 端々に見たことのない回路が組まれているが、作成者の意図が手に取るように分かるのだ。 どうやら、大量の魔素を用いて、対象の細胞を再生する装置。 そこまでは頷ける内容だ。 しかしここからがヒューズの頭を悩ませるようになる。 単に治癒を施す装置であるならば、そこまで多量の魔素は必要とせず、街中にケーブルを張り巡らせる手間も不要。 だとすれば、何か別の目的がある筈だ。 頭に思い浮かぶのは、命を失った者を生き返らせる、人体蘇生。 そしてもうひとつ。 「不老不死……」 あり得ない。 現在においてもそんな技術は開発されていない。 到底不可能なのだ。 ガリギアの資料館でも、それは確かめた。 否定出来る材料の数は、1つの自走車に使われているビスの数よりも多い。 しかし、それでは説明が出来ない。 これ程までに大掛かりな装置を作る理由。 そして、その仮説は、全てを繋げてしまう。 これだけの装置であれば、ケーブルを張り巡らせた範囲の魔素を一点に凝縮することができる。 そして、それにより引き起こされるのは、ここ一点を除く絶魔空間。 この装置が、今のオウルホロウの状況を作り出した原因となったとすれば説明がついてしまう。 そして、800年という時を生きているルティア・マーニル。 『ガリギアの技術で人をこんな身体にしておいてからに……』 もし、もし仮にだ――。 この装置で不老不死が実現できたとする。 そして、ルティア・マーニルに使用したとしよう。 オウルホロウの魔素は枯渇し、絶魔地帯となった。 とても人が住める環境ではない。 ならば移住が必要だ。 オウルホロウにはガリギア派とマーニル派という勢力があった。 そして、その2つが分断し、新たな街を築いたとしよう。 「……………………いや、あり得ないな」 ヒューズは座り込み、装置のガラスに頭を預ける。 熱でもあるのではないだろうか。 そう思える程に、その仮説を否定出来る材料がある。 マーニル派とガリギア派は争っていた。 そう、争っていたのだ。 もし仮に、不老不死を実現させる装置を完成させたとして、敵軍の長にそれを使用する意図は何か。 不老不死となることを、ある種の罰、つまり終身刑のようなものだと考えたとしよう。 哲学者が良く口にしているように、無限の命とは、決して幸福なものとは限らないのかもしれない。 だが、実際に不老不死になった人間が、そう口にした例があるわけではない。 多くの場合、それは人が憧れる夢物語の一つ。 そう、これがもし不老不死を実現する装置であるならば、人類にとっての夢の装置。 その開発に成功したのであれば、敵勢力に使用するはずがない。 しかも、代償として街一つを潰すことは予見していたはず。 気軽に扱える代物でもない。 では、マーニル軍がその存在を知り、装置を勝手に使用したとするならどうか。 あり得ない話ではない。 それ程までに魅力的な力なのだ。 だが、それもすぐに否定できてしまう。 あの魔術師が機械の力を信じるだろうか。 長い時を経て尚も機械を信じようとしない連中だ。 当時はその傾向もより顕著なものだったはず。 魔術と科学は成果がもたらす結果こそ似通ったものだが、根本からして決して交わることがないもの。 ならばどのようにしてルティア・マーニルがこの装置を使用したというのか。 「ヒューズさん!見つけました!本当にありましたよ!なんで解ったんですか!?その装置にヒントがあったんですか?」 助手が部屋の隅から声を上げている。 「悪いが静かにしてくれないか?一体何の話をしているのか想像もつかないが、今僕は考え事をしているんだ」 「それは……申し訳ありません。でもヒューズさんが言った通り、揺り籠の床下に収納スペースみたいなのがあったんです!」 「『揺り籠』?君……絶魔地帯で頭がおかしくなっているのではないか?僕は……まぁ、独り言を口走ったかもしれないが、そんなことは一言も言っていないはずだぞ?」 「えぇ!?何言ってるんですか!?確かにヒューズさんの声でしたよ?もう良いからちょっと来て下さい!」 そう言ったかと思えば助手はヒューズの元に駆け寄り、腕をぐいぐいと引っ張りはじめる。 「一体何だと言うのだ……」 仕方なく腰を上げ、助手に引っ張られるままに歩きだす。 視線の先にはベッドが置かれ、その横に赤子用の揺り籠が設置されていた。 「そう言えば……」 ふと、あの少女の言葉を思い出す。 『ドアから入って正面に何もないスペース。少し進んだ所に休憩用のテーブル。そして左側に本棚。それから作業机があり、上には大きな設計図。ふふふ……やはりガリギアの血は濃いのじゃな』 装置にばかり気を取られ、全く気付かなかった。 改めて見回した部屋は、レイアウトがヒューズの研究室に酷似している。 「なんだ……いったい……」 「ほら、見てください!もう!どうしちゃったんですか!?これが探していた物じゃないんですか?」 助手に促されて視界を戻すと、足元にぽっかりと大きな空間がある。 床から50cm程だろうか、正方形に切り取られたような空間には、何かが保管されていた。 「板で隠してあったんです。その上に揺り籠がありました」 「意図的に隠していたのか……?」 「もう!ヒューズさんが教えてくれたんじゃないですか!『揺り籠の下を調べてくれ』って」 そんな記憶は一切ない。 それどころか、揺り籠の存在など知っている訳がないのだ。 もし仮に、自分の研究室と酷似したこの部屋を、何かと錯覚したとしても、ヒューズの研究室に揺り籠など置いていない。 この収納スペースにしてもそうだ。 「何がどうなっているんだ……」 「難しい顔してないで中身を見てみましょうよ。取り出してみますね」 助手はその場に屈むと、床に空いた穴に向けて手を伸ばす。 「よっと……これは、トロフィー……?でしょうか?」 その手には高さ30cm程の金色に輝く模型。 歯車と杖を模したような造形は、芸術品としても一定の評価を得られるだろう。 土台には、何か文字が刻まれている。 「第72回……魔法技巧祭……最優秀賞……」 「あ!もう一個同じような物がありますよ。はい!」 助手から同じ形の像が手渡される。 「第73回……魔法技巧祭……最優秀賞……」 魔法技巧祭。 その名の通りの内容だとすれば、魔法に関する技術を競い合う大会のようなものだろうか。 「賞状もありましたよ!えっと……レンズ……ガリギア…………って、ヒューズさんの親戚ですか?」 これが800年前の物だとすれば、親戚というよりは先祖と呼んだ方が相応しい。 助手から手渡された羊皮紙には、確かにその名前が記載されていた。 「最優秀賞。レンズ・ガリギア殿。あなたは魔法技巧委員会主催の第72回、魔法技巧祭において頭書の成績を収め……」 「うわぁあああああ!!!ヒューズさん……!!これっ!!これ見て下さいっ!!」 突然、足元の収納スペースの中で助手が叫び声を上げた。 ため息を漏らしつつ、そろそろ引き上げる準備でもしなければ、と頭の隅で考える。 しかし、助手が顔を青くしながら差し出してきた物を見て、思わず叫んだ気持ちが理解できてしまった。 「……!!!!」 それは小さな写真立て。 普段であれば、まず800年前に写真が存在したという事実と、その技術力の高さに感心を寄せるところなのだが、そうした思考を全て吹き飛ばす程の衝撃が走る。 写真に写っていたのは、一人の見知らぬ男。 そして、今しがた手に取ったトロフィーと賞状に酷似した物を挟んで、男の右側に立っている一人の少女。 「ル……ルティア・マーニル……本当に…………」 時計塔を訪れたあの魔術師。 大きな帽子から伸びる桃色掛かった白髪、天球のような形をした金色の杖。 先日、ヒューズの研究室を訪れ、ルティア・マーニルを名乗ったあの少女の姿が、そのままの形で、今手にしている写真の中に写っていた。 ―― ―――― ―――――― 助手とともに科学都市ガリギアに戻ったヒューズは、長い時間を考察にあてていた。 思考の海の中に散らばった大量の情報と推察を整理していく。 こうした作業の際、ヒューズはいつもメモ書きなどせず、全て頭の中だけで完結させてきたが、ここ数日の出来事や発見は明らかな情報過多。 足りないピースを想像で埋めていくことは、困難を極めた。 まず、800年前に撮られた写真の中に、ルティア・マーニルを確認したこと。 他人の空似、または血族などの可能性を残しつつも、ひとまず本人だと見てまず間違いないだろう。 次に、ルティア・マーニルがどのようにして不老不死の身体を手に入れたのか。 オウルホロウ科学研究所に作られた装置で実現したのだろうと推測される。 しかし、何故、どのようにして敵対関係にあったマーニルに使うことになったのかは不明。 あの地が絶魔地帯となった理由。 例の装置を使用したことが原因である可能性は極めて高い。 人為的に絶魔地帯を生成してしまう程の危険な技術だが、その記録が残っていないということは、突発的な事故であった可能性もある。 そうでもなければ、あえてあんな街のど真ん中で起動する筈がない。 現に、絶魔地帯となった街は人が住める状態に非ず、住人は避難しているのだから。 しかし、そうせざるを得なかった何かしら理由があったとしたらどうか。 例えば、オウルホロウを崩壊させることが目的だった……とか。 オウルホロウの中には、マーニル派とガリギア派という2つの派閥があった。 両者は相容れず、互いに今よりも壮絶な争いを続けていたことも事実のようだ。 その争いの発端。 オウルホロウの街中に落ちていた雑誌の記事には、技術の盗用があったと書かれていた。 内容を掻い摘むと、第75回魔法技巧祭において、光の魔素を使用した演目が決勝で披露されたらしい。 しかし、この頃はまだ光の魔素は発見されていなかったため、それは全く新しい技術だった。 にも関わらず、オウルホロウ魔法学園所属のルティア・マーニルと、オウルホロウ科学研究所所属のレンズ・ガリギアの両名が、それぞれ光の魔素を用いた演目を行った。 これにより、どちらかが相手の技術を盗用したのではないかという騒動が両陣営間で巻き起こる。 ルティア・マーニルの発言について。 『元々ワシは人が争うことを嫌っておる。それは今でも変わらん。しかし、ある男は違ったのじゃ。争うことで、技術を発展させようとしておった。争えば争う程、技術が発展すると』 抗争の火種と、この発言を鑑みれば、マーニル派、ガリギア派のどちらかが争いを激化させたか、または発端を作ったということになる。 だとすれば、真実を知るはずのルティア・マーニルは、何故争いを止めようとしなかったのか。 または、止めようとしたが止めることが出来なかったのか。 そして、彼女は現ガリギアの長である自分に、帝国をどちらが先に潰せるかで技術を競おうと打診してきた。 その理由は……。 結局、これ以上は考えても分らない。 走り書いたメモ帳は、既に真っ黒に染まっている。 「当事者に事情を聞くのが一番の近道……か……」 ヒューズは立ち上がる。 「君、荷物を纏めてくれ。魔法都市マーニルへ行くぞ」 「えっ!?ちょっとヒューズさん本気ですか!?今から行くって言うんですか!?」 ひっくり返りそうになっている助手の横を通り抜けて、最新式の機械を装備し始めるヒューズ。 「戦闘になるかもしれない。しかし、僕は確かめねばならない」 助手は、こんなヒューズの顔を見たことがなかった。 好奇心ではなく、使命のために動いているような、そんな表情。 「わかりました。半永久エネルギー生成装置の試作品も持っていきますか?」 「あぁ、テストには丁度良いかもしれないな」 「何が丁度良いのじゃ!土産ならまだしも、物騒な武器を抱えおって……お主も過激派なのかのぉ!?」 研究室にこだまする声。 「手間が省けて助かる。旅は苦手でね」 ヒューズは肩に背負った弓を台座に戻し、マントを翻す。 「マーニル。そっちから来てくれるとは好都合だ」 またも部屋の上方に現れた影に言葉を掛けた。 不敵な笑みを見せる少女、ルティア・マーニル。 その名に嘘偽りはなかった。 だからこそ、聞かなければならないことがある。 「まずは、お主のようなインドア派がわざわざワシを訪ねようとしていた理由を聞こうかのぉ」 床に足をつけたルティアは部屋の椅子に腰掛けた。 ヒューズも、人生の中で最も長い時間過ごしているであろうデスクの椅子に深く座る。 助手は、何故か緊張感が感じられない二人の様子に困惑しつつ、2人分のコーヒーを淹れるために退出した。 「オウルホロウの科学研究所である装置を見つけた。あれを動かしたのは誰だ?」 「ほぅ……そこまで調べておるのか。先程のインドア派というのは訂正しなければならないようじゃな」 「質問には答えてもらえるのか?」 ルティアはどこか遠くを見るような、そんな目をした。 「お主と同じガリギアの人間。ワシの友人じゃ……」 「ならば、次の質問だ。何故、その友人とやらは装置を君に使用した?オウルホロウ中の魔素を集めて、君をそのような身体にした理由が知りたい」 ピリっとした空気が流れた。 ルティアは少し驚いた様子だったがすぐに笑みを作り、足を組み直す。 「流石はガリギアの科学者じゃな。ワシはあれを見ても理解することなどできんかった」 普段であれば、質問以外の返答をされれば話す気も失せてしまうのだが、何故か今はルティアの言葉を黙って聞いてしまう。 「真意はワシにも良く分からん。お主ら科学者の考えは、正直理解に苦しむものがある」 「なら君が見て体験したことを教えてくれ」 「ふふふ……800年も前のことじゃ。もう忘れてしもうた」 そんな時間を生きた経験があるわけもないので否定しようのない感覚だが、釈然としない。 ならば…… 「人の脳は記憶を呼び出すトリガーがあると言われている。何らかのきっかけで忘れていたことを思い出した経験はあるだろう?これを見て、何か思い出さないか?」 テーブルの上に置いたのは、あの研究所で見つけた物。 ルティア・マーニルと、レンズ・ガリギアであろう男が写った写真。 「これは……!!お主、これをどこで見つけたのじゃ!?」 「先程も言っただろう。オウルホロウの科学研究所だ。装置が置かれた部屋に、隠すように保管されていた」 「…………」 ルティアの顔から笑みが消えた。 写真を見つめたまま、完全に動かなくなっている。 こうして見ると、本当にただの少女に見える。 その瞳が、次第に潤み出し、溢れそうになった所で帽子の鍔で顔を隠す。 「何か思い出したか?この男はレンズ・ガリギアという男なのか?君とはどんな関係がある?話してくれ」 ルティアは、ヒューズから見えないように目元を拭うと、おもむろに立ち上がり、背を向ける。 「すまんな。やはり何も思い出せん。ワシが気付いた時には既にこうなっておったのじゃ。……それだけじゃ」 その言葉は果たして真実だろうか。 こうも堅く口を閉ざすからには、よほど知られたくないか、知らせるわけにはいかない理由があるということ。 「そろそろ、ワシがここを訪ねた目的の話に入って良いかの?過去の話よりも未来の話をしようではないか」 結局何も分らない。 しかし、これ以上平行線を辿るよりは有意義かもしれない。 「いいだろう」 「賭けの話をしたことを覚えているかのぉ?」 そう言いながらくるりと回って顔を見せる。 先程見えていた涙は綺麗に消えており、その変わりにあの不敵な笑みが張り付いていた。 「どちらが早く帝国軍を滅ぼせるか。互いの技術を競い合うという話か?」 「そうじゃ。その賭けの内容を話していなかったと思ってのぉ」 前進しているのか、振り出しに戻ったのか。 何にせよ、結局はあの提案を取り下げる気はないようだ。 「お主の……ガリギアの技術が勝てば、それがトリガーとなって昔のことを思い出せるかもしれん。ワシの知る全てを話してやろう」 「くっ……!!」 やはり隠しているだけ。 ルティアは鮮明に記憶している。 800年前の真実は、今のヒューズにとって、魔術師から差し出されるものの中では、勝利の次に欲っするもの。 仮にルティアがあの装置についても詳しく知っていたとすれば、不老不死という技術さえも手に入るかもしれない。 ヒューズは、自分自身に冷静になれと言い聞かせ、ひとつ間を置いてからルティアの目を見る。 「…………それで?君達マーニル軍が勝った場合は何を要求する気だ?土地か?この心臓か?」 「ふふふ……魔術師を何だと思うておるのじゃ?悪魔とでも言うつもりかのぉ?」 「悪魔など想像上の生き物だ。そんな非科学的なものは信ずるに値しない」 「そのカタさは相変わらずじゃのぉ……概念の話でも良いではないか」 少し間を置いた。 また、どこか遠くに目線を浮かべるルティア。 何を思っているのか、どこを見ているのか。 「ワシが勝ったら、お主はワシと魔法科学の研究をするのじゃ」 「……………………なんだって?」 「言葉の通りじゃ。お主の科学とワシの魔法、互いの知識を最大限に活用して究極の魔法科学を研究したいのじゃ」 何がどうなってその要求になるのか。 ガリギアを潰すつもりなのか、はたまた統合を図っているのか。 だが、それではどちらにせよ土地を奪われ、ガリギアの民の人権は失われるに等しい。 「この土地を渡すことはできないし、民を降伏させることもさせない。マーニルの傘下に下ることを選ぶくらいなら、喜んで死を選ぶ者さえいるだろう。それがガリギアの科学者だ。そんな約束、僕がするとでも――」 「あぁ、すまんな。一つ前提が違っておる。これはあくまでも個人の話。ワシとお主、2人だけの話じゃ」 「なっ!?たった……たった2人で帝国と戦おうと言うのか!?」 「そうじゃが……何か問題があるのかのぉ?ん?お主、さては自信がないのじゃろ?」 顔を近づけてくるルティア。 王都を制圧した帝国と、たった二人だけで戦う。 本気で言っているのだろうか。 「そんな馬鹿な話があるか。負け戦にも程がある」 「それはどうかのぉ?ワシら魔術師は日々技を磨き、お主らも技術を高めておる。そうした成果が、帝国にとっての脅威となることに疑いは持つまい?じゃが、マーニル軍とガリギア軍の大部隊が同じ戦場に居合わせれば、何がきっかけとなって互いを潰し合うか知れたものではない。じゃから、ワシら2人だけなのじゃ」 部分的に肯定はできる。 しかし…… 「無論、技術の進歩は魔術師に負けていない。君がどれ程長く生きていようが、僕が不利である理由にもならない。僕の今の力とて、長年の研究や技術を受け継いできたが故に成り立っている。だが、そういう話ではない。そこまでして危険に飛び込む必要性がどこにある?命懸けで世直しの真似事をしたところで、技術は――」 「技術は、争いの上で向上する。それはガリギアの言葉なのじゃ。その言葉をワシは長い間避けてきた。しかし、無為に時間だけが過ぎていった。ワシはお主達を信じることにしたのじゃ。信じているからこそ、争いの中に身を投じてみようと思うたのじゃ」 なぜか、その言葉には理屈ではない何か別の説得力があった。 そこまでしてルティア・マーニルが得たいもの。 争いのない世界…… それとも本当に、究極の魔法科学を欲しているとでも言うのか。 「そんなことは聞いていない!リスクというものを――!!」 その時、視界が一気にぼやけていく。 まるで透明度の低いガラスが目の前に重ねられていくように。 「くっ……!なんだ……!!」 目を必死に擦るヒューズ。 しかし、何をしても視界が戻る事はない。 立っている事もままならないような混乱。 バランスを保つ為に壁に手を付こうと、精一杯腕を伸ばすが、そこにあるはずの壁に当たらない。 「何がどうなって……」 次に目を開けると、そこには全く別の世界が広がっていた。 暗い。 夜だろうか。 窓の外には星が見える。 ここはどこだろう。 横には、少女がいる。 僕はこの少女を知っている。 ルティア・マーニル。 確か、さっきまで話をしていて…… 横には少年がいる。 僕はこの子も知っている。 レンズ・ガリギア。 あの写真に写っていた…… 「……のぉ、レンズ。いつか、一緒に研究ができたらいいの」 少女が喋る。 僕は何をすることもできない。 「そうだな。いつか2人で、最強の魔法科学を完成させよう!!それで世界をアッと言わせるんだ!」 なぜ、争っている2人がそんな約束を……? 争いがない……? そうか、この時はまだ―― 気がつくと、ヒューズの研究室に戻っていた。 何か、とても長い夢を見ていたような、そんな気分がした。 目の前のルティアは、眉をハの字に曲げながらこちらを凝視している。 今のは夢……? 夢ではない……そう直感できるのだ。 魔術師の幻影でも、ホログラフでもない。 現実……? 「聞いておるのかガリギア?」 「最強の……魔法科学を……完成……?」 「……っ!!!お主!!何故その言葉を知っているのじゃ!?」 あのルティアが取り乱している。 ヒューズの両肩を掴み、激しく揺らしてくる。 その時、テーブルの上に置かれた写真立てが床に落ち、ヒューズの足元に転がってきた。 ルティアが開けた穴があるものの、風もなく、ましてや写真立てが落ちるような衝撃がテーブルにあった訳ではない。 上に置かれたコーヒーの表面が全く揺れていないのがその証拠。 足元に落ちた写真の中の少年が、自分の事を見ているような、そんな気がする。 非科学的だ。 笑えてくる程に。 死者の魂など、存在しないことは科学者に言わせれば常識。 それを君は覆してくるというのか? レンズ・ガリギア……。 「マーニル。僕は君の賭けに乗ることにした。ガリギアの技術は魔術師の比ではないことを証明してみせよう」 ヒューズの肩を掴んだままのルティアは、手の力を抜いてぽかんとした表情を浮かべた。 それはそうだろう。 ほんの数秒か、数十秒の間に、意見を180度変えたのだから。 「何故じゃ?何故そんな急に……」 視線をあちこちに泳がせているルティア。 混乱するのも仕方がないだろう。 ヒューズはどう返答をすべきか悩んでいた。 その理屈は、理屈と呼べないほどに、非科学的なのだから。 足元に落ちた写真が目に入ったのか、何かハッと気が付いたように顔をあげる。 「まさか……!!さっきの言葉は――!!」 ルティアはそこまで言うと、言葉を失う。 そのまま視線をゆっくりと上空に上げる。 ヒューズは、何も言うことができぬまま、ただその様子を見守っている。 そして、ルティアはぽつりと呟いた。 「本当に約束を守っておったのか……真面目すぎるにも程があろうに……」 ひと雫の涙が、ルティアの頬を伝う。 「レンズ……」
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/493.html
+勇猛な血の怯者アレク ――20数年前 マリーヴィアの街中は歓喜の声で溢れかえっていた。 「たった4人であの数の魔物を倒した英雄!マリーヴィアが生んだ勇者だ!みんな出てこい!盛大に出迎えよう!」 大陸の東側半分に被害を出した魔物の大群。 その大半を殲滅して周った一行の中心にバレルがいた。 溢れかえった魔物の群れの原因がローワン渓谷の洞窟である事を突き止めたバレルは、仲間と共に洞窟の奥に目覚めた魔物を討伐した。 被害は大きかったものの、街に来る魔物はいなくなり、人々には安堵の表情が見える。 街の傭兵団は、自分達の成せなかった功績をたった1週間で成し遂げた彼らを、素直に称賛している。 彼らの向かう先はマリーヴィアの領主の家。 領主からの招集を受け帰還した彼らは、照れくさそうな顔をしながら街の門の外まで伸びた群衆に手を振った。 「おぉ!炎の剣聖バレルの一行か。この度は大陸の為、本当によくやってくれた。面を上げてくれ」 バレルは顔をあげて領主に顔を向ける。 「すまないが、他の者の名と顔がまだ一致していなくてな…紹介してくれるか?」 「はい。私の横にいるのが私達の盾となってくれたシャムール出身のウェルジ。彼が率先して魔物を引きつけてくれました。次に、回復魔法を得意とするエルア。エムル出身の彼女のサポートがなければ、私達はみんな力尽きていた事でしょう。最後に、攻撃魔法を得意とするアーラェ。彼女はマーニルで会得した究極の星魔法で、魔物の群れを一掃してくれました」 領主は一人ずつ顔を見ながらうむうむと頷く。 「そなた達の功績は素晴らしいものだ。この勲章をレミエール王都の王から授かった。受け取ってくれ」 領主が横にいた兵に目を合わせると、兵は豪華な箱に入った勲章を持ち領主の横に立つ。 「この勲章が勇者の証だ。さぁ、受け取るがいい……」 ――現在 金で作られた勇者の勲章を、空中に投げてはキャッチするバレルの息子。 「なんでよりによって俺の親父が勇者なのかねぇ。世の中不公平だねぇ。もっと普通の家に生まれていたら俺だって~~あっ……」 取り損なった勲章は、音を立てて床に落ちコロコロと転がって本棚の隙間に入っていった。 自然のまま伸びきった髪の毛の上から、ボリボリと頭を掻きながら枕に顔を埋める。 「はぁ……。ホント……勇者とか無理だし……」 小さい頃から名前で呼ばれる事は少なく、みんな“勇者の息子”と声を掛けてくる。 それが俺、“炎の剣聖”の息子が背負った宿命だった。 幼い頃は、親父のように格好良くて、誰もが知っているような勇者になりたいと思っていた事もある。 だから、その頃は庭で親父に剣の稽古を付けて貰っていたけど、その様子を見た友達に からかわれたのをきっかけに嫌になった。 いつも二言目には親父の話。 (お前も勇者になるんだろ?なぁ勇者ってどうやったらなれるんだよ!?) (おぉ、勇者の息子じゃねぇか。お前も親父みたいに立派な人間になれるように頑張れよ!) (マリーヴィアには勇者がいるから安心だわ~。私達がいつまでも平和に暮らせるように、あなたにも期待しているわ) 友達も大人も、みんな俺に期待を寄せている。 そんなプレッシャーに勝てる程、俺の心は強くないんだ…。 「魔物と戦うって事をみんな解ってない!誰だってミスはある…って事はミスったら…下手したら一発で死ぬんだぞ?そんなの絶対無理じゃん!無理無理無理無理無理!!」 アレクはいつからか人と会うのが苦手になっていた。 部屋に引き篭もり、ただ毎日が過ぎていく事を傍観する生活。 バレルはそんな息子の様子を心配していたが、バレル自身もアレクに寄せられる期待を背負わせてしまっている事に罪悪感を覚え、特に何を言う事はなくアレクの引き篭もり生活を容認していた。 「親父だって、最初から勇者になろうなんて思ってなかっただろ…なろうと思ってなれるくらいなら皆なってるはずだしさ~!」 その時、家のドアが空く音と同時に、複数の足音が荒々しく響いてきた。 何事かと思い、そっと自室のドアを開けて、居間の様子を覗いてみる。 何人かの男がバレルを担いで声を掛けていた。 「バレルさん!家に付いたぞ!今水を持ってくるから、大人しくしていてくれ」 男達はバレルを寝室のベッドまで運ぶと、水を浸した手ぬぐいを額に起き、コップを口元に当てていた。 アレクはドアから顔を出して恐る恐る声を出す。 「あ、あのぉ…親父どうか……したの……?」 「ん?誰だ……もしかして、バレルの息子か。ちょっと見ない間に大きくなったな…」 男はアレクを上から下まで見ながら言葉を続ける。 「バレルが急に倒れたんだ。原因は分からねぇが…多分病だろう。熱が高くて、嫌な汗をかいてる。仲間が今術士を呼んできてるから介抱を手伝ってくれねぇか?」 「お、親父が…病気…?」 今まで風邪も引いた事すらないようなあの父親が、倒れ込むような病に侵されているなど、アレクには信じられなかった。 緊張しながら父親の部屋に入ると、真っ青な顔をしているバレルがアレクの方に顔を向ける。 「お、親父…大丈夫だよな?…ただ疲れが溜まったとか、そういうのだよな?」 バレルはハァハァと苦しそうな息を吐きながら笑顔を見せる。 「あぁ……大丈夫だ……。心配するな……。すぐに……良くなる」 普段と変わらない笑顔の父親に少し安心していると、玄関のドアが勢い良く開く音と共に、男が息を切らしながら入ってきた。 「こっちです!おいバレル!術士が来たからもう大丈夫だぞ!」 治療の為に部屋から出された一行は、落ち着きなく診断の結果を待った。 数時間が経過し、窓から夕日が差し込んできた頃、寝室のドアが開いて術士が出てきた。 その深刻な表情から居間に集まっていた全員が不安を感じる中、一人の男が口を開く。 「ど、どうだった?バレルは大丈夫そうか?」 「今の技術ではどうする事も出来ない不治の流行り病です……できるだけ痛みが緩和するようにしましたが……もう……長くはないでしょう……」 それからアレクは父の看病を続けた。 こんなに父の側にいるのは、父から訓練を受けていた子どもの頃以来だった。 日に日に衰弱していくバレルを見て、自分が何もできない事に腹立たしさを感じ、拳を握りしめる。 「アレクよ……少し良いか…?」 「ダメだよ父さん!寝てないと!術士の人だって言ってただろ?」 起き上がろうとするバレルを止めるが、その声は無視されて肩に手を置かれる。 居間に連れて行ってくれと言うバレルは、もう一人では満足に歩く事もできなかった。 肩を貸しながら居間にやってくると、玄関先に置かれた自分の装備一式を指さしてバレルは口を開く。 「アレク…。お前にこの剣と鎧を託す」 アレクは父の言葉の意味をまともに捕える事ができない。 「え?ちょちょ、ちょちょちょっと待って、どどどういう事だよ」 バレルは少し笑った後に続ける。 「お前はまだ自信も持てずに、俺の事を恨んでいると思う。だが、いずれ立派な戦士になれると俺は確信している。お前は知らないかもしれないが、実戦から離れてから剣を教えてくれと言われて、兵舎に通い色んな人間に剣を教えた。しかし、お前のように飲み込みが早い奴は一人もいなかったんだ。やはり……お前は俺の子なんだと確信した」 「待てって!でもでもでもでも、俺には絶対無理だって!勇者になんてなれない!」 「あぁ、今はまだ早いかもしれない。だが、いずれは勇者になれるだろう。だから、俺の装備をお前に託すんだ」 バレルは笑いながらアレクの頭を撫でる。 アレクは反論しようとも思ったが、父の遺言になるかもしれないと考えた。 「わかったよ……。貰うだけなら…貰っとく……使うかどうかはわかんないけど……」 バレルはまた笑顔を見せる。 「あぁ、それでいい。ゴホッ…ゲホッ…!!」 苦しそうに咳をするバレルの背中を擦りながら、また寝室へと連れていった。 数日後の夜、バレルは眠るように息を引き取った。 寝室のバレルの前で、枯れるまで涙を流すバレルの仲間達。 アレクは自室でバレルの剣を眺めていた。 「勇者になんて……なれるのかよ……」 ――1年の月日が流れる アレクは少しずつ外に出るようになっていた。 父のようになりたいという気持ちもあったが、なかなか行動に移す事ができない。 父親が残してくれた遺産でいつまでも生きていく事はできないと考えて、自分でできる事を探そうとしていた。 それでも人と話をするのはやはり苦手で、うまく接する事はできなかった。 そんなある日、商店街で食材を探していると、一人の女性を見かける。 透き通るような白い肌と、長く横に伸びた耳。 不思議な形の帽子からは黒髪が伸びて、背中で結んでいる。 白地に赤の衣装を身にまとい、天体を彷彿させる形の杖を持っていた。 ブルーのクリっとした大きな瞳を見て、アレクはまるで稲妻に打たれたような感覚を覚える。 (誰だあの子…この街の人じゃなさそうだな…めっちゃかわいい…かわいいかわいいかわいい!!あの耳はエルフかな?豪華な服装だなぁ…すごく高貴な人なのかなぁ?かわいいなぁかわいいなぁ!) アレクはとっさに物陰に身を隠す。 (話しかけたいなぁ!で、でも俺みたいな奴が声かけたら絶対怪しいよな…特に用事ある訳じゃないし…でもかわいいなぁ!話したいなぁ!でももし貴族とかだったら…俺なんか絶対相手にされないよなぁ…あぁあああ!!!!もうどうして俺はこんな俺なんだ!!) 明らかに怪しい動きをするアレクに気づかず、彼女は店の主人から果物を受け取り、笑顔で挨拶をして歩き出した。 (ここで買い物をしてるって事は近くに住んでるんだよな…え…どうしよう!あんな子がこの街に住んでるの!?気になる気になる気になる気になる!!!) アレクは意を決して、彼女の後をつける。 彼女は坂を登った所にある見晴らしの良さそうな建物へと入っていった。 (ここって…宿屋だったよな?そうか!旅行ね!なるほどね!旅行してるのか!) 入り口に置いてある看板の影からジッと中の様子を探ろうとするが、扉が閉まっているせいで全く見る事ができない。 (アレク!!勇気だ!!もう一回顔を見るだけだ!!別に怪しまれる事もないだろう……いや、怪しまれるか…俺の家すぐ側だしな…あ、誰かと待ち合わせしているって事にすればいいか!そうだ!そうしよう!) アレクは明らかに不審者の足取りで、宿屋の入り口に立ち扉を開けた。 中には宿屋の主人がペンを持って何かを書いている所だった。 「いらっしゃい。ん?なんだ勇者の息子じゃねぇか。どうした?」 「べべべべ別にどうもしないんだけど…じゃなくて、えっとえっとえっと、友達と待ち合わせをしてるんだ!ここで!」 宿屋の主人は片眉を上げながらアレクを見る。 「そんなもん店の中でやるんじゃねぇよ。誰だ?ここに泊まってる客か?」 「い、いやぁ…えっと、そういう訳じゃないんだけど…あはは…」 「じゃあどういう事なのか説明してもらおうか!?」 全く想像もしていなかったが、よく考えてみれば当たり前の事を言われてアレクはあたふたする。 「んーと、えっと…ななななんだっけなぁ……そうだそうだ!商売は繁盛してるのかなぁ…なんてえっと…あはは」 宿屋の主人の表情は更に険しくなっていく。 「今日はまだ一人しか客はいねぇが、明日から団体さんが来る予定なんだ!お前の相手をしてる暇はねぇんだよ!とっとと帰れ!」 ドンとカウンターを叩く主人に、アレクはビク付いて後ずさる。 その時、階段の上の方から年配の女性の声がした。 「ちょっと、こっち来て手伝っておくれ!」 「あぁ今行く!!ったく…しょうがねぇな…早く出て行けよ!」 主人は首をひねりながらカウンターから出て、階段を上がって姿を消した。 取り残されたアレクは、主人の姿が見えなくなってから、急いでカウンターに置かれた宿泊名簿に飛びつく。 (今日は一人しか客がいないって事は、彼女の名前は……あった!201号室…“ルピー”か!いい名前だな!えっと、今日の朝から泊まってるのか…。15日間も泊まるの!?彼女が15日もこの街にいるの!?やった!!やった!!) その時、階段から足音が聞こえてくる。 アレクは急いで宿泊名簿を元に戻し、扉を開けて外に出た。 (2週間以上あれば…きっとチャンスがあるはずだ!ルピーと仲良くなれるかもしれない!よーーし!頑張るぞ!!) 宿屋の正面の建物は、都合の良い事に空き家になっていた。 窓から侵入したアレクは、その日から、2階の部屋で宿屋を見ながら一日を過ごすようになる。 不思議な事に、ルピーは日中全く外に出ずに、彼女の泊まっている201号室はカーテンが敷かれていた。 (寝てるのか…?そんな事ないよな…部屋を暗くして何かしてるのかな?あ、俺みたいに日の光が苦手なのかな!?もしそうなら話合うかもしれないじゃん!うぉおおお!!すげぇえええ!!) しかし、日が落ちようとしている夕刻にルピーは外に出てきた。 海岸の方へ向かう彼女をアレクは追いかける。 浜辺についた彼女は、どうやら星を見ているようだった。 何かをメモしながら、一晩中星を見ている。 アレクはそんな彼女の表情を遠目から眺めていたが、声を掛ける事はできなかった。 それでも、アレクは初めてこの世界が美しく見え、生きていて良かったと思えた。 7日間が経ち、アレクはずっとルピーを影から見続ける。 毎晩星を見る生活をする彼女に疑問を持ちつつも、その時間はアレクにとって幸せだった。 ある日の午後、アレクは食料を調達しにいこうと空き家を出た所で、丁度宿屋の前で主人と鉢合わせた。 とっさに物陰に隠れようとしたアレクだが、宿屋の主人はアレクを見逃さずに、すぐ側まで近付いてくる。 「お前こんな所で何やってんだ!?怪しい奴だな!俺の店になんかしようと企んでんのか!?」 「ちちちちがうよ!そんなななわわわ訳ないだろ!!」 「じゃあ何してんだ!?説明してみろ!!」 宿屋の主は近くに立て掛けてあった箒を持ちだして、今にも殴りかかると言わんばかりに構える。 「ままままま待って!待って!説明するから!!ぼぼぼ暴力反対!暴力反対!」 尻もちをついたアレクは観念して、自分が何をしているのかをしどろもどろに説明した。 「あぁ?お前、あの星詠み(ほしよみ)ちゃんにお熱なのか?はっはっは!若けぇなぁ!!」 肩をバシバシ叩かれながら笑顔になった宿屋の主人に、アレクはホッとする。 「でもな、男だったら惚れた女には正面からガツンと言わなきゃだめだぞ?ウジウジしてっと誰かに取られちまうからな!俺も女房を口説く時は気合入れてぶつかったもんよ!!」 「そそ、そうなのか…。おっさんはすげぇな…。俺にはそんな勇気は……あっ、星詠みちゃんってなんだ?」 「なんだ知らねぇのか?星詠みってのはよ、夜空に出る星を見てその周期を記録する魔術師だよ。俺も良くは知らねぇが、星の周期と魔素がどうのってのは星詠みちゃんから聞いたぜ。各地に旅して星の観察をしてるんだとよ」 「だから夜にずっと星を見てたのか……もっと、もっと詳しく教えてくれよ!!」 「俺も良く知らねぇって言ってんだろ。そんなに知りたきゃ本人に直接聞くんだな!はっはっは!もうコソコソするんじゃねぇぞ」 宿屋の主人は笑いながら行ってしまった。 アレクは立ち上がろうとするが、突然の事に腰を抜かしたようでまったく立つ事ができない。 (直接って…そんなの聞けたら苦労しないだろっ!!無理難題すぎるよ!ちくしょう…せめてもっと俺が普通の人間だったら…) そのまま話しかける事もできず、ルピーの宿泊期間が終わろうとしていた。 アレクは頭を抱えながら考える。 「どうするどうする!?明日の朝にはルピーはこの街から出てしまう…そしたらもう二度と会えないかもしれない…だったら…だったら俺はルピーの旅に付き添いたい!?でもどうやって?どうやって声かけたらいいんだよ!絶対普通に喋るなんてできない!あっ!そうだ!先に話しかける内容を考えよう!それだ!よし、朝までになんとか内容を作って、練習すればきっと大丈夫だ!冴えてるぞアレク!」 一度家に帰り、身支度をする。 ルピーの旅に同行させて貰う事だけを考えて、アレクは必死に頭の中でシミュレーションをした。 日の出前、街の門の横にある木陰に隠れる。 街を出るならば絶対にこの方向に来るはずだ。 アレクは目の下にクマを作りながら、考えた文章を小声で何度も復唱する。 「やぁ、俺はアレク。君は星詠みの旅をしているんだってね。旅はきっと危険もあると思う。 だから邪魔じゃなければ君の旅に付き添いたいと思ってるんだ。良かったら同行させてくれないかな?」 (よし!噛まずに言えた!完璧完璧完璧完璧!!あとは、ルピーがOKしてくれるだけだ!いける!いけるぞ!) 空が明るくなり、鳥のさえずりが聞こえてきたと思うと、門の向こうからルピーが歩いてきた。 太陽が街に色を付け始める。 その光景はアレクにとっては世界の夜明けのように見えた。 心臓の音がやけに大きい。 少し気持ち悪いような気もする。 それでも、この機を逃す訳にはいかないと、勇気を振り絞る。 ルピーが門を抜けると同時に姿を出したアレクは、さも街に向かう道を歩いてきたのだと言うばかりに歩を進める。 アレクとルピーとの距離がどんどんと縮まっていく。 顔がハッキリと見えた。 ルピーもアレクに気がついたようだ。 目が合った瞬間に、アレクは口を開いた。 「やぁ……」 その先の言葉が出てこない。 あれだけ確認したはずの台本は、頭の中で荒れ狂う嵐に吹き飛ばされていた。 「おはようございます」 ルピーは笑顔で挨拶をした。 そのまま足を止める事なく進んでいく。 「お、おはよう」 とっさに挨拶を返したアレクは、もう何がなんだか分からない。 そのまま彼女とすれ違い、街の門をくぐってしまった。 もう何がどうなっているのか、自分が今どのような状態なのか、なぜ歩いているのか、アレクには分からない。 アレクが振り返ると、ルピーの影は小さくなっていた。 (まだ終わってない…振られてもいないじゃないか!!伝えたい事を伝える事すらできなかった…そんなので終わりはダメだ!絶対にダメだ!) アレクはマリーヴィアを後にした。 ルピーとは100m程度の距離を離し、木々に隠れながら後を追いかける。 (次のチャンスまで…そう!これは次のチャンスを掴む為に必要な事だから!今だけだから!) 心の中で言い聞かせながら、見つからないように細心の注意を払い後を付けた。 ルピーは険しい道を進んでいく。 マリーヴィアから北上しているということは、次の目的地は“獣境の村ヴィレス”だと推測ができた。 ヴィレスまでの道は決して安全ではなく、傭兵を付けなければ命の保証はないとされている。 それでもルピーは、険しい獣道も、断崖の海岸線でも一人で進み続ける。 横から魔物が飛び出せば、即座に魔法を放って撃退する。 その姿を見たアレクは、何故か勇気が沸いていた。 (ルピーがあんなに強いなら、俺も強くならないと…俺が強くなればきっとルピーは認めてくれる…やらなきゃ…やらなきゃ!) 夜になると、ルピーはテントを張って星を眺めて過ごしていた。 ある日、アレクはルピーがテントで寝静まった後、不穏な空気を感じ取る。 目を凝らして暗闇に集中すると、テントの周りを魔物が取り囲んでいた。 (あいつら…ルピーは寝てるんだぞ…そんなの、そんなのってずるいじゃないか!) アレクは父の剣を抜いて、テントの横を走っていく。 (ほら!ついて来いよ!) 一体の魔物を斬りつけて注意を自分に引き付ける。 魔物の群れがアレクを追ってきているのが音で分かった。 ある程度テントから離れた場所までくると、アレクは足を止めて振り返る。 「えっと…1、2、3、4…ちょっと、多くない?なんだよ…もう少し手加減してくれよな…幸いブリンだけか。なんとかなるよな?いや、なんとかしないといけないよな!!」 ジリジリと魔物が詰めより、瞬間アレクに向かって飛びついてきた。 「ちくしょう!!やってやるよぉおおお!!」 ボロボロになりながらも剣を振り続け、アレクは勝利する。 ほっとして膝を付き、剣を地面に指して身体の支えにすると、父親の顔を思い出す。 「やった…やったぞ…俺も勇者になれるのか?なぁ父さん…」 疲労が溜まり、そのまま後ろに倒れこんで空を仰ぐ。 明けかけた空が目に入り、アレクはハッと飛び起きる。 「やばっ!ルピーが起きる!嘘だろ…今日徹夜じゃん!」 急いで魔物を道の外に放り投げてから木の影に隠れる。 テントがゴソゴソと動いたかと思うと、中からルピーが顔を出して、空に両手を伸ばしてウーンと伸びをした。 (なんだよ……あんな可愛い寝起き見せられたら疲れなんかどうにでもなっちゃうじゃないか…徹夜余裕!) 魔物と戦ってこんな清々しい気持ちになれるのかと、アレクは自分でも少し驚いていた。 あれだけ怖かった魔物との戦いに恐怖心はなく、ただただ倒す事だけに集中していた事が不思議でならない。 それだけではなく、ルピーを守れたという事にとても強い達成感を感じていた。 ヴィレスに到着し、また宿を取るルピー。 アレクはすぐ近くにあった別の宿を取り、久し振りにゆっくりと休む事ができた。 ヴィレスでの15日間続く星の観察も終わり、また歩いて“鎮魂の街ソーン”へと向かう。 アレクはこの旅の道中で段々と力を付け、同時に自信がついていくのを感じていた。 強い魔物が出てくる山の中でも、アレクは魔物に正面から当たり倒していく。 しかし、それでもルピーに話し掛ける事はできなかった。 戦闘に対しての自信はついてきたものの、マリーヴィアで一度顔を合わせてしまった以上、どうやって声を掛けても怪しいと思われるのが関の山だろう。 それでも、“何かキッカケさえあれば”という希望を持ち、アレクはルピーを遠目から見続ける。 後ろめたい気持ちもあったが、アレクは初めて充実した日々を過ごしているような気がして、どこか楽しんでいた。 しかし、事態は一転する。 ソーンの街につくと、何やら物々しい雰囲気が街を包んでいる。 帝国の手に落ちたソーンには、駐留している帝国兵が街を占領しており、外部からの侵入は管理されていた。 ルピーは街に入る門で、帝国兵の尋問を受けている。 「なんだ…あいつら…黒い鎧…どういうことだ?」 アレクは何もできず、遠い所から見守ることしかできない。 ルピーは何やら必死に説明をしているようだった。 その時、門の外に少年が一人飛び出してくる。 続いて帝国の兵が2人、少年を追って飛び出してきた。 ルピーもアレクも、その様子を目で追っていた。 少年は道端で転び、帝国兵に追いつかれてしまう。 「やめろよ!離せよ!!」 帝国兵は少年を担いで街の中へ戻っていく。 肩に乗せられた少年は大声で泣きながら、バタバタと暴れている。 ルピーはその様子を見て、帝国兵に険しい表情で何か話しかけている。 直後に少年は地面に落とされ、帝国兵は武器を抜いた。 剣を向けられたルピーは動じずに、何やら話を続けている。 アレクは剣を握るが、その手が震えている事に気がついた。 今がずっと待ち望んでいた“キッカケ”かもしれないのに、遠目から見ても体格の良い兵士を見て足を動かせられない。 足を殴りつけ、手を振り回し、震えを止めようとするが、どうしてもガタガタと震えてしまう。 (くそっ!くそっ!なんでこんな時に限って!!今まで魔物と戦ってきたじゃないか!相手が人間なだけじゃないか!!) そうこうしている内に、ルピーの元に更に帝国兵が集まり、帝国兵と一緒に馬車に乗せられてしまう。 ルピーは抵抗する素振りもなく、真剣な表情だった。 アレクはルピーに何が起こっているのか分からずに、横を通る馬車に見つからないよう身を隠す事しかできなかった。 「なんだよ…俺全然だめじゃん……もう死にたい……結局…俺はルピーの後を追っかけ続けた……ただの……変質者じゃないか……ちくしょう!」 ふと、目を街の方に向けると、帝国兵の影はなくなり、先ほどの少年が馬車の行先を呆然と眺めていた。 アレクは、なんとか立ち上がり、少年に声を掛ける。 「坊主、けけけ怪我はないか?」 「お兄さん誰…?その剣は…お兄さんは戦士なの……?」 アレクはその言葉が胸に突き刺さる。 「俺は戦士なんかじゃ……」 言いかけたが、少年はアレクのズボンを強く握り締めて涙ながら訴える。 「お願いお兄さん!あの人を助けて!!あの人は何も悪くないんだよ!お兄さんなら助けられるんじゃないの!?」 少年の言葉で我に帰る。 このままではルピーが星詠みの旅を続ける事もできなくなってしまうかもしれない。 たった一人で、険しい道を越えて、ずっと続けていた事が、ここで終わってしまうかもしれない。 それを止められる人物がいるとすれば、少年の言う通りアレク以外にはいないだろう。 アレクは、少年の肩を掴んだ。 「ごめんな。俺、少しビビッてた。格好悪かったな。俺もルピーを助けたい。ありがとな。俺ちょっと行ってくるわ!」 アレクはソーンの門を背に、馬車の後を追った。 アレクは走る。 がむしゃらに走り続けた。 脇腹の痛みなんてどうでも良かった。 息が苦しいなんてどうでも良かった。 重たい荷物は街道沿いに捨ててきた。 自分にできる事を、自分を信じて。 勇気を出して。 最後まで逃げずに戦う。 きっと、それが勇者だ。 馬車の後ろ姿が見えた。 手の震えは、いつの間にか止まっている。 走りっぱなしの足も、まだ動いている。 「うぉおおおおおお!!!!」 馬車の横を通り過ぎると、進行方向に向かって剣を振り切る。 突然目の前が炎で塞がれた馬車は急停止した。 黒い鎧の兵士が何人も降りてくる。 「貴様!何者だ!!」 (もう迷わない……俺ならできる…やるぞ…やるぞ…!) 「守りたいもの一つ守れなくて、何が勇者だ!!!!」 帝国兵の懐に飛び込む。 剣を抜く帝国兵だが、アレクの速さに圧倒されていた。 「一人…!二人…!三人……後ろかぁ!」 流れるような連撃を決めながら、アレクは帝国兵を圧倒した。 「ハァ…ハァ…ハァ…終わったか……?」 6人の帝国兵はその場に倒れ、あちこちがアレクの斬撃でメラメラと燃えていた。 (ルピーは…無事だよな!?) 馬車の中を覗くと、手縄と目隠しをされたルピーの姿があった。 怯えている様子のルピーに恐る恐る声をかける。 「えっと…えっと…大丈夫…大丈夫か?」 目隠しを取ると、ルピーは少し眩しそうに薄目になった後、除々に青い瞳を見せた。 「助けてくれたんですか?」 「あ、いや、えっと……困ってそうだったから…その、ほら、黒い兵士に攫われて…攫われた所を見ちゃって…あ、いや…男の子!男の子が助けてくれって言って…その…」 ルピーは不思議そうな顔をしながらアレクを見つめる。 「あれ?あの、どこかでお会いした事ありましたか?」 「い、いいや、いやえっと、全然!全然初対面だと思うんだけど…その、あっ!怪我はないか!?」 頭が真っ白の状態で、なんとかこれまでの事を必死に隠そうとするアレクは、自分でも何を言っているのか分からなかった。 「え、あ!はい!大丈夫です。あなたこそ大丈夫ですか?さっきすごい音がしていましたけど」 「おおおおおお俺はバッチリ!げげげ元気だよ!ほら!ルピーを守らなきゃっていう一心が力をくれたっていうか……」 「ん?私の名前をなんで知ってるんですか?やっぱりどこかで…」 アレクは、自らがこの世の終わりを引き起こしてしまったような感覚を覚える。 「だぁあああ!!!えっとえっとえっと!!それは違うんだ!そうじゃなくて…なんとなく!なんとなくルピーさんじゃないかなぁって思っただけで…!知ってなんてなくて!ほほほほほほ本当にそうなんだ!」 顔が真っ白になっていくアレクを見ながら、ルピーは微笑んだ。 「なんだか、よくわからないですけど…助けてくれてありがとうございます!」 ニコっと笑いかけるルピーの顔を見て、アレクは言葉を失う。 引かれたと思った。 嫌われたと思った。 気持ち悪がられると思った。 しかし、ルピーは笑顔でお礼を言っている。 これまでのアレクが過ごしてきた人生の中で、初めて誰かの役に立った気がした瞬間だった。 ソーンの中には帝国兵が多く、中には入れないと考えてルピーが持っていたテントを張って、近くの森の中で過ごす事した。 アレクも一緒にと言われたが、一人用のテントに一緒に入るなんて心臓が張り裂けてきっと死ぬと考えて、外で寝たいと話した。 今までもずっとそうしてきたしと口から出なかった事は、アレクにとって奇跡的な幸運だった。 そして、星の観察を始めるルピーと共に過ごす。 ルピーは星詠みの家系の長女で、お母さんもおばあさんも同じような旅をしていたらしい。 だから何があっても旅をやめる訳にはいかなかった。 それでも、目の前で困っていた少年をほっておけなかった自分はまだまだ甘かったとルピーは話す。 「だから、アレクさんに助けて貰って、私は本当に幸せ者だなって思ったんです!」 (今の俺よりも幸せ者が、この世界にいる訳がない) 心の声は出さずに、頭をボリボリと掻きながら返事をする。 「いや、まぁ、なんだろう?困ってる人は助けないとだしな。」 「アレクさんは本当にすごい人ですね」 本題に入ろうとしたアレクは、自分の心臓の音がうるさくて堪らない。 「なぁ、えっとえっと、俺はさ、ルピーのその、星詠みの旅に……一緒に付き添いたいって思ってるんだけど…あ、いや!ほら!またいつあいつらが出てくるか分からないし!それに……えっと…」 ルピーはクスクスと笑う。 「本当ですか?すごく嬉しいです。でも、アレクさんみたいに強い人なら、私よりももっと助けを必要としている人達を守って欲しいと思うんです」 アレクは予想外の返答にまた頭が真っ白になってしまう。 「いや、おおおおお俺は強くないし……えっとえっとえっと………俺はどうしてもルピーを守りたいんだ!!!!!!」 出せる限りの声で叫んでいた。 ハッと気がついたアレクは、自分が今とんでもない事を言ってしまった事に気がつく。 ルピーの顔を見ることが出来ない。 そのまま空を、いや、何もない空間を見続けた。 「っ…フフフ…あはははは!」 突然、ルピーの笑い声が響く。 アレクは驚いてルピーの方を見ると、彼女は目に涙を溜めながら笑っていた。 「もう!いきなりびっくりするじゃないですか!」 「ごごごごごめん!ちがうちがう…えっと、そういう意味じゃなくて…俺は…俺は…」 「わかりました!同行をお願いします!」 「だから違うって……………えっ?」 ルピーはお腹を抱えて笑うのを止めて、ニコッとアレクに微笑みかけていた。 アレクは朝日の中、荷物をまとめて旅立つ準備を整え歩き出す。 目の前に見慣れたルピーの影はなく、ただただ草木が生い茂る森を切り開いた道だけが続いている。 横に歩くルピーは、なんだか楽しそうだった。 「なぁ、ルルルルピー…。その……ちょっといいか?」 「なんですか?アレクさん」 「そのさ、えっと、せっかくこれから一緒に旅をするんだ…。その“アレクさん”っていうの、やめないか?」 ルピーは不思議そうな表情でアレクの顔を覗き込む。 「ええと、どうすればよいのでしょうか?」 「その……敬語も…やめにしないか?もう、ななな仲間なんだ!呼び捨てでいいよ!」 彼女は一瞬空を見上げながら、アゴに人差し指を当てて考える。 「う~ん……そうですかぁ…。あ、いえ…そっか!アレクでいいかな?」 この先、どんな敵が現れたとしても、ルピーと一緒にいればなんでもできるだろう。 例えば、ルピーが大魔王に連れ去られたとしても、俺は必ず助けに行ける。 凍てつく氷の海でも、灼熱の炎でも、雷鳴轟く雲の中でも。 ルピーの為なら、どんな強敵にだって立ち向かえる。 歩を進めながら、横目でルピーの顔を見ると、目が合ってしまったのでとっさに視線を逸らす。 「うん!それで頼むよ…あ、改めて…その…こ、これからも宜しくな…」 「こちらこそ宜しくね!アレク!」 +白翼の麗剣シエロ 獣境の村『ヴィレス』 獣王ガレオスが統治し、多くのガルム族が暮らすこの村で、治安維持部隊の一員として任務に励むこの青年の名はシエロ。 「連れていけ……」 「ま、待ってくれぃ!悪かった!謝るからよぉ!」 今回も村の住人から騒ぎの知らせを聞いて駆け付けたが、その実態は、昼間から泥酔した男が露店通りで暴れていただけのもの。 しかし、そんな酔っ払い相手にも微塵も容赦はしない。 兵士に引き渡される男は、半ベソを掻きながらシエロに許しを請う。 その昂然とした態度に、周囲の目は冷ややかだ。 「さすがにやりすぎなんじゃねぇか……?」 そんな言葉達はシエロの耳には届かない。 彼が背負う覚悟と重圧は、軽々しい言葉で語られてはならないのである。 ヴィレスに所縁を持つ貴族の名家に生まれたシエロ。 彼ら一族は、ガルム族と他種族との政治的な橋渡しを担う事で、一種族だけでは成し得ない経済力、安定した治安、多種族融合型 の高い文化力をもたらし、この村を発展させた立役者だ。 そんな先祖を持つシエロは、その偉業に恥じない言動を常に求められた。 家の者、他の貴族、村人からも。 年若い彼にとって、如何に過酷で、残酷なものだったか、想像できるだろうか。 史上最年少で部隊に入隊し、期待に応えるべく、必死に結果を出し続けた。 隊員や他の貴族達も、尊敬と称賛の声を惜しむ事はなかったが、それも今では…… 「またかよ…しょうもない騒ぎで手間ばかり増やしてくれるぜ!」 「まだ多感なお年頃。善悪の境界線も曖昧なのでしょうなぁ……」 がむしゃらに努力するシエロは、どんな小さな悪にも、全て等しく断罪の裁きを下した。 そんな彼をちやほやしていた者達は、いつの間にか手のひらを返し、疎ましくさえ思うようになっていく。 結果さえ出し続ければ、先代達の偉業にも並び、いつかは超えることもできる。 そのために必要なのは、唯一信じられる己の力のみ。 ますます結果を優先するようになったシエロの徹底ぶりに、もはや誰もその後ろをついて歩くことはせず、シエロは孤立した。 ただ一人を除いては―― 「きゃぁあああああ!!」 一段落ついたかと思った矢先の悲鳴。 しかし、村人の表情はむしろ冷めきっており、呆れた様子さえ感じられる。 その表情はシエロも同じのようだ。 「やはり貴様か……エルネ!」 念のために、とその場へ駆けつけるシエロ。 が、場の状況を一目見て、疲れに似た何かがどっと押し寄せる。 予想通り、そこには一糸纏わぬ姿となっている村娘と、娘に襲い掛からんとしている猫のガルムの姿。 「ニャ?」 エルネと呼ばれたガルムは、シエロの声に振り向く。 村娘は、自分の恰好を恥じらいつつも、必死に視線で助けを求めている。 「いい加減にしろ!貴様のせいで俺がどれだけ迷惑していると思っている!」 「また邪魔しに来たのかニャ……仕方ニャいニャ!」 にじり寄るシエロに対し、建物の上へと跳び上がり、逃走を図るエルネ。 「逃がすか!」 シエロもすかさず翼を広げ、エルネを追跡。 「ニャ!?女の子をまっぱのままにしておくなんて紳士の風上にも置けニャいやつニャ!」 「実行犯が言えたことか!貴様を逃がせば、新たな被害者が出るだろう!」 「アヒルに猫が捕えられると思うニャよ!」 「……また俺をアヒルと……このバカ猫がぁ!」 文字通り、治安維持を目的とした部隊に所属するシエロが、エルネの犯行を防ごうと動くのは当然だが、問題は、エルネもまた同じ部隊に在籍しているという事実にある。 しかも、基本的にツーマンセルで行動することを旨とするこの部隊において、エルネのバディはシエロなのであった。 「見失ったか……また、監督責任を問われることに……!」 何故、自分があんな奴と組まなければならないのか。 全て一人で片付ける覚悟と自信を持つ自分が、よりにもよってエルネと組まされている事をどうしても受け入れることができない。 既に貴族として一定の地位を持つシエロ。 先代達に負けぬ評価を得るために足りないものは実績。 その為、彼が自身に課した目標は「ヴィレスでの力の統制」だった。 まずは師団長、やがては総督の座へと就き、王と共にさらなる国の発展に従事する。 足を引っ張るエルネの存在は足枷以外の何でもない。 結局、今日もエルネを捕らえることができないまま、急に王の呼び出しを受け、王宮へとしぶしぶ足を向けたのであった。 ――王宮にて 「急に呼びつけてすまぬな。シエロよ」 「はっ!とんでも御座いません」 獣王ガレオスと、その前に跪くシエロ。 シエロの家がもともと懇意にしていた貴族であることもあり、ガレオスはシエロに対し、親心に似た感情を抱いていた。 こうして時々、直接シエロを呼出しては、言葉を交わす機会を設けている。 「また、エルネに逃げおおせられたそうだな……」 「私の監督不行き届きに御座います……面目次第もございません」 誰とツーマンセルを組んでもうまくいかなかったシエロが、最後に強制的に組まされたのがエルネだった。 噂では、周囲の反対を押し切ってまでそれを行ったのは、他でもないガレオスだという。 一体、どのような意図がそこに…… 「ふふ……いずれはなんとかせねばならぬが……今日呼んだのは別件だ」 当然だろう。 エルネの行動は確かに問題だが、負傷者などが出るような緊急事態とは言い難く、そのことだけを話すのであれば、急な呼び出しなどしない。 「如何様な任務でも果たして御覧に入れます」 「うむ。最近、近郊の森にて賊による強盗事件が多発しておる。これの解決を頼みたい」 「強盗?」 「奴らめ、味を占めたのか、特に最近は貴族ばかり狙った犯行を繰り返しておってな。それも女性ばかり」 「それは我等の威信にも関わる事態。直ちに部隊を編成し、討伐にいきます!」 「それがな……どうやら内部に不穏分子が紛れているようだ。何度か賊の情報を調査させたのだが、決まって直前に雲隠れされ、まったく尻尾が掴めぬ」 「情報を流している輩がいる、と……?」 「認めたくはないが、その通りだ。部隊で動くとなると、情報も漏れやすい」 「そこで、我々に白羽の矢が立った……というわけですね」 「危険も大きいが……引き受けてくれるか?」 先人達が築き上げてきた威光に泥を塗る不埒者。 彼の性格を考えれば、こういった類の連中が最も許せないということは明白だろう。 「承りました。王より賜りし厚い信頼。必ずや、応えて御覧に入れます」 了承しながら、作戦を頭の中でシミュレートし、最も公算の高い選択肢を選ぶシエロ。 「無暗に探りを入れて、不穏分子に勘付かれては元も子もありません。ここは直接、賊の拠点を突き止める方向で動きます」 「うむ。油断せぬようにな」 ――翌日 事件について被害者から聴取を行った結果、必要な情報を揃えることはできた。 襲われたのは、決まって女性。 恐らく馬車の中を確認して、襲いやすい人物を選んで犯行に及んでいるのだろう。 さらに、犯人は単独犯ではなく、集団であること。 それも、ならず者ではなく、組織的に行動している節があるという。 これらの情報を吟味した上で、対応策を練り、淡々と準備を整える。 そして、その日のうちに事件現場である森に向けて馬車を駆り出発した。 彼が座る御者台の隣に、バディであるはずのエルネの姿はない。 任務ともなると、バディであるエルネを同伴させるべきでは。 否、結局のところ、シエロは他人を頼るという考えは持ち合わせていないのだ。 唯一信じられるものは、ただ己の力のみ。 これまでも、そしてこれからもそうするだけだ―― ――数時間後 現場に到着したシエロは、早速、賊をおびき寄せるための罠の支度へと入った。 自らが囮となり、賊を誘い出し、連中を締め上げてアジトの位置を突き止める。 この作戦のキーは、自分をどこまで囮として機能させられるかという点に尽きる。 「ちっ……我ながら、とてもじゃないが、誰かに見られるわけにはいかないな……」 木陰に身を隠しつつ、シエロは記憶の奥を探る。 貴族達が集うパーティー会場。 そこに連なるご令嬢たちの姿。 プレゼント用だと偽って購入した服に袖を通し、母の化粧台から拝借した道具で自分なりにその姿を再現していく…… 「こんなところか……」 木陰から出て、傍に広がる湖の水面に映る自分の姿を、やや恐る恐る確認する。 ぼやけた記憶と、初めての経験。 それらから作られたと思えば、その出来栄えは十分に満足のいくものだった。 囮を演じるため、女装することで貴族の令嬢を再現したシエロ。 これ以上ない作戦だと確信しつつ、馬車へと乗り込む。 そして、湖のほとりを回るように馬を歩かせた。 ……………… 陽は昇り、また沈んでいく頃、湖を中心に三十周はしただろう。 当初、満ち溢れていた自信はもはや見る影もなく、歩き続けて疲れた馬の足取りは、そんなシエロの心境を表しているようだった。 「何故だ……」 情報が漏れていたのか? 女が一人で馬車を駆る姿が不信感を? 力無く握られた手綱を軽く引き、馬の足を止めた彼は、呆然とうなだれる。 ――失敗?俺の力では無理なのか……? 「そんなはずはないっ!」 ふと頭をよぎる考えを甘えと断じ、振り払うように地に拳を叩きつける。 「おまえ……鳥か?マジで鳥ニャのか!?キモッ!おえっ!!」 「な!?何故貴様がここにいる!?」 聞くだけでドロッとした感情が湧いてくる声。 誰よりも今の自分の姿を見られたくなかった人物。 その張本人であるエルネが突如現れる。 あまりの思わぬ展開に、常にクールに振る舞うシエロの冷静さはあっけなく砕け散った。 「いや、村で女の子を何人まっぱにしても鳥が現れないから………ちょっと気になっただけニャ」 「……ほう?女を剥くことにしか興味を示さんバカかと思いきや、他人の心配をするくらいの配慮はできるんだな」 「ニャハハハ!鳥が邪魔に来ないもんニャから、女の子達をまっぱにしすぎて、みんな家に閉じこもっちゃったニャ。おかげでヒマになったニャ……」 「少しでも貴様を褒めてしまった自分を許せそうにない……!!」 「んで?キモイ恰好して、ニャんの遊びニャ?正直、声をかけるかどうかけっこう迷ったニャ」 「任務だ、たわけが!この辺りで貴族女性を狙った強盗が相次いでいる。俺が囮になって犯人をおびき出し、一網打尽にする作戦だ!わかったら帰れ!」 とにかく理由を説明して、エルネを追い払おうとしっしっと手を払う。 「……は?」 その言葉を聞いた途端、エルネが発する気配が瞬く間に変質。 「オマエ、女子をニャめてんのか……?」 「なに?」 「それで貴族のお嬢様のつもりかって聞いてるんニャ……」 「な、なんだ!?」 「ニャんだそれ!?そんニャ胸元パッカー、背中パッカーの恰好、オマエの周りの女子達は発情期のメスしかいニャいのか!?」 何故エルネが怒り狂うのか、どんな理由で自分が叱られているのかを理解できない。 「胸も詰め物してるだけニャ!?変装する気があるニャらちょっとは気を遣うニャ!どうせパンツも男もののままニャ!?ニャめてるニャ!ニャめきってるニャ!!」 「囮捜査だぞ!?見えもしないところにまで気を回す必要など―」 「うるさいニャ!貴族なら、職人技の光る繊細なレースで見事に飾り付けられた純白シルクの高級パンティくらい用意してみせるニャよ!!」 「論点がずれてきている!だいたい貴様の趣味など――」 「見られる予定がニャくても、万が一!そんニャ事態に備えて毎日パンツにも気を遣うのがマジもんの女子ニャ!!」 「恥知らずなバカ猫が!下着などお構いなしに裸に剥きまくる貴様が――」 「恥ずかしいのはオマエの恰好ニャ!アホ鳥!宝箱が貧相じゃ開けるときのワクワクが減るアレと一緒ニャ!!」 「バ、バカ猫の分際で……変にわかりやすい例えを――」 「メイクもニャ!なんだそれ!?顔面にヘドロぶちまけられたアヒルみたいにニャってるニャ!!」 「なに?記憶では皆このような――」 「正気ニャ!?お嬢様達が聞いたらオマエぶっ殺されるニャ!そもそもパーティー仕様でこんニャ森の中うろつくニャ!!」 「いや……あまり、女性というものを注意深く見た経験が――」 「それでも男ニャ!?オマエん家のメイドさんを観察すれば良かったニャ!!パニエやドロワーズまでしっかり装備したマジもんの素敵メイドさんニャんだぞ!!」 「待て!うちのメイドにまで手を出したのか!?」 「あと!オマエくっさいニャ!どんだけ香水使ったニャ!?匂いだけで強盗追っ払えそうニャ!」 「そ、そうなのか……!?」 「香水は纏うものニャ!水浴びしたいニャら、今すぐそこの湖に飛び込むといいニャ!」 「……す、すまん」 「わかったら女子力磨いて出直して来い!クソ鳥ぃ!!」 自分の立てた作戦が失敗したからか。 それともエルネに予想外の叱責を食らったからか。 いつにも無く落ち込むシエロ。 「いや、その恰好でシュンとされてもキモイだけニャんだが……鳥らしくニャいんじゃニャいか?」 「……」 普段は絶対に見られないシエロの様子。 これにエルネは、やれやれ言わんばかりに提案を持ちかけた。 「はぁ……特別ニャ…今回だけニャ!エルネが手伝ってやるニャ」 手伝う。 一人で何でもこなしてきたシエロが久しく忘れていた言葉。 「な!?だ、誰が貴様の手など!」 「とりあえず、そのキモい顔を一回リセットするニャ」 「だから話を聞け!それから、さっきからキモイ、キモイ、キモイと何度も――ぶっ!!」 シエロの頭を掴み、湖に沈めるエルネ。 もがき苦しむ彼の姿を見下ろすエルネは、どこか嬉しそうな、悦に浸っている様子。 「ぶはっ……!げほっ……げほっ……!」 「ニャハハ。キレイにニャったら、次はメイクだニャ!」 「む、無茶苦茶な……!」 こうして小一時間程かけ、完成した真の女装シエロ。 メイク、服装、髪型、全てをプロデュースしたエルネ本人さえもうろたえる出来栄えだった。 「やばいニャこれ……鳥だと知らずに遭遇したら即まっぱニャ…」 「これが……俺、なのか……?」 シエロもまた、水面に映る自身の顔に、エルネと同様、驚きを隠せずにいる。 シエロにとって、今回のように誰かの協力を得て何かに取り組んだ例は初めて。 あのまま一人だったら自分はどうしていただろうか、と考える。 「このまま任務続けるのニャ?」 「無論だ。溺れさせられたりと散々だったが、今回はこの功績を認めて不問にしておいてやる」 どうも調子が狂う。 早く任務に戻っていつもの自分を取り戻さねば。 「あとは俺が一人で何とかする。貴様は村に戻れ。くれぐれも騒ぎは起こすなよ?」 「作品の力をこの眼で見たい気も……ま、ここには女の子もいニャいし、そうするニャ!」 「その立派な耳には、都合の悪い部分の話は入らんらしいな…!」 「じゃ、あとは頑張るニャ!」 「……ああ」 こうしてまた一人、任務へと復帰するシエロ。 心に引っかかる小さな異物のような何かを握り潰すように、力を込めて手綱を振るう―― ――それは訪れる。 予想よりもずっと早く。 エルネと別れ、馬を歩かせること三十分と程度だろうか。 「止まれ!!」 シエロの乗る馬車の前に、急に飛び出してきた人影。 フードを被ったまま大きく手を広げたそれに、馬が驚いて暴れだす。 手綱を強く引き、馬を落ち着かせつつも、シエロは瞬時に周囲の気配を探る。 (……四……五。いや、木陰にもう一人。六人か) 馬車を囲む形で影が五つ。 少し離れた木陰に気配が一つ。 止まった馬車にゆっくりと近づく影の手には、ナイフが握られているのが見える。 「……お嬢さん。お一人でお散歩かい?」 警戒している。 通常、主人である貴族が馬車を自分で操ったりはしない。 恐らくは荷台の中、もしくはこの近くに付き人か護衛がいると考えているのか。 「妙だな……ま、すぐに済ませて戻ればいい」 貴族の令嬢であることは疑われていない模様。 エルネに仕立ててもらったこの姿が、違和感を誤魔化すほどの力を発揮している。 「馬車から降りて、金目の物を出しな。大人しくすれば手荒な真似はしねぇよ」 声で正体が悟られぬよう、口は開かず、ただ静かに頷く。 そして、シエロは手綱を離した手をそのまま足元へと伸ばした。 「ん?何をして――」 ――ダンッ! 足元に忍ばせていた剣を掴んだシエロは、目にも止まらぬ速さで木陰の気配へと飛ぶ。 「なん――」 いきなり目の前に現れた剣を携えた令嬢。 とても冷たく、鋭い眼光により、凍ったように身体が硬直する。 驚きで上げかけた声は、描かれた剣線により寸断。 「やはり術士か。貴族の護衛を相手に立ち回るには、この程度の用意は当然だな」 人形のように倒れた術士の上で、その生死を目視で確認するシエロ。 一対一ならまだしも、集団戦において、遠距離から攻撃を仕掛けてくる術士や遊撃士は相性の悪い敵だと言える。 この状況下で、真っ先にそれを潰しにかかった判断は正しく、結果、これが勝敗を分かつ要因となる。 「き、気を付けろっ!ただの貴族の娘じゃねぇ!」 「安心しろ。殺しはしない。聞きたいことがあるからなっ!!」 ものの数分の出来事だった。 抵抗らしい抵抗もできないまま蹴散らされた賊たちは、無残に地に転がる。 「思いのほか楽に片付いたな……」 馬車のキャビンに隠していた縄を取り出しながら、アジトの場所をどのように聞き出すか頭を巡らせる。 だが、その結論が出るよりも早く、近づく複数の人の気配を察知した。 「ちっ……中継役を用意していたのか?思ったよりも知恵が回る連中だ!」 馬車を盾にするように身を隠したシエロは、気配の正体をそっと確認する。 「ご無事ですか、シエロ様!?どちらに!?」 シエロの名を呼ぶ男の声。 それは……ヴィレスの兵士が二人。 キョロキョロとこちらを探している様子。 「何事だ?賊なら既に御覧の有様だ」 「その、お姿は……?」 「あ……こ、これは任務のために仕方なくっ……!」 「そ、そうでしたか……あ、これは失礼しました!我々、ガレオス王よりシエロ様を救援せよとの命を受け、馳せ参じた次第であります!」 一人で発つことまで予想していたのか。 差し向けられた救援は、まだ完全に自分の力が認められていないことを意味している。 「ちっ……」 「それにしても、さすがですな!お一人でこの人数を!」 「問題ない。貴様らの出番を奪うことになってしまったか?」 「はっはっは!いえいえ、我々の出番はここからですので……お気になさらず」 「なに?」 その不審な返答に、体を兵士へと向けた瞬間だった。 ガンッという重い音と共に、後頭部を襲った強い衝撃。 瞬く間に意識が遠くなっていくのを感じる。 「き……さま……ら…………」 背後にはニヤニヤと不敵な笑みを浮かべるもう一人の兵士。 手にした棍棒をぽんぽんと手の平で遊ばせながら、シエロを見下ろす。 「まだ意識があるのか……しぶとい野郎だ。おい、もう一発かましとけ」 「く……そ…………」 (…………エルネ) ――ガンッ! シエロの意識はそこで途切れた―― ―― それから間も無く 「ニャ……?」 再び湖まで戻ってきたエルネ。 シエロを心配したというのも彼女の中にあるのかもしれないが、それよりもただ、なんとなく嫌な感じがした。 その場を一目見て、エルネは漂う違和感に気が付く。 暴れたであろう馬の蹄の跡。 荒れた地面と大人数の足跡。 微かに残る血の香り。 だが、そこにシエロの姿はない。 「クンクン……鳥の匂いはするニャ。でも……何で森の奥に匂いが続いてるニャ……?」 エルネは匂いを辿り、森の奥へと進む。 彼女の鼻は、人間ではとても感知できない程の匂いも敏感に察知する。 真っ直ぐにシエロの元へと急行できたのは、シエロが女装時に用いた香水の匂いが、後を追う者を導くように道を残しているおかげだった。 「追いかけやすくて助かるニャ!鳥のやつ、狙ったわけじゃニャいだろうニャ……ニャ?」 走ることおおよそ十分。 夜目の利くエルネの視界に、小さな灯りが微かに浮かぶ。 人の目では到底認識できない距離で灯りを見つけたエルネは、速やかに足音を殺し、そのまま腰を低くして、獲物に這い寄るようにしながら、ゆっくりと近づいていく。 「なんでも貴族のご令嬢を捕まえてきたって話だぜ?」 「あぁ?おれは女装した変態だって聞いたぞ?」 聞こえてくる聞き覚えのない声。 その内容から、シエロのことを指していると確信。 「鳥のやつ……しくじりやがったニャ……」 こうして事態を把握し、捕らえられたアジトを発見したエルネ。 まずは彼の正確な居場所を掴むため、行動を開始する。 いくつか見える木造の建物。 匂いである程度の位置に当たりを付けるエルネだが、やはり直接視認する必要がある。 足音は勿論、息さえも殺しながら建物へと近づいていく。 建物の入口や、通りに立てられたタイマツの火が煌々と揺れる。 もはや夜目など利かなくとも、一目でエルネの姿は発見されてしまうだろう。 「……女の子をまっぱにする時とはまた違うドキドキ感ニャ……」 建物の前までなんとか辿り着くことに成功。 窓から部屋を覗き込むと、壁に縛り付けられているシエロの姿があった。 両腕を頭の上にあげ、縄で壁に括りつけられている。 さらに、自由を奪うようにはめられた手枷。 部屋の奥には、机に頬杖をつきながらウトウトと頭を揺らす見張りらしき男―― ――カコォーン 「ニャ!?」 乾いた音。 状況を観察していたエルネの肩口からずり落ちた弓。 それが意図せずタイマツを倒してしまったのだ。 音に真っ先に反応したのは、見張りの男。 驚いたように目を覚まし、部屋を飛び出してくる。 「だ、誰だてめぇ!?曲者だ!曲者がいるぞぉおおおおお!」 「しまったニャ!」 身を隠す時間もないまま、存在が露見してしまうエルネ。 しかし、そこは流石の猫のガルム。 建物の上に軽く跳び上がり、風のように駆け抜けて森の中に姿を隠す。 「森に逃げ込んだぞ!追えぇえええええ!!」 木の上へと駆け上ったエルネはそう簡単には見つからない。 暫らくは森を探し回っていた賊達だが、徐々に諦めてアジトへと戻っていく。 「あ、危なかったニャ……!」 ――ガサッ 一息つく間もなく、不審な物音に身体をビクンと緊張させる。 枝の影からそっと物音がした方向を確認すると、ヴィレスの兵士が見えた。 「……エルネさん……どこですか?我々は味方です」 小声で周囲に呼びかけながら、エルネを捜し歩く男。 味方の姿に安心したエルネは、音を立てないように木を降りる。 「ヴィレスの兵士さんニャ?」 「うぉ!?び、ビックリさせないでくださいよ……!」 そのまま小声で事情を聴く。 「シエロ様が捕まったと聞き、王の命令でここへ来ました……」 「こんニャとこにいるからビックリしたニャ……」 「我々もですよ……森からアジトの様子を伺ってたのですが、そこから逃げてくるエルネさんを見た時はどうしようかと……」 「ニャハハ……ちょっと失敗したニャ……」 「まずは作戦を練りましょう…こちらへ。仲間を集めてあります」 「わかったニャ」 エルネが兵士に近づいたその時だった。 ふわっと彼女の鼻孔を刺激する香り。 他でもないシエロが使っていた香水の匂い。 「…………ところで……鳥にはもう会ったかニャ?」 「……いえ?我々はここに着いたばかりですよ?」 「ニャるほど、ニャるほど……じゃあ、何でオマエから鳥の匂いがするニャ!?」 シエロが兵士達に不意打ちを受けたあの時。 薄れゆく意識の中で、なんとか自分の痕跡を残そうとしたシエロは、懐に持っていた香水を兵士に吹きかけていた。 エルネならこのメッセージに気付くことができると、図らずもシエロが託した想い。 「ぐっ!勘のいいヤツ!おまえらぁああ!こっちだぁああああ!」 メッセージに気付かなければ、恐らくそのまま賊達の中心へと投げ出され、シエロ同様に捕らわれの身となっていたことだろう。 「見つけたか!?どこだ!?」 周囲から集まってくる多数の敵の気配。 森の中とはいえ、このまま身を隠し続けることは難しい。 結果、この状況は、エルネをシエロの元へと走らせる。 「そっちへ行った!男を助けるつもりだぞ!!」 監視役としてアジトに残っていた者達がエルネの前へ立ちはだかる。 「邪魔すんニャ!!」 背水の陣の中、孤軍奮闘のエルネ。 押し寄せる敵の波を、その俊敏さを活かし翻弄。 降りかかる無数の敵意を必中の弓で射ち落としていく。 「くそっ!挟み込め!男に近づけるなっ!」 だが、奮闘虚しく、一人で打開出来るほど容易な戦闘ではなかった。 体力と気力は徐々に削られ、手持ちの矢まで尽きかけている。 この時、賊は見張りすらも出払い、全軍を挙げてエルネを捕らえようと必死になっていた。 「よぉし!追い込んだぞ!」 「ぐぬぬ……!」 崖を背にする形で追い込まれてしまうエルネを、十数人の男達が囲む。 残った矢も、今では最後の一本を残すのみ。 「よく頑張ったな子猫ちゃん!だが、ここまでだ!」 「……ニャハハ……ニャめんなよ盗人如きが!」 それでも尚、その目に諦めの色は微塵も感じられない。 むしろ、今日一番の集中力と気合で弓を引き絞るエルネ。 「あぁん!?今さらどうにかなるとでも思ってんのか!?」 眼前で吠える男を歯牙にも掛けずに狙いを定める。 彼女の発する気合と殺気に気圧された男たちはたじろぐ。 「フッ!」 放たれた渾身の一矢―― ――しかし、それが男達に突き刺さることはなかった。 「…………え?当たってねぇ……よな?」 キョトンとした表情で、自分達の身の無事を確認する。 結果、矢は男達から逸れ、明後日の方向へと飛び去った。 「ニャハハ……もうだめニャ……」 最後の矢も失い、エルネに戦う術は残っていない。 消耗しきった彼女は、ここでとうとう力尽き、あえなく男達に捕らえられてしまう。 「はっはっは!最後は残念だったな!」 「ふぃ~……どうなるかと思ったぜ!」 ――ゴトンッ 曲者を退治したことを喜ぶ男達。 だが、全員が出払ってしまった故に、アジト内の建物、その一室で、何か重たい物が床に落ちたような、そんな音が響いた事実に気付いた者はいなかった―― ――何の音だ? 捕らえられた後、戦闘の気配で意識を取り戻していたシエロ。 間も無くして見張りの男が部屋を出た。 部屋に一人残された、またとない好機にあるにも関わらず、動けずにいる自分を恥じ、目をつむり、唇を噛みしめる。 そこへ聞こえた『音』に目を見開く。 目の前の床に転がるのは、自分の自由を奪っていたはずの手枷。 ハッとなり手元を見上げると、手枷を打ち抜き、深々と壁に突き刺さった矢。 見慣れた矢は、賊と戦闘を行っている人物の正体を悟らせた。 「バカ猫が……とんでもない借りを貸し付けてくれたものだな!」 見張りが戻る前に、矢じりで縄を切り拘束を解く。 そして、そのまま息を殺して部屋の入口の横に隠れた。 「やれやれ……手間かけさせやがっ――むぐぅ!?」 程無くして帰ってきた見張りが入口をくぐった瞬間、背後からシエロがその口を塞ぐ。 「動くな。そのままゆっくりと俺の目を見ろ……!」 首元に突き付けられるエルネの矢。 言われた通りにシエロの目を見た男は戦慄。 底の見えない深さと冷たさを秘めたそれ。 直感的に、逆らうことを諦めさせられた。 幸いなことに、先の戦闘を終えたことからの油断か、警戒の気配は緩い。 武器庫まで男を案内させても、難なく辿り着くことができた。 「剣は返してもらうぞ……ん?これもだ……!」 武器庫に放り込まれていた愛用の剣。 そしてさらに、剣に引っ掛けられていたのはエルネの弓。 予想はしていたが、自分を助けた後、やはり逃げることは叶わなかったのか。 複雑な思いでそれらを握り締めるシエロ。 男を縄で縛りつけ、猿ぐつわをはめさせる際に、男が纏っていたローブを拝借。 それから、弓が並べられた台から、矢を一束。 奪った大きなローブは、シエロと身体と、腰と背にかけた剣と弓矢をすっぽりと覆い隠す。 「いくか……」 命を省みずに自分を助けたエルネ。 自分の判断ミスが生んだこの状況。 今まで感じたことない想いを感じつつ、今度はエルネの救出へとシエロが動き出す。 エルネとの一件を終えた賊達は、立て続けに不測の事態に陥ることなど考えてもいない。 ましてや変装した敵が自分たちの周りをうろついているなどとは思いもしないだろう。 一番大きな建物の中を覗き込むと、首領と思わしき大男と、例の裏切者のヴィレス兵二人が盃を交わしていた。 その目の前で、壁に縛り付けられているエルネ。 敵は三人。 シエロは一度、深く深呼吸をし、意を決した表情で部屋の中へと踏み込む。 「た、大変です!捕らえた男に逃げられましたっ!」 「何だとぉお!?」 「そこの女とやり合ってる時に逃げられたようで……!」 「ニャ?」 「次から次へと面倒くせぇ!すぐに全員集めろ!!」 「それと、もう一つお耳に入れたいことが!」 「ちっ……こんなときに何――かはっ!」 男がズイッとシエロへと顔を近づけた瞬間、その顎をシエロの膝がかち上げた。 「て、てめぇ!何してやがる!?」 味方であるはずの人間が同志を攻撃する現場を目撃した男達。 すかさず腰の剣に手をかけようとするが…… 「ニャハハ!」 「うぉっ!?」 エルネが伸ばした足で二人を前へと蹴り飛ばす。 そのまま前のめりになりながらシエロの間合いへと突き出された男。 シエロは、鞘に刺したままの剣を思い切り男の脳天へと振り下ろした。 「はぁ!」 解放されたエルネは、縄の跡の残る手首を少し痛そうにすりすりとさすりながら、床で気を失っている男を踏みつける。 「よくもやってくれたニャ!このっ!このっ!」 「……いろいろと言わなくてはならんこともあるが、まずは残った賊を蹴散らすぞ」 「ニャ?このままヴィレスに戻って、援軍呼んじゃった方がいいんじゃニャいか?」 「ダメだ。ヴィレスにまだ裏切者がいる可能性もある。まさかとは思うが、ガレオス王までも敵となっていることさえあり得るしな」 「ニャ!?なんでニャ!?」 「俺が襲われた時、兵士は俺の名を呼んだ。俺がそこにいると知っていたからだ。ヴィレスから後を付けたのか、または王の命令で動いたか、恐らくはこのどちらか……」 「なるほどニャ~……まあ、時間をかけて逃げられでもしたら、また女の子に悪さするニャ。放っておくわけにもいかニャいニャ」 「貴様の弓も取り返しておいたぞ。武器庫にあった矢も付けておいてやる」 「おぉ!ありがたいニャ!」 「よし……今ヤツらは油断している。一気にケリをつけるぞ!」 「ニャ?そういや……今度は俺が一人で何とかするって言わないのニャ?」 「……は?」 エルネに指摘されて初めてその事実に気付かされた。 口に手を当て、自身の変化に驚きを隠せないシエロ。 「まぁ、ここまできたら手伝ってやるニャ!せっかく助けてもらったことだしニャ!」 「ふん……これ以上、借りは作りたくないものだが……たまにはこうしてツーマンセルを組んで臨む任務も悪くないだろう」 「ニャハハ!じゃあ、ちゃっちゃとやるニャ!」 「ああ!」 部屋を飛び出した二人。 その姿は、まるで競い合うかのように敵を探し、手当たり次第に打ち倒していく。 「な、なんだ!?また曲者か!?」 事態を完全に把握できていない状態で奇襲を受ける賊達。 軍団としての機能取り戻すまでの間に、二人はその戦力の半分を消耗させた。 「ちっ……纏まりを取り戻してきたな……!エルネ!援護しろ!」 「忙しいやつニャまったく!」 陣形を組み、数という戦力差で二人を押し返そうと構える男達。 その群れに向かってシエロが駆ける。 「この野郎!一人でどうにかなると思って――ぐはっ!」 「エルネもいるニャ!」 援護射撃により、男が一人射貫かれ、前衛に亀裂が走る。 「そこだぁああああ!」 水の力を纏い、亀裂を裂くように高速で突撃したシエロ。 陣形の中心へと侵入したシエロは、そのまま高速の剣戟を繰り出す。 まるで一つの巨大な生き物の腹の中で暴れまわる獣の様だった。 「同時に襲い掛か――がっ!」 隙となるシエロの背後をエルネの弓が守る。 たまらず陣形は散り散りになり始めた。 「ちくしょう!たった二人相手にこんな……!」 みるみる内に崩壊していく陣。 その後衛には数人の術士達が身構えていた。 だが、自分の攻撃が味方を巻き込む恐れがあるため、前衛の真っただ中で暴れるシエロに手を出すことができない。 「あの娘だ!ヤツを先にやるぞっ!」 混乱する戦場を挟んで、術士達とエルネの目線がぶつかる。 「させるかぁ!」 この動きに即座にシエロは反応。 遠距離攻撃を互いに打ち合う場合、手数が多い側が圧倒的に有利だ。 エルネの危機をカバーするため、前衛から抜け出し、後衛へと斬り込む。 「ま、待て!?前衛は何をやって――ぎゃぁあ!」 抵抗の隙を与えないまま後衛を殲滅するシエロ。 しかし、またしてもその背後には、追い打ちをかけようと、斧を振り上げる男。 「油断したな小僧!これで――ぐぉ!?」 「甘いニャ!」 同時攻撃に対処することが難しいシエロだが、遠距離からの射撃があれば問題はない。 「バカ猫!術士がまだいる!」 「鳥!頭下げるニャ!」 エルネの矢が最後の術士を貫いた瞬間、シエロもまた、最後のナイフ使いを斬り倒す。 得手不得手を補い合う見事な連携。 まるで熟練のバディ同士が見せる、舞うような戦闘だった。 「はぁ……お、終わったかニャ?」 「あぁ……なんとかな……」 勝利の美酒が、疲れ果てた二人の心を満たしていく。 シエロは今回の任務が一人では絶対にクリアできなかったこと痛感。 これまで自身がどれほど無謀で、がむしゃらにやってきたのかを理解した。 孤独ゆえの限界。 協力することで生まれる力。 この戦いはシエロにとって、かけがえのない成長を与える結果となる。 ――数日後 今回の一件の功績を称えられ、ガレオス王から勲章を授かることとなったシエロとエルネ。 裏切った兵士達は、賊が送り込んでいた密偵で、ガレオスは介在していなかった。 「此度の働き、誠に見事であった。ヴィレスを代表し、貴殿らへの感謝と、その功績を称えさせてもらう」 静かに目を閉じ、王の前に並んで膝をつく二人。 その胸に勲章が掲げられた時、シエロは小声でガレオスへと質問を投げかけた。 「王よ。今回の件で、新しい自分の在り方を見出すことができました。貴方様はこうなる結果を予期していらっしゃったのではありませんか?」 「ふっふっふ……余はきっかけを与えたに過ぎぬ、貴殿の心があってこその結果だったのではないのかな?」 「……ふふ……お戯れを」 勲章授与式を終え、帰路を共に歩くシエロとエルネ。 「ニャあ、鳥?さっき王様に何のこと聞いてたニャ?」 「あぁ……たまにはツーマンセルでやってみるのも悪くはなかったって話だ」 「やっとエルネのこと認めたニャ!?」 「か、勘違いするなよ!?たまたま、あの場合は二人でやった方が効率良かっただけだ!」 「素直じゃニャいニャ~……でも、エルネも鳥と組んで、一人じゃできなくても、二人ならできることがあるってこと知ったニャ!」 「……貴様、本当に理解しているのか?」 「ニャにを!?だったら実際に証明してやるニャ!」 「お、おい!何だいきなり!?」 強引にシエロの腕を掴み、どこかへ走り出すエルネ。 彼らが到着したのは、村の中でも最も人通りの多い広場。 「で、何ができるって……?」 「ニャハ~……鳥と一緒に戦った時に思いついた、鳥とエルネしかできない連携必殺技ニャ!」 「なんだと!?戦闘中にそんな発想を……!」 「いくニャ!鳥ぃ!」 「こ、ここでやるのか!?」 「まずは水ニャ!いっぱい、いっぱい出すニャ!」 「よくわからんが、それで連携技になるのだな!?よ、よし……はぁああああああ!!」 大地に手を突き、渾身の魔力を込める。 次第にシエロを中心に大地は揺れ、力に呼応するようにいくつもの水柱が立ち昇った。 「ニャァアアアアア!」 それに合わせ、エルネが手にする矢に魔力を込める。 放たれた風の力を纏った矢は、広場を旋回するようにしながら水柱を貫いていく。 巻き上げられた水は風と折り重なり、暴風雨の如く吹き荒れた。 「こ、これ程の技になるとは……!!」 「ニャハハハハハハ!」 少しして、落ち着きを見せ始める風力。 シエロは賞賛の言葉をかけようと、思わずエルネに駆け寄る。 「エルネ!貴様もやればできるではないか!やっと少しは成長したよう――」 「「きゃあああああああああ!」」 「は……?」 「見ろ!鳥ぃ!」 水浸しになった広場。 当然、広場にいた村の人間は全員、頭から水をかぶったようにびしょ濡れ。 その結果、女性達の衣服は肌に張り付き、その裸体が透けて見える事態に陥っていた。 「これがエルネの見つけた新たな可能性……『透け』だニャ!」 「……貴様」 「どうニャ!?まっぱとは違った良さがあるニャ!?」 「このため俺を使ったのか……?」 「蟻ん子一匹逃がさず、漏れなくずぶ濡れニャ!ニャ?漏れは無いのにずぶ濡れ……ニャハハハ!うまいこと言ったニャ!!」 「このバカ猫がぁああああ!粛清してやる!そこへなおれぇええええええ!!」 こうして新たに生まれ変わったツーマンセル。 これから彼らがどのような成長を遂げていくのかは、また別の話で―― +復讐と断罪の剣豪ロイエル 冷たく暗い牢獄。 水滴の音が響いている。 俺は落ちていく雫を静かに眺めながら、オヤジの事を思い出していた―― イエルのスラム街を束ねていたオヤジは、孤児だった俺を育ててくれた。 そんなオヤジの背中に憧れた俺は、仕事について行きたくていつも駄々をこねる。 「なぁオヤジ、俺もそろそろ仕事に連れてってくれよ。もう十分強くなっただろ?」 オヤジはニカッと歯が見える豪快な笑みを浮かべると、俺と同じ目の高さに合わせるようにかがみ込んでから話した。 「はっはっは!!お前みたいなガキには、まだ仕事は任せられねぇな。剣を自分の手足のように使えるようになってから、出直して来い!」 そう言ってオヤジはいつものように笑いながら、俺の頭をグシャグシャと乱暴に撫でてから支度を始める。 ――なんだよ、子供扱いしやがって! 一度も仕事に連れて行ってもらえない事に不満を抱いていたが、オヤジの豪胆で屈託のない笑顔を見るのが大好きだった俺は、心の中でそう呟き、その大柄な背中へと投げつけた。 オヤジが仕事に出ている間は、オヤジの部下達が俺の剣を見てくれた。 元海賊や元殺し屋と屈強で強面な奴らばかりで、最初はおっかなかったが、共に暮らしていくうちに、優しくも厳しい兄貴のような存在になった。 子供だからと容赦しない彼らとの修行のおかげで、俺が14歳になるころには、スラム街にいるオヤジ以外の誰にも、負けなくなっていた。 俺に打ち負かされた大柄な兄貴は、尻もちをつきながらも感心した様子で言う。 「イテテッ!……ったくよぉ、オヤジも連れて行ってやればいいのにな。こんなに強くなっちまったんだからよ!」 俺は木剣を鞘に納め彼を助け起こしてから、少し興奮気味に話しだした。 「それがよ!オヤジが次の仕事について来いってさ!」 その言葉を聞いた兄貴達は、顔を見合わせた後、自分の事のように喜んだ。 俺の周りを囲むように集まると、乱暴に俺と肩を組んできた。 「やったじゃねーかロイエル!オヤジもお前を一人前って認めたみてぇだな!この野郎!なんで黙ってたんだよ!」 そういうと兄貴はふざけて頭を拳で撫でて来た。 俺は兄貴を肩から引きはがし答える。 「痛いって兄貴!!みんなを驚かせたかったんだよ!どうだ!驚いたろ?」 それを聞いた兄貴達は、「生意気な奴だ!」と笑いながら俺をもみくちゃにしはじめ、終いには、男泣きする奴まで現れた。 俺はそんな兄貴達をなだめ、照れ臭そうに笑いながら続けた。 「おいおい、なにも泣くことねぇだろ!!大げさだな!オヤジはしつこく、スラムを出て騎士団にはいる気はないのか?って言ってたが、それでも認められたのは、兄貴達が俺に剣を教えてくれたおかげだぜ!ありがとよ!」 俺の感謝の言葉を聞いた兄貴達は、柄にもねぇなと笑い飛ばし、今日は祝賀会だと俺を担ぎ上げると、俺の制止も聞かずに騒ぎながら酒場へと歩き出した。 オヤジは貧しい人のために戦うのが仕事だった。 汚れ仕事も沢山するが、その報酬はスラムの子供や貧民街に分け与えている。 時には貴族の犬として動く悪党どもに、制裁を加えることもあった。 金や権力にモノを言わせる貴族には全くなびかず、対等な立場で戦える英雄……。 やっとオヤジの背中に追いつけた。 オヤジの背を護り、一緒に戦える。 そんな日々が待っていると俺は胸を躍らせていた―― オヤジと仕事を共にするようになってから半年、俺とオヤジはとある商人の護衛でイエルの外れにある廃墟に来ていた。 日が沈み、雨が降っているせいで、月明りもない。 明かりは商人が持つ小さなランプだけだった。 廃墟の外の暗がりの中、俺は何かが光るのが見えた。 光の正体を探ろうと目を凝らそうとした次の瞬間、オヤジは俺を庇って、矢で胸を射貫かれた。 目の前の光景が現実として受け入れられない。 オヤジが横たわり、濡れた廃墟の床に鮮血が広がっている。 兄貴達の怒号、賊を追いかける兄貴達の足音、雨音が遠く聞こえる……。 そんな中、オヤジが俺を呼ぶ声だけが、はっきりと聞こえた。 息も絶え絶えのオヤジの身体を起こし、呼びかけると確かな強さがある声で話始める。 「ロイエル……お前は全うな道で生きろ。いつまでも、スラムにいちゃいけねぇ。スラムは部下達に任せるんだ……俺の背中は追うんじゃねぇぞ。これは俺からの最後の頼みだ……」 オヤジの大きな手が俺の顔に触れる。 「何言ってんだオヤジ!!勝手にくたばろうとしてんじゃねぇ!!お、俺はまだ何も……オヤジに何も返せてねぇじゃねぇかッ!!」 涙を流す俺の顔見たオヤジは、いつものように笑いながら俺の頭を乱暴に撫でると、眠るように息を引き取った。 ――オヤジを殺した賊は結局見つからなかった。 俺はスラムを出て騎士団の傭兵に志願すると兄貴達に告げた。 最初はスラム街の出身者だからと舐められていたが、兄貴達に鍛えられた剣の腕で、多くの任務をこなし、騎士団では右に出る物がいないと言われるほど名を上げた。 名声を上げればいろんな情報が手に入りやすくなる。 俺の目的は最初からこれだった。 俺は、オヤジの最後の願いを素直に聞き入れられなかった。 オヤジはきっと今の俺を見て怒っているだろう。 とんだバカだと。 それでも俺は、オヤジの仇を探し出し復讐する。 その為ならどんなことでもする覚悟があった。 仕事が終わると酒場へ寄っては、オヤジを殺した人間の情報を探した。 やっとのことでオヤジを殺した刺客の男の情報を得た俺は、夜道でその男の後をつける。 男が一人になったタイミング見計らい、人気の無い路地へと無理やり連れ込み、背後から刺客の喉に剣を押し当てた。 「今から言う俺の質問にだけ答えろ。変な真似をして見ろ。すぐにお前の喉を斬ってやる」 男は目線だけで背後の俺を見ようとしている。 「くっそ!てめぇ、何もんだ……がっ!」 俺は剣を持つてに力を入れ、男の喉に強く押し当てる。 男は少し苦しそうに口をパクパクとさせ、観念したのか大人しくなった。 次はないと男に告げ剣にいれた力を緩めると、慌てた様子でしゃべりだした。 「わ、分かった。なんでもしゃべる。な、なにが知りたい」 「お前がスラム街のボス……カザシスを殺した刺客で、間違いないな?」 俺が剣の刃を少しだけ、男の喉から離すと素早く頷いた。 「お前は、誰に雇われた?なぜオヤジを殺した。」 知りたかった真実を目の前に、俺の腕に少しだけ力入り、男の喉に強く剣が押し当てられる。 男は小さな悲鳴を上げた後、雇い主の名を吐いた。 ――雇い主はイエルの三大貴族のシュレイドという男で、スラムのボスであるオヤジと対立していた貴族達の元締めということが分かった。 敵の全貌が分かると、黒い気持ちが一気に込み上げてくる。 シュレイドへの復讐へと目標を変え、刺客にトドメを刺し、その場を後にした。 後日、騎士団より辞令が下り、シュレイド家の私兵として雇われることになった。 情報を手に入れてすぐに……偶然にしてはできすぎている。 確実に罠だと感じ取った。 だがもしそうだとしても、俺にはもう止まることはできない。 そして俺は―― ふと、現実へ意識を戻すと牢の前には、私兵を連れたシュレイドが立っている。 俺をゴミでも見るかのように見下ろし、歪んだ笑顔を見せる。 「滑稽だなロイエル。お前もあの薄汚いスラムのボス……カザシスと同じように死んで行くのだ。せっかく奴に助けてもらった命を自ら捨てに来るとは……私には全く理解ができんな」 あまりのクズっぷりに笑いが込み上げてきたが、俺はその台詞を鼻で笑うだけに収め、冷たく鋭い怒りを込め、シュレイドを見上げる。 「オヤジを殺したのは、やっぱりお前だったんだな」 「いかにも……」 俺の問いかけに悪びれるわけでもなくシュレイドは即答した。 フツフツと怒りが湧きあがる。 「私が命じて、奴を殺した。馬鹿な男だ。お前のようなロクデナシを庇って死ぬとは、滑稽極まりない」 「俺を馬鹿にするのはいいがオヤジを馬鹿にするのは許さねぇ…」 「ふん、笑わせるな。ブタ箱の中で何ができるというのだ?お前は明日、私へ剣を向けたことによる、反逆罪で処刑される。良かったじゃないか。これでお前の大好きな“オヤジ”と再会できるのだ。感謝したまえ」 そう言い残してシュレイドは去っていった。 また、静寂が帰ってくる。 聞こえるのは、水滴と看守が歩く音。 俺はこんなこともあろうかと、下着の中に隠していた針金を取り出し、手枷を外した。 「とりあえず、ここを出ねぇとな……」 幸いにも看守はたった一人。 先ほどシュレイドについていた私兵と入れ替わったばかりだ。 交代はしばらく来ないだろう。 牢の扉を静かに開け、看守を後ろから絞め落し剣を奪う。 「俺が逃げることも想定されてると厄介だな……」 気絶させられてから連れてこられたため、ここがどこだか分からなかったが、看守がシュレイドの私兵であるところを見るとどうやらシュレイド家の敷地内にある地下牢のようだ。 階段を上りきると格子の小窓がついた、木製の戸があった。 小窓から静かに辺りを見回す。 戸のすぐ横に一人、少し離れた所に談笑する兵士が見えた。 「思ったよりも手薄でありがたいが……俺も舐められたもんだな」 戸を勢いよく開け、外へと飛び出し、俺の姿に気がついた兵士を素早く切り伏せる。 その騒ぎに気がついた兵士が、声をあげ応援を呼びだした。 「ちっ!まだいたか!……戦っても切がねぇ。走り抜けるしかねぇか」 目の前に立ちふさがる兵士達へと真っ直ぐ走り、次々に剣で薙ぎ払う。 何とかシュレイド邸を抜け、商業街の人込みへと紛れた。 「これで、しばらく時間が稼げるだろ」 俺は一息ついてから、これからどうするか少し考えた。 シュレイドへの復讐はまだ、諦めたわけじゃない。 奴の寝首を掻くなら、しっかりとした装備が必要だろう。 俺は、無茶な使い方をしたせいでボロボロになった、兵士の剣を見た。 「いつまでも兵士から奪った鈍らを使うわけにも行かねぇしな。 そういや隠れ家に行けば鎧とオヤジの剣があったな……」 スラム街にある隠れ家へと進路を決め走り出す。 スラム街への入り口に差し掛かった時、人気の無い路地裏から騒ぎ声が聞こえ足を止めた。 路地を覗くと、兵士に囲まれた貴族の少女が杖を構えているのが見えた。 どうせ貴族のワガママに兵士が振り回されているんだろう。 ここにいる兵士は6人程度だが、少女を探している兵士が他にもいる可能性がある。 別の道を行ってもいいが、ここで下手に動いて、スラム街に逃げ込む俺の姿が兵士に見つかれば、兄貴達に迷惑がかかるかもしれない。 まったく面倒なことばかりだな。 仕方ない、ここは迂闊に動かず様子を伺うか……。 じりじりと詰め寄る兵士達の足元に、少女は躊躇なく魔法を放ち威嚇する。 おっかねぇ御令嬢だな。 お転婆ってどころじゃねぇぞ。 俺が容赦ない攻撃に関心している間に、少女はすっかり兵士達に追い詰められてしまっていた。 「道を開けて下さいっ!どれだけ貴方達が止めても私はこの街を出ます!!」 「レティシア様!これ以上は!…お父様も心配されてます!どうしてもというなら力ずくでも…」 剣を構える兵士達に臆さない少女は、杖を強く握り、兵士達へと一歩踏み出した。 「止めると言うなら覚悟してください!貴方達でも容赦しません!私達貴族が街の住民をおとしめるようなこの街を私は変えなきゃいけないんです!」 この街を変える……? 俺はその言葉に苛立ちを覚えた。 オヤジにもできなかったことをお前が? 大層なもんだな…本当にそんなことができると思ってるのか? 杖を構え続ける少女の顔を物陰から伺う。 その目は今まで見た何よりも強い意志を帯びている。 少女の表情に貧しい人のために戦うオヤジの顔がよぎった。 オヤジ……もし、俺に復讐以外の道があるなら、今がその時なのかもしれねぇな。 「面白ぇ。ひとつ、お嬢様を試してやるか。俺が脅してもブレねぇなら本物。そうじゃなきゃ、ただの不満だけ言う、ワガママなお嬢様ってとこだな。まずは、邪魔者を掃除してやるか……」 にやりと笑みを浮かべて、兵士たちに声をかける。 「おいおい。お前ら、エスコートの仕方も知らないのか?」 その台詞に振り返った兵士達は、俺の顔を見るなり驚いた様子で剣を構える。 「き、貴様!!ロイエル……!なぜここに!?お前は投獄されたはずじゃ……」 「悪いがじっとしてられる性分じゃねぇんだ。それじゃ、そのお嬢さんを放してもらうぜ?」 兵士達を気絶させ、少女へ目を向けた。 少女には怯えているような様子は無く、兵士達を心配そうに見つめていた。 「安心しろ、眠ってるだけだ、そのうち起きるだろ」 その言葉で少女は俺の方へと向き直る。 彼女は礼を言おうとしたのか口を開こうとするが、俺は剣を向け遮る。 「お前、さっき街を変えたいとか言ってたな?貴族様ってのは、自分さえ良ければそれでいいんじゃねぇのか?俺のオヤジは街を変えようと、少しでも良くするために戦ってた。だから、消された。例えお前がどんだけ偉い貴族様の御令嬢でも、そんなことしたらただじゃ済まねぇだろ。なぜ変えようと思う。利益のためか?」 少女は向けられた剣を気にも留めず、俺の言葉に真っ直ぐな目で答えた。 「貴方が私達貴族にどの様なことをされてきたか想像もつきませんが、それを知らないまま生きていくのは嫌です!知っているのに何もできないのはもっと嫌!!私は、私の大好きなこの街の住民を護りたい!それ以外に理由なんていりません!たとえ私の家が地位を失うことになっても……。大好きな人達を護るためなら喜んで私は捨てましょう!」 突然、大声で言い切った彼女に驚いてしまった。 彼女なら本当に何かできる、そんな気がする。 もし、オヤジならこんな時どうするだろうか。 オヤジの笑顔が頭をよぎる。 それと同時に心の底から笑いが込み上げてくる。 「はははははっ!面白れぇ!でも、さっきみたいに囲まれて逃げ出せねぇようじゃ、用心棒が必要なんじゃねぇか?」 俺のその言葉に少女は真剣な表情で悩みだした。 イエルを出た俺は、とある街へと隠れ家を移した。 用心棒や賞金稼ぎの真似事でなんとか生活をしている。 仕事終わりに酒場でひとり酒を飲んでいると、酔った男が話かけて来た。 どうやら相当酔っているようで、酒場にいる連中みんなに話しかけて回り、俺のところに流れ着いたらしい。 「なぁにいちゃん、あの噂を聞いたか?」 「何だ?面白い話なんだろうな?悪いが、くだらない話なら遠慮させてもらうぜ?」 男は手に持っていた酒を一気にあおると、マスターに追加の酒を頼む。 俺から離れる気はないようだ。 「へっへっへ!まぁ聞けよ!イエルの大貴族、シュレイド家の頭首に剣を向けた傭兵がいるんだってよ!……なんでも、スラムのチンピラ上がりで、剣の腕だけでのし上がった奴らしい。妙な剣技を使うとか……。捕まるときも、何人もの兵士をやっちまったって聞いたぜ」 イエルから離れた小さな街にも伝わってるのか。 噂ってのは恐ろしいな……。 尾ひれも沢山ついていそうだが、飛んでもないスピードで伝わるもんだ。 相手は酔っ払い、しかし、警戒するに越したことはない。 俺は剣をいつでも抜けるようにしながら、話を合わせた。 「ふっ!大層な奴だな。一度手合わせしてみたいもんだ……」 「にいちゃんも腕に自信があるってのか?ははははっ!なんでもそいつは最近脱獄したらしくてな…。貴族の御令嬢…レティシア嬢を拉致して逃げちまったんだってよ!そいつの首にとんでもない懸賞金がついてるらしいぜ?」 なんだか、俺の知らないところで面倒なことになってるな。 流石、貴族だ。 都合の悪い事は全部俺のせいか。 愉快なことこの上ない。 あいつはちゃんとうまくやっているだろうか? 「おっさんもその懸賞金目当てでその男を探してるのか?」 俺はそう質問しながら、気づかれないように剣の柄に触れた。 「と、とんでもねぇ……!化け物の相手なんざ俺はごめんだ!まだ死にたくねぇからな!」 そう言うと男は、マスターが持ってきたばかりの酒を一気に飲み干した。 男に敵意はないと判断し、俺は続きを話し始めるのを待った。 「この街でその”ロイエル”って男が潜伏してるって噂だ!貴族に雇われた賞金稼ぎやらなんやらが大集合だ!おっかなくて酒でも飲んでなきゃやってられ……」 その時、突然酒場の扉が勢いよく開けられ、飛び込むように一人の少女が入って来た。 大きな音に酒場の全ての会話が打ち切られる。 少女は、俺の姿を見つけるや否やその場から大きな声で話し出した。 「ロイエルさん!大変です!すぐにここを出ましょう!!外に傭兵の皆さんが……あっ……えーと……」 言葉の途中で、酒場中の人間の注目を集めていることに気がついた少女は、その場で苦しい愛想笑いを見せながら、立ち尽くす。 ご丁寧に扉の横にある張り紙には、彼女とまったく同じ顔が描かれた行方不明の張り紙が並んでいる。 俺はため息を吐き、ジョッキの酒を飲みほした。 「おっさん、わりぃが用事ができちまった。あー……一つその噂に付け加えるとしたら、そのレティシアってお嬢様は世界を変える為に旅に出たんだ。ちっぽけな力で何ができるかわからねぇが……それでも、自分の意志でイエルを出た。イエルで”一番強い用心棒”をつれてな!」 そう言い残して、酒場の入り口で愛想笑いしながら立ち尽くしているレティシアに声をかける。 「いつまで、そこに突っ立てるんだ?逃げるんだろ?というかローブはどうした?お前、目立つから着てろって言ったじゃねぇか?」 「動きづらかったので、捨てて来ました!急いで教えたかったので仕方がありません!」 彼女は我に返ったのか、焦りながら苦しい言い訳をしている。 後先考えないほど真っ直ぐな彼女に先が思いやられる。 酒場の外には、街中から”俺達”を狙いに来た連中であふれていた。 「ロイエルさん!私も加勢します!」 杖を構える彼女の言葉に呆れながら、俺も剣を構える。 「ったく!少しは反省しろよ!……しゃーねぇ!行くぞ!レティシア!」 俺達はお互いの背中を護りながら、平和な未来を信じて旅を続けた。 +甘き夢見る恋風のミーユ 「えっと、この依頼なら一人でも出来るかな?」 酒場の張り紙に注意深く目を通し、出来るだけ高額、且つ自分一人でも出来そうなものを見繕う。 最初は傭兵なんて出来るのか不安でいっぱいだったが、少しずつ慣れてしまうものだ。 「よし、これにしよう」 一枚の依頼書を壁から剥がし、酒場の奥のカウンターへと持っていく。 ある貴族の地下倉庫に大量発生しているネズミ退治。 剣を持つ事にも慣れてきたミーユにとっては、至極簡単な依頼に見えた。 「すみませーん。この依頼を受けたいんですけど……」 商業都市イエルについてから、何ヶ月が経っただろう。 エムルの街を駆け落ち同然で飛び出してから、大陸の各地を歩き回って、最終的にこの街に辿り着いた。 クライスが探しているものはまだ見つかっていないし、どこにあるのかも分らない。 それでも、情報が一番入ってくる都市に身を置く事が一番の近道だって彼が言うもんだから、結局この街で生活をする事になった。 「はい、じゃあ頑張ってね」 酒場の女性が笑顔で依頼書に判を押すと、スカートの裾を翻して酒場を後にする。 初めての単独での仕事。 内容は簡単であるはずなのだが、いつも隣にいる“うるさい奴”がいないという事に、一抹の不安を感じる。 それでも、顔を両手で叩いて自分に言い聞かせた。 「いつまでもあいつに頼ってちゃダメ。私一人だって大丈夫なんだから!」 そう、今回は一人で片づけなければならないのだ。 もうすぐ訪れるバレンタイン。 今の生活では、チョコレートなど高価なものを買う余裕なんてどこにもない。 だからこそ、せめて原材料であるカカオを買う資金を自分一人の力で調達する。 『もしそれが出来なければ、この胸の気持ちを伝える資格なんてない』という自らの気持ちを問うような縛りをつけたのは、同棲状態であるにも関わらず、何も進展のない関係に終止符を打てない自分への戒めだ。 逆に言うと、このミッションを遂行した暁には『想いを伝える資格』が手に入るという事だろう。 色々な考えや想いが絡み合う少女から導き出された答え。 はたから見れば笑ってしまうのかもしれないが、彼女はどこまでも真剣なのだ。 「この門が家の入り口なのかしら?大きいわねぇ……」 故郷のエムルで一番大きな家だった、長老ドロウスの屋敷でも、目の前に聳える巨大な建物からすればオモチャの様に見えるかもしれない。 今の自分の格好で屋敷の中に入って良いものかどうか、少しの間考えた後に、門に付いている鐘を鳴らしてみた。 カァーーン…… ほどなくして貴族の衛兵だろうか、鉄のヘルムを付けた男がやってくる。 「なんだお前?ここになんの用だ?」 「えっと、私、酒場で依頼を受けてきたんですけど……あっ!これです!」 自分の場違い加減に頭が真っ白になりかけたが、なんとか依頼書を取り出して男に見せた。 「おぉ……なるほど。ついに来たか。ふむ……こっちだ、付いてこい」 ミーユを頭のてっぺんからつま先まで眺めた男は、何かに頷くと門を開き中へ招き入れた。 「地下倉庫はワインの保管庫になってる。中にはお前らのような庶民がどれだけ汗を流しても口に出来ないような高級品もある。無茶に暴れて壊したりでもしたら報酬はないと思え」 歩きながら男はたっぷりと嫌味を含んだ説明をしてくる。 この街に来るまでよく知らなかったが、貴族という人種はどこまでも偉そうで、雇われている人間までもその権力を振りかざしているように見えた。 どうせ目の前にいる男もただの雇われ兵で、生活水準は良くても中の上。 でなければ、雨風に晒される門番などしていないはずだ。 話に出ている貴重なワインの香りをこの男が知っているとは思えない。 しかし、これも仕事のうちだと割り切れるのは、ミーユも少し大人になったということなのかもしれない。 いや、もっとひどい戯言をここ数ヶ月毎日のように聞いているからかもしれないが……。 「ここだ。この階段を下った正面の扉を開け。そこが地下倉庫だ」 男は薄暗い階段を指差した。 「じゃあ行ってきます」 「くれぐれも気をつけろよ」 どこまでも偉そうにしている男を尻目に、階段を慎重に降りていく。 足を進めるにつれて、少しジメジメとしながらもひんやりとした空気を頬に感じる。 正面の扉に手をかけると、ギギギという音を立てながら漆黒の闇がミーユを迎え入れた。 「なるほど……ネズミが好きそうな場所ね」 ほのかに熟れた果実のような香りの室内。 日の光は一切なく、1メートル先の視界もない状態だった。 ポケットに入っていたマッチを取り出して火をつけると、壁掛けのランプが目に入った。 そのままランプに火を灯すと、地下倉庫の全貌が見えてくる。 「さて、ネズミちゃんはどこかしら?」 壁一面に規則正しく並んでいるワインの瓶を眺めながら、目的のネズミを探すミーユ。 「おかしいわね……全然いないじゃない」 辺りを注意深く観察するが、ネズミどころか、その足跡や齧り跡なども一切ない。 「どういう事かしら……」 地下倉庫の中をグルグルと散策するも、その痕跡を見つける事が出来ずに困り果てるミーユ。 いっその事、このまま『無事に退治しました』報告をして報酬を貰うという事も頭によぎる。 しかし、それは正当な報酬ではないような気がして、首を振る。 そんな事をしては、『想いを伝える資格』が手に入らないような気がしたからだ。 「持久戦かしらね」 もしかしたら深夜にならなければ出てこないのかもしれない。 ネズミの習性というものを少し調べてからくれば良かったと後悔しながらも、床に腰を下ろしてその時を待つ。 足を止めると、ひんやりとした空気が急に肌寒さを感じさせてきた。 「寒いわねぇ……もう……なんでこんな思いしなきゃいけないの」 段々この状況が腹立たしくなってくる。 よく考えれば、あんな門番を雇える程の人物であれば、自分の兵士にネズミ退治をさせれば、わざわざ街の傭兵に仕事を頼む事もなかったのではないか。 ネズミの駆除もできないような兵士であれば、それはもう兵士と言えるのだろうか。 それなら自分の方がよっぽど優秀なのではないか。 来るはずもない敵に備えて、門の前に立ったまま訪れる民間人に睨みを効かせている仕事に誇りはあるのだろうか。 「あぁ!もうイライラする!なんでこんなに寒いのよ!隙間風が吹いてくるし!」 気がつけばブツブツと独り言を始めるミーユ。 両腕を擦りながら、寒さと戦う時間が続く。 「寒い寒い寒い寒い!!……あれ?」 その時、ミーユは一つの疑問を持った。 この風はどこから吹いているのだろうか。 降りてきた階段からこの地下倉庫に来るまでに分かれ道はなかったはずだ。 入り口が一つしかない地下倉庫ならば、風が通る事もない。 ならば、この風はどこから来ているのだろうか。 人差し指をペロリと舐めてから、風の方向を確かめる。 風は地下倉庫の奥から入り口に向かって吹いていた。 「穴でも開いてるの……?ネズミの通る穴って所かしら……」 人差し指を上に立てたまま、風の出処に向かって歩いていく。 こうしていると、風と共に生活をしていた故郷を思い出す。 そういえば街を飛び出した時も、風に頼って2人で歩いていた。 「えっ?なにこれ?」 風の出処は、大きな樽が並べられた壁だった。 この壁に穴が開いてるとでも言うのだろうか。 「もう……面倒くさいわねぇ……」 ブツブツと文句を言いながらも、重たい樽をひとつひとつ転がして動かしていく。 そして、出てきたのは壁に取り付けられた木の板。 複数の木の板が何枚も何枚も重なり、壁を補強しているようにも見える。 その隙間から、あの冷たい風が部屋の中に入り込んでいた。 しかし、その隙間はどれも小さく、とてもネズミが入り込めるような大きさではない。 「向こう側に何かあるのかしら……?」 この壁の向こう側に、今回の依頼の答えがあるのかもしれない。 体勢を低くして、なんとか木の板の間から壁の向こう側を覗こうとするも、小さな隙間の奥には闇が広がっており、何も見る事は出来ない。 「壊すのはまずいわよねぇ……」 ミーユはその場で暫く頭を悩ませる。 その時、確かに彼女の耳に何かが届いた。 ガキキキ……カカカカ…… 「えっ!?何!?」 風の音ではない。 なにか、硬い物同士がぶつかるような音。 木の枝よりも硬い……骨のような……。 「何!?なんなの!?」 何か背筋に冷たいものを感じる。 嫌な汗が吹き出す。 この壁の向こう側に、何かがいる。 ガシャ……カタカタカタ…… 不気味な音は続いている。 それも、除々に、こちらに近付いてきている。 「いや……もう……なんなのよぉおお!!!」 カシャ……カシャ……ガカカカ…… 除々に近付いてくる音は、ついにミーユの目の前まで迫った。 ……ドンッ 「きゃぁっ!!」 突然、見つめていた木の板に何かが当たり、物凄い音を立てた。 驚いたミーユは後ろに飛び退いて尻もちをつく。 「何っ!?なになになになになになに!??」 ……ドンッ……ガンッ……ガッ……バキ……メキメキ…… 木の板は、何かに殴りつけられているようで、音をたてながら割られていく。 「もう!来るなら早く来なさいよ!!」 恐怖が頂点に達したミーユは、この時間が早く終わるならばなんでもいいと、声を震わせながら怒鳴りつける。 ……バキンッ…… ミーユの想いが届いたのか、木の板はバラバラに砕け散り、その奥から何かが出てきた。 ガキキキ…… 暗闇の奥から気味悪く伸びてきたそれは、人間の手のような形をしながらも、細く、関節がむき出しになっている。 「ア、アンデッド!?」 それが骨であると認識したミーユは、腰から剣を取って構えた。 壁にぽっかりと空いた穴から姿を現したのは、全身真っ白の骨。 頭をミーユの方向に真っ直ぐと向けた魔物は、そのままミーユに襲いかかる。 「もう!どこがネズミなのよ!!」 必死に魔物の攻撃を剣でいなしながら、体勢を整える。 あの門番の男のような兵士に解決できなかった事も、この依頼がやけに高額だった事も、全て納得できた。 今思えば、『ネズミ退治に高額の報酬を出すなんて貴族はお金の価値観が全く違うのだろう』と浅はかに考えていた自分は馬鹿だった。 「やってやるわよぉおおお!!」 剣を構えて一気に踏み込む。 そして魔物の胴体目掛けて一気に剣を振り抜いた。 ズバンッ―― 手応えは確かにあった。 剣を鞘に仕舞い、ふぅっとため息を付く。 「よし……これで――」 「ディストラクションデモリッション!!!」 突然部屋に響き渡った声。 その声の正体は、ミーユがこれ以上聞きたくない程聞き慣れた、あの男の声だった。 そして、目の前に倒れていた魔物の亡骸に突然短剣が刺さる。 ……ガガガ……カッ……カッ…… 魔物は苦しそうな声を上げた後、一切動かずに絶命したようだった。 「ク、クライス!!!」 「詰めが甘いぞミーユ。このシュバルツカオスは胴体を切ったくらいでは死なない」 「なんでこんな所にいるのよ!?私を追ってきたの!?」 この任務は自分一人で遂行する筈だった。 絶対にクライスにはバレないように、髪を切りに行ってくると宿を出てきたのだ。 そうまでして、用意をしてきたというのに、目の前にクライスがいるこの状況が全く理解できない。 「ククク……俺はどこまでも歪んでいる……闇の力に呼ばれれば、吸い寄せられるように来てしまうのだ。この力があるからこそ、俺はバベルへ近づけるのだ!!」 ミーユ訳:ミーユの行動を不思議に思って尾行してきたんだ。 「何がおかしかったっていうの!?私は普通にしてたじゃない!」 「隠し事のある者はガイアに漆黒の影を落とす。それがルナティックワールドの理。選ばれし使者の瞳にのみ、漆黒の影はエンボディするのだ」 ミーユ訳:何か隠してるように見えたよ。 「はぁ……大体分かったわよ……。クライスの言葉はよくわからないけど」 「ミーユ。この先にまだシュバルツカオスが待っている。俺達を呼ぶ声が聞こえる。何か、邪悪な者の存在だ。まさか……!ククク……面白くなってきたじゃないか……!!」 ミーユ訳:まだ先に何かあるから確かめに行こう。 「えっ?ちょっと待って!あっ!もう!クライス!!」 体勢を低くしながら魔物が通ってきた穴の向こうに進んでいくクライス。 仕方なくミーユも後を追う。 穴を抜けた先は、地下倉庫よりも随分と湿気が高く、ゴツゴツとした岩肌でできた、まるで洞窟のような場所だった。 クライスは炎の魔素を扱いながら、少しずつ視界を取って奥へ奥へと進んでいく。 思ったよりも洞窟は広い。 「貴族の屋敷の下に何故こんな場所があるの?何か知ってるの?クライス!聞いてるの!?」 「静かにしろミーユ。……この強いインディケーション……感じるぞ……インヴィクタの断片か……それとも……」 ミーユ訳:この先に嫌な気配があるから気をつけてね。 進んでいく2人の足取りから、不安の色が伺える。 この先に待つものは、見てはいけないもの……何故かその確信があった。 そして―― 「なるほどね。これじゃあまともな依頼が出来ないのも頷けるわ」 ミーユは目の前にしたものを見て、ため息を吐いた。 「ミーユ……どういう事だ……?」 クライスは真剣な眼差しでミーユを見据える。 「クライス?ここまで来ちゃったのは仕方ないけど、私はここの主に報告をすませないと報酬が貰えないの。貴方は不法侵入みたいになっちゃうからこのまま帰って」 「フッ……そういう事ならばいいだろう……。俺は引き続きアブソリュートゼロへの手がかりを探しに行く。この件の後処理は任せたぞ」 ミーユ訳:分かった。先に帰るね。 クライスと別れたミーユは、まずは門番の男の所へ向かい、この屋敷の主へ報告する為に謁見を申し出た。 門番の男は依頼を遂行したというミーユの顔を疑い深い目で見ながらも了承し、主の部屋へと案内する。 コンコン―― 「失礼します。酒場に出した依頼を終えたという傭兵が参りましたので、お通ししても宜しいでしょうか」 「構わん、入れ」 部屋へと通されたミーユは、まずは依頼書を主へと差し出し、更にひとつ、あの洞窟内で拾った物を手の平に乗せて見せた。 「それは……なんだね?」 不思議そうな顔をする主。 ミーユは臆することなく話を進める。 「人の骨です」 主の表情が明らかに曇ったのを、ミーユは見逃さなかった。 「ほ、ほぉ……なぜそんなものを?どこで見つけたのかね?」 「地下倉庫から繋がっている洞窟がありまして、その奥で見つけたんです」 「ど、洞窟!?」 「はい。ご存じないという事はないかと思います。その洞窟に繋がる壁が何度も補強されたように木の板が打ち付けられていましたから」 「…………」 「洞窟を進んでいくと、このお屋敷の井戸に繋がっていました」 「っ……!」 主の眉間にシワが寄る。 「井戸の真下に、このような骨が沢山落ちていました。何故かは解りませんが……」 ミーユは主の表情を見ながら、冷静に話を進めていく。 「わ、ワシは何も知らんぞ!!」 机を叩きながら取り乱す主。 ミーユは冷静に冷静に話を進める。 「そして、その亡骸がアンデッドとなっていました。私はそのアンデッドの魔物を討伐してきましたので、もうあの地下倉庫は安全だと思いますよ。あと、ネズミもいませんでしたので。依頼は達成したという事で良いでしょうか?」 最後にニコっと笑いながら、主を見下ろす。 「……わかった。報酬を払おう……」 額を汗で滲ませながら、主はそっと机の引き出しに手を掛ける。 「あ、でもアンデッドの退治は依頼にはございませんでしたので、追加でその……」 「わかった!!倍額払おう!それでいいか!?」 ミーユはニコっと笑ってからお辞儀をした。 「ありがとうございます!」 報酬の一部で大量のクレアシオンカカオを購入したミーユは、宿へと足を運ぶ。 あそこで貴族の悪を暴いた所で、きっと小さな自分達は貴族という大きな組織に葬られてしまう。 自分は小さい。 エムルを出てから、散々その事を痛感した。 だから、彼がいつか大きな力を手に入れるまで、私は彼をサポートしたい。 本当に手に入れられるかどうかなんて分らない。 『この世界のバベルとなる』 彼がいつも言っているその『バベル』というものが何だかは分らない。 それでも、彼には夢がある。 私にないものを沢山持っている。 そんな彼だからこそ、こんなにも愛おしく思うのだろう。 「ただいま!クライス?ちょっと外に出てて」 「なんだ?俺は今いにしえの古文書の解読が忙しいのだ。悪いが今は……ぐぁああ!!」 クライスのマントを引っ張り、無理矢理外へと追い出す。 「私はちょっと極秘でやらなければならない事があるの。2時間くらい外にいてくれるかしら?」 「何……!?ふん……なるほど……そういう事か。ククク……ミーユ。お前もついに盟約の儀式に手を出すのだな……。いいだろう!俺は外を散歩してくる。この街にもシュバルツカオスが迫っているかもしれないからな!」 何をどう勘違いしているのか、はたまたバレてしまったのか。 ミーユには判断が出来なかったが、何にせよクライスが外に出ていってくれた事にほっと胸を撫で下ろす。 彼は常人には理解が出来ない事を沢山口にする。 だからこそ、私が最高の理解者でありたい。 欲を言うなら、少しはああいう発言は控えて欲しいけれど、それを取ってしまったら彼でなくなってしまう気もする。 きっと、彼のそういう部分も含めて、好きになってしまったんだろう。 「それじゃあ!チョコ作り頑張りますか!」 これを作ればきっと言える。 この気持ちを伝えられる。 だからこそ、最高のチョコを作るんだ。 この街、いや、この世界で一番のチョコを。
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/494.html
+天真なる薔薇の剣聖ローズ 「Don t let your guard down」 (くれぐれも油断するなよ) 彼女の師である父は、試合に向かうローズの背に向かい言葉を投げかける。 ローズは振り返ると、心配する父に対して余裕の表情を見せた。 「No worries Daddy. I have no equal」 (大丈夫よパパ。私にライバルなんていないんだから) 幼い頃から剣の稽古をつけてくれた実の父が、この街ポートレアの剣聖と呼ばれているからこそ、その強気な発言が出て来る。 聞いた話によれば父は息子を欲しがっていたようだが、母との間に生まれてきたのは女の子。 最初は気を落としていたらしいが、女であれど最強の剣を振ることは出来ると考え直したらしい父は、英才教育とも言える稽古をローズがまだ3歳の頃から始めた。 その教育法が実を結んだのか、それとも剣聖の血のおかげかは分らないが、ローズは7歳という幼さで大の大人にも負けない程の剣を振るうまでに成長している。 「Well I m going now!」 (それじゃ、いってくるね!) 控室から勢い良く飛び出たローズは、大歓声に包まれる舞台へと駆け上がった。 360度、満員の観客で埋め尽くされたコロシアムの中心に立つと、目の前にいる男に視線を向ける。 ローズよりも随分年上の男は、眉間にシワを寄せて彼女を睨みつけていた。 体格も良く、その身体の殆どが筋肉で埋め尽くされているような大男は、観客の声援が目の前の少女に送られている事が面白くないらしい。 その苛立ちを表すかのように、競技用の剣を力強く握りしめる。 「Get set――」 (位置について――) 審判の男が両者を舞台の中央へと案内する。 上方を見上げると、いつも通り綺麗な海に数え切れない魚が泳いでいた。 遥か上空から光を射す太陽が、この海の底の街に幾度も光を屈折させながら青い光を届けている。 外界とは一切の交流を持たない海中都市、ポートレアでしか見ることが出来ない光景だ。 ローズはこの何百もの生き物が泳ぐ空が好きだった。 剣の稽古が辛い時、いつもこの空を見上げて過ごした。 あの辛さを乗り越えたのは、今この瞬間の為だったのかもしれないと考えながら、目線を対戦相手に戻す。 男は今にも飛びついてきそうなくらい、鼻息を荒くして前に進んでくる。 ローズは落ち着いてひとつ深呼吸をしてから、男とは対象的に静かに白線につま先を合わせた。 「Ready――」 (用意――) あれだけ慌ただしかった会場がしんと静まり返る。 審判が右手を宙に上げ、ピタリと止まった。 剣の切っ先を男に向けたローズは、ジッと相手を観察する。 (右足に体重が乗っている。ならば左から攻めてくる……) 「――Go!!」 (始め!!) 審判の腕が振り下ろされた瞬間に大きな鐘が鳴らされる。 戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。 「Stop!Stop!Stop!!」 (止め止め止め!!) 一瞬の出来事だった。 バタリと音を立てて倒れた男を横目に、ローズはゆっくりと白線へと戻る。 「It s all over」 (終わりよ) 審判が男へ駆け寄り様子を見ると、口から泡を吹きながら白目をむいていた。 恐らく、ローズに突っ込んだ男が腕を上げた瞬間、鳩尾(みぞおち)に一撃を入れられて呼吸が止まったのだろう。 あまりにも一瞬で勝敗がついてしまった事に観客は動揺を隠せないが、倒れ込んだ男はそれ以上戦える状態ではなかった。 審判は救護班を呼ぶように手で合図すると、ローズの元に寄り右腕を掴む。 「Winner …… Rose!!」 (勝者は……ローズ!!) その声を聞いて、どよめいていた会場が一斉に湧いた。 体格も年齢も性別ももろともせず、大の大男を一撃で沈めたのだから歓声が大きくなるのは仕方がない。 観衆の期待に答えたローズは、剣を腰に収めると足早に舞台を後にした。 観客の声援がまだ聞こえる控室の廊下に、父が腕を組んで待っている。 いつも通りすました笑顔で父に向かって手の平を差し出す。 父も手の平を出して、パシンと音が響いた。 「That s better」 (よくやったな) 父は満足気な顔をしながら腕を広げる。 「It s so easy」 (余裕余裕!) ローズはそれに答えるように父の大きな胸の中に飛び込んだ。 人から見れば剣技大会で突如現れた新星。 しかし、その正体はまだ歳7つの少女。 先程舞台に立っていた時の表情からは想像が出来ない無邪気な笑顔を、父の肩に目一杯押し付けた。 明日は決勝。 ローズの話題で溢れた街中を歩くのは気持ちが良い。 そこかしこで少女の顔を見ては手を振る人々。 右手を預ける父は、その空気が少し恥ずかしいようだった。 「Daddy! Hold your head high」 (パパ!もっと胸を張って歩いたら?) その声に苦笑いで返す父の気持ちはローズには良くわからない。 折角自慢出来る事なのに……とローズは頬を膨らませた。 父が剣聖となった時もこうして恥ずかしがっていたのだろうかと想像する。 彼が両手を上げて喜ぶ姿は人目のつかない所だと決まっていた。 ローズには見慣れたものだからこそ、それを見せない父に何かモヤモヤとしながら歩き続ける。 日も落ちかけた頃、煙突から暖かそうな湯気が立ち昇る屋根が見えた。 きっと母が明日に向けて腕によりをかけたご馳走を作っているのだろう。 丁度、お腹からも食べ物を催促するような音が聞こえている。 しかし、父から聞こえてきた言葉は、ローズに取って厳しいものだった。 「We ll go to offer up prayer first, and then we ll go to dinner」 (先にお祈りを済ませてきなさい。晩御飯はその後だ) 祈り。 父から剣を習い始めてから欠かしていない日課の一つ。 なんでも、剣の上達には精神の安定が必要だとか。 剣を始めたばかりの頃の、まだ幼いローズにはその意味が分からなかったが、今ではなんとなく解るような気がする。 いや、解ったような気になっているだけかもしれない。 なんにせよ、修行中の身である以上、父の言葉を信じて実行する以外に選択肢はなかった。 家のすぐ横にある断崖には、石畳の階段が伸びている。 その階段を一段一段登っていくと、断崖の頂上へと辿り着く。 ポートレアの街を一望できるこの場所は、ローズのお気に入りの場所だった。 少し丘のようになった頂上の真ん中には、大きなセチの木が堂々と根を張っている。 その下で目を閉じ、頭の中で自分の未来をイメージする。 これが父から教えられたお祈り。 ローズはいつもの様に祈りを始める。 もちろん、明日の大会で頂点にいる自分を頭いっぱいにイメージした。 溢れんばかりの大歓声。 この街の栄誉である剣技大会を制する自分。 横には自分の事のように喜ぶ父の姿。 無事に祈りを終えたローズは、セチの木の幹を背に街を眺めた。 空にはいつも通り、数え切れない魚が自由に泳いでいる。 ローズの夢。 この街を飛び出して世界を見たい。 いつか、そんな事を考えるようになった。 もちろん、父の元で剣の修業をする毎日も悪くない。 この街の剣聖として父の跡を継ぐ事が出来たなら、それは最高にハッピーな事だろう。 しかし、この広い海の外には、この街の何十倍、いや何百倍もの広大な世界が広がっているらしい。 そこには、自分より、もちろん父よりも強い剣術の使い手がいるだろう。 そんな相手と戦いたい。 そして、この名を世界中に轟かせたい。 しかし、それは叶わぬ夢。 ポートレアの街には昔から定められた掟がある。 一・決して街から出てはならない 一・外の世界の人間と会話をしてはならない この掟にポートレアの住人は生涯縛られている。 掟を破れば、どんな未来が待っているかなんて想像が出来ない。 それでも、いつかは街の外に出てみたい。 もっと自分の知らないものを見てみたい。 大きな世界へ。 いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。 空は昼間とは全く違う装いを見せ、夜行性の魚が少し不気味に泳ぎ始めている。 あれだけお腹が空いていた筈なのに、その日は何故かその空から目が離せない。 もしかしたら明日の大会への緊張なのだろうか……もしくは今日の戦果の興奮がまだ残っているからだろうか。 何故か、いつまでもその空を見ていたいような、そんな気持ちが足をこの場に留めている。 その時、何かがローズの目に止まった。 「what!?」 (えっ!?) 海の中に浮かんだそれは海洋生物ではなく、明らかに“人”の形をしていた。 生まれてからポートレアで暮らした7年間で、こんな光景は見たことがない。 誰かが外に出てしまったのだろうか……それとも外の世界の人なのだろうか……。 その人影に目を奪われる。 「……!!」 ローズからは小さく見えるその影を追っていると、ある事に気が付いた。 人影は、海を泳いでいるようには見えない。 力なく、ただ波に流されている。 「holy caw!!」 (なんなのよ!!) ローズは走り出す。 その影を目で追いながら、石畳の階段を駆け下り、街中を一直線に走っていく。 あのままではあの人は死んでしまうかもしれない。 いや、もう既に死んでしまっているかもしれないが……。 いつの間にか、ポートレアの街の端へ辿り着いていた。 目の前には、街と海を隔てる透明な壁。 壁の向こう側には、ローズの追っていた人影の背が先程よりも大きく見えている。 この壁の向こう側は、全く空気のない海なのだから、本当にもう死んでいるかもしれない。 それでも、放っておく事は出来ない。 しかし、この壁を越えれば街の掟に反する事になる。 罪人となる覚悟が7歳の少女に出来る訳もなかった。 誰か人を呼べないだろうか。 そう思い立ちあたりを見渡すが、ポートレアではこの壁に近付く人はあまりいない。 頻繁ではないにしろ、外から大きな魚が街の中に入り込んでくる事もあるこの壁は、基本的に近付く事すらも禁じられていたのだ。 ローズの視線の先に浮かぶ人影は、殆ど動いていない。 きっと、あの人は困っている。 もし意識があるとしたら、ローズを見ながら何故助けてくれないのだろうと考えるだろう。 その期待に答えないという事が、ローズには耐えられなかった。 もし、このまま見なかった事にして―― そんな事が出来る訳ない―― 「I don t care anymore!!」 (もう、どうにでもなっちゃえ!!) 意を決して壁に剣を振りかぶったローズ。 この先に何が待っているかなんて考える余裕はなかった。 今はただ、目の前の人を救いたい。 その気持ちがローズを支配している。 剣の先が壁を捉える。 すると、そこに何もないように、スルっと壁の中に入り込んだ。 「what!?」 (えっ!?) ローズの想像とは全く違う感触に、一瞬何が起こったのか分からなくなる。 そして次の瞬間、ローズの身体が壁に吸い込まれた。 「Nooo!!!」 (いやぁああ!!) そのまま彼女は海へと投げ出された。 自分に何が起こっているのかは分からないが、壁の外に出た。 という事は、あの人に手が届くかもしれない。 ローズは後ろを振り向かず、顔を前に向けた。 先程まであれだけ小さかった影だが、気がつけば随分と近くにある。 その人物が少年だと認識できる程に。 「whatever happens, I will help you!!」 (絶対助けるから!!) 水中で声は出せないが、心の中で叫ぶ。 必死に泳ぐローズ。 彼との距離が縮まっていく。 10m―― 5m―― 1m―― 「Just a little more ……!!」 (あとちょっと……!!) 波に揺られる男に必死に手を伸ばす。 もう息も限界に近い。 それでも、諦める訳にはいかない。 必ず彼を助ける。 そして、ローズの手に布の感触が届く。 身体を引き寄せて、少年の肩を掴む。 まだ体温がある。 必死に肩を揺らして意識を確かめる。 黒髪の少年は、ローズと同じ歳か、少し上ぐらいに見える。 その顔に見覚えがない事と、ポートレアの人々とは顔立ちが違う事から、外の世界から来たのだと確信した。 つまり、これは掟に抵触する問題をもう一つ抱えてしまうかもしれない。 外の世界の人間に触れてしまった訳だから。 そんな不安を覚えた瞬間、ほんの少し、彼の目が開いたように見えた。 「still alive……」 (まだ生きてる……) そのまま少年の腕を肩に回し、引き返そうと身体を反転させる。 ポートレアに戻るまで、息が持つかどうかの戦い。 力を入れて泳ぎ始めるが、一人の時と意識のない人間を引っ張るのは訳が違う。 上手く進むことが出来ず、傍から見ればかなり不格好な泳ぎ方をしていそうだ。 だが、今はそんな事を気にしている余裕はない。 死に物狂いで壁の中に戻らなければ、このまま2人共死んでしまう。 もう肺に空気がある気がしない。 歯を食いしばり、足を動かす。 あと数メートル。 僅かな希望が、もうすぐ現実となる。 もう少しで……。 その時―― ローズの身体が急に方向を変える。 彼女の意志ではない。 それが、突然やってきた潮の流れだという事に気付く事が出来なかった。 「――!!!」 荒波に飲み込まれながら、ローズの意識は途切れていく。 最後に見えたのは、彼女から離れていく少年の姿だった。 ―――――― ―――― ―― 「お嬢ちゃん!お嬢ちゃん!!」 声が聞こえる。 誰の声だろうか。 聞き覚えのない声。 「おい!しっかりしろって!!」 何を言っているかは分からない。 まるで魔法の呪文のように聞こえる。 もしかしたら自分は何か悪い魔女に捕まって、呪いを掛けられているのではないだろうか。 「おい!!ちょっと目が開いたぞ!?」 一体自分の身の回りで何が起きているのだろうか。 もしかしたら、街の誰かに助けられて、外に出た罪で呪いを掛けられているのかもしれない。 そうだ、私は街の外に出てしまったんだ。 あの少年を助ける為に……。 「本当か!?おい!!水もってこい!!」 剣技大会はどうなったのだろうか……。 きっと自分はもう戦うことが出来ない。 父の残念そうな顔が浮かんでくる。 父は……母は……どうしているのだろうか……。 「おい!名前は!?大丈夫か!?」 確か、母が夕飯の準備をしていた。 そうだ……家に戻らないと。 早く、起きないと……。 「おい!まだ起きちゃだめだ!意識はあるのか?水を飲んで!お嬢ちゃん名前は?」 混濁する意識が徐々に覚醒していく。 ローズの視界に入ってきたのは―― (なにこれ……?ここはどこ?空に海がない……異世界……?) 一度ぎゅっと目を瞑った後、もう一度ゆっくりと瞼を上げる。 ローズの頭上に広がる空は、ポートレアで見慣れた青い海では無く、吸い込まれそうな青空だった。 「お嬢ちゃん!?まだ頭がこんがらがってるのか?海に浮かんでる所を俺達が引き上げたんだ。どこから来たんだ?」 (嘘……!?何これ!?っていうか、誰!?何を言ってるの!?) ローズを心配そうに見つめる複数の男達。 しかし、その言葉がローズには分からない。 「とりあえず水飲んどけ!落ち着くと思うぞ」 差し出されたコップのような物には、水だろうか、液体が入っている。 ポートレアのガラスは全て赤みがかっているのに対し、男が差し出して来たコップは無色透明。 ローズは、不安を感じつつも、差し出されたものを受け取った。 恐る恐る匂いを嗅いでみる。 ただの水のように見えるが、ほんの少し香りが違う。 しかし、カラカラの喉を潤す事ができるのであればと、少量を口に含んだ。 「おぉ……飲んだぞ。そうだ、ゆっくり飲め……」 男達は尚も心配そうに少女を見守っている。 (何これ……全然味が違う……美味しい……!!) 確かにそれは水なのだが、ローズの記憶の中にある水とは随分と違った。 あまりもの口当たりの良さに、一気に飲み干す。 「おいおい!ゆっくりって言ったのに……」 空になったコップを手に持ち改めて周りを見渡すと、心の中でモヤモヤしていたものがハッキリとしてくる。 (この人達は絶対にポートレアの人じゃない。全然言葉が分からないし、身につけている物も全然違う。一回落ち着いて……) すぐ横には、木と鉄で作られた大きな物が大量の水の上に浮かんでいる。 それが船であるという事が、見たことのないローズには分からない。 どこまでも無限に続いているような水平線を眺めながら、やはりここが外の世界なのだと確信する。 反対側を見る。 沢山の人が闊歩する街が見える。 やはり見た事がない建物。 (外の世界……私、ポートレアの外に来ちゃったんだ……えっ……それって……) 段々とハッキリ思考できるようになってきた。 自分が今置かれている状況。 それはポートレアの掟を破ってしまっている。 一・決して街から出てはならない 一・外の世界の人間と会話をしてはならない (いや、待って、まだこの人達とは喋ってない……!喋っちゃいけない!ここから逃げないと……。逃げないと……!!!!) ローズは立ち上がった。 どこに逃げるかは分からない。 海の中に潜ればポートレアに着くのだろうか……。 いや、まずはこの異世界人から逃げる事が先決。 きっと……何か策はある。 だから今は……。 「おい!お嬢ちゃん!?どこ行くんだ!?」 ローズは走り出した。 男達を背に、全力で足を動かす。 (これ以上罪を犯しちゃいけない!!ポートレアに戻る方法を一人で探さないと……!) 「待てって!!おい!!」 後ろから聞こえる男の声が、段々と遠くなっていく。 父に鍛えられた足腰がこんな所で役に立つとはと、ローズは不思議な高揚感を覚えた。 地理なんて全く分からないが、男達の視界から逃れる為に街中へと入っていく。 細い路地を右へ左へ。 迷路のような路地を小さな少女が駆け回る。 「おーい!お嬢ちゃん!どこ行った!?」 男達の声は聞こえるが、もう大分離れたようだ。 一度呼吸を整える為に体勢を低くしながら様子を伺う。 ふと横を見ると、大きな木箱が乱雑に置かれた倉庫のような場所があった。 (ここに隠れればやり過ごせそう……) ローズは倉庫の中に入ると、フタの開いた大きな木箱の中に身を隠す。 「くそっ!見失った……。おい!お前はあっちを探せ!俺は向こうを探す!」 バタバタと男のものであろう足音が近くを通ったが、すぐにそれも聞こえなくなった。 ローズは荒くなった息を整える。 ここはどこなのだろうか。 ポートレアには戻る事が出来るのだろうか。 両親は今頃自分の事を心配して探し回っているだろうか。 色々な疑問、不安、これからの事を考えていると、倉庫の中に誰かが入ってくる足音が聞こえた。 (見つかる……!) 出来るだけ体勢を低くして、木箱の下に敷かれていた藁の中に潜り込むように身を隠す。 藁の中から、本が数冊出て来る。 ただ、今はそんな事を気にしている場合ではない。 木の板と板の隙間から外の様子を伺うと、先程追われていた男達とは別の男達が数人、倉庫の中に入ってきていた。 「よーし、さっさと済ましちまおう!片っ端から馬車に詰むぞ!」 男の一人が何かを言うと、周りの木箱が次々と運ばれていく。 (まずい……!見つかる……!!) 男達に聞こえてしまうのではないかと思うほど心臓の音がやけに大きく感じながら、ローズは出来るだけ姿勢を低くし、藁で身体を覆った。 その瞬間に、木箱が傾いたかと思うと男の声が聞こえる。 「なんだこれ!?重てぇなちくしょう……。おい!手ぇ貸せ!」 (見つかった!?この状態じゃ逃げようがない……。飛び出したとして勝てるのかな……?) 腰の剣に手をかけて、その瞬間に備える。 しかし、事態はローズの思わぬ方向へと進んでしまう。 ガンッ……ガンッ……ガンッ…… 木箱全体が大きく揺れる。 何が起こっているのだろうかと思い、出来るだけ動かないように藁の隙間から上を見てみると、開いていた筈の木箱に蓋がされている。 (えっ!?) ガンッ……ガンッ……ガンッ…… (閉じ込められた!?) どうやら木箱の蓋を釘で打ち付けているようだ。 完全に退路を失ったローズは何をする事もなく、呆然とそこにいる事しか出来なかった。 「よっしゃ!行くぞ?せーのっ!」 木箱全体が大きく傾く。 そして、人の手によって運ばれていく揺れが始まる。 「No……!」 (いやっ……!) 思わず声が漏れた。 はっと気が付いて急いで口を両手で塞ぐ。 「なんだ?何か聞こえなかったか?」 「馬鹿野郎!中身がなんだって俺達が知ったこっちゃねぇ!変な事に首突っ込むと明日の飯が食えなくなんぞ!」 男達の声が聞こえているが、やはり何を言っているのか分からない。 揺れる木箱の中、身を縮めている事しかできない。 ゴトン……。 乱暴に木箱はどこかに運ばれたようだ。 ローズは息を潜めて、木箱の隙間から外の様子を見てみる。 先程走り回った街並みと、複数の男達が何か作業をしているように見えた。 「よーし、これで最後だ。さっさと出発するぞ!」 髭面の男が何か声を発すると、周りに居た男達がこちらに向かってくる。 ローズはとっさに姿勢を低くして、息を殺す。 やがて、馬の鳴き声が聞こえると、木箱は静かに揺れ始める。 馬車だろうか、車輪が路面を転がるような振動が伝わってきた。 (このまま……私……どうなるの……) もしかしたらこの木箱に閉じ込められたまま二度と外には出られないかもしれない。 そんな不安を共に膝を抱え込み、ローズはただ成り行きに身を任せる他なかった。 木箱の中の本を開いて見ると、全く読めない文字が並んでいる。 言葉は違っても文字は同じかもしれないというローズの淡い期待は、泡のように消えていった。 やがて、馬車の車輪が小石を踏むようになった。 整備された石畳から、あぜ道に入ったような、そんな感じだ。 もう何時間経っただろうか。 うっすらと木箱の中に入ってくる日の光りがオレンジ色に染まっていく。 グゥ――。 ローズの腹部から食べ物を要求するような音が響いてくる。 そう言えば、あの剣技大会の前から何も食べていない。 (お父さん……お母さん……) 家族の顔が頭に浮かんでくる。 自然と涙が溢れてきた。 (助けて……私が悪かったから……) ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、膝を抱えて故郷を思い出す。 そのまま、いつの間にか眠ってしまった。 ―――――― ―――― ―― 目を開けると、ポートレアの街が眼下に広がっている。 自分は海の中にいるのだろうか……ふわふわと浮いているような感覚。 その街中に、見覚えのある少女が一人。 (私!?) 少女は街の壁へと向かい走っていく。 目線の先は……壁の外に浮いている少年。 (だめ!そっちに行っちゃだめ!!) ローズの声は少女に届いているだろうか。 水の中でうまく声が出ていないのか。 それともそもそも声を出せていないのか。 少女は壁の前に立つと、剣を壁に向けて振った。 (ダメ――!!) ガタッ―― 突然、木箱に衝撃が走る。 驚いて目を開くローズ。 どうやら、夢を見ていたようだ。 何か動きがあったのだろうか。 兎に角、今は自分の状況を確かめなくてはならない。 急いで木箱の隙間に顔を近づける。 目に飛び込んできたのは広い室内。 赤い絨毯が広げられた、居間のような場所。 壁には何かの動物の剥製だろうか、頭から威厳のある角が天井に向かい伸びている。 室内には人影が2つ。 小太りの男と、木箱に閉じ込められた時に見た髭面の男が何やら話をしているようだ。 「思ったよりも早かったな。マリーヴィアはきっちり仕事をする人間が多くて助かるよ」 「ははは!たまたま他の仕事がなかっただけだよ!まぁ、それでも特急便で来たけどな!」 「わかった。これが報酬だ。足りるかね?」 「どれ、おぉ!ありがてぇ!」 「いい仕事には相応の報酬があるべきだ」 小太りの男が重たそうな袋を渡すと、中身を確認した髭面の男は笑顔で振り返る。 「おめぇら!帰るぞ!」 やがて、髭面の男はいなくなり、外から馬車が動き出す音が聞こえてきた。 小太りの男は、ローズの閉じ込められている木箱の方へ近付いてくる。 そして、鉄の棒を持ち出すと、すぐ横の木箱を開封していく。 (もう……無理だよ……見つかっちゃう……) 見つかればどうなるのだろうか。 あの鉄の棒で殴られるのだろうか。 心臓が飛び出しそうな程、バクバクと音を立てている。 想像はどんどん悪い方向に進んでいき、ここで人生が終わるのではないかと嫌な汗が流れた。 そしてついに、ローズの入った箱に男が手を掛けた。 ガッ……ガッ……ガッ…… 上部から明かりが漏れてきた。 木のクズがパラパラとローズの上に振ってくる。 (もう……ダメ……!!) ガコンッ―― 最後の砦であった釘が抜かれた音がしたかと思うと、木箱を塞いでいた蓋が一気に開かれた。 ローズはここまでかと目をぎゅっと瞑り、これから起こるであろう何かに覚悟をする。 「うぉおおおおお!!!」 部屋の中に響く男性の声。 ローズに気が付いたのは間違いない。 「だだだだ……誰だお前……!!」 あまりにも驚いたのか、男性は後方に倒れ込み尻もちを付いていた。 木箱から少し離れた場所から声が聞こえる。 ローズはガタガタと震えながら身体を小さく丸める。 これまで感じた事のないような恐怖が彼女を支配する。 どれくらいの時間が経っただろうか。 ほんの数秒のような……数時間のような……。 ローズには途方もなく長い時間に思えた。 足音が聞こえる。 男のものだろう。 まだローズは動けずにいる。 足音が止まった。 それもローズの頭のすぐ近くで。 「お、女の子……?」 (殺すなら早く殺せばいいのに……!!) 恐怖から頭がおかしくなりそうだった。 「お嬢ちゃん……何をしているんだい……?」 男が発した言葉の意味は分からない。 それでも、どこか、優しさがあるような、そんな声だった。 父の声が重なる。 時に厳しくも、優しかった、父の顔が浮かぶ。 「どうしたんだい……?なんでこんな所に……」 ローズはゆっくりと目を開く。 不思議と、その男は悪い人間ではないと直感できた。 もしかしたら、この男なら、助けてくれるかもしれない。 そんな気持ちになれる、不思議な声。 「出ておいで。ほら、大丈夫だから……」 男は手に持っていた鉄の棒を地面に置いて、両手の平をローズに見せて敵意のない事を伝えようとしているようだ。 ローズはゆっくりと起き上がる。 (もしかしたら……) 「I have lost our way ……」 (私……迷ってしまって……) その声を聞いた男は驚いた様子だった。 「どこの言葉だ?君はどこから来た?」 「I m in trouble Please help me! I want to go Portrea」 (助けて下さい!私はポートレアに帰りたいんです!) 必死に伝えようとするが、やはり言葉は伝わっていないようだ。 男は困惑した表情を見せる。 「うーむ……どうしたものか……」 「I m …… I m …… 」 (私……私……) 身振り手振りで必死に何か伝えようとしてみるが、何をどうすればいいのかが分からない。 そうしている内に、涙が溢れてくる。 「お嬢ちゃん!泣かないでおくれ!おじさんは何もしないから!大丈夫だよ!」 男はポケットからハンカチを出してローズの涙を拭き取る。 ローズは、その手から、また不思議な優しさを感じる。 そして、何かが途切れたように、一気に感情が吹き出した。 「UUUuuWAAAAAAAAAAA!!!!」 (うわぁあああああ!!!!) 男の胸に飛びついて、大声を出して泣きわめくローズ。 ここまでずっと我慢していた感情が、津波のように押し寄せる。 「おぉ……どうしたんだい?まったく、怖い思いをしたのかい?」 男は困った表情を浮かべたが、目の前で泣きじゃくる少女は言葉こそ通じないものの、一人の少女には変わりないと考えた。 そのまま背中をさすり、落ち着くのを待つことにする。 流せるだけの涙を流した。 出せるだけの声も出した。 何も見えない暗い洞窟の中で見つけた一筋の光のような。 凍える夜を温める小さな焚き火のような。 ローズにとって、その男の存在はとても大きなものに感じた。 「もう落ち着いたかい?」 どのくらいそうしていただろう。 鼻をぐしゅぐしゅと言わせているが、涙は止まった。 あれほどバクバクしていた心臓も、今は穏やかに動いている。 グゥ――。 その時、ローズのお腹から音が鳴る。 「はっは!腹減ってるのか?分かった!ご飯にしよう!こっちにおいで!」 男に手を引かれるままに、ローズは歩いて行く。 ドアをひとつ、ふたつ潜ると、大きな暖炉のある部屋に付いた。 「ここに座って。さぁ」 男が部屋の真ん中にあるテーブルの椅子をひとつ引くと、手で少女を招く仕草をする。 ローズはそこにちょこんと座った。 やがて、男が料理を持ってやってきた。 テーブルに並べられたものは見たこともないものばかり。 しかし、そこから漂ってくるとても良い匂いは、ローズの空腹を刺激する。 「どうぞ。食べなさい」 男は笑顔でフォークを渡す。 ローズは少し躊躇するが、それを受け取ると久しぶりの食事にありついた。 男は部屋を与えてくれた。 倉庫のような場所だったが、長年使っていないであろうベッドがあり、ローズはそこで生活をするようになる。 昼間、男は仕事に出ていた。 その間、ローズは広い家の中の掃除、洗濯をしながら男の帰りを待つ。 そして夜には、テーブルに座り、男に言葉を教えて貰った。 紙に絵を描き、男が声で発音をする。 それを真似する事で、徐々に言葉を覚えていった。 もちろん、ローズがどうしてここに来てしまったのかという事も絵で説明しようと努力をした。 長い時間が掛かったが、男はローズの事を理解していく。 その中で、名前を教えて欲しいと男は言った。 何を聞かれているのかを理解するのに時間が掛かったが、身振り手振りでなんとかその意味を理解する。 「Rose …… My name is Rose …… 」 (ローズ…… 名前はローズ……) しかし、それを伝えた瞬間、男の顔が曇った。 「ローズ……か……。そいつは困ったな……」 この時ローズには、男が何を考え、何を思っているのかが分からなかった。 ――そして4年の月日が流れた 「オジサン!おはようございます!」 朝食の準備を終えた所で、男がキッチンへと入ってくる。 ローズは、男が根気よく教えた言葉を大分使えるようになっていた。 手慣れた様子で焼いた卵を皿に乗せ、男へと差し出す。 「これをdining table(ダイニングテーブル)に 持っていってくれマスカ?ワタシはスープを用意シマス!」 ここの生活にも大分慣れていた。 ローズの仕事は掃除、洗濯、炊事。 男もローズの働きに満足しているようで、まるで我が子のように可愛がって育てている。 「ありがとうローズ。この奇妙な料理はなんて言ったか……スクランベル……?」 「Scrambled eggs(スクランブルエッグ)デス! なんでこんなに美味しいものがないのかワカリマセン!」 ポートレアで当たり前のように食べていたものが、この大陸には存在しないものだと知った時は、大きな衝撃を受けた。 この大陸の文化も学びながら、ポートレアにあった文化を教えるようになり、こうして料理を振る舞ったりもしている。 「ローズ。今日はちょっと話があるんだ」 食事を終えた後、男はおもむろに話し始めた。 「アタラマッテどうしたんデスカ?」 「“改まって”だよ。うん、それで本題なんだが……」 いつになく真剣な表情になった男に、ローズにもこれから話される事が重要な事だと理解する。 「その、名前なんだがな、この街には決まりがあって、12歳で仮名から正式な名前が与えられるんだ」 「名前……?それって……」 「もうすぐ、『花授式』がある。そこで今年12歳になる子どもが花を授けられるんだ。その花の名が自分の名となる。お前はもう殆ど私の子のようなものだ。この街で生きていく上でも、花授式に出てもらおうと思ってな」 『花授式』。 この街、花園の都ラキラで毎年行われる由緒ある式典。 その年に満十二歳を迎える子供達は、皆この式典に出席し、それぞれ花を冠した名前を授けられる。 遥か昔、ラキラという名の太陽の力を持つ魔女がこの地を蘇らせた時から始まったと言われる伝統だ。 その花は、この街で生まれ、成人を迎えた証であり、生涯を通し自身の名とする。 そして、名となった花を一輪、身に着けて生きていくという掟。 拒めば、神聖なる教えに背いたとされ罰せられるという厳しいものではあるが、街の人間は誰しもが神に賜る大切なものとして感謝している。 「名前が変わる……?でもワタシはローズという名前デス!」 父と母に貰った大切な名前。 その名を変えるなんて、考える事が出来ない。 「確かに、お前がそう言いたい気持ちも分かるが……街の掟なんだよ。それにローズという花がない事もないのだが……」 男の歯切れが悪い。 「何が言いたいデスカ!?」 「その、ローズという名は、代々ラキラの剣聖が受け継いでいる名でな、その家の者しか受け取れないのだよ」 「What did you say!?」 (どういう事!?) 「掟に習って、名を付けて貰えばいいじゃないか。もちろん、この大陸にいる間その名を名乗ればいい。故郷のポートレアに戻ったらローズの名に戻せばそれで……」 「そんなのイヤ!!」 2人の話は平行線を辿る事になる。 両親がくれた名前を変えるなんて絶対に出来ない。 もし、それをしてしまったら、ポートレアを本当に捨てた事になるようなそんな気がした。 「ダメだ!花授式には出て貰う!これは絶対だ!」 「もう!オジサン嫌いデス!!」 ローズは頬を膨らませたまま、部屋に閉じ篭もる。 「名前を変えるなんて絶対無理デス!!」 一人、枕に顔を埋めたまま、足をバタバタとさせる。 やりどころのない何かへの怒りを必死に静めようとした。 それから数日間、男とローズの間には深い深い溝ができていた。 必要以上の会話はなく、笑顔を見せる事もない。 どことなく気まずいのは両者共なのだろうが、ローズからすれば自分が我儘を言ってしまった事が原因であると考え、謝るきっかけを探していた。 しかし、自分の名をどうするのかという問題は、まだ整理できずにいる。 名前が変わったとしても人が変わる訳でもなく、そもそも名前というのは単なる識別記号なのだから、それが変わろうと何も問題はないと考える反面、名前が変われば自分が自分でなくなってしまうような、そんな気がするのだ。 ローズは屋敷の庭にある大きなセチの木の下にやってきた。 少し種類は違うような気もするが、この木が実らせる果実はポートレアのものと同じ味わい。 そして、あの日のポートレアとこの木が繋がっているような気がした。 だから、毎日のように、ここで祈りを続けている。 この数日、木の下で瞳を閉じるものの、自分の未来がぼやけていた。 どのようになりたいのか……。 名を変えてラキラの街で過ごす未来なのか、それとも街を飛び出すのか。 しかし飛び出してしまえば、この4年間、実の娘のように育ててくれたおじさんに申し訳が立たない。 それは恩知らずにも程があるだろう。 父の顔が浮かんでくる。 あの父ならなんというだろうか。 何時間、そこに居ただろうか。 ふと、耳におじさんの声が届く。 「ローズ!こんな所で何やってるんだ!?ずぶ濡れじゃないか!」 強い雨が降ってきていた事に気が付かなかった。 服の袖から雨水が滴り落ちる程の豪雨。 「早く家に入りなさい!」 少し怒っているような男の声。 ローズはぼーっとしていた。 「ワタシ、ちょっと疲れてシマイマシタ。今日はもう寝マス……」 そのまま自分の部屋へとふらふら歩いていくローズ。 部屋へ入るとベッドに倒れ込み、そのまま眠りについた。 次の日―― ズキズキとした頭の痛みで目を覚ました。 何がどうなって今に至るのか、ハッキリと思い出せない。 「朝ゴハン……作らないとデス……」 起き上がると、ふらふらとキッチンへ向かう。 ドアを開けるとおじさんが机の上で何かを食べていた。 「あれ……ごめんなサイ……今……何時デスカ……」 ぼーっとする頭を起こすために額に手をやる。 「もう昼過ぎだ。一体どうしたって言う……おい!どうした!?お前大丈夫か……?」 ローズの顔を見た男は、顔色を変えて椅子から立ち上がるとズカズカと近付いてくる。 「どうしたンデスカ?」 「顔が真っ赤じゃないか……っ!!ひどい熱だ……お前、昨日濡れたままで寝ただろう?」 「え……あぁ……はい……」 「いいから休め!全く……」 ローズは高熱を出していた。 そのままその日はベッドの上で過ごす事になる。 久しぶりにおじさんの作った食事を食べた。 あの、暖かい味。 「こっちです!……ローズ大丈夫か?術士の先生を呼んできたから診て貰え」 やはり、暖かい声。 涙が溢れてくる。 (おじさんにこんなに良くして貰っているのに、私は何で反抗するような事をしていたの?本当にバカ……) 数日後―― 「おはよう!おじさん!ご飯は出来てマスから、早く席について下サイ!」 寝込んでいたのが嘘かのように、すっかり元気を取り戻したローズの姿があった。 男はその声のトーンにびっくりした様子だったが、すぐに安心したような笑顔を見せて言われた通りに席に着く。 「ワタシ、花授式に行きマス!」 満面の笑みで詰め寄るように言い放つローズ。 「そうか……わかった!では申請をしておくよ。ありがとう。辛い決断だっただろう」 「良いんデス!意地を張ってマシタ……ごめんなサイ……」 「いや、良いんだ。さぁ、早くご飯を食べないと冷めてしまうよ」 屋敷の空気が数日振りに暖かさを取り戻す。 ローズも上機嫌で食卓へと着いた。 花授式当日―― 「緊張してるのか?」 男の隣を歩くローズは、何か少しぎこちない足取りだった。 「No、No……そんな事ないデスヨ」 笑顔を見せるローズだが、その表情もどこか不自然だった。 花授式に参加する事を決心したローズだったが、やはり自分の名が変わるという事には両親への後ろめたさがある。 どうにかこの気持ちに折り合いをつけようと数日間努力してみたが、やはりどうする事もできなかった。 そして、そのまま当日を迎えてしまったのだから、足が重いのは致し方ない。 ローズの心は晴れる事のないまま、街のシンボルでもある聖花教会までやってきた。 花授式が行われる神聖な場所であり、代々最高権威者の一族として街を収めるラキラ家の敷地。 教会へと上がる階段には兵士が両側に列を作り、重々しい雰囲気が立ち込めていた。 中へ入ると、ローズと歳の変わらなそうな少年少女が数十人。 皆、席に座り式典の開催を待っている。 「さぁ、もう始まってしまう。あの子の隣に座りなさい」 促されるままに席に着くローズ。 この雰囲気が落ち着かないというのもあるが、それ以上に心の葛藤が煩くて周りを見る余裕もなかった。 「では、ただいまより花授式を始めます。皆様、ご起立を」 大司教であろう、偉そうな帽子を被った男が宣言すると、一斉に心地よいパイプオルガンが会場に鳴り響く。 子ども達の前に兵士が並び、一人ずつ手を取り最奥部の祭壇に座る大司教の元へと連れて行かれる。 何やら少し話した後、花を手渡され、席へと戻っていく。 そんな中、他の子達を見ている余裕がないローズ。 頬に汗が流れ、まるで生きた心地がしない。 大切な物を、もうすぐ失ってしまう……そんな感覚が心を支配する。 「大丈夫ですか?」 ふと、隣に座っていた少女が声を掛けてきて、はっと我に帰ったローズ。 よほどひどい顔をしていたのだろうか、隣の少女は心配そうに見つめている。 「うん……大丈夫……デス……」 「あまり大丈夫そうに見えませんけど……そうだ、ちょっと手を貸して下さい」 ローズは言われるがまま手を出すと、少女は不思議な光をローズの手に放つ。 「これで大丈夫ですよ」 光が収まると、不思議と身体が軽くなっていく。 身体の奥が暖まるような、不思議な感覚。 「一体、何をしたんデスカ?」 「私、少し薬草の知識があるんです」 緑の長い髪を揺らしながら、少女は微笑む。 その笑顔から、何故か、同じ歳の筈の少女に母の顔が重なった。 「ありがとう……デス……」 (やっぱり……私は……) 気がつけば、先程まで感じていた不安がどこかにいってしまっていた。 その変わりに、強い気持ちが胸の中に湧いていた。 「君の番だ。付いてきなさい」 隣の緑髪の少女が兵士の手を取り歩いて行く。 それまで全く式典に集中出来ていなかったローズだが、どのように名前が決められるのか、見ておかなくてはいけないと考えて少女を目で追った。 祭壇まで歩いた少女は、兵士に誘導されて一人で大司教の前に立つ。 祭壇の横には、数人の偉そうな人達が祭壇の様子を見守っているようだ。 大司教の前に緑髪の少女が立つと、大司教は少女の頭の上に手を置いた。 「ふむ……なるほど……」 大司教が、何をしているのかは分からないが、何かを感じ取ったように手を離すと、横に置かれた大きな机の前に歩いて行く。 机の上に大量に置かれた花の中から、一輪の花を選ぶと、再び少女の前にゆっくりと歩いてきた。 そして、一呼吸置くと……。 「そなたの名は……アマナ。この花を生涯、大切に身につけるように」 そう言い渡すと、少女に花を手渡した。 緑髪の少女は花を受け取ると一礼し、踵を返して祭壇に背を向ける。 横にいる数人が疎らな拍手を送ると、兵士に誘導されて元の席へと戻ってくるようだ。 「付いてきなさい」 ローズの元に、違う兵士が手を差し伸べてきた。 立ち上がったローズはその手を取り、緑髪の少女に習って兵士の横を歩く。 祭壇の前にやってくると、大司教の顔を一瞥すると目が合ったので、軽くお辞儀をした。 「さぁ、大司教様の前へ」 兵士が小声で伝えてくる。 言われた通り、祭壇へとゆっくり歩いて行く。 (覚悟は出来た。おじさんには少し迷惑かけるかもしれないけど、やっぱり私は……!) 大司教がローズの頭の上に手を置くと、静かに目を閉じた。 十数秒……大司教は目を開いてローズの目を直視する。 「ふむ……なるほど……」 先程と同じように、花が並べられた机へと向かい、一輪の花を手に戻ってくる大司教。 その花は、複雑な形の紫がかった青の花びらをつけた、幻想的な花。 「そなたの名は……アヤメ。この花を生涯、大切に身につけるように」 大司教がアヤメの花を手渡そうとした時、ローズは声を上げた。 (おじさん、ごめんね!) 「待って下サイ!!ワタシはローズの名前が欲しいデス!」 会場は騒然とした空気に包まれる。 こんな事は前代未聞なのだろう。 それでも、ローズは負けない。 「ローズが花の剣聖の名だという事は知っていマス!それでも、ワタシはローズの名前が欲しいデス!」 一人の兵士が、ローズの肩を掴む。 「何を言ってるんだ君は!大司教様が与えてくれた名の何が不満だと……」 そこまで言うと、甲高い声が会場に響き渡る。 それは、とても幼い少女の声だった。 「面白いじゃない!ずっとつまらない式だったけど、我慢してて良かったわ!」 声の出処を探ると、祭壇の横に並んだ偉そうな人達の中から、小さな子どもがひょいと姿を現した。 「リリア様!いけません!」 近くにいた兵士がすぐに少女を止めに入る。 「うるさいわね!黙ってなさい!この姫の言うことが聞けないのかしら!」 「しかし……!!」 兵士は大の大人だというのに、この小さな少女に圧倒されているように見える。 少女はグイグイと祭壇の前に歩いてきた。 近くに来ると、ローズよりも随分と小さい。 まだ4、5歳くらいに見えるリリアと呼ばれた少女は、大司教に向かい大きな声を上げる。 「お父様!この女とラキラの剣聖、どちらがその名を取るに相応しいか決闘をさせましょう!!」 「リリア……何を言っているそんな事は……」 大司教は少女の突然の打診にうろたえているようだ。 「ワタシは構いまセンヨ!」 ローズは強気に大司教へ詰め寄る。 剣の腕には自信があった。 あの父に教えこまれた剣が、負けるわけがない。 「しかし……」 「面白いじゃないですか。構いません。その勝負、受けましょう」 また、違う所から声が飛んできた。 横の偉そうな人達の中から、腰に剣を差した女性。 「ローズ!!いけません!そんな事は……!」 大司教はまだ納得していない。 「そのチビちゃんが私に勝てたら名をあげる。私に負けたらその花の名になる。それのどこが悪いというの?それとも何?私が負けるとでも?」 「それは……」 リリアが間髪入れずに大きな声をあげる。 「決まりね!さぁ、皆の者、準備をなさい!闘技大会を開いている会場を使うのよ!今すぐよ!」 兵士は顔を見合わせていた。 大司教は、深い溜め息を吐いたあと、頭を上げて宣言をする。 「皆様、聞いての通りです。式典は一度中断させて頂きます」 ――闘技大会場 年に数度、闘技の大会が行われているこの場所に、二つの影が並ぶ。 花の香りが吹き抜ける中、ラキラの歴史でも類を見ない決闘が始まろうとしていた。 審判を務めるのは大司教の家に仕えるリリアの指南役。 決闘をひと目見ようと集まった野次馬が2人を囲んでいた。 ローズがポートレアでの大会を思い出すのは必然の環境。 あの時と違うのは、空を見上げても海がない事。 今ではすっかり慣れてしまった雲の浮かぶ空を眺めていた。 (私は、私だから……お父さん……) 剣を教えてくれた父の顔が浮かぶ。 ラキラの街で暮らすようになってからも、一人剣の鍛錬は積んでいた。 負ける訳にはいかない。 「真剣で戦わせる訳にはいかない。両者ともこれを……」 審判が手渡してきたのは木で作られた剣。 さすがに血を流す訳にはいかないのだろう。 しかし、木剣を受け取ったローズはその感触に違和感を覚えた。 いつも使っている剣よりも、随分重いのだ。 (こんな剣じゃ……戦えないよ……) 焦るローズ。 手に持った剣は、刃の部分が太く作られていた。 ローズが扱い慣れた剣は、刺突をメインとする細剣。 扱い方が明らかに違う木剣を手に、使いこなせる自信がない。 「ちょっとだけ待って貰えマスカ!?」 ローズは審判に剣を渡して周りを見渡す。 「どうした?早く剣を持ちなさい」 「これじゃ……これじゃダメなんデス!」 花の剣聖は、ローズを見下しながら笑みを浮かべる。 「お嬢さん、さっきまでの威勢はどこへいったの?まさか、怖気づいた訳じゃないわよね?」 「ワタシはベストを尽くしたいデス!」 ふと、ローズの視界にある物が飛び込んできた。 野次馬の一人である老人が持っていた片手杖。 足が悪い人の歩行を補助する為の物だろう。 その杖は、太さといい、長さといい、ローズの使い慣れた剣によく似ていた。 「おじいさん!これ貸してくだサイ!」 走ってきたローズに、老人は面を食らったようだ。 しかし、周りの目線が一挙に老人に向けられている事に気がつくと、杖をローズに渡す。 「わかった。その代わり、勝ってくるんじゃよ」 老人から杖を受け取ると、その感触を確かめる。 (軽い。それにいい長さ。これならいける!) 審判と剣聖の女が待つ演台へと戻ったローズは、杖を腰に持ち一礼をした。 「お待たせしマシタ」 「あんた……それで戦うっていうの……?」 ローズの持ってきた杖を見て、剣聖の女は嫌悪感を全身で表す。 「ワタシはこれがいいデス。文句ありマスカ?」 審判の男は苦い顔をしていたが、一つ頷くと両手を前に出した。 「2人共準備は良いな?俺が1本を取ったとみなした方を勝者とする。問題なければ両者前へ」 ローズは引かれた白線まで進む。 気が乗らなそうに剣聖の女も前に出た。 そして、両者が武器を構える。 「何?その変な構え……。あんたやる気あるの?」 ローズの構えを馬鹿にするように鼻で笑う剣聖。 見た目は24,5歳に見えるが、若作りをしているだけで本当はもっと上かもしれない。 経験がローズよりもあるのは間違いないだろう。 体格差もかなりあり、特に手の長さからリーチは剣聖の女の方がありそうだ。 しかし、どれだけ分が悪い試合でも、ポートレアでは幾度となく下馬評を覆してきた。 この心の底から湧き上がる自信の正体は、父の教えだ。 「Bring it on!!」 (かかってきなさい!!) 自然と口からポートレアの言葉が出ていた。 集中しきったローズの目には、最早対戦相手の女しか映らない。 「よし、始め!!」 審判の男が手を上げる。 その直後に、剣聖の女が一気に踏み出してきた。 (早いっ……!!) 振り抜かれる剣の切っ先をギリギリの所で後ろにかわし、バク転をして体勢を立て直すローズ。 「へぇ……。思ったより見てるじゃない」 口元に笑みを浮かべながら、尚も剣聖は踏み込んでくる。 重たい木刀を軽々と振り回しながら、全く隙を見せない剣聖の立ち回りは、“剣聖”と呼ばれるに相応しいものだった。 (まずい……!!) ローズの目の前で重心を移動させてフェイントをかける剣聖。 あり得ない体勢から放たれる一撃を、当たるギリギリの所で防ぐローズ。 カンッ―― 乾いた音が会場に響く。 それを追いかけるように歓声が飛んでいる。 「中々いい目をしてるわね。でも、逃げてるだけじゃ私には勝てないわよ!!」 間髪入れずに連撃を叩き込もうとする剣聖。 しかし、そこに、一筋の隙を見つけるローズ。 「Step light, strike hard……」 (ステップは軽く、攻撃は激しく……) 自然と父の言葉を小声で出していた。 「沈みなさい!!」 次の瞬間、頭の上から振り抜かれた剣線を避けると、女の胸に向けて杖の先端を突き抜く。 「あぁっ!!」 剣聖の女の身体が宙に舞う。 手には確かな感触があった。 しかしローズはまだ踏み込む。 ドサッ―― 背中を地面につけて倒れた剣聖。 立ち上がろうとする顔の目の前に、杖の先端が突きつけられた。 「I must not fall」 (私は決して沈まないわ……) それを見た審判がローズの手を掴み上げる。 「そこまで!!勝者は挑戦者!!」 『うぉおおおおおおおおおお!!』 大歓声がローズの耳に届くまでに数秒が必要だった。 こんなにも集中したのはいつ以来だろうか。 「嘘でしょ……こんなガキに……」 剣聖の女は顔に腕を当てて息を切らしている。 誰から見ても、ローズの圧勝だった。 ハッと我に帰ったローズは、杖を借りた老人の元に走っていく。 「ありがとうデス!お陰で勝つことができマシタ!」 老人は興奮した様子でローズの肩をバシバシと叩く。 「よくやった!素晴らしい戦いじゃった!!」 老人の肩越しに、ローズの良く知る顔があった。 ラキラのおじさん。 彼には随分と迷惑を掛けてしまった。 反省はしている。 謝らなければならない。 「ごめんナサイ……ワタシ……どうしても我慢が出来ナクテ……」 うつむきながら、気まずそうにその顔を確かめる。 彼は怒っていなかった。 それどころか、少し泣いているようだ。 「よくやったな!!ローズ!!」 少し腰を低くして、両手を広げる男。 その姿から自然と次の言葉が出てしまう。 「Daddy!!」 (お父さん!!) 抱きつくと、腕を回してその胸に顔を埋める。 あの日、自宅の横の崖を登ったセチの木の下で、想像した未来の自分にやっと追いつけたような気がした。 ―――――― ―――― ―― こうして、正式にラキラの街でローズの名を手に入れた少女だったが、思いもよらないものまで一緒に手に入れてしまう。 「それでは、本日からこの少女にはラキラの花の剣聖として、ローズの名を授ける」 「ちょっと待ってクダサイ!剣聖はいりマセン!名前だけで大丈夫デス!」 慌てて拒否しようとするローズ。 しかし、大司教はその申し出を却下する。 「代々、ローズの名を持つのは花の剣聖。それを覆す事は出来ないのだ。それを分かっていて名を欲したのではないのか?」 「えぇ……!?そ、そういう訳デハ……!」 聖花教会で言い渡された事は、花の剣聖になるという事だった。 花の剣聖は、ラキラの一つの象徴であり、有事の際に剣を取る役職だというのだが、ローズが欲しかったのはあくまでも名だけであり、そんな大それた名誉までを奪うつもりはない。 「しかし、その剣の腕を認めない訳にもいかない。現に、その歳であの剣聖を倒してしまったのだからな」 とんでもない事をしてしまった。 ローズの背に冷たい汗が伝う。 「ワタシは……ワタシは……」 どうしていいか分からずに、おどおどとしていると大司教の娘であるリリアがまた甲高い声をあげる。 「素晴らしい戦いだったわ!私程じゃないにしろ、花の剣聖を名乗るには十分な腕だわ!この姫が認めてあげるんだから、貴女は今日からラキラの花の剣聖よ!」 腕を組み、えっへんという態度の少女。 自分よりも随分幼い子どもなのに、何故こんなに偉そうな態度なのかと呆れるばかりだが、今はそれよりも重要な事がある。 「もし、ワタシが剣聖の名を継いだら、今までの剣聖さんは……どうなるのデスカ?」 「心配せずとも、街から追い出すなんていう事はしない。お主に負けた事で、己の慢心に気が付き、また剣の道を一から歩みたいと兵団への志願をしてきた。お主が気に病むこともないだろう」 「そう……デスカ……」 「ラキラの街に危険が訪れた時、その力を貸して欲しい。この街の剣聖を継いで貰えるか?」 パチパチパチ―― 周りから疎らな拍手が聞こえてくる。 しかし、その音はどんどんと重なり、大喝采となる。 ローズはもう引けなくなっていた。 自分の我儘でここまで来てしまったのだとしたら、最後まで責任を持つべきだろう。 そう、心に決めた。 「わかりました。ワタシ、花の剣聖になりマス!」 「では、そなたの名は……ローズ。この街の花の剣聖とする。この花を生涯、大切に身につけるように」 ―――――― ―――― ―― 拍手はまだローズの耳に届いている。 一輪の薔薇を持ち、育ての親であるおじさんの隣を歩きながら、これからの事を考えていた。 やるからには全力でやらなければならない。 顔を一度叩き、気を引き締める。 「一時はどうなる事かと思ったが、良かったな」 男はローズに笑顔を向ける。 「ハイ!ワタシこれからも頑張りマス!」 その時、後ろから叫ぶような男の声が聞こえてきた。 「おーーーーーい!!!」 振り返る2人。 走ってきた少年は、胸にタンポポの綿毛のアクセサリーを付けている。 このアクセサリーは、ラキラの街の外からやってきた人である証だ。 生涯身につける花のない客人に渡されるものだが、何故そんな人間がローズに声を掛けてきているのだろうか。 黒髪でメガネを掛けた少年は、ゼェゼェと息を切らしながら目の前までやってきた。 どこか……その顔に見覚えがあるような……。 「変な事を聞くかもしれないけど……君はもしかして、海中都市を知っているんじゃないか!?」 海中都市。 それはポートレアの事だろうか。 その言葉を聞いて、ローズはハッと気が付いた。 この男は……。 「アナタ!!あの時、溺れてた人デスカ!?」 ポートレアから外に出る事になってしまったきっかけ。 あの時の少年が成長したら、目の前の彼になってもおかしくはない。 それに、この話を急にしてくる人なんて、当の本人以外にあり得ないだろう。 「やっぱり!!君が……僕を助けてくれた――」 そこまで言うと、少年は髪をぐしゃぐしゃと掻いて、苦しそうにし始めた。 「アナタ……大丈夫デスカ……?」 「ごめん……えっと、その、あぁそうだ!まずは、その……自己紹介をしよう。僕はレイルス。マリーヴィアの護衛艦隊に勤めているんだ。えっと君の名前は……ローズになったんだよね?さっきの試合を見させて貰ったんだ!感動したよ!おめでとう!!」 「えっと……ありがとう……じゃなくてデスネ……エェ!?!?」 この時の彼女はまだ知らない。 近い未来、目の前に現れた少年がローズをある事件に巻き込んでいく事も―― そして、ポートレアの街に戻るための道標となる事―― ローズは知る由もない。 +高尚なる水都の主公オリヴィア 「い、行きますぞ!お嬢様!!」 「あはは!爺やってば、そればっかり!!」 流水の都『ラグーエル』を一望するラークリウス家の屋敷。 その庭先に見える二つの人影。 「もう……ずっと爺やが鬼のままじゃない!」 一つは、ラークリウス家の長女オリヴィア。 まだ十三歳の少女ではあるが、さりげない仕草や振舞いの端々には、優雅さや、高貴さといった、淑女が身に纏う要素を既に持ち合わせている。 「まだまだ……ですぞ……はぁ……はぁ……!!」 もう一つは、この屋敷に四十年近くに渡り仕え続ける、現在の執事長ノーマン。 オリヴィアが生まれた時から彼女を見守り続け、傍で身の回りの世話を務めてきた。 これは日課。 昼下がりに訪れるノーマンの休憩時間。 それは彼にとって、休憩室で過ごす安らぎのひと時ではなく、遊び相手を欲しがるオリヴィアに尽くすための時間。 彼女が物心ついて以来、ずっと続けてきた日課。 それをノーマンが苦痛と感じたことはない。 むしろ、その時間こそが彼にとって何より大切で、愛しい時間であった。 「はぁ……はぁ……はぁ…………はぁ…………!」 「爺や?鬼が止まっちゃったら、鬼ごっこにならないでしょう?」 寄る年波に軋む体。 もはや戯れの相手一つ満足にこなせぬことは、誰よりも本人が一番理解している。 事実、自分の役目ももう長くはないのかもしれないと、毎夜毎夜想いを募らせる日々。 「爺や……大丈夫?」 なんと心優しく、純粋な眼差し。 息を切らし、少し立ち止まっただけの自分に対し、こんなにも心配そうに声をかけてくれる。 ノーマンにはそれがこの上なく嬉しく、そして悲しい。 「ど、どうかご心配なさいませぬよう!老体とはいえ、この目が黒いうちはいつまでも現役ですぞ!」 「あははは!頑張って!!」 ノーマンの胸に溢れる想い。 たとえ自身の体が完全に壊れようとも、この時だけは弱音など決して許されない。 彼女が笑顔でいられる時間だけは。 今、この時だけは―― 「ノーマン!休憩時間も間も無く終わりだろう?そろそろ仕事に戻るように」 オリヴィアとノーマンを包んでいた温かな空気を引き裂く怒声。 庭に響き渡ったその声により、オリヴィアの心がゆっくりと冷たく沈んでいくのをノーマンは感じ取った。 「お父様……」 オリヴィアが見上げるテラスに立つ声の主。 彼こそはオリヴィアの実父にして、ラークリウス家の現当主。 そして、この街ラグーエルを中心とする周辺一帯を治める領主である。 「お前が休憩時間に何をしようとも構わん。だが、体を休めるべき時に体力を浪費した挙句、その結果仕事に支障をきたすようであれば、執事長であろうとも厳罰は覚悟してもらうぞ?」 「心得ております。旦那様」 彼はそれだけを告げると、すぐにテラスから書斎へ身を翻す。 最後までその視線がオリヴィアに向けられることはなかった。 「申し訳ございません。お嬢様。そろそろ仕事に戻らねばなりません。また明日、お相手して頂けますかな?」 「うん……爺やも、お仕事頑張ってね」 気丈に振る舞わんとする彼女の笑顔に、ノーマンの心はギュッと締め上げられた。 ラークリウス家における父と娘の関係は、初めからこうだったわけではない。 父はかつて街人たちから『名君』と謳われた立派な領主だった。 領主とは、元々レミエール王国から庇護下の各街や村などに派遣される貴族や爵位持ちの騎士の家系で、交通網の整備、魔物の討伐といった、個人や小集団の手に余る仕事を代表して取り締まり、他にも民の生活に絡む様々な問題の解決、それに伴う街の発展など、任された土地を守ることを使命とする者たちを指す。 父は日々を懸命に生きた。 領主としての誇りを重んじ、その役目をまっとうし続けた。 ここラグーエルが、大陸を代表する美しい都の一つとして数えられるようになったのも、その貢献あってのものである。 しかし、妻との間に娘が生まれて間も無く、妻が亡くなった。 以来、彼は変わる。 最愛の妻を失った寂しさを埋めるが如く酒に溺れ、女に溺れ、金を欲した。 成長する娘に妻の面影を見るのか、彼女にも辛く当たった。 教育と称して途方もない量の雑務をこなさせたり、罰を与えるかのように勉学に励まさせたり。 だが、それはあくまでも屋敷内での話。 娘にとっては鬼のような父親であっても、彼の心の中には領主としての誇りが相も変わらず残っていたのだろう。 外面は依然、立派な領主としての役目をこなし続けている。 娘は父の声に必死に応えようとした。 八つ当たりとも言えるような数々の所業も、自分への愛の鞭や、期待などであると信じ、受け止めようとしたからである。 だが、まだ幼かった彼女の心はそれに応え続けられるほどまだ強くはなかった。 性格はどんどん気弱になり、涙をよく流すように。 ノーマンはその度に彼女を慰めた。 ただ、彼女の父を止めることだけはできなかった。 執事の身分で主に歯向かうことなどもっての外。 何より、彼女の父もまた、大きな悲しみを抱えた一人の人間であることを知っていたから。 「……ひっく……ひっく…………」 「おや?お嬢様……?お嬢様!?」 ある日の夕食後、月明かりに照らされた庭で、一人膝を抱え泣いているオリヴィアを見つけたノーマン。 「爺や……?うえぇええええええん!!」 「もう大丈夫ですぞ。こんな時間に如何なさいました?」 「……夕食のスープを……ひっくり返しちゃったの……それで、お父様に叱られて……朝まで庭で反省していなさいって……」 「そ、そんなことを……!?」 近頃は、深夜から朝方にかけての冷え込みが厳しくなってきている。 だというのに、オリヴィアは寝間着姿で、靴すら履いていない。 こんな姿で朝までここに居続けては風邪を引いてしまうことなど目に見えている。 「旦那様は私が説得いたします。早くお部屋に戻りましょう」 「でも……ひっく……お父様は……絶対に許してくれない…………ぐ……ひっく……うわぁあああああん!」 「お嬢様……どうか泣き止んでくださいませ。ひとまず屋敷の中へ入りましょう?」 泣きじゃくるオリヴィアを抱きかかえ、ノーマンが立ち上がろうとした時だった。 「うるさいぞ!何時だと思っている!?」 「ひっ……!!」 屋敷の二階に位置する書斎の窓を開け、庭を見下ろしていたのはオリヴィアの父。 「旦那様。お騒がせしてしまい申し訳ございません」 「ノーマンか。そこで何をしている?オリヴィアは私の命で罰を受けているだけだ」 「ですが、これ以上はオリヴィアお嬢様のお体が……」 「私が命じたのだ!これは然るべき罰だ!」 「ですが……では、別の形で、ということにはなりませんでしょうか?旦那様の手伝いでも何でも構いません。このままではどちらにせよ何も残りません……!」 「…………そこまで言うならいいだろう。オリヴィアを連れてここへ来なさい」 「かしこまりました」 少し考え込んだ後、踵を返した主人を見て胸を撫で下ろすノーマンは、寒さと恐怖から、プルプルと体を震わせるオリヴィアを抱えたまま屋敷へと戻る。 「爺や……ありがとう」 「私めは当然のことを申し上げたまでです。だからこそ、旦那様も考えを改めてくださった。それだけのことですよ」 オリヴィアの足裏は泥だらけになっていた。 胸元から取り出したポケットチーフでそれを優しく拭きながら、ノーマンがオリヴィアを慰める。 「ううん。わたし、お仕事の手伝い頑張るね!せっかく爺やがお父様に頼んでくれたんだもん!」 「誠にお優しいですな、お嬢様は。ですが、どうかこの老体のためではなく、ご自身のために努力してくだされ。それがいずれ領主となるお嬢様のためにもなるのです」 「……わかった」 「では、参りましょうか。難しいものでしたら、及ばずながら私めもお手伝いさせていただきますゆえ」 「うん!」 領主の家に生まれたからには、いずれその跡を継ぐことになる。 生まれながらにして定められた運命。 彼女はまだそれがどれだけのことなのかを理解してはいない。 領主という人間が、その地に住む人々にとってどれだけの意味を持つのかを。 ――コンコンッ 「失礼いたします。旦那様。オリヴィアお嬢様をお連れしました」 「失礼いたします。お父様」 「遅いぞ……何をグズグズしていたのだ……?」 書斎に立ち入った途端に鼻を突くアルコール臭。 床に転がる酒の空き瓶が二本。 夕方にノーマンが呼びつけられたときには無かったものだ。 「申し訳ございません。途中で侍女衆に呼び止められまして、少し仕事の指示をしておりました」 「ふん……まぁよい。で、オリヴィアへの罰の件だったな」 書斎机には中身が半分ほどになった別の酒瓶。 夕食後からずっと飲んだくれていた模様。 「はい。罰として、わたし何でも頑張ります」 「……よし。では、これを街外れの孤児院に届けてくるように」 そう言って主人が小さな封筒をオリヴィアの足元に放り投げた。 家紋どころか、差し出し名義さえも記されていない極めて質素な封筒に、妙な違和感を覚えるノーマン。 「これを……ですか?」 「中身を見ることは決して許さん……経営主の男に『遣いで来た』と言って手渡せば理解するはずだ……それ以外、余計な口を開くことも許さん……朝までには戻るように……」 「まさか……今からですか?旦那様!それは危険かと!」 「何でもするとオリヴィアは言ったぞ……?」 「しかし、こんな時間に子供一人では危険です!いくら治安の良い街とはいえ、良からぬ連中も少なからず存在します!それに、お嬢様は孤児院の場所を知りません!」 「地図なら持たせてやる……子供とはいえ、我がラークリウス家の娘。街を這いずっているネズミの一匹や二匹、どうということもあるまい……」 「それは稽古場での話です!お嬢様にはまだ早すぎるかと――」 「いいの、爺や!お父様はわたしならできると思って、このお仕事を任せてくれたの……わたしなら平気よ」 「お、お嬢様……」 「そういうことだ……では、早く行ってこい」 「はい。失礼いたします。お父様」 地図と封筒を手に、一人書斎を後にするオリヴィア。 部屋の扉を閉める直前、ノーマンは閉じ行く扉の隙間から覗く彼女の表情を捉えた。 歯を食いしばりながら、必死に涙を堪える悲痛なそれを。 「……っ!旦那様。お嬢様に付いていくことをお許し頂けませんでしょうか?」 「許さぬ……」 「ならば、お嬢様に姿を見られぬよう、隠れて後を追いかけることを――」 「くどいぞ、ノーマン!」 「しかし……!」 赤らんだ顔にやや虚ろな目。 明らかに主人は酔っていた。 そんな状態で、まともな判断がくだせるわけがない。 「……あれは……あの封筒は一体何でございましょう?」 「お前には関係のないものだ……気にするな」 「いいえ!旦那様には旦那様のお考えがあるものと、私めは常々そう考えておりました。ですが、この件に関しては理解し難いものがあります。もしも話して頂けないのであれば、こちらにも考えが御座います」 「……屋敷を去るか?」 「既に覚悟はできております」 「……お前が私に逆らったのは初めてだな」 先代の頃より見習いとして屋敷に仕えていたノーマン。 今となっては、主人と共に過ごした時間は、彼の実父よりも長いかもしれない。 数十年来の旧友とも呼べる男が初めて牙を剥く。 そんな感慨深さからくるものなのか、酒の酔いからくるものなのか、ノーマンの目の前の男の口元が微かに緩んだ気がした。 「私には……娘が二人いる」 「は……?」 「オリヴィアには腹違いの姉妹がいる。正確には、いるかもしれぬのだ」 領主は語る。 ――同日、正午頃 「約束も取り付けぬまま、急な来訪、誠に申し訳ありません」 突如としてラークリウス家を訪れた来客。 それは、どこかみすぼらしい印象を受ける痩せ型の男だった。 「私の耳に入れておきたい事があると訪ねてきたそうだが……?」 「領主殿もお忙しい事かと思いますので、手短にお話しします。貴方にお子さんは何人いらっしゃいますでしょうか?」 「…………娘が一人いるが……それがどうした?」 予期せぬ問い。 急な来訪自体は珍しい話ではない。 ただ、そのほとんどは金の無心や政治的な用件であることが多い上、それを抜きにしても、あまりに突拍子もない話。 「私は現在、街外れで小さな孤児院を運営しておりまして、預かっている子供の中に、古い写真を持っている少女がいたのです。そこには、貴方と思われる人物が写っておりました」 「写真……いつのものだ?」 「十数年程前のものではないかと。今よりもかなりお若く見えましたので」 領主は記憶を辿ろうとするが、家柄もあり、写真を撮られたことなど日常茶飯事。 そもそもそんな昔の話がたったそれだけのヒントで思い出せるはずはなかった。 「その子に聞きました。この人は誰なのか、と。すると、彼女は『知らない』と答えました。ただ、その写真を『お母さんとのたった一つの繋がり』と言っています」 「その母親というのは?」 「わかりません。彼女は生まれながら孤児でしたので、母親の記憶がないのです。ただ、気が付けばその写真を持っていたそうです。我々も方々探してはみましたが、手がかり一つ掴めませんでした」 ここへきて、領主はこの男がどういった目的で自分の元を訪れたのかを察した。 「ただ、領主殿と彼女の母親の間には、何らかの関係があった可能性が極めて高い。そこで、領主殿にお願いがあります。彼女を引き取っていただくことはできませんか?もしかしたら、娘さんの腹違いの姉妹ということも……」 その出所は終ぞ判らなかった。 遠い昔、自分に寄添ってきた女が身籠っていたのか。 それとも女遊びの最中にできた子なのか。 どれにせよ、オリヴィアには年近い姉妹がいる可能性がある。 男はそれを告げにきたのだった―――― ノーマンは固唾を飲んでその話に聞き入るばかりだった。 「そ、それで……?」 「無論、断った……ラークリウス家に隠し子がいたなど噂でも流れれば、面白がる連中も少なからずいるだろう。最悪の場合、家が失墜することさえあり得る」 「ですが……もし、その少女が本当に――」 「そんな事実はない!男に金を渡すと言ったら、すんなりと折れたよ。所詮は金欲しさに口を突いた戯言だったのだろう」 「では……あの封筒は……」 「……中身は小切手だ。あんなものを渡して、帰る途中で道に落とされでもすればそれで終わりだ。孤児院と我が家に繋がりがあることは隠さねばならん」 「それこそ私めにお任せ下されば……」 「お前は長年我が家に仕えている執事。屋敷の外にも顔を知る者は多い。かといって、新米の執事やメイドに任せて、中身を見られでもすれば面倒なことになる」 理屈は理解できたが、ノーマンにはどうしてもわからないことがあった。 自分の娘かもしれない子供の存在。 それを知ったのならば、何を置いてもその子を引き取りに行く。 それこそが人情。 彼がその気になれば、子供の一人くらい世間から隠し通すことは不可能ではない。 だというのに、彼はその子供を抱き寄せるどころか、煙たがるように突き放した。 オリヴィアに辛く当たることも、一種の愛の形なのではないかと思っていた。 心の奥底には、きっとオリヴィアを慈しむ温もりがあるはずだと信じていた。 だが、この男にしてそんなものは存在しない。 ノーマンはようやく悟った。 彼が何より重んじるのは領主としての誇りと、家の名。 では、その次に重んじるものは何か。 それ以外には何もないのだ。 強いて挙げるとすれば酒か、女か、金か。 最愛の人に旅立たれた時点で、この男は完全に壊れていた。 「オリヴィアなら私の言いつけは絶対に守るだろう。中身を見ることはまずあるまい。仮に、何かの拍子に中身を見る様なことがあっても、小切手など見たこともなかろう。まぁ、理解したところで、慈善活動とでも勘違いするのが関の山だ……」 「元よりお嬢様を遣わせるおつもりだったので?」 「丁度良かったのでな。罰と思えば楽なものだろう?」 「…………お嬢様に……その少女のことは?」 「報せたところでどうなる……知らぬものは、存在せぬことと同義だ。っち……長話のせいで酔いが醒めた……下がって良いぞ」 「…………はい……失礼いたします」 忘れよう。 忘れねばならぬ。 ノーマンは、頭の中で繰り返し続けた。 もし、自分が口を滑らせた結果、主人の言う様に家が失墜してしまえば何もかもが終わる。 それはダメだ。 だが、お嬢様はどうなのだろうか。 彼女にとって、家族と呼べる人間は父のみ。 そんな父は、彼女に向ける愛をこれっぽっちも持ち合わせてはいない。 彼女は、今までも、そしてこれからも、ずっと家族の愛を知らぬまま生きていくことになるのではないか。 あまりにも不憫だ。 ノーマンの葛藤の夜は続いた。 そして、彼が数週間悩み抜いたあげく、答えを出す。 忘れはしない。 だが、語ることはしまいと。 その晩から、葛藤の夜は、懺悔の夜に変わった。 ノーマンはただただ、心の中でオリヴィアに謝り続けた。 一年が過ぎ、オリヴィアは十四歳を迎えた。 その間も体はすくすくと成長していたが、心はというと…… 「違うと言っているだろう!何度言えばわかる!!」 「も、申し訳ございません、お父様!」 「もう一度だ!!」 「は、はい…………ひっく……ひっく…………」 相変わらず内向的で、それも近頃拍車がかかってきている。 というのも、父自らがオリヴィアの教育を監督し始めたからだ。 ラークリウス家の人間は代々、水属性の魔素を操る資質が備わっており、その資質を活かした一つの武芸として、秘伝の技を継承してきた。 こればかりは外部の者の力を借りるわけにはいかず、領主家の一員たる者が身につける当然の責務として、現領主であるオリヴィアの父が教鞭を振るうのである。 「いちいち泣くな!!それでも本当に私の娘か!!」 「……はい……えっぐ……ひっぐ……」 オリヴィアの魔術の才は、決して低いものではない。 むしろ、代々の術者の中でも高い水準にあるといえる。 だが、これまでの教育の中で、彼女は魔術の基礎知識をほとんど身につけていない。 そんな彼女がいきなり秘術とされる高位の術式を押し付けられたところで、功を成すはずもないのである。 「……今日はこれまでだ。教えたことを復習しておけ。明日、できなければ罰を与える」 「旦那様。オリヴィア様のことで、一つご相談したいことが」 「何だ。言ってみろ」 「恐れながら申し上げます。これは私めの私見ですが、お嬢様が魔術を身につけることは今の方針では難しいかと存じます」 「ほぅ……では、どのようにしろと?」 「例えば、マーニル魔法学校に通わせてみてはいかがでしょうか?当家の秘術を身につけるには旦那様の教えが不可欠ですが、お嬢様にはそれを学び取るだけの基礎がまだ出来上がっていないように見受けられます。それを学ぶためにも」 「それならば家庭教師でも付ければ済む話だ」 「他にも御座います。学校には年若い生徒も多く、きっとオリヴィア様の良きご学友となるでしょう。そんな友人たちとの日々は、お嬢様の精神面の成長を促すことができるのではないかと」 「毎度毎度泣かれて鬱陶しい思いをしているのは私だ。そんなことはわかっている。だがな、こんな状態の娘をラークリウス家の者として送り出せと!?冗談ではない!!自ら家名に泥を投げつけろと言うのか!?」 「し、しかしながら……」 これまでの人生を思えば、それも無理からぬこと。 彼女に最も寄添うべき人間を、彼女が誰よりも恐れているのだから。 この男はそれをわかっていない。 それともわかった上で言っているのか。 だが、これは口にはできない。 執事がそれを口に出すことは、これ以上ない主への侮辱。 「話は終わりだ。だが、他ならぬお前の進言だ。家庭教師の件は私が相応しい人物に依頼しておこう」 「はい……ありがとうございます」 ノーマンは疑心暗鬼になりつつあった。 自分の発言により、オリヴィアを取り巻く環境が変わり、今よりも不幸な環境に置かれることもある。 少しでも笑顔を増やし、悲しみを減らしたい。 その想いに偽りはない。 だが、彼女の父はもはや制御も予測もできぬ域にある。 何が彼女の顔を曇らせ、新たな涙を生むきっかけになるかわからない。 今回の話にしてもそうだ。 父の目が届かぬところで伸び伸びと生きて欲しい。 それがほんのひと時でも、傷んだ彼女の心を癒してくれる。 そんな気持ちで発した言葉により、新たに迎えることになった家庭教師。 この人物が、誠に良き御仁ならば吉。 だが、その反対もあり得る。 「爺や……少しだけ一人にしてくれる?」 「かしこまりました。ですが、ご夕食の席には……」 「わかってるわ。またお父様に叱られてしまうもの」 「失礼いたしました。では、これにて」 変えることが正しいのか。 変えぬことこそが正しいのか。 だが、そんなノーマンの次なる葛藤は、彼の思惑の遥か外から打ち砕かれる。 オリヴィアの父が病に伏した。 大陸西部で突如発症した流行り病。 症状が風邪に近いことから、事態を軽んじた者が多かったことも影響した。 初期段階であれば回復が見込めるも、対応が遅れ、症状が進行してしまえばやがて死に至るという恐ろしい病。 ラグーエルの街でも数人の死亡者の名が報告されているが、次は領主の名がそこに書き加えられようとしていた。 「無理です。僕には治すことはできません」 「我々の癒術は傷の治療には秀でておるが、病気の治療には向いてはおらぬのじゃ」 「病気の場合、患者の免疫力を強化して対処することが多いのだけど、今回の例は進行し過ぎているわ……」 大陸各地から呼び寄せた名高き癒術士たちは、皆同じことを口にした。 余命三カ月。 それが領主に残された時間だった。 「お父様ぁああああああ!!」 オリヴィアは立ち入り禁止となった父の寝室の前で泣き続けた。 これまでの人生の中で築いた父との思い出は、決して良いものではないはず。 それは傍らで見続けてきたノーマンがこれ以上なく知っている。 それでもオリヴィアは涙した。 どんな人であっても、彼女の父親。 残された唯一の家族なのだ。 ノーマンは速やかに領主継承手続きの準備に取り掛かった。 早すぎるとはいえ、彼女も立派な跡目。 こうなってしまった以上、オリヴィアが領主として誇らしく立つ姿こそが、父にとっても何よりの喜びになるだろうと確信していたから。 「執事長。旦那様がお呼びです」 「私を……?承知した」 既にベッドに寝たきりとなっている主人。 身の回りの世話は専属のメイドたちに任せてある。 その状態にあって自分を呼びつける理由。 ノーマンは微かな不安を抱えながら、主人の寝室へと向かう。 「旦那様。ノーマン執事長が参りました」 「う……む……ノーマンか?」 「お呼びでしょうか。旦那様」 「あぁ……すまんな。こんなところに」 「いえ。お気遣いは無用です」 「他の者は下がってくれ……ノーマンと二人で話がしたい」 主人はメイドと医者を部屋から出し、一呼吸おいて話始める。 そして、その言葉にノーマンは耳を疑った。 「オリヴィアに……縁談の話がきている」 「何ですと!?」 「当家の婿養子になっても良いと話している」 「馬鹿な!それでは継承権がオリヴィア様からその男に移ってしまいます!!」 「その通りだ。それで良い」 「ご冗談はおやめください!あれ程までに厳しくお嬢様に秘伝をご指導しておられたではありませんか!?それも、オリヴィアお嬢様を領主にするための教えだったはず!それが何故です!?」 「事態は変わったのだ……お前ならわかるだろう?ノーマン」 ノーマンはギクリとした。 目の前の男は、娘の内向的な性格を酷く懸念していた。 このままでは人前に出せる人間にはならないと。 直接、娘を教育することで、改めてそれを痛感した。 だからこそ、以前よりもさらに厳しく躾け、矯正しようとした。 時間がかかっても構わない。 ラークリウス家に相応しい淑女になるのであれば。 だが、時間が無くなったのである。 既に余命は二カ月余り。 このままでは、間も無くオリヴィアが領主になってしまう。 ラークリウス家の主が、あんな不出来な娘になってしまう。 それがこの男には耐えられなかったのだ。 ならばいっそ、婿養子を迎え、その者に領主を継承させてラークリウス家の体面を保つ。 常日頃からこの男とオリヴィアを見続けてきたノーマンだからこそ分かってしまったこと。 「安心しろ……信頼できる知り合いの息子だ。心配ない」 「し、しかし、お嬢様はまだたったの十四歳!子供ですぞ!?」 「貴族の間では珍しい話でもない。成人前に結婚することなど、我々の時代においては至極普通のことだった」 オリヴィアと結婚する相手は、昔からラークリウス家と付き合いのあった貴族、スタンリー家の長男。 やや奔放ではあるが、学業に秀で、現在は貿易関連の組合をいくつも取り仕切っているという。 歳は三十五。 明らかな政略結婚だった。 そんな説明を淡々とされた挙句、次に発せられた言葉にノーマンは愕然とする。 「オリヴィアにはお前から伝えておくように。あれはお前のことを信頼している。その方がまだ受け入れやすいだろう……」 「もう……決まったことだというわけですか……?」 「式の日取りも近いうちにな……」 「そう……ですか……」 ラークリウス家の問題に対して葛藤し、苦悩してきたノーマン。 主のためだけにあらず。 子のためだけにもあらず。 全ては、若かりし頃に生涯仕え続けると誓った、ラークリウス家のため。 私情など挟むべきではなかったのだ。 仕える家が決めたことこそが正。 それだけを信じていれば良かった。 寝室を出て、廊下を歩き、階段を下り、玄関の扉を開く。 庭の中心にある噴水の片隅に、オリヴィアの姿はあった。 「爺や。お父様のご様子はどうだった……?」 オリヴィアは、ノーマンの姿に気が付いた途端に駆け寄り、父の容体を確認する。 相変わらずである。 「……オリヴィアお嬢様。大切なお話が御座います」 もうノーマンは考えることを諦めた。 それから数日の後のことである。 オリヴィアは自分の夫となる男と初めて対面。 そこは正式に式の日程を決めるために設けられた場だった。 「本日は私め、執事長ノーマンが主の代理を務めさせて頂きます」 「領主殿のご容体は相変わらずというわけですね……なんとお労しい……!!さぞかし大変なことでしょう……!」 「ご心配をおかけしております。ですが、此度のご縁は主の望みでもあります。それが叶うともなれば、いくらか気も晴れようというものです」 「そうでしょう!領主殿たっての申し出……我々も喜んでお受けする所存。早速、式の手配を済ませましょう!!」 「はい。それでは、まず日程についてお話させていただきます」 テーブルを囲むのは領主代理を務めるノーマンとオリヴィア。 体面に相手方の当主と妻、その息子が続く。 一時間ほどで話はまとまり、他愛のない雑談へと入ったが、その間、オリヴィアはうつむいたままスカートの裾をずっと握り締めていた。 「本日はわざわざ足をお運びいただき、誠にありがとうございました」 「いえいえ。領主殿の事情を鑑みれば仕方のないこと。オリヴィア様もどうかご自愛ください?今日は御気分が優れなかったようですので……それとも気恥ずかしかっただけでしょうか?」 「わ、わたしは…………はい……ご心配くださり、ありがとうございます…………」 「ふふ……それでは、当日を楽しみにしております!」 馬車に乗り込み、窓からオリヴィアを見下ろす男の口元が、卑しく歪んだ一瞬をノーマンは見逃さなかった。 だが、それを今さら気にかけたところで何が変わるでもない。 オリヴィアは終始うつむいたままだった。 数日前にこの件をノーマンの口から告げられて以降、ずっとこの調子。 否。 考えたところで仕方がない。 もう考えることはやめると決めたのだから。 その夜。 オリヴィアが窓から身を投げた。 「なんというタイミングで……いいか?外に漏らすことはならん。絶対にだ……!」 「承知しております。旦那様」 それは今朝方に起こった。 いつも決まった時間に目覚めていたオリヴィアだが、その日は朝食の時間になってもまだ姿を見せない。 これを不審に思ったメイドが、彼女の寝室を訪れ、ドアをノックするも返事はない。 何かあったのかとドアを開けたところ、そこにはもぬけの殻となった部屋と、開きっぱなし窓。 恐る恐る窓の下を覗き込むと、数メートル下の植込みにオリヴィアが横たわっていたという。 幸い命に別状はなく、かすり傷程度で済んだようで、オリヴィア自身もすぐに意識を取り戻した。 「お嬢様。なぜこのような真似を……」 「…………」 再び寝室のベッドに戻されたオリヴィアは、意識を取り戻してからも呆然と天井を見上げるばかり。 ベッドサイドからノーマンが声をかけても反応を示さない。 「聞くまでもありませんでしたな……ですが、これもラークリウス家のためなのです……お嬢様のお気持ち全てを察することができるとは申しません。ですが……どうか……」 「…………」 「お嬢様?大丈夫ですか?どこか体に違和感でも……?」 「…………?」 再三の呼び掛けに、ようやくオリヴィアが微かに反応した。 「……えっと……貴方、名前は?」 「…………は?」 ノーマンの思考が一瞬停止する。 五年、十年の付き合いではない。 彼女がこの手の冗談を言わないことも知っている。 「何をおっしゃっているのですか……?」 「え?だから……貴方の名前を教えてくれる?」 飛び降りた際のショック。 追い詰められた精神。 原因はさておき、オリヴィアの身に起きている明らかな異常。 「少し席を外させていただきます。このままで暫しの間お待ちください」 ノーマンは走った。 彼女の父の元へ。 「旦那様!一大事に御座います!!」 「今度は何事か……ノックもせずに……」 「お嬢様が……オリヴィアお嬢様が……!!」 報告を受けた領主は、ノーマンにオリヴィアの状態をできるだけ詳細に把握するように指示した。 その結果、オリヴィアは記憶の大部分を欠落しているという結論に至る。 それが一時的なものかどうかはわからないが、自身の名以外のことをほとんど覚えていなかったのだ。 「……いかがいたしましょう?」 「…………」 「やはり、縁談の話は――」 「ならん!それだけは!!」 「ですが、あのご様子ではすぐに回復されるとも思えません。そもそも元に戻るかどうかさえも……」 「いや……むしろこれで良い……!」 「どういう意味でしょう……?」 「記憶の件は隠し通す……幸い、相手はオリヴィアのことをほとんど知らぬ」 「馬鹿な!!それではラークリウス家を丸々明け渡すようなものですぞ!!」 「元より承知の上だ……だからこそ私が選んだ相手だ。オリヴィアに任せたところで、家の名に恥を重ねるだけだからな」 「そ……そこまでお嬢様のことを……」 この家は間も無く終わる。 わかっていたことだ。 父を失ったオリヴィアが毅然とした態度で夫を迎え、ラークリウス家が築いてきた誇りを守っていけるか。 答えは否だ。 それは記憶があろうとなかろうと同じこと。 やがて相手方の家に取り込まれ、塗り替えられ、変わり果てる。 それならばいっそ、オリヴィアにとっても記憶を失ったままの方が幸せなのかもしれない。 より深い絶望の中で、孤独に耐え続けるよりは。 「娘は自身をオリヴィアだと自覚しているのだろう?ならば問題はない」 「……はい」 「最低限の知識は叩き込んでおけ?式で醜態をさらして、破談になりでもすればそれこそ我が家の最期となる」 「……はい。かしこまりました」 それから結婚式までの間、ノーマンはつきっきりでオリヴィアの再教育に努めた。 貴族としての最低限の知識。 行儀作法や相応しい立ち振舞い。 ダンス、裁縫などのレッスン。 その間、わずか二週間ばかりではあったが、ノーマンは日に日に困惑していった。 記憶を失う以前のオリヴィアは、体を動かすことよりも勉学や裁縫などを好んでいたが、目の前のオリヴィアはダンスや武芸に夢中になった。 「爺や。剣をここへ持て。杖はどうにも性に合わぬ……」 「剣……で御座いますか?」 「片手で扱える細身のものが望ましい」 あれほど嫌がっていたはずの魔術の修練中、突然、杖を剣に持ち変えると言い出すオリヴィア。 首を傾げながら、ノーマンは言われた通りの得物を用意し、それを彼女へ手渡す。 「……ふむ。悪くない」 数度軽く素振りをした後、オリヴィアは軽く腰を落として剣を構える。 そして…… 「はぁっ!ふんっ!!やぁああああ!!」 オリヴィアは、動きを一つ一つ確かめながら、試すかのように技を披露してみせた。 当然、丁寧に教えを受けたものではないため、動きのぎこちなさや粗さが見て取れる。 だが、その姿に溢れる力強さや優雅さは、その適正の高さを素人目にも感じさせた。 「ふぅ……わらわにはこちらの方が合っておるようだ」 「お見事です……」 ノーマンは目を丸くした。 かつてのオリヴィアとは口調も好みも、それどころか性格さえも大きく違う。 まるで、『オリヴィア』という名を騙る悪魔に、彼女の体が乗っ取られたかのような錯覚にさえ陥る。 胸の奥底に得も言われぬ不安を抱えつつ、その日はやってくる。 衝撃の縁談話から半月余り。 オリヴィアの結婚式が執り行われた。 「続きまして、新婦の入場です!」 扉の奥から聞こえてくる声。 その向こう側は式場。 花嫁にとっては幸せを誓いあう聖域。 されど、オリヴィアにとってはその限りではない。 さしずめ、目の前の扉は地獄の入口といったところだろうか。 新婦オリヴィアの父に代わり、彼女と共に入場することになったノーマンが、徐々に開かれていく扉の前で息を呑む。 ――ダンッ! 扉が開ききった途端に鳴り響いた靴の音。 揺れる会場。 そこには、ヴァージンロードを挟んで両側に並ぶ騎士たちの姿。 否、正確には、騎士に扮した来賓たちの姿である。 「ふん……」 オリヴィアは不機嫌そうに鼻を鳴らし、歩みを進める。 ノーマンもこのような演出が用意されていることは知らせていなかったが、オリヴィアに少し腕を引かれる形となったことで、ハッと我に返ることができた。 会場に集まっているのは両家が懇意にする家々の面々。 そして、ラグーエルを代表する有力者たちである。 そんな彼らが、演出のためとはいえ、剣を掲げて道を作り、オリヴィアを称えている。 道の先に待つのは、例の卑しい笑みを浮かべた新郎。 そう。 これは彼がプロデュースしたであろう演出。 来賓を、領主という絶対権力者に仕える騎士に例えることで、その上下関係を印象付けた上、すぐにその力の全てを奪い去ってやろうという皮肉。 此度の縁談が両家にとってどういった意味を持っているかを皆は知らない。 この演出の意図を理解できるのも当の親族たちだけ。 「「おぉ…………!」」 そんなことは露とも知らぬ面々は、入場してきたオリヴィアの姿に小さく唸る。 豪勢で華々しい純白のドレス。 整った目鼻立ちに凛とした雰囲気。 会場内の全ての視線がオリヴィアの花嫁姿へと注がれていた。 ノーマンたちはそのまま祭壇の前で待つ新郎の元へと歩み寄り、組んだ腕を離す。 オリヴィアの夫となる目の前の男に、他の紳士諸君から嫉妬の眼差しが向けられているのがひしひしと伝わってくるが、本人はそれに気付いていながら至って涼し気。 それどころか自慢気にさえ見える。 新郎新婦が揃ったところで、二人がゆっくりと祭壇上で待つ神官の元へ向かうが、その直前で歩みを止め、来賓の方へと振り返ったのは新郎。 「本日は御多忙の中、私たちのためにお集まりいただきましてありがとうございます!多くの方々に祝福していただける喜び……まさに感激の至り!」 舞い上がりすぎたのか、式典の進行を勝手に変更してまで挨拶を述べ出した。 これにはオリヴィアを含め、会場にいる全員が唖然となり、進行係を兼任する神官がいち早く事態の収拾に乗り出す。 「お待ちください……!予定にない行動を取られますと進行に差し障ります……!」 「これ以上のタイミングはあるまい?ただ順序が前後するだけであろう?」 「で、ですが……こちらは段取りに従ってご用意をしておりますので……!」 耳元で囁く神官の言葉に納得のいかない様子。 その後のやり取りによって、なんとか言葉に耳を傾ける気になったのか、改めて面々に向かい合う新郎。 「これはこれは大変失礼を……喜びのあまり少々取り乱してしまいました。さぁ!式を再開いたしま――」 「全員!その場を動くなぁあああああああ!!」 突如響き渡る怒声により、遮られた新郎の声。 お次は何だと来賓たちが振り返ると、そこには武器を手にした男たちがズラリと並んでいた。 「きゃぁああああああああああああ!!」 「な、何だ、お前たちは!?」 騒然とする会場。 「騒ぐな!!死にたくはないだろう!?」 まさに鶴の一声。 瞬く間に場内は静寂に包まれる。 「それでいい……ここは俺たちが既に包囲してある。逃げようなんて考えるなよ?」 賊のリーダーらしき男の声に促され、出入り口へ目を向けると、その前には武器を構えた男が数人ずつ張り付いている。 「全員、金目の物を全て出して、そこに集めろ。隠そうなんて思うなよ?てめぇの命よりも大事だって言うなら話は別だがな……!」 素性は不明。 だが、目的は集まった来賓たちが持つ金品のようだ。 こうした場には警備兵も当然配備されているが、姿を見せないところをみると、あちらもあちらで手が離せない状況にある模様。 マニュアル化されている屋敷の警備と違い、こうした式典などの警備は場当たり的なものも多い。 その隙を突いて、賊が警備に紛れ込んでいたのだ。 「君ぃ……悪くない趣向だが、おふざけが過ぎるというモノだ」 「……あぁん?」 賊に声をかけたのはまたしても新郎。 サプライズ演目と勘違いしたのか、状況が呑み込めていないことは明らかだった。 「見たまえ?客人の方々が怖がっているではないか。そろそろネタ晴らしでいいんじゃないかな?」 「流石は貴族様……頭の中にまで立派な花園をこしらえているらしい。いいぜ?だったら見せしめだ……お前の頭に真っ赤な花でも咲かせりゃ、全員が状況を理解してくれるだろう……」 無論、間も無く命を落とすであろうその男以外は皆が理解していた。 しかし、動くことも、声を発することもできない。 賊が手にしている剣の切っ先が、自身に向けられることなど誰も望むはずが無いのだから。 「え……?いやいや、だからもうお開きに……」 「おうよ……パックリ頭開いてやるからよ……安心しなぁ!!」 「ひっ……!?」 ――キィイイイイン!! 激しい金属の衝突音。 賊の男が剣を振り下ろした瞬間だった。 「はぁ?何だてめぇ!!」 「下らぬ……余興にしても程度が低すぎよう?」 新郎を庇い、剣を撃ち払った人物。 入場演出の際に来賓が使用していた剣を手にしたオリヴィアである。 「夫の窮地を救うのは嫁の仕事ってか?まぁいいぜ。見せしめは誰でもな!」 「ひ……ひぃいいいいいいいいい!!」 命が救われたことを悟り、ここにきてようやく事態を理解した新郎は不格好な悲鳴を上げつつ、来賓たちの後ろへと逃げ果せる。 それでも来賓たちは動かない。 これは恐怖によるものではなかった。 たった一人、脅威の眼前に身を晒す、美しいドレスを身に纏った少女の姿に見惚れてしまっていたからである。 「つまらぬ戯言を。あれが死ぬことで路頭に迷う者も多い。わらわはその者たちを救ったに過ぎぬ」 「よくわかんねぇが、随分と威勢がいいじゃねぇか……ところで、お前さんには白じゃなく赤のドレスの方が似合うと思うぜ?せっかくだから俺が染め直してやろうと思うんだが、どうだい?」 「ふふ……先程からの滑稽な言い回し。よもや、わらわを笑い死にさせることが目的であったか?」 「この…………くそがぁああああああああ!!」 振り抜かれる剛剣。 固唾を飲んで現場を見ていたノーマンの脳裏によぎったのは、オリヴィアの無残な死。 「お嬢様ぁああああ!!」 「心配するでない……かような下衆に遅れを取るとでも!?」 紙一重のところで剣戟を躱し、踏み込みざまに一閃。 見事に賊に一撃を見舞ったオリヴィア。 「がぁあああ……!!」 呻き声を上げる男だったが、倒れ伏すことはない。 それどころか、オリヴィアの一撃は男の薄皮一枚を削り取ったばかりで、せいぜい赤く腫れ上がらせた程度のダメージしか与えていなかった。 「ボスぅうううう!!」 「来るなぁ!!コイツは俺の獲物だぁああああ!!」 そんな賊たちを余所目に、オリヴィアは憮然とした表情で手にする剣を観察している。 彼女が手にした剣は演出用のイミテーションだったのだ。 見た目とは裏腹に武器としての性能は備わっておらず、真剣のような刃も持っていない。 真剣でさえあれば、間違いなく軍配はオリヴィアに上がっていた勝負だったが、その絶好の機を逸した。 「残念だったな。俺に勝てる唯一のチャンスを不意にしたぜ?」 「刃の確認を怠ったことは認めてやろう……だが、斬れぬのであれば、刺してしまえば良いだけの話であろう?」 「違ぇよ……今の一発でわかった。お前の剣はまだ粗い。センスは褒めてやるが、マジになった俺はそれじゃ倒せねぇって言ってんだよ」 「どうであろうなぁ?それが分かる程の使い手には見えぬが?」 「潜った修羅場の数が違う……すぐに証明してやるよ……!」 これはオリヴィアのハッタリ。 その場にいる人間の中で、ノーマンだけが唯一それを察した。 油断していた上に、怒りに身を任せた甘い一撃。 その隙を以てして倒し切ってしまいたかった。 オリヴィアはそう考えているはずだと。 その後の展開は一方的だった。 相手を強者だと見据えた男の剣は、オリヴィアに付け入る隙を与えてはくれなかった。 回避のみに専念することで、何とか凌いではいる彼女だったが、重たいドレスは彼女の動きを制限し、体力をどんどん奪い去る。 元々、体格も違えば体力にも差がある戦い。 過ぎゆく時間は一方的にオリヴィアを不利に追いやっていく。 「……くっ!!」 遂に剣先がオリヴィアを捉え始め、そのドレスの裾を斬り裂く。 「なかなか楽しかったぜ?余興としても満足してくれただろ?」 「はぁ…………はぁ…………!」 見守る者たちの中には貴族の子息も多い。 恐らく、剣の覚えがある者もいたことだろう。 だが、彼らは動けない。 生半可な腕では、返り討ちに遭うことは目に見えていたから。 男の剣閃は皆にそう思わせるに足り得るものだった。 「流石だぜボス!!」 「早いとこやっちまってくれぇ!!」 手下の声を受け、さらに気迫を増す男。 「声援には応えねぇとなぁ……終わりにするぜ?」 まさに男がとどめの一撃を振り下ろそうとした時、状況が一変する。 「や、やべぇ!ボス!警備兵の連中だ!!」 「何ぃ!?足止めのヤツらはどうしたぁ!?」 会場の出入り口の外から聞こえてくる声。 警備隊が事態を察知して駆け付けたようだ。 「ふふ……ようやく来おったか。ネズミの侵入を許した挙句、この体たらく。つくづく無能ではあるが、間に合わせたことだけは褒めてやろう」 「てめぇ……どういうことだ!?」 「外の警備兵を貴様らが抑え込んだところで所詮は烏合の衆。数もたかが知れておる。加えて、ここに集められた者らは貴族他ラグーエルの有力者たち。そこへ賊が押し入ったことが知れれば、たちまちラグーエル中の警備兵がここへ駆けつけてくることは明白であろう?」 その後の展開は誰しもが容易に想像できた。 押し寄せる警備兵の群れに太刀打ちできないと察した賊が取る行動は投降か逃走。 そのまま会場内に流れ込み、今まさに賊と扉を挟んでの鍔迫り合い中。 「わらわが時間稼ぎに切り替えた時点で、配下と共に討ち取ってしまえば良かったものの……わざわざダンスに付き合ってもらえるとは、なかなか紳士であったな」 「く、くそっ……!!」 途端に踵を返し、逃走を図ろうとした賊のボスだが、駆け出すには至らない。 「無駄と悟ったか?扉の外には殺気立った夥しい数の兵士たち。そこは貴様らにとって既に出口ではない。逃げ場など存在せぬ」 「う……くぅ…………!!」 「何をしておる!呆然と立ち尽くす暇があるなら、扉の前の賊を排除せぬか!!」 目の前でガクッと肩を落とす賊の頭を見て、オリヴィアが周囲に号令を発する。 「お任せください!お嬢様!!」 誰よりも早くその声に応えたのはノーマンである。 「お……おぉおおおおおおお!!」 「俺も行くぜぇええええええええ!!」 続いて、己を奮い立たせた若者たちが次々と動き出す。 「ボ、ボスぅううううう!?」 警備兵と勇んだ有志たちに挟まれる形となった賊たちに、もはや抵抗する手立てはなかった。 事態は警備兵たちの手で速やかに処理され、その後、結婚式は再開された。 かのように思われたが、有無を言わせぬままに開始されたのは新郎によるスピーチ。 面々は皆一様顔をしかめている。 「一時は大変な騒ぎとなりました……ですが!我々に刃を向けた不届き者は、ラグーエルの守護者たちの手により一掃されました!!こうして一人も欠けることなく式を再開できるのも、彼らの活躍があったからこそ!その勇気と誇りに、皆で感謝を!」 既に半刻は経過しただろうか。 延々と言葉を並び立てる目の前の男が、つい先ほどまで人影で泣きながら震えていた男と同一人物であると、誰が信じられよう。 本人の家族たちが我先に会場から姿を消した気持ちが、容易に想像できてしまう道化ぶりである。 「さらに!忘れてはならない騎士がもう一人……彼女はか弱い女性の身でありながら……私を守り……たった一人凶剣の前に立ち……戦い抜いた!そんな彼女が今日!私の妻となって――」 「おい……そこを退くがよい」 いずれは誰かが遮ったであろう言葉を断ったのは、彼の背後に控えていたオリヴィアであった。 「おぉ……オリヴィア嬢!君からも話があるのかな?でも、もう暫らく待っておくれ。手短に締めくくるさ」 「そこを退けと言ったのだぞ……?」 「……え?」 壇上の先端に立つ夫となるはずの男。 オリヴィアがその背を指先でトンッと優しく押すと、彼はバランスを崩し、壇上から転落した。 「ぐぇえ!?」 無様な恰好のまま床に打ち付けられ、轢き殺されるカエルのような声をあげた男に、会場のあちこちからは小さな笑い声が聞こえてくる。 「皆の時間を僅かばかり頂戴したい。わらわはこの場を借りて皆に言わねばならぬことがある」 場内を駆け抜けたオリヴィアの声。 その瞬間、笑い声が止み、皆がその音に耳を傾けた。 「足を運ばせてしまった中、誠に心苦しく思うばかりだが……此度の婚姻、わらわは承諾しかねる!」 「な、何だと!?」 思わぬ発言に誰もが唖然とする中、一人慌てふためいたのが婿養子となるはずだった男。 「そもそも此度の一件は、ラークリウス家の、延いてはラグーエルの今後の繁栄を憂いたためだと現当主である我が父から聞かされている。それが誠の意であるならば、一考の余地もあろうが、蓋を開けてみれば茶番も茶番。民の未来を、己が欲を満たさんがために穢すとあらば、黙って見過ごすわけにもいくまい?」 「そ、そそ、そんなことがお前一人に決められるわけがない!」 「貴様の言う通りだ。今の時点ではな。だからこそ、わらわは宣言せねばならん。ラークリウ家が嫡女オリヴィア・ラークリウスは、今この瞬間を以て、父よりラークリウス家の家督を相続!さらに、領主の任を継承することを誓おう!!」 「な……じ、自分が何を言っているのか――」 「有事において!民の背中に隠れ、震えるだけの恥知らずに領主が務まるわけがあるまいっ!!」 「ひっ……!?」 「剣になれぬのならば、盾となれ!民の血が流れる前に己が血を流せ!それでこその領主であろうがっ!戯け!!」 皆、その言葉に聞き入っていた。 「わらわは未だ若輩も若輩。力も知恵も及ばぬが故、暫らくは皆に苦労もかけよう……だが、民の幸せを願う強さだけは何人にも譲らぬ!人が享受すべき愛を、自由を、希望を守るために戦おう!伏して頼む!わらわを信じてはくれぬだろうか?わらわを欲してはくれぬだろうか?わらわは其方らの声の全てに耳を傾け、誰も涙で頬を濡らすことのない世界のため、この身、この魂の全てを捧げるとここに誓おう!!」 直後、湧き上がる喝采の拍手は、会場の屋根を易々と突き抜け、ラグーエルの空にいつまでも響き続けた。 会場の庭に植えられた大きな木の陰に、一人の少女が座り込んでいた。 目にいっぱいの涙を溜めながら、少女は笑う。 「ありがとう……ぐすっ……本当にありがとう……リーネ……」
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/509.html
+久遠の探求者ルティア・マーニル 「では、いくかのぉ」 魔法学校の校門。 この敷地から外に出るのは何十年振りだろうか。 術式が刻まれたローブを羽織った学校の生徒が、彼女の横を通り過ぎて校内に入っていく。 「今週末のテストやばいよ!全然勉強してない!」 彼女がこの学園の最高責任者だと知っている者は少ない。 表に顔を出す事も殆どないのだから、それはそうなのだろう。 街の外までこんな噂が流れている。 ――800年間、名前の変わらない魔法学校の学長 大きなトランクを引き摺る少女は足を止めた。 「まだ見ておるか?もう飽きたとは言わせんぞ?」 帽子のツバを左手で上げて、澄み渡った青空を眺める。 「のぉ?…………レンズ――」 ――約800年前 魔導研究都市『オウルホロウ』 街の様々な場所に旗が掛けられ、どこか街全体が浮かれていた。 この街にある様々な魔法研究施設が一堂に会し、新しい技術を発表する魔法技巧の祭典の決勝が明日に控えているのだから仕方がない。 この祭典での最優秀賞者は、世界で最先端をいく魔法科学者として認められるのと同義。 今年もその技術をひと目見ようと、大陸中から観光客が殺到している。 街の商店街や酒場、民家の中から聞こえてくる人々の声は、ある話題で持ち切りとなっている。 「今年はどっちが勝つと思う?」 天才と呼ばれた9歳の少年と少女。 第72回 魔法技巧祭 最優秀賞 レンズ・ガリギア 第73回 魔法技巧祭 最優秀賞 レンズ・ガリギア 第74回 魔法技巧祭 最優秀賞 ルティア・マーニル 一介の研究者には出場さえ難しいとされる魔法技巧祭であるにも関わらず、ここ3年間連続で決勝に残り続けた2人に人々の注目が集まるのは必然だった。 オウルホロウ科学研究所の天才少年『レンズ・ガリギア』 オウルホロウ魔法学園の天才少女『ルティア・マーニル』 2人の天才は、偶然にも同じ日に生まれているのだから、民衆の盛り上がりに拍車が掛かる。 去年はレンズの3連覇かと噂されていたが、遂にルティアが初の優勝を飾った。 魔法と科学。 両者は似て非なる進化を遂げていた。 元々魔法とは、魔素と呼ばれる小さな物質を術者が錬成する事で発動する。 複雑な術式により、火の魔素は燃え盛る炎になり、水の魔素は氷塊へと姿を変える。 科学は、この魔素を錬成する部分を機械に任せて、特別な訓練を受けずとも魔法を扱えるようにするという目的が起源となっているが、今では独自の進化を遂げ、人の手による錬成では到底不可能な術式を実現した。 ここ数年は人体という限られたリソースに縛られない科学が有利だと、専門家は口を揃えていたが、ルティアは去年その下馬評を覆したのだ。 はるばる王都からも学者や政治家等、様々な人間がオウルホロウに集まっている。 もはや今年の祭典に興味のない者など、探し出すほうが難しいだろう。 人々が胸を踊らせて眠れない夜。 祭典が開催される会場の一室に2つの小さな影があった。 「ならば、氷から水、水から水蒸気にする時よりも、氷を一瞬で蒸発させた方が空気中に舞う魔素の結合率が高くなるというのか?」 「まだ実験段階だけど、結びつきが違うんだ。だからさ、超高圧縮した氷を物凄いエネルギーで蒸発させる事ができれば……」 「なるほど……それならば、前に上昇気流を発生させない燃焼方法の術式の話をしたが、あれの応用で……」 2人の会話は常人にはついていけないだろう。 普段の生活ではこんなに明るい表情を見せることはない。 天才と呼ばれた2人には話の合う友達がいなかった。 さらに、魔法学園と科学研究所の人間はお互いに相容れず、ギスギスとした敵対関係にある。 だから2人は、こうして大会の前夜にコソコソと密会する事を余儀なくされていた。 「……のぉ、レンズ。いつか、一緒に研究ができたらいいの」 ルティアは、話に区切りがつくと、去年と同じ事を口にした。 「そうだな。いつか2人で、最強の魔法科学を完成させよう!!それで世界をアッと言わせるんだ!」 レンズも去年と同じ返答をする。 その瞳は、希望の光で満ちていた。 それがどれだけ難しい事か、2人は解っている。 解っているからこそ、その約束をするのだ。 「では、明日は本気でくるのじゃぞ!」 「この僕が負けると思ってるのかい?」 「去年はワシが勝ったのじゃぞ?忘れた訳ではあるまいな!?」 「忘れるものか……忘れられないからこそ、今年は自信がある成果を持ってきたんだ!」 「フフフ……楽しみじゃのぉ」 ルティアは笑顔でライバルに手を振る。 「ではな、レンズ!」 「あぁ、おやすみ!ルティア」 二人は背中を向けて、それぞれの控室へと向かった。 ――それから10年後 「どうしてこうなってしまったのじゃ……レンズ……」 ルティアはあの時の写真を見ていた。 トロフィーを挟み、レンズと並んで撮った最後の写真。 レンズの用意した科学と、ルティアの用意した魔法は、偶然にも同じ魔素を使用した演目となった。 決勝でレンズの出してきた光を打ち付ける装置。 そしてルティアの出した光の柱。 光の魔素というものを発見し、それを実用化レベルまで落とし込んだ2人の発表は、大陸中を震撼させた。 しかし、それに一番驚いていたのは当の本人達だった。 なんの打ち合わせもせず、同じ物を発見していたのだから。 その時、ルティアは素直に嬉しかった。 レンズはやはり見込んだ通り、自分と同じ思考レベルを持っている。 更には、魔法と科学という違いはあれど、同じ物に興味を持ち、そして実現まで漕ぎ着けたのだから。 レンズのあの表情を見れば、自分と同じ事を感じていたのは間違いなかった。 しかし、周りの反応は2人の想いとは別の方向に走り出した。 どちらかが研究を盗んだという噂が広がり、先人はどちらだという議論ばかりされていた。 当の本人達がいくら否定した所で、騒動は収まるどころか輪をかけて大きくなっていく。 そして、翌年の魔法技巧祭は、魔法学園の過激派と科学研究所の過激派が激しく衝突した事をきっかけに、中止せざるを得なくなってしまった。 両者は魔法と科学、互いに自分達がより優れていると主張するようになっていく。 そしていつからかオウルホロウの街は、魔法が優れていると主張するマーニル派と、科学が優れていると主張するガリギア派に分断されていった。 その争いは次第にエスカレートしていく。 ガリギア側のデモ隊が魔法学園を覆うと、翌月には科学研究所の門が燃やされ、報復として魔法学園のシンボルである銅像が破壊された。 ルティアは魔法学園の学生リーダーとなり、事態を集束させようと躍起になる。 レンズは研究所の新規開発部門リーダーとなったと風の噂で聞こえてきた。 互いの勢力のリーダーが手を取り合うという意志を見せれば、この殺伐とした関係も解消される筈。 そう思って、全力を尽くしてきた。 しかし、ルティアが学生集会でどれだけのスピーチをしても、事態は一向に収まる気配を見せず、むしろ悪化していく。 普段はルティアにいい顔をしている学生も、少しずつ溜まったストレスを裏で吐き出しているらしい。 そして今日、ついに過激派により死者が出た。 少数のマーニル派が研究所の近くでガリギア派の人間と口論をして、あろうことか魔法でガリギア派の人間を怪我させたらしい。 それに激怒したガリギア派は機械で自己防衛を謳いながら交戦。 ついには死者数名、重傷者数名を出す大惨事となってしまった。 自身の研究室で心を決めたルティアは、両手で頬を叩いてからドアを開けた。 「マーニルさん!どこへお出かけですか!?」 校門を出ようとした所を、警備の学生に止められる。 「レンズに直談判しにいく」 学生は血相を変えてルティアを全力で取り囲んだ。 「ダメです!!絶対に行かせません!!奴ら何をするかわかりません!!昨日、あんな事件があったばかりなんですよ!?」 「だからじゃ!こんな事が今後起きぬように、停戦協定を結びに行くのじゃ!」 「ここを通す訳にはいきません!話が分かる連中らならば、ここまで事態は悪化していない!」 両者は一歩も譲ろうとせずに押し問答となる。 事実上、マーニル派の代表として持ち上げられているが、実際は彼らが掲げる“魔法こそが正義”という思想、信念の象徴となる人物がルティアだというだけだった。 故に彼女の意志を彼らが尊重する事はない。 ルティアは、警備の学生の言葉を聞いてため息を吐いた。 「はぁ……。なんでお前達はいつもそうやって戦う事ばかり考えているのじゃ……?お互いに上を目指して研究して、科学では出来ないような術式を身につけようとは思わぬのか?」 「あなたは分かっていない!あなたの魔術は誰もが認める最高の魔術です!それに異を唱える科学者のバカ共に教えてやらねばなりますまい!」 今や、オウルホロウは真っ二つに分断されてしまった。 治安もどんどん悪くなっている。 この様な思想がこれ以上広がる前に、止めなければならない。 「なんと言われようとワシはレンズに話を付けに行く。止められるものなら止めてみるがよい!!」 ルティアが手のひらを向けると、眩い光が辺りを包み込む。 ただの目眩まし。 しかし、それは光の魔素の扱いを十分に理解している者でなければ習得する事は難しい上位の魔法。 「くっ!!マーニルさん!!」 学生が目を開けられるようになる頃には、ルティアの姿は完全に消えていた。 ――オウルホロウ科学研究所 ルティアがここに足を運ぶのは初めてだった。 ずっと魔法学園の研究室に篭りきりだったルティアは、学園の敷地の外に出る事すら殆どない。 それこそ、年に一度の祭典が唯一の外出といっても良い。 研究所の正門は焼け落ち、立ち入り禁止となっていた。 大げさなバリケードが張られ、周りには人気がない。 以前過激派の連中が燃やしたという話が現実なのだと突きつけられる。 ここの科学者達は他の門を使用しているのだろう。 ルティアにとっては好都合だ。 自前の帽子とローブを脱ぎ、鞄へとしまい、大きなゴーグルを装備する。 顔の半分が隠れる科学制のゴーグルは、視界をより広くする為の装備らしいが、ルティアがこれを被る目的は顔を隠す為だった。 これで研究所の人間に見えるだろう。 「お邪魔するぞっと」 バリケードを乗り越えると、正面の広場に立てつけられた研究所の敷地の地図を眺めながら、レンズがいるであろう場所を探す。 様々な建物名の中で、ルティアの目を引いたのは敷地のほぼ中央に位置する『開発本部研究棟』。 レンズが噂通り新規開発部門のリーダーとなっているならば、ここにいる可能性が高そうだ。 ルティアはその場所を目指して足早に正門を後にした。 開発本部研究棟に入り込んだルティアは、レンズを探す。 棟内の地図を見ると、第01、第02研究室と番号しか書いておらず、地道に探すしかなかった。 ひとつひとつ研究室の中を覗き込んでは、中にいる人物を確認して回る。 廊下には殆ど人影がなく、ルティアを怪しむ者はいなかった。 外ではあんなにデモやら抗争やらが発生しているのに、内部は随分と静かだと考えたルティアだったが、それは魔法学園も同じかと思い出して納得する。 きっとレンズもこの状況をどうにかしたいと、ルティア同様に悩んでいるに違いない。 事実上トップの2人が手を取り合い、停戦協定を発表すれば、表で発生しているゴタゴタも全て解決する。 頭に思い描いたシナリオに少し笑みを見せつつ、レンズを探す。 そして、第38研究室にその姿はあった。 ノックをすると、中から声が響いてくる。 記憶の中にあるレンズの声を成長させれば、こんな声色になるだろうと想像できる声に一致した。 ルティアは胸を躍らせて扉を開いた。 「久しぶりじゃの。レンズ」 「……誰だ?今丁度忙しいんだ。悪いが、用事なら後に……」 ゴーグルを外し、顔を見せた。 「ッ……!?ル、ルティア!?」 彼の顔を見るのは、あの祭典以来。 その驚く顔も懐かしく感じる。 「調子はどうじゃ?新しい研究は進んでおるか?」 部屋の中にズカズカと入っていくルティアは、直前までレンズが睨みつけていた設計図らしきものを眺めた。 何やら小さな装置を中心に、装置とは比にならないほど巨大な術式が円形に広がっている。 なんの研究か分らないが、ルティアにそれを理解するのは難しそうだった。 レンズは設計図に目を向けながら話を進める。 「オウルホロウがこんな事になっているというのに、どうやってここまで来た!?」 「こんな事になっているからこそ来たのじゃ。マーニル派代表としてのぉ」 レンズは少しの間考え込むような仕草をしてから、色々と察したように口を開いた。 「……すまないが、君の力になれそうにはない。いや、なりたくないと言ったほうが適切かもしれないな」 どこまでを読んでその結論に達したのかは分らないが、レンズであればルティアの行動の意図を全て読み切っていると確信できる。 「何故じゃ!?オウルホロウはワシ等のせいで分断されておる。死者も出ているのじゃぞ……。こんなのいい訳がないじゃろう!」 少しだけ感情的になってしまった。 ルティアのシナリオが崩れていく。 「フフフ……。身体が大きくなっても君は変わらないね。あの頃のままだ……」 レンズは明るい笑顔をルティアに向ける。 「そんな事は聞いておらぬ!説明するのじゃ!」 「ルティア……。僕は君との約束をまだ忘れてないんだよ」 「はぁ……相変わらずその話の途中をすっ飛ばす癖は治っていないのじゃな。お前の下で働いている研究者は苦労が耐えぬだろうに」 「ははは、良く分かるね。どうやら僕は助手を持つのが苦手みたいだ。誰かに手伝って貰って効率が良くなった例がない」 他愛ない会話をしながらも、頭の中ではレンズの話を組み立てていく。 “約束を忘れていない” 意味するのは、やはりあの約束だろう。 『いつか、一緒に研究ができたらいいの』 『そうだな。いつか2人で、最強の魔法科学を完成させよう!!それで世界をアッと言わせるんだ!』 今の状態はとても一緒に研究が出来るような状態ではない。 ならば、意図するのは“最強の魔法科学の完成”だろう。 しかし、いくら考えてもその先の答えが出ずに、結局聞かざるを得なかった。 「最強の魔法科学の完成に、この争いは必要ないのではないか?」 レンズは、深く椅子に腰掛け直した。 「ルティア、君は……この街の活気に気が付かないのかい?」 「活気?今街の治安は悪くなっておるし、殺伐としておるではないか」 「確かにそう捉える事も出来るな。しかし、研究者の熱が上昇しているのを感じている。君にも思い当たる節はあるだろう?」 少し考えてから、ルティアはレンズの意図を理解した。 闘争心による相乗効果。 確かに、最近魔法学園の中でも打倒ガリギアという目的の為に、研究室に篭もり研究に没頭する学生が急増している。 新たな術式の発表会の開催も、以前の3倍近くになった。 それは科学研究所でも同じなのだろう。 革新的な技術改革に向けて大きく前進しているのは事実だ。 「人が傷つき合う事で得られる成果などワシは望んでおらん!」 気がつけばルティアはまた感情的に叫んでいた。 どうしても、研究者同士が争うなんて見ていられない。 ルティアにとって、抗争の話を聞いただけで、ガリギアと仲違いをしているような気分になる。 何よりも、人が傷つき、死者まで出ているのだ。 「そうだな。流石に死者が出たとなると話は変わってくる。でも、僕はもう少し見守ろうと思っているんだ。もし、本格的な戦争にでもなりそうだったら、その時は僕だって止めるさ。今の過激派の連中が何を生み出すのか、君は興味がないのかい?」 興味がないと言えば嘘になる。 しかしそれを見過ごせるかと聞かれたら、首を縦には振れない。 研究者としての興味よりも、優先したいのは人命だ。 「お主、変わったのぉ。昔はもっと、ワシと同じだと思っておったのに……」 「そうかい?僕も君も、あの頃から研究に打ち込んでいたじゃないか。今になって研究よりも優先したいものが出来たという君の方が変わってしまったというのが僕の見解だよ」 レンズの目の奥は、どこか寂しそうだった。 と、その時、トントンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。 「レンズさん、コーヒーをお持ちしました」 「あぁ、置いといてくれ」 ドアを開けて入ってきたのは研究員だろう。 白衣を着たスラっとした女性がルティアの顔を見ると、まるで幽霊でも見たかのような顔をしながら飛び跳ねる。 その拍子にトレイに乗せられたマグカップは宙を舞い、そのまま床に落ちると盛大な音を立てて砕け散った。 「ル、ルティア・マーニル!!!」 青ざめた顔でガクガクと震えながら、ゆっくりゆっくり後ずさりをする女性。 レンズがすぐにフォローに入る。 「あぁ、悪い。客人がいると言えば良かったね。僕の客だから丁重に扱ってくれ。丁度持ってきたコーヒーも無くなってしまったようだし、2人分淹れてくれるかい?」 「いや、ワシの分はいらん。レンズは平気かもしれぬが、これ以上ここにおると迷惑になりそうだしの。目的も済んだ」 ルティアは怯える女性に向けて笑顔を向ける。 「驚かして悪かったの。お主等の大事な“ガリギア”に何かしようとは思っておらぬから安心するのじゃ。こやつの助手は難儀だろうが、頑張るのじゃぞ」 女性は想像の中のルティアと、目の前にいるルティアに余程の違いがあったのだろうか、キョトンとした表情に変わり目をぱちくりさせている。 「そうか、なら――」 レンズが口を挟もうとするが、ルティアは手のひらを出して拒否をする。 「見送りなぞいらぬ。来た時と同じように帰るだけじゃからな。それにお前の研究の邪魔はしたくはない。世界をアッと驚かせる研究を早く発表するのじゃ!」 「まったく……わかったよ……」 ルティアはゴーグルを被り直すと、そのまま科学研究所を後にした。 この争いは“一緒に研究”をしていると言えるのだろうか。 幼い頃のルティアが想像していたものとは全く違う今。 それでも、レンズは約束の為に現状維持を望んだ。 周りから新しい研究が続々と開発されるこの環境が悪くないというのは理解できなくもない。 根っからの研究者のレンズならば争い続ける方が技術の発展に繋がると結論付けるのも納得出来る。 しかし、ルティアの胸の中にはザワザワした何かがあった。 (レンズ……ワシ等は本当にこれでいいのか?) ただ今は、レンズを信じるしかない。 あの男が言っているのだから、彼女は信じるしかなかった……。 ――5年後 レンズの思惑通り、オウルホロウの魔法学園では目まぐるしい技術の改革が続いた。 闇の魔素の発見と、その応用。 水圧を用いた物体の圧縮により、固形物から魔素を抽出する技術の証明。 夜空に浮かぶ星の位置と魔素の関係の解明等々。 数十年に一度出るかどうかの、それまでの根底を覆すような革新的な研究論文が次々と発表された。 しかし、ルティアは悩んでいた。 24歳になった彼女は、学生の立場から学園の名誉教授となっていたが、ルティアの中では大きな変化はなかった。 今までと同じように誰とも会話をせず、研究に熱を入れ続ける。 書きかけの魔法陣を見つめながら首を傾げているが、頭の中は他の事でいっぱいになっていた。 つい先日、学園の学生達がマーニル軍として旗を掲げ、ガリギア派に宣戦布告をしたと耳に入ってきたからだ。 そして昨日、街の南側で大規模な戦闘が起こり、両陣営に多大な被害が出たらしい。 それだけならばまだしも、民間人にも怪我人が出たと言う話まである。 「本当に……これで良いのか……?…………良い訳がないじゃろう!レンズ!!」 ルティアが拳を叩きつけると、使い古した机が大きな音を立てて揺れる。 その拍子に、上に置かれていたペン立てや本が転げ落ちた。 『もし、本格的な戦争にでもなりそうだったら、その時は僕だって止めるさ』 「あの言葉は嘘じゃったのか!?ワシを騙したのかレンズ!!これはもう立派な戦争ではないか!ワシとお前が大切にしている魔法と科学が殺し合いをしているのじゃぞ!?これ以上ワシは見ている事などできん!!」 ルティアは長いローブの裾を翻して、研究室を飛び出した。 学園の壁には『マーニル万歳』や『打倒ガリギア』などと書かれた張り紙や落書きがあちこちに散らばっていた。 「ワシ等の名を……なんだと思っておるのじゃ……」 怒りが込み上げてくる。 ことの発端は確かにこの2人なのかもしれない。 しかし、今ではその名は独り歩きしている。 集団が共通で持とうとしている目標が、その名として使われているような気がした。 数人の若い学生とすれ違った。 しかし、学生達はルティアの顔を少し見ただけで、話を中断する事なく歩き続ける。 もう、学園に在籍する学生達の中には、ルティアの顔を知らない者も少なくないのだろう。 自ら“マーニル軍”と銘打っているにも拘わらず……。 学園の敷地を示している門と壁は、巨大なバリケードへと姿を変えていた。 『マーニル軍に勝利を』の横断幕が、でかでかとその存在を主張している。 こんな物があるから何も事情を知らぬ者までも、面白半分に戦闘に参加しているのだろうと考えるだけで胸が苦しくなる。 (こんな戦争は……間違っておる……!) 手の平に光の魔素を溜める。 彼女の周囲100m程にある光の魔素がその手に集まり、視認できる程の眩い光が手の平の上数センチに留まる。 そして、集中してからその手を一気に前に出した。 オウルホロウ魔法学園の隅から、光の柱が上がった。 ルティアは“バリケードだった”場所を歩き、学園の外へと歩を進める。 外の風景はそれほど昔と変わらない。 しかし、昔溢れていた活気はそこに無く、静まり返った建物が項垂れるように見下ろしている。 信じられない光景に、ルティアは服の上から胸の辺りを強く握った。 (これが技術の進歩を加速させた結果だと言うのか……) 魔法は人の心を豊かにし、科学は人の生活を便利にする。 学園の授業で教えられた一節はただの理想だと考えずにはいられなかった。 色々な事を考えさせられながら市街地を通り抜けると、5年振りにそこへやってきた。 ――オウルホロウ科学研究所 こちらも魔法学校に負けず劣らずの巨大なバリケードが張られていた。 ただ、目の前にある壁には大小様々な装置が付けられており、何かが動く機械音がそこら中から聞こえている。 キュイン……キュイン……と不気味な程規則正しいリズムの音があちらこちらで鳴っており、ルティアに近づくなと警告をしているようだった。 ルティアは一歩ずつ威圧感を出す壁に近付いていく。 すると、様々な機械が動き出し、一斉にルティアに向かって何かを向けた。 砲筒の様なものもあれば、ガラス製の丸い水晶体の様なものもある。 これ以上近づけば侵入者と見なされて何かが飛んでくるのだろうと直感した。 「前のように簡単にはいかぬか……」 杖を身体の前に出したルティアは、その先端を真っ直ぐ巨大な壁に向けた。 「光に包み込まれるがよい!」 杖の先端から放出された光は、巨大な壁を一瞬で吹き飛ばし、辺りには焼けるような匂いが充満する。 「鉄というのはなんでこうも臭いのじゃ……」 鼻をローブで抑えながら、開いた門を通り抜けるルティア。 「お邪魔するぞっと」 すると、突然大きな音がルティアの耳を刺激する。 ウーー……ウーー……という嫌な音は、警報なのだろうか。 そして、複数の足音がルティアの元に向かってくる。 「まずいのぉ……レンズに会う前に捕まる訳にはいかないというのに……」 ルティアは早足で敷地内を駆け抜けて、開発本部研究棟の第38研究室に向かう。 あのレンズの事だ。 きっと自分と同じように同じ研究室に引き篭もっているに違いない。 ルティアは確信していた。 研究塔の中に入り込むと、階段を駆け上り第38研究室に迷うことなく向かう。 そして、そのドアを勢い良く開けた。 「レンズ!!何故こんな事態になっても止めないのじゃ!ワシはお前の言葉を信じていたのに!」 「シー。静かに。せっかく寝付いた所なんだ」 「ん?」 予想通りというか、あまりにも自然にレンズはそこにいた。 ルティアに顔を向けるレンズは人差し指を唇に当てて、小声で話す。 その横には小さな揺り籠があり、ルティアからは見えないが状況から察するに赤ん坊がいるのだろう。 「お前、子どもが出来たのか……?」 驚いたルティアは唖然としながらレンズの顔を見る。 「柄にもないだろう?僕もそう思うよ……」 レンズはフフっと笑いながら鼻の下を人差し指で擦る。 「ならば尚更……こんな危険な世の中にしておく訳にはいかぬではないか……」 人の命の重さは、子を持つ事で大きく実感すると聞く。 ルティアには分らない事だが、きっとレンズならば分るだろうと言葉を紡ぐ。 「ハハ……ハハハハ……!!」 急に笑いだしたレンズ。 「こんなに飛躍的に技術が発展しているんだよ?君の所の魔法も、こちらの科学も!この急成長をどうして止められるだろうか?聞いたか?先日の抗争……。その中で出したマーニル軍の闇の魔法!ガリギア軍が出した無人迎撃兵器!技術の向上を何故止められるんだい?君との約束を果たせる日も近そうじゃないか!」 その瞳は、狂っているように見えた。 技術の進歩……。 それが何を意味しているのか……。 ルティアには分からなくなりそうだった。 「何も争う事はない!ワシ等が幼き頃、魔法技巧祭に向けて努力した日を忘れた訳ではないじゃろう!?争わずしてその結果を得る事も出来る筈ではないか!!」 ルティアは気付かずに、頬を濡らしていた。 レンズは机の上にあったコップに入っているコーヒーをひと啜りすると、ルティアを直視する。 「僕は、あの頃から思っていたよ。君に……ルティア・マーニルに勝ちたいと。君もそうではなかったかい?」 「それは――!!」 否定しようとして、心臓を針で刺されたような感覚を覚える。 確かにあの頃、最大の目標はレンズを超える事だった。 最初に出場した年、惜しくもレンズに負け、次の年も2位…… そして3年目にしてようやく頂点に立つ事が出来た。 あの時の嬉しさ……それは頂点に立ったという事よりも、レンズに勝てたという喜びだったかもしれない。 研究中、絶対にレンズに勝ってやるといつも思っていたかもしれない。 闘争心があったからこそ……あそこまで研究をしたのかもしれない……。 言い淀んでいると、レンズが言葉を続けた。 「争いは……技術を加速させる……それを君も証明しただろう?」 「だからそれは――!!」 言いかけた時、ルティアの後ろで勢い良くドアが開かれる音がした。 「ガリギアさん!!大変です!!研究所内にマーニルが……!!」 ルティアが振り向くと、研究者だろうか、大きな機械を手に持った若い男が入ってくる所だった。 男はルティアの顔を見るやいなや、顔を青くして声を上げた。 「大きな帽子……長い髪……金色の杖……長いローブ……間違いない!!いたぞ!!マーニルだ!!!」 手に持った機械を、ルティアに向けた。 大きな筒の中から白い光が溢れてくる。 「ここで死ねええええ!!!」 ルティアは咄嗟に魔法で対抗しようと詠唱を始める。 しかし、男の持つ機械は、その時間を待ってはくれなかった。 「くっ……!!!!」 部屋に鮮血が飛び散る。 ルティアは何が起こったのか理解できない。 目の前に飛び込んできたのは、倒れ込むレンズ。 腹部から大量の血が溢れている。 「ガリギアさん……!!なんで……!!なんで……!?」 ガシャ――。 うろたえる男は、まだ煙の出ている機械を床に落とした。 「早く……早く術士を呼んでこい……ワシの学園にいる最高位の術士を早く!!」 ルティアは出せる限りの声を上げていた。 「そんな……マーニル軍になんか……頼らずに……」 「ならば貴様等の治癒装置でもなんでもいい!!一刻も早くレンズを救うのじゃ!!!!」 「は……はぃっ……!!」 ルティアの剣幕に押し切られたのか、男は足をもつれさせながら部屋の外へと走っていった。 「はぁ……はぁ……」 ふと、足元で苦しそうな呼吸音が聞こえてルティアは我に返る。 「レンズ!!大丈夫か!?息はあるようだな!!今止血を!!」 急いでうつ伏せにしているレンズを転がして傷口を確認する。 腹部にぽっかりと開いた穴を必死に塞ごうとした。 「はぁ……はぁ……」 なんとか呼吸は出来ているらしい。 が、傷が思ったよりも相当深い。 ルティアは声にならない声を出した。 「レンズ――!!!!」 レンズの胸にポトポトとルティアの涙が溢れる。 ふと、苦しそうな息の隙間から、小さな声が聞こえてきた。 「これが……技術……進歩……の………代償……か……」 「喋るなレンズ!!もう喋るな!!」 涙が止まらない。 「結局は……はぁ……お前が……正しかったのか……?」 レンズは喉から声を絞り出している。 「喋るなと言っておるじゃろう!!」 「それでも……僕は技術の……成長を止めたくなかっ……」 「絶対に助けてやる!!だから!!」 「大丈夫……だ……。研究室の……装置で…………」 レンズは左手で部屋のどこかを指差した。 指の方向をルティアが見ると、そこには何か巨大なカプセルのような装置が置かれている。 と、レンズの方へ目を戻すと、彼はズルズルと身体を引き摺るようにそこを目指して進んでいた。 彼の通った後は、まるで赤い絨毯が敷かれたようだ。 「待て!レンズ!ワシが運んでやるから!」 ルティアは彼を動かしてはいけないと思いつつ、あの装置ならばこの傷を治せるのかもしれないと考えて、レンズの両腋をしっかりと持つと力任せに引っ張った。 装置の前まで来ると、レンズは装置に付いているボタンを力強く叩いた。 装置は大きな音を立てて、ガタガタと動き出す。 「レンズ!どうすればいいのじゃ!?レンズ!!!」 「争いは……止めたぞ……」 レンズはニッと笑ったように見えた。 「な、何を言ってるのじゃ!?」 「今ので……オウルホロウに張り巡らせた……ある……回路が起動したんだ……」 「回路!?」 「そうだ……ルティア……もう……この街の……魔素は……全て…ここに集められた……」 「何を言っているのだ!?」 「誰も……機械を使う事も……魔法を使う事も……できない……」 レンズの言葉が理解できない。 しかしルティアは、次の瞬間に理解せざるを得なかった。 頭の中で術式を組もうとすると、周りに魔素がないのだ。 どんなに小さなものも……。 絶魔地帯―― 魔素が存在しない世界。 よく論文で目にするその単語は、理論上の物でしかない。 しかし、ルティアの周りは、まさにその状態だった。 そういえば、前に一度ここに来た時、この装置を見た気がする。 いや、あれはまだ設計図の上だった。 それを取り囲むような巨大な術式……。 あれが街全体を覆うような回路だったとでも言うのだろうか。 「お前……そんな事をしたら……どうやってお前を治療すればいいのじゃ!!!」 魔法が使えないのであれば、術士も意味を成さず、治癒装置も使えない。 「フフッ…………」 レンズは笑う。 「何を笑っているのじゃ!!お前を……お前をどうやって助ければ良いのじゃ!!答えろレンズ!!」 すると、レンズはゆっくりと喋り出す。 「喋るなと言ったり……答えろと言ったり……支離滅裂だな……。まぁ……いいさ……。その真っ直ぐな瞳は……ルティア……君の証だ……」 「何を言っておるのじゃ……?」 「僕の目的を……話そう。それは……今も昔も変わらない。君と…最強の魔法科学を……完成させる……事だ……。僕は考えた……。技術の進歩には……もっと……大きな……闘争心が必要だと」 コクコクと、ルティアは首を縦に振った。 「もちろん今のような殺伐とした……状況を望んでいた訳ではないが……状況が悪くなればなるほど……死ぬ気で研究を進めていく…人間が増えたんだ」 「それはワシの所も同じじゃ……」 ルティアは大粒の涙をボロボロとこぼしながら彼の話を聞き続ける。 「でも……僕が間違って……いたかもしれない……命は……有限…だから……僕は……生きているうちに……約束を果たせそうに……ない……すまない……ルティア……」 「諦めるなと言っておるじゃろ!!」 ルティアの言葉が部屋に響くと、赤子の鳴き声が聞こえてきた。 「っ……!!ほれ!お前には子もいるのじゃろう!?」 レンズが少し笑ったように見えた。 「だから……君にお願いが……ある……僕の意思はそこにいる僕の子や……その先の世代に受け継がれていくだろう……。だから……君が最強だと思うような魔法科学が……完成するまで……見守って貰えないか……?」 「どういう事じゃ!?そんなの出来る訳がないじゃろ!?お前無しでお前が求めているような技術は――」 ガリギアはうっすらと開いた目をルティアに向ける。 その瞳は、あの、幼い頃祭典の会場で見せていた時の、希望に溢れた光を帯びていた。 「僕が……この街の魔素を……一点に集めたこの装置は……魔力を生命力に変えるものだ……」 「生命……力……?」 「元々は治癒效果のあるものにしようとしていたが……モルモットでテストをしていたら……元々の寿命の……何倍も……何倍も生き続けてしまってね……。膨大な魔素を……集めれば集める程……その效果は強くなる事を証明した……」 「なんじゃと……!?」 「満足な臨床実験は出来ていない……どんな副作用があるかも解らない……オウルホロウ中の魔素を使って上手くいくか……どうなるかわからない……それでも……これを君に使ってみたいんだ……」 「っ……!?」 レンズは……一体何を言っているのか。 常人ならば理解は出来ないだろう。 そんな無茶苦茶な話を、信じろと言った所で笑われるだろう。 しかし、ルティアは真剣な表情で話を聞き続ける。 そんな装置を作れるとしたら、目の前の男しかいない。 「僕は……この怪我ではどうやっても助からない……だから……僕達の夢を君に託したいんだ……」 「…………」 ルティアは言葉を失う。 レンズは本気で言っている。 「僕は科学者として……対した功績は残せなかったかもしれない…でも――」 「――僕が“愛した人”の……命を繋げるならば……科学者冥利に尽きるだろう?」 それを聞いて全てを悟ったルティアは叫んだ。 「お前はバカか!!!自分勝手すぎるじゃろうが!それにお前、結婚もしたんじゃろう!?実の子の前で、なんという事を言っておるのじゃ!」 しかし、レンズは真剣な目で語る。 「僕と君が結ばれたら……争いが止まる……そうすれば技術の成長が…がはっ!!」 血を吐いて倒れこむレンズ。 「おい!!レンズ!!」 この男は、そこまでして約束を? 「つくづく僕は……バカな奴だと思うが……最後くらい……我儘を言っても……」 突然慌ただしく複数の男が部屋になだれ込んできた。 「ガリギアさん!何故か街中で魔素が枯渇してしまい……治療ができない状態でして……!!」 ルティアの望みが音を立てて崩れた。 機械であれば、魔素を充填出来ると昔レンズに聞いた事があったが、レンズの作ったこの装置は機械の中の魔素も根こそぎ集めてしまったらしい。 「ハハハ……僕の理論が証明された……」 血を吐きながら尚、嬉しそうにするレンズ。 ルティアは心を決めた。 「お前ら、そこのレンズの子を連れて部屋を出ろ」 男達は慌てている。 「いや、しかし……」 「この子の言う通りにしろ……僕からも頼む……」 男達が言われたとおり、赤子を連れて出ていくと、レンズは笑顔を見せていた。 「ありがとうルティア……さすが僕のライバルだ……」 「ワシはお前との約束を果たすと約束する。ただし、ワシからも我儘を言わせて貰う」 「なんでも言ってみろ……」 「お前も……天から行く末を見守れ」 「死後の世界か……非科学的だな……。でも……君の願いだ………約束しよう」 ――マーニル魔法学校 校門前 少女は青空を見つめる。 あれから数ヶ月。 魔法都市マーニル、科学都市ガリギアという2つの街ができた。 オウルホロウは“絶魔地帯”として、今でも立入りが禁じられている。 魔法学校を開校して自らが学長となってからも毎日研究を続けていたが、レンズとの約束を果たしたと言えるような魔術は完成していない。 あの時の副作用なのか、身体が随分と縮んでしまったままだが、そんなに不自由はしていない。 自分の名が街の名前になるという事はむず痒かったが、100年もすれば慣れてしまった。 2つの街は、あの頃よりはマシになったが、今でもいがみ合いを続けている。 しかし、帝国軍という第3勢力が出た今ならば―― 科学都市ガリギアに向かう彼女は天を仰ぎつぶやく。 「まだ見ておるか?もう飽きたとは言わせんぞ?」 +漆黒纏う魂の先導者ザラムゴール 「お前を直接触らせてくれ……ヒヒヒッ、その美しい魂に触れてみたいのだ!」 コルキドからシャムールに差し掛かる街道で、遂にかの魂との邂逅を果たす。 体の奥底から湧き上がる欲望を抑え込むことができない。 「そ、そそそそんな汚らわしい事できません!」 その声に呼応して吹き荒れる吹雪。 拒絶。 それもまた必然。 この者はまだ自身の価値と、その役割を知らぬ。 だからこそ、その価値を示してやらなければならない。 その役割へと導いてやらねばならない。 「ヒヒヒヒッ!素晴らしい!こんなにも力が!!やはりその魂、我の手中に収めたい。お前が欲しいぞ!!」 「うぅぅうういやぁぁぁああああああっ!!!!」 「ヒヒヒっ!どこまで逃げようと無駄だ!我が名はザラムゴール!お前を!必ず手中に収める!ずっと視ているからなぁ!ヒヒヒヒヒヒッ!!」 収まらない興奮。 あれこそが新たなコルキドの盾。 名はシルティア。 「あそこまで必死に逃げようとするとは……まぁ、ひとまずは魂の質を確かめられただけでも良しとすべきか。まさかとは思ったが、あれほど間近で目にしたというのに、魂に一切の濁りさえも見えなかった……ヒヒ……ヒヒヒヒ……欲しい……」 まさに純白。 雪景色の背景にすると、色が相まって視認することが難しい程の穢れ無き白。 それが彼女の魂の色。 彼女の魂が如何に素晴らしく、貴重で、特異で、異常かを理解するには、まずは魂というものについて深く知らねばならない。 思えばこれまでの我の生涯は、この出会いの価値を高めるための布石だったのだろう。 我はコークの祈祷師の家系に生まれた。 祈祷師と聞いて何を思うだろうか。 いかがわしい嘘っぱちの肩書。 そう思う者も多いのではないか。 そもそも祈祷師とは、名は違えど世界各地に実在する能力者の総称だ。 祈祷は具体的な願いを信仰の力によって祈り、具現化しようという試みであり、それらを行えば、その者は皆、祈祷師だといえる。 五穀豊穣、大漁追福、雨乞いなどの天候祈願。 個人の吉凶を占う事は勿論、宗教的な教え、悪魔払い、呪術、魔術まで幅広い意味を持ち、果ては野草や薬草による医術とも縁浅からぬものだ。 我々一族は祈祷師として、死に直面した動物や人の魂を看取り、弔い、成仏させられるよう願いを捧げることを生業としていたのだが、あることをきっかけにその仕事も少し変わった。 一族の中に魂を視認することができるものが現れ始めたのだ。 その力は代を経るごとに強くなり、魂を視て、その者が就く仕事や役割が本当に相応しいかを見定めたりといった仕事を生業にするようになった。 どこか高尚ぶった嫌味な仕事だと思っていたが、我は全力で励んだ。 仕事そのものではなく、その過程の中に特別な価値を見出していたからだ。 魂。 その存在の有無を問えば、万人が万人ともイエスと頷く絶対不変の真理。 例えそれを視認することはできなくても、その人間と接することで『心が綺麗』だとか『崇高な精神』だとか感じることは多かろうと思う。 しかし逆に『汚い』『卑しい』『悪趣味』だと感じてしまう人間に出会うこともあるはずだ。 このどれもが魂を基準にして表現される感情だが、何故同じ人という種でありながらこうまで違ったモノが出来上がるのか。 それは各々の人生に起因するところが大きい。 元来、生まれ落ちた魂は皆、純白で美しい。 遺伝や疾病などの例外はあるが、生まれた時から穢れた魂というものは存在しないと言っていい。 魂はそれからの人生の中で変化していく。 知識や経験を得ることで、また、異なる文化や他人と関わる中で様々な影響を受けていく。 こうして無垢なる純白の魂は徐々に影響を受け、その色を変容させていくのだ。 生きとし生ける種全てに魂は内包されているが、あらゆる生き物中で、人間の魂ほど最も多様さに秀で、興味をそそられるものはない。 百人の人間がいれば、百通りの魂の色が存在する。 ただし、その中に生まれたままの純白の魂はありえない。 魂の穢れは人が生きてきた証であり、生きていることの証明でもある。 だからこそシルティアの純粋無垢なる魂の存在はあまりにも稀有で、異常なのだ。 故に彼女には彼女にしかできない役割がある。 あれは数年前。 まだ祈祷師としての仕事に従事していた頃の話だ。 「正義は我等にあり!これに楯突く不遜な輩に、裁きの鉄槌を下すのだ!!」 「「おぉおおおおおお!!」」 祈祷師として各地を巡る中、たまたま遭遇した戦場。 山間の平野に陣を敷く二つの軍勢が、今まさに衝突しようというところだった。 所詮は縁も所縁もない者達同志の闘争だ。 争いは虚しいだとか、傷つけあうのは悲しい事だとか、そんな感傷的な想いはこれっぽっちも沸いてはこない。 だが、その光景は我の興味をそそるものだった。 陣頭で剣を掲げ、高らかに正義を謳う軍団長の、酷く濁った魂の醜悪さに。 軍団長を見つめる兵士達の魂の、希望、欲望、恐怖、愉悦、様々な色に彩られた多様さに。 戦いを経て、その魂がどのように変容していくか気になった我はその様子を静観した。 開戦し、死にもの狂いで斬り合う両陣営。 そして、そんな彼らの肉体が死を向かえる瞬間を目撃した。 肉体が機能を失うと、そこに収まっていた魂は追い出され、行き場を求めるように彷徨う。 やがて、その魂は最も強く想い続けた純粋な思いに染まり、霧散していった。 「う……死にたく……ない…………」 「痛い……助け……てくれ……!」 終戦。 勝者は去り、屍と間も無く死にゆく者達だけが残された、戦場の跡。 我は誘われるようにしてそこへ立ち、消えゆく魂達を見送った。 その時、ふと思いついた。 魂が見えるからこそできることが、ただ彼らを見送ることだけ。 否。 気付いていなかった本当の役割があるのではないだろうか。 そう思い、魔素で死肉と魂を繋ぎ合わせ、導く様に道を示してみた。 するとどうだろうか。 再び動き出した死体。 挙動不審で動きもぎこちないが、確かに死んだはずの肉体が、消える運命にあったはずの魂が生を取り戻したのだ。 しかし、間もなくして肉体は再度機能を失い、その際に魂も燃え尽きた。 本来の器ではないため、定着することができないのだろう。 ならば、より多くの魂を集め、力を合わせることで肉体に繋ぎとめることはできないだろうかと考えた。 試してみると、死肉の中で多数の魂は混ざり合い、強大な力となり命を維持し続けた。 そこでようやく気付いたわけだ。 我の役割は死に行く魂を救済すること。 それこそが天に与えられた使命であると。 「――――というわけだ。我の使命のために、その魂を貸してはもらえぬだろうか?」 「お、お断りします!!」 「何故だ……これだけ懇切丁寧に事情を話したというのに……!」 「そ、そもそも……そんな話をしながら走って追いかけてくる方にどう接したらいいのかわかりませんっ!!」 せっかくシルティアに会うことができたのだ。 みすみす逃す手はあるまい。 そのまま追いかけてみたはいいが、思えばいきなり魂をよこせというのは我ながら紳士的ではなかった。 だからこそこうして事情を説明したのだが……。 「わ、私にもやらねばらないことがあります!そのためにも、魂をお渡しするわけにはいきません!!」 「ほう……聞こうではないか。足を止めよ。我としても、もう少し落ち着いて話がしたい」 「ち、近づかないでください!!男の人に触られるなんて……そんな……!!」 「む?そうか……考えれば、お前はコルキドの王宮に閉じ込められていたのだったな。安心すると良い!!道端の有象無象ならともかく、我はあのような男達とは違う!!だから話を聴いてはくれまいか!?ヒヒヒヒ!」 「確かに国にいた男の方たちとは違います!私にもわかります!貴方は危険です!!」 「何を言うか!?口を開けばでまかせばかりで、自分の魂がどんな色をしているかも知らぬ無知な輩と一緒に――ぬぉっ!?」 つい取り乱し、石ころに躓いたザラムゴール。 そのままの勢いで、顔面から地に突っ伏すように数メートルに渡る盛大なこけっぷりをシルティアに見せつける。 「ぐ……おぉ……」 いかん。 我としたことが。 逃げられてしまう。 「あ、あの……大丈夫……ですか?」 「…………」 顔をあげると、心配そうな彼女の顔。 あれほどまでに拒絶していたはず我に対し、なんという…… 「ヒヒヒ……そうか。我に惚れたか」 「な、ななな、なんでそうなるんですか!!」 「隠すでない。そうか……これが噂に聞く『つんでれ』というものだな」 「『つんでれ』というものが何かは知りませんが、大丈夫そうですね!もう追ってこないでください!!」 そう言い残し、再び駆けだそうとするシルティア。 「待て!待ってくれ!頼む……!」 「……な、なんですか?」 なるほど。 少しずつこの女が分かってきた。 「少しだけ話を聞いてくれ……少しだけでいいのだ……頼む!」 「う…………じゃ、じゃあ……少しだけなら……」 大丈夫かこの女!? ちょろすぎて逆に心配になるぞ! ともあれ、ここで我にとってこの女が如何に必要であるかを訴えれば、丸め込むことができるやもしれぬ。 「ありがとう……優しいのだな」 「そ、そんなこと言っても、魂を貸したりはしませんからね!」 「我も話を急ぎ過ぎた。順を追って説明しよう」 「聞いてますか!?貸しませんからね!?」 「お前の魂の価値と、我の使命については先ほど話した通りだ。では、その魂が何故、我にとって必要なのかを説明しよう……」 「あの……聞いてくれてますか……?」 「我の使命は魂の救済だ……だが、それにはいくつかの課題があった……」 「勝手に回想に入らないでください!あ!ちょっと――」 死霊術を開発した我は自身に課せられた使命について理解した。 そして、その使命を全うすべく己の技を高めていった。 全ては善良なる魂を救うためにだ。 これまでの成果でわかったことは三つ。 一つ。 いくら状態の良い肉体を用意しようとも、他人の魂一つではその機能を維持するには限界がある。 二つ。 多くの魂を掛け合わせることでいくらか機能を維持することはできるが、いくら善良な人間の魂でも、その魂には微かな濁りやくすみがある。 そんな魂をいくつも掛け合わせると、濁りは濃くなり、限界を迎えると自壊してしまう。 三つ。 それでも肉体と魂を維持しようとするなら、多くの魂を穢れ無き姿に中和するだけの無垢なる魂が必要不可欠である。 それに気づいた時、我は絶望した。 己の使命を果たすことができないと悟ったからだ。 無垢なる魂。 そんなものは存在するはずがない。 数多の魂を見続けてきた我だからこそわかる事だった。 そんな時だ。 コルキドの新たな盾の器の噂を小耳にはさんだ。 なんでも雪のように白く純真な心を持っているとか。 半信半疑ではあったが、最後の希望として見るだけ見ておくのも悪くないと思った。 その女は、王宮の中に隔離されていた。 我はコルキドの王宮の鉄壁の守りを崩すため、大量のアンデッドを用意した。 戦場で死肉を漁り、彷徨える魂達に助けを求めたのだ。 彼らは生にしがみ付ける喜びの代償として我に力を差し出した。 そして、そうして作り上げたアンデッドの軍勢を一挙にコルキドの街に攻めこませ、あとは混乱の隙を突いて王宮内に忍び込むだけとなった。 だが、何かがおかしい。 圧倒的な戦力差であるはずにも関わらず、何故か前線が押し返されはじめたのだ。 前線の様子を伺うと、そこには明らかに異質な魂が一つ。 吹き荒れる吹雪の中、雪の白さに紛れながらもなんとか視認できたそれこそが新たなるコルキドの盾と、その魂だった。 その魂の有り様には感動したぞ。 一切の穢れ無き純一無雑な魂。 強大な意思と絶大な精神力の強さが伺えるそれは、まさに我が求めた魂。 なんとしても欲しい。 そう思った。 我は再びアンデッドに命令を出し、その者に向けて突撃させた。 しかし、軍勢は動かない。 用意した死肉の中にあったはずの魂たちが皆、完全に浄化され、消え去っていったのだ。 清らかな魂が、濁った魂を浄化することは知っていたが、こんなことはあり得ない。 そもそも清らかな魂の方も影響を受け、一定の濁りが生じるはずなのに、それすらも一切感じさせなかった。 もっと見たい。 もっと知りたい。 この手で触れたい。 この手で穢したい。 「そう……それこそが――」 「私じゃないですか!というか、王宮を襲ったのは貴方だったのですね!やっぱり悪い人です!!」 「ぐほぉ!?」 不意にみぞおちを襲う衝撃。 投げつけられたのであろう石が地面を転がる。 「ま、待て!襲ったのではない!救おうとしたのだ!!うら若き美しい乙女を王宮という名の牢獄に閉じ込め私利私欲のために利用しようとする者達からお前を!!」 「う、うぅうう、美しいだなんて……はっ!そ、そうだとしても!コルキドの方たちを傷つけたことは許されません!だいたい私は閉じ込められてなどいません!」 「ここまで言ってもわからぬとは……やはり力尽くで連れて行くしかあるまい……!」 「そんなことはさせません!私にも果たすべき使命があります!」 「そのような盾一つで我が眷属達を退けられると思うなよ……?」 「眷属……?」 「我のみに許された御業だ!恐怖するがよい……我が呼び掛けに応え、この者に魂の救済をぉおおおお!」 「…………」 「……ん?」 「あ、あのぉ……アンデッドさん達はコルキドで私が……」 「ヒヒ……我としたことが……」 「えっと……ご、ごめんなさいっ!」 「がっ!?」 ―――――― ―――― ―― 目を覚ますと、当然そこにシルティアの姿はなかった。 「我を殺す絶好の機会だったものを……やはり惚れられたか?我も罪作りな……ヒヒ……」 この時、ザラムゴール自身はまだ気づいてはいない。 魂の救済という己の信じる使命とは関係なく、シルティアという一人の人間と、その魂に特別な関心を抱き始めていたことを。 そして、それがやがて使命を超えた、彼最大の目的となる事を。 当然、シルティアの後を追いかけるザラムゴール。 その行方を探すことはさほど難しい事ではなった。 「あぁ!大きな盾を持ったお嬢さんね!」 「お姉ちゃんに風船とってもらったの!!」 「おぉ!あの子なら南に向かったぜ!!」 すれ違う人という人に、大きな盾を持った女について尋ねると、皆が笑顔でその行先を教えてくれた。 あの性格である。 頼みごとをされれば勿論のこと、少しでも困った人間を見かければ居ても立っても居られないのであろう。 それどころか、少しでも何か手伝えそうなことがあれば自分から声を掛けに行きそうだ。 その証拠に、彼女に助けられたと言う人間を辿ると、そのまま綺麗にシルティアが通ったであろう道ができあがった。 「このまま行くとジールの街か……ヒヒヒ……」 先のやり取りでは思わぬ誤解を与えてしまった。 我が使命の崇高さと素晴らしさを説明しても再び拒絶されるだけだろう。 ならばここは一つ、罠を仕掛けてみるのも良い…… ジール街に到着し、早速準備に取り掛かる。 日避け用のフードで身を隠し、簡単な露店を用意したザラムゴールは、占い師としてシルティアの登場を待った。 「ここでならフードを被っていても怪しくない上、占い屋といういかにも女が好みそうな趣向。我ながら隙の無い見事な戦略だ……ヒヒヒ」 客として訪れたシルティアに、占い師としてアドバイスをする。 旅の道中で知り合った祈祷師の話に耳を傾け、信用して協力するように、と。 そうして彼女を取り込み、魂を手中に収める算段である。 「あとはあの女を待つだけか……ん?」 「…………」 店の前で立ち止まり、じっとこちらを見つめる女。 恰好から見て、この街の人間のようだが。 「ここ……占い屋だよな?」 「あ、あぁ……どこからどう見ても占い屋だろう?」 「ふ~ん……」 なんだ? まさか偽物だとバレたのか? 「まぁいいや。ところでよぉ……ど、どんなことでも占ってもらえるのか?」 「え?あぁ!も、勿論だ!我に占えぬことなど無いぞ!」 こんなどうでもいい女を相手にしている暇はないというのに。 今まさにあの女が通りかかりでもすればどうしてくれるつもりなのだ。 しかし、ここで騒ぎを起こすわけにもいかぬか……。 「じゃ、じゃあちょっと占ってもらおっかなぁ~!」 「う、うむ……何を占いたいのだ?」 「えっと……その……今、ちょっと気になるっていうか、そんな感じの人がいるんだけどよぉ?その人とこれからどうなるかな~……なんて……」 「なんだ……色恋の話か……」 下らん。 なんと下劣で低俗な話か。 こんなことで一喜一憂できる気楽な人生が羨ましい限りだ。 「……ど、どうだ?」 どうでもいい。 そう答えたいところだが、あまり無下に扱って泣かれでもしたら厄介だ。 ここは無難にやり過ごすのが一番だろう。 それにしても、この女もなかなかどうして綺麗な魂をしている。 あの女のように純白とは言わないまでも、十分に清らかで、それでいて真の通った力強さを感じる。 その魂の美しさに免じて、少し情けをかけてやるか。 「ふむ……良き兆しが見える。その想いを大切にしておれば、やがては必ず報われる日が訪れるだろう……努々、その心持ちを損なわぬことだ」 「そ……そっかぁ!いやぁ……まさかあのシャフールさんと……そうか、そうかぁ!!」 「シャフールというのがお前の想い人の名か?」 「ちょ!?お、想い人なんかじゃねぇよ!!ただ、ちょっと気になるだけっつーか……てめぇ!変なこと言ってんじゃねぇ!!」 「は?なにを――ぐほぉえ!」 「そっか、そっか……へへ……へへへへ……」 不意にみぞおちを抉られ、のたうち回るザラムゴールをよそに、上機嫌な面持ちで店を後にしていった娘。 「げほっ……な、なんと野蛮な……あのような魂を少しでも綺麗だなどと思ってしまった我の過ちだ……やはり真に美しいのはあの女の魂だけなのだ……!」 「大丈夫ですか!?しっかりしてください……!」 膝を突き、呼吸を整えているところに差し伸べられた手。 その透き通るような肌には見覚えがあった。 「立てますか?」 顔を上げて確認する。 シルティアである。 「あ、あぁ……ありがとう」 「何があったのですか?」 「いや……何でもない」 そう。 こんなこと何でもない。 目の前に目標が現れたのだから。 「すまない、お嬢さん。お礼に何か占ってあげよう」 「占いですか?」 「あぁ。見たところ旅の途中と見受けられる。その旅路の行く末について、なんてどうかな?」 「いえ。どうぞお構いなく!大したことはしてませんから!では、わたしはこれで!」 「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ!」 慌てて彼女の腕を掴み、引き留める。 「え!?あ……その……手……」 「手?」 「ご、ごめんなさい!男の人に触られると私っ!どどどど、どうにかなっちゃいそうなんですぅうううう!!」 途端、ものすごい力で腕を引き剥がされ、そのままどこへとなく駆けて行ったシルティア。 作戦失敗。 どころか、作戦に入るまでも無く回避されてしまった。 「なるほどな……」 次なる作戦を考えねばならない。 どうやらあの女は男を未知の対象、あるいは恐怖の対象として見ている節がある。 ならばそこからメスを入れていくか…… 街の者に墓地の場所を聞き、陽が落ちてからそこを訪れたザラムゴール。 「ヒヒ……我等の時間だ……起きよ我が眷属達!!」 呼び寄せられるように彷徨っていた墓地の魂を手ごろな墓穴へと導くと、少しして、這い出るようにアンデッドが数体姿を現した。 「ヒヒヒ。眠りについていたとこすまないが、少し手を貸してもらうぞ……?」 それらにフードを被せ、安物のナイフを手渡すと、立派な盗賊集団の出来上がりだ。 武装させたアンデッド軍団を街内へと差し向けたザラムゴールは、姿を見せないようにしながらその少し後ろをついて歩いた。 街を徘徊すること小一時間。 シルティアの姿を見つけた彼は、アンデッドへと命令を出す。 「行け……我らが大儀のために……!」 「きゃぁああああああ!」 ザラムゴールの指示の元、街民に襲い掛かったアンデッド軍団。 当然、その異変を察知したシルティアが現場へと駆けつける。 「何事ですか!?」 「た、助けてください……!」 今にも斬り付けられんとしている街民。 「今だ……!」 屋根上から颯爽と姿を現し、魔術の詠唱を開始する。 「罪の無い人間に危機迫る中、それを助け出す我!あの女は我の人間性への認識を改め、自ら歩み寄ってくる!そしてそのままあの魂を手に入れる!完璧クオリティ!今助けてやるぞ……我が使命のために利用されるだけの傀儡よ!」 「おやめなさいっ!!」 何かが辺りを駆け抜けた。 シルティアの発した声がそのまま衝撃となり、ザラムゴールとアンデッド軍団の動きを封じる。 「な……何だこれは!?」 恐怖。 それに似た感情が体を支配し、硬直する。 街民は何が起こったのか理解できない様子でキョロキョロと辺りを見回すばかり。 「まさか……一喝しただけで……気迫だけで我らを制しているとでも言うのか!?」 硬直の隙を見逃さず、アンデッドの懐まで踏み込んだシルティアは、そのまま流れるような体術と盾術で軍団を薙ぎ払う。 その瞬間、死肉へと込めた魂達が瞬く間に浄化されていくのが見えた。 「ふぅ……大丈夫ですか?」 「え、えぇ……ありがとう」 あてられただけで抵抗すらできなくなるほどの清気。 ダメだ。 アンデッドやそれに属する力では対抗しようがない。 まさしく天敵。 「あ!貴方は……!!」 「む!?」 悠長に屋根上でうろたえていたザラムゴールの姿をシルティアが捉える。 「また貴方の仕業だったのですね!許せません!!」 「ま、待て!これには事情が――」 「問答無用ですっ!!」 ここ数日で何度気を失うハメになった事だろう。 そのまま屋根上で大の字になり気絶してしまったザラムゴール。 朝日が眩しい。 浄化されてしまいそうだ。 「我は諦めぬぞ……ますますその魂を手に入れたくなった…!」 存在し得ないはずの奇跡を前にして、いつの間にか使命などどうでもよくなっていたことに気が付いた。 「ヒヒヒ……我もまた浄化されてしまったとでもいうのか?」 ならば残された感情はただ一つ。 あの魂を欲する欲望のみ。 「あの……た、助けてください……!」 「どうしました!?」 「実は……盗賊に荷を奪われてしまって……」 「なんですって!?大変です!今すぐ取り返しに行きましょう!」 次なる作戦はこうだ。 事件の被害者を装い、人気のない所までこの女を連れて行く。 そして、あらかじめ用意しておいた落とし穴に誘導し……捕らえる!! シンプルゆえに不確定要素の入り込む余地の無いプラン設計!! 「ど、どうやらあの遺跡の方にアジトがあるようで……」 「なるほど……自警団の方たちに相談はしましたか?」 「え!?あ、あぁ……その、急いで取り返さなくてはいけないもので……その……」 「わかりました!私に任せてください!!」 向けられる満面の笑みに意識が遠のく。 「う……あ、案内します……こちらです」 「はい!」 何やらとてつもない罪悪感に苛まれ始めた。 手早く済まさねば精神上あまり良くない。 「この辺りから遺跡の中に入っていったようなのですが……」 「なるほど……少し探索してみましょう!」 徐々に落とし穴へとシルティアを誘導し、今か今かとその時を待ちわびる。 「おかしいですね……何もないようですが……」 「もう少し右だったような……!」 「右ですか?この辺りでしょうか……?」 「あー……少し行き過ぎです!もう少し右です!いや、左……あと二歩ほど……!」 「左ですか?やけに具体的ですね……えっと……」 「そう!あと一歩……!」 「あっ!」 「遂にこの時がぁああ!!」 「ありましたよ!遺跡への入口!!確かにこれは見つけにくいですね!」 「なんだとぉ!?!?」 「!?」 「あ……」 ついフードを取っ払って決めポーズを取ってしまっていたザラムゴール。 その様子を見て、シルティアもまた色々と察した様子である。 「また貴方ですかっ!何度も何度も私を騙して……!」 「ご、誤解だ!我にお前を謀るつもりはない!ただ、その魂が欲しいだけなのだ!!」 「死者を蘇らせる手伝いなどできませんっ!それは死者に対する冒涜です!!」 「何を言う!想いを遂げられずに散らした命を、我は救済しようというのだぞ!?これ程に崇高で気高い役目が他にあるとでも言うのか!?」 「それは悲しいことです!ですが、それもまた運命です。それを勝手に解釈して捻じ曲げる行為は良くないと思います!」 「ヒヒヒ!何も知らぬ人形が言うではないか!!」 「だからこそ世界を知り、少しでも多くの人々を救う手伝いができるように願い、コルキドを出たのです!」 「世界を知るだとぉ?それは世に溢れる穢れに触れるという意味だぞ?お前の価値は失われるかもしれないのだぞ!?」 「穢れ無きこの身、この魂のみが価値だというのならば、私には価値がないのでしょう!私は穢れも受け止め、弱き人々の盾になることを誓ったのです!」 まるであての無い願望。 理想だけを口にし、妄想にふける愚かな者をごまんと見てきた。 そうした連中の魂は傲慢な自己陶酔に染まりきり、ヘドロのような色をしていた。 この女は連中と全く同じ台詞を吐きながらも、相変わらずの無垢なる魂のまま。 「本物か……」 「なんのことですか……?」 「ヒヒ……ヒヒヒ……やはり我はお前を欲するぞ!あぁ!欲しい!お前が欲しい!!お前だけが欲しいのだ!!!!」 「ほ、欲しい!?」 「もっと間近で見せてくれ!直接この手で触らせてくれ!我の欲望で穢させてくれぇ!!」 「はわわわわわわわ!?な、なんてことを……!?!?」 「シルティアぁああああああああ!!」 「い、いやぁあああああああああああ!!」 またしても気を失ったのか。 「おかしい……作戦は完璧なはずなのに、どうしてこうも失敗するのだ。まるで、森羅万象全てがあの魂を穢すまいと味方しているかのような……」 今はただ純粋に知りたい…… そして欲しい…… 心から彼女を美しく思う。 ああも純一無雑な魂が存在し得るのだろうか。 心が綺麗だと言われる人間がたまにいるが、その多くは運良く穢れを避けた人生を歩んでこられただけに過ぎない。 絵の具の白がほんの僅かな黒でくすんでしまうように、少しでもそれに触れれば魂は穢れる。 時間や経験、他の魂との関わりの中で多少浄化されることはあっても、決して元の純白には戻らない。 しかし、彼女はどうだろうか。 物事に対して決して無関心でもなければ無感情でもない。 コルキドでの戦いを経て、魂の混沌とも呼べる戦場を経たからこそ、心から生を尊び、死を悲しむことができる。 同時にそれは、魂の深淵に触れた証明だ。 だというのに微塵の穢れすらも無いではないか。 まるで透明と見紛う如き純粋さ。 あれはもはや人の枠に収まる器ではない。 ずっと見ていたい…… 心が洗い流されるようなあの無垢なる姿を。 直に触れてみたい…… その魂に触れることで、己の魂がどう変わってしまうのか。 その先を知りたい…… あの姿がどういった顛末を経て、どう染まっていくのかを。 この先、幾重の戦場を渡り歩き、幾百の魂を手にかけ、幾千の骸を踏み締め、幾万の怨念を背負い、その魂がどの様に穢れていくのかを…… 果てに漆黒に堕ちるか。 それとも全てを祓う無垢な姿であり続けるか。 その存在は神の悪戯か、はたまた怪物の類か。 我だけが見ていたい。 我だけが触れていたい。 我だけが知っていたい。 旅の終着点。 そこで再びその姿と対面できたなら…… その時は、我がこの手で染めてやろうぞ……!
https://w.atwiki.jp/subuyaking/pages/68.html
古参リスナー。北海道在住。高校生。 キングの本名でYoutubeアカウントを作っていたことが発覚した ことにより、イエバスの認知度が一気にあがった。 アンチかと思われたが、その実献身的にキングの放送に参加する こともある。スカイプ会議で喧嘩、身体をガソリンで燃やす、 リスナーに説教等、目立つ行動が多い。 カメラで自身の部屋を移すことも多く、飼い犬が可愛い。
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/512.html
+海を駆る蒼き絆レイナ 徐々に遠ざかっていくアスピドケロンの姿は既に米粒のように小さい。 それが見えなくなるまで、いつまでもいつまでも船の甲板上から見つめ続ける少女。 そしてその少女を同じ甲板上で少し心配そうに観察する少女がもう一人。 「ちゃんとバイバイできた?」 「うん……またいつか会おうねって」 「今からでも追いかけられるけど……ルルーテは帰りたい?」 「ううん……大丈夫。もうわたしは街には帰れないから。それに、レイナと――おねぇちゃんとも約束したから」 「そっか!でも……いつかまた会いに来ようね!」 「……うん!!」 アスピドケロンに背を向け、振り返りざまに満面の笑みを浮かべるルルーテ。 目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。 彼女にしか分からぬ様々な想いが溢れているのだろう。 それでも笑ってみせたのは、レイナを心配させたくないとの気持ちからだろうか。 そんな彼女に応えるように、負けじと満面の笑みを返すレイナ。 仲睦まじげな姉妹のように見える二人だが、その出会いはつい先程の話なのだ。 巨大な亀を思わせる魔物がそのまま街となった海獣都市『アスピドケロン』 その暴走を止めるため街から生贄として捧げられたルルーテを、そうとも知らずに助け出したレイナ。 ルルーテの命を救い、アスピドケロンの暴走を止めることを条件に、レイナは自らが船長を務めるバルバーム海賊団の一味へ、ルルーテが加わるよう提案。 これをルルーテは承知し、見事にレイナは約束を果たした形だ。 「改めてよろしくね!バルバーム海賊団へようこそ!!」 「こちらこそ!レイナおねぇちゃん!」 ――フンフンッ…… 「きゃぁあ!?なになに!?」 ルルーテの太もも辺りに急に冷たい何かが触れ、その場を飛びのく。 「こら!驚かせちゃダメだよ、パピー!」 「……スンッ!」 「その子はパピー。私の大事な家族。ルルーテのことが気に入ったみたいね」 「わぁ……よろしくね、パピー!」 「ウォン!!」 「さーて、そろそろ帰ろうか!」 「バルバームへ行くの?」 「そうだよ!村のみんなが私たちの稼ぎを待ってるからね!」 「へぇ……わたし、アスピドケロンの外は初めてなんだ」 「ふ~ん……じゃあ、いろいろお話しよう!どうせバルバームまではけっこうかかるしね!」 「聞かせて!レイナちゃん達のことも、バルバームのことも!」 「こら!お姉ちゃんでしょ!大人の女に向かって失礼だよぉ?」 「そ、そうだったね!おねぇちゃん!」 どうみてもルルーテより更に幼く見える女の子に対する呼び方としては相応しくないかもしれないが、これも船長命令では仕方のないことなのである。 「よしよし……じゃあ何から話そうかな……」 「おねぇちゃんはずっとバルバームで暮らしているの?」 「違うよ!じゃあそこから話そうか……!」 ―――――― ―――― ―― 「ま、待ってくれ!君は……」 その男は、大陸から見て極東に位置する孤高の島国『アルジア』の出身。 「何か用かい?」 その女は、流浪の村『コーク』に住んでいた、狼の血を引くガルム族。 コークがマリーヴィアの近くを通りがかった際に二人は出会い、瞬く間に結ばれ、男はすぐに父親になり、女は母親となった。 二人の間に生まれた娘は『レイナ』と名付けられた。 「パパ、お帰り!!」 「おぉ!?いいパンチだな、レイナ!ママにも負けてないぞ!?」 「何言ってんだい……またぶっ飛ばされたいのかい?」 父親は仕事のためアルジアとマリーヴィアを行ったり来たりの生活だったため、母親はレイナと共にコークを出てマリーヴィアに移り住んだ。 快活でしっかりものだった母親の影響を受け、よく似た性格に育つレイナ。 アルジアから帰ってくる父の土産話を聞きながらじゃれあうのが一番の楽しみだった。 その様子を見て母親は常々思っていたようだ。 父親の職業柄仕方のない事だとは理解しつつも、彼には少しでも長くマリーヴィアに留まってもらい、レイナと自分、家族との時間を大切に過ごしてほしいと。 そんなやりとりが度々あり、寂しさからか夫婦喧嘩に発展することもままあった。 その場合、決まって母親は父親に決闘を申し込み、暴力を持って決着させる。 戦いはいつも母親の圧勝だった。 子供の教育上、あまり良い方法だとは思えないが、レイナの目には勇ましい母親の姿がキラキラと輝いて見えていたことだろう。 父親は勝負に勝つことこそなかったが、どれだけ打ちのめされても絶対に諦めない姿勢だけは貫いていた。 その根気に負け、結局母親が折れる形となることもしばしば。 勝負に負けて試合に勝つ。 そんな父親の姿もまたレイナにとっては関心の的なのであった。 こうしてすくすくと成長していったレイナ。 彼女が七歳を迎えた頃、彼女の人生に大きな転機が訪れる。 ついに家族全員でアルジアに移り住むことが決まったのだ。 家族みんなで過ごす時間が増える。 これには家族全員が心から喜んだ。 しかし、それは叶うことの無いまま夢と消えることとなる。 アルジアへと向かう航行の最中、大きな嵐に遭遇してしまった一行。 高波に煽られて船は損傷し、瞬く間に沈んでいく。 三人連れ立って海に飛び込むも、激しい潮の流れに揉まれ、散り散りになってしまった。 「ん……っぷは……マ、ママ!?パパぁ!?」 一人で荒波の中をもがき続けるレイナは、浮かんでいた木材に必死にしがみつき、いつまでもいつまでも両親を呼び続けた…… ――ペシペシ 「んぁ……?」 「おい!?お嬢ちゃん、大丈夫か……?」 頬を軽く叩かれた衝撃で目を覚ましたレイナ。 おぼろげな視界ではあったが、自分の目の前に見覚えのない男の顔があることはわかった。 「え……うっわぁ!?」 ――ドンッ 物凄い勢いで後退りする彼女だったが、その背に硬い何かが当たる。 振り返ると、それは太い木を交差させて設置された手すり。 「ここって……何で!?」 立ち上がり周囲を見渡すと、無限の広がりを見せる大海原。 ここでやっと自分が大きな船の甲板上にいることを認識することができたレイナ。 ――数日後 再び所変わり、ここは海賊の村『バルバーム』 海で両親と生き別れたあの日、気を失ったまま海を漂い続けていたレイナを救ったのはこの一帯を縄張りとする海賊の船だった。 そのまま海賊達に保護され、村に連れてこられたレイナは、特に何をするでもなく、ただただボーッとするだけの日々を過ごしていた。 ここに連れてこられるまでの間、船の上では海賊の男達が聞きもしていないことを色々と話していた。 彼らが見つけたのは、船の残骸と、漂流していたレイナ一人だけだったこと。 レイナに対して悪意は抱いておらず、彼らの村で保護するつもりであること。 そしてバルバームのこと。 バルバームは海賊達の根城ともなっていた小さな村で、元々は島流しにされた犯罪者やならず者達が集まり作った小さな集落に過ぎなかったが、近年、著しい発展を遂げ、今では人口も文化レベルも大陸の立派な街と肩を並べる程にまで成長している。 その理由は海賊の生業に起因する。 時折、海で見かけていた帝国軍船。 海賊達は、彼らの大陸での傍若無人っぷりを知るや否や、その船を積極的に襲うようになる。 そうして資源や技術を奪うことで、著しい発展を遂げることに成功したのである。 当然、帝国も安全な海上ルート確保のため、これに対処しようと躍起になっているようだが、バルバームは村の外の者にその存在が知られないよう、特別な結界によって隠されている村であるため、今もこうして平穏な暮らしを営むことが出来ていた。 「ウォン!」 「ん?どうしたのパピー?お腹空いた?」 海賊は悪い奴。 いくら自分を助けてくれたとはいえ、こうした世間一般的な印象を拭い切ることはできなかった。 真っ向から拒絶するでもなく、ただし自分からは決して近づかない。 そんな微妙な距離を保ちつつ、村の中心的存在とも呼べる彼らに心を開くことのできないレイナ。 当然、そんな彼女が村に馴染めるはずも無かった。 ただ、パピーだけは例外だった。 「スンスン……スン……」 「ごめんねぇ。さっきお昼ご飯食べちゃったから何も持ってないんだ」 「クゥン……」 パピーとはバルバームの村で飼われている不思議な雰囲気を持った狼の名だ。 飼われているといっても明確な飼い主がいるわけではなく、村人達みんなで世話しているといった方が正しいかもしれない。 パピーは村に連れてこられたレイナを初めて見た瞬間から彼女に対して興味を抱き、進んですり寄っていっては懐くようになった。 レイナが狼系のガルムのハーフであることから、同胞であると考えているのだろうか。 そのわけはパピーしか知らない。 少なくともレイナ自身は、言い表しようのない不思議な繋がりを感じていた。 「相変わらず仲が良いなぁ!」 「あ……えっと……」 「おっと……そんなに警戒しないでくれよ。そろそろおやつの時間だろ?コイツもお腹を空かせてると思って持ってきたんだ。もちろん嬢ちゃんの分もあるぜ?」 静かに寄り添う二人に話しかけてきた海賊団の船員だと思われる若い男。 その手には干し芋の入った紙袋が握られていた。 「隣いいかぃ?一緒に食べないか?」 「う、うん……」 こうしてたまに話しかけてくる村人も少なくないが、重苦しい空気とレイナの暗い表情に耐えきれず、いつもすぐにその場を離れて行ってしまう。 恐らくこの男もすぐに…… 「ほら、パピー。オマエも食え」 「スンスン……ワォン!」 「ははは!やっぱりオマエはこっちの方がいいよな!」 観念したようにポケットから干し肉を数切れ取り出すと、パピーに与える男。 この村にレイナが来る以前からこうしておやつの時間を楽しんでいたのだろう。 それを思うと、唯一の友達が取られてしまったような、少し悔しい気持になる。 「ほら?嬢ちゃんも、干し芋。あ、干し肉の方が良かったか?」 「いや……私は……」 「……嬢ちゃんを見てると、この村に来たばかりのパピーの姿を思い出すなぁ」 「……パピーを?」 「あぁ。三カ月くらい前だったかな。パピーも嬢ちゃんと同じように、俺達に拾われてここに来たんだ」 「この子も海を漂流してたの?」 「仕事中に見かけた難破船にコイツだけが残ってたんだ。詳しくはわからねぇけどな。だが、コイツも今の嬢ちゃんみたいに暗い顔してたぜ?毎日何かを探すようにフラフラとな」 「おじさん達はいつもそんなことをしてるの?」 「そうさ!この村に住んでいる三割くらいの人間が、ここに生きる希望を求めてやってきたり、海で遭難したり、嬢ちゃんみたいに漂流してたヤツらさ。俺も含めてな」 「そうなの!?」 「海賊って言うと聞こえは良くないけどな。でも、やってることは間違ってるとは思わねぇよ?ここに連れてこられたときは俺も何されるか怖くて堪ったもんじゃなかったけどな。だが、すぐに考えは変わった」 男は話す。 行く当てのある人間は、保護したらそこまで送り届け、行き場のない人間は誰であろうと村で保護して生きる手伝いをする。 村の人間が普段食べている食料のほとんどは、海賊団からの施しによりもたらされたもので、食料に限らず、衣服、雑貨、その他もろもろ含め、ここでの生活は海賊達の支えがあってこそ成り立っているものだと。 「海賊なのに良い人なの……?」 「良い人……とは言えねぇだろうな。俺達は奴隷船や密輸船ばかり襲って稼いでいるわけだが、村のためとはいえやってることは盗人だ。良い人のすることじゃねぇよ」 「でも村の人たちはみんな感謝してるんでしょ?」 「まぁな。だが、心の中は後ろめたい気持ちでいっぱいだったり、俺達を軽蔑してるヤツもいるかもしれねぇ。それでも俺達は海賊を辞めるわけにはいかねぇんだ。少なくとも、今は生きるためにな」 「……生きるって……難しいんだね」 「あぁ。だから俺は進むことを選んだんだ。拾ってくれた恩を返したいって気持ちと、ここでの暮らしが好きで、守りたいって気持ちには嘘はなかったからな。それで海賊団に入れてもらった。悩んだまま立ち止まることをしたくなかったんだ」 「それで、おじさんの選んだやり方は正しかったのかわかった?」 「まだだ。俺はバカだからよ!いつか答えが出るかもしれねぇが、当分かかりそうだ。ははは!」 「そっか……」 レイナは男の話を全て理解することはできなかった。 良い事のように見えても、それは悪い事かもしれない。 義賊であっても、海賊であることに変わりはない。 自分が知らない価値観と世界。 わからなくとも、それは彼女の興味を強く引き付けた。 「こんにちは!」 「ワォン!」 「おぅ、レイナ!パピーもご機嫌だな!」 海賊の船員の話を聞いたことがきっかけに、徐々に船員達と打ち解けていったレイナ。 当時の暗さは完全に払拭され、村人達とも笑顔で言葉を交わせるようになった。 「ねぇ?船長さんに話があるんだけど」 「おやっさんにか?何の用だ?」 「うん。実はね……ここの海賊団に入りたいの!」 レイナが海賊へ向ける興味は次第にその形を具体的なものへと変えていった。 今日、その意志を直接、海賊団の船長に伝えるために港を訪れたのだ。 「いやぁ……驚いた。まさかそんなこと考えてたとはな」 「海賊に入るには、船長に許しを貰わないといけないんでしょ?」 「え?そりゃあ……まぁ、そうなんだが……無理だと思うぞ?」 「何で!?聞いてもいないのにそんなのわかんないじゃん!?」 「だってなぁ……ま、いいか。決めるのはおやっさんだ。俺がどうこう言っても仕方ねぇ」 「うん!」 「あっちのテントで飯食ってるはずだから行ってみな。ただし、おやっさんがダメだと言ったら諦めるんだぞ?」 「大丈夫だもん!!」 決してただの興味本位や、思い付きからの行動ではなかった。 助けてもらった恩を返すため。 そして、行方不明の両親を探すため。 説明すれば理解してもらえるはず。 その時のレイナはそう信じて疑わなかった。 「ダメだ……」 「何で!?」 「ダメなもんはダメだ!」 「だから何で!?」 「オマエの気持ちは嬉しいさ。だが気持ちだけで十分だ!親を探したいなら仕事の合間に俺達が探してやる!だから諦めて村で大人しくしてな!俺達は海賊だぞ!?オマエみたいな小娘に務まるような甘い仕事じゃねぇんだ!!」 レイナの話を聞くなりすぐさまこれを拒絶した船長。 自信のありようはともかく、まだ幼く、それも女の子であるレイナが自ら危険な場所へと踏み込むのを止める。 船長の判断は、世間的に見れば至極真っ当であると言えた。 それでもレイナは決して引き下がろうとはしない。 「私なら大丈夫だよ!自分の身は自分で守れるもん!!」 「そうやって簡単に言えちまうところがガキなんだ!無理だ!!」 「だったら決闘だ!それで私の力を証明してやる!!私が勝ったら海賊団に入れてよ!!」 「本気で言ってんのか?」 「船長が相手でもいい!!」 「おいおい……勘弁してくれ。オマエみたいな小娘とマジで立合ったとなりゃ俺が笑われちまう」 「じゃあ誰がやるの!?私は誰でもいいよ!」 「……どうやら本気みてぇだな。確認するぞ?決闘に負けたらきっぱりと今回の話は諦める!それでいいな!?」 「わかった!!」 「いつがいい?」 「いつでもいい!今からでも!!」 「よし……相手は用意してやる。今日の昼過ぎに村の広場で待ってな」 「うん!!」 言うまでも無く、この時のレイナの頭の中には母と父の決闘の光景が回想されていた。 女でありながらも果敢に父に挑み、いつも勝利を手にしていた憧れの母の姿。 今、その姿を自分に重ねているのだ。 「おい、レイナがおやっさんに決闘申し込んだってのはマジか?」 「レイナが突っかけたらしいぜ?船に乗せるかどうかを決めるらしいな」 船長との話を終えるとすぐに広場へと向かい、静かに集中力を研ぎ澄ませていたレイナ。 いつの間にかこの件の話を聞きつけた船員達が、勝負の行方を一目見ようと広場を囲むようにして集まりつつあった。 さらには、その様子を見て事情も知らない村人たちまでもが何だ何だと野次馬となっている。 「ん?もう来てたのか。どうやら待たせちまったようだな。随分と気の早いことだが、まだ約束の時間までは少しある。どうする?もう始めちまうか?」 「いつでもいいよ……!」 「よし。まずはオマエの相手を紹介しよう。うちの古株の一人で、まぁそこそこの腕利きだ。こいつに勝つことが出来ればオマエを俺達の船に乗せてやる」 「わかった!」 「おやっさん直々の頼みだから引き受けはしたが、本当にやっていいのかぃ?」 「好きにやれ」 見るからに屈強そうな男。 鍛えこまれた筋肉と、体のあちこちにある戦闘の傷跡が猛者の雰囲気を匂わせる。 軽口を叩いてはいるが、その眼光は決してレイナを侮ってなどいない。 下手な油断は命取りであることを体の芯まで理解していることは勿論、船長の目の前で、しかも自分の体格の半分にも満たないような少女に後れを取ったとなれば、どんな仕打ちが待っているとも知れない。 「二人とも、ルールを説明するぞ。互いに全力を出して構わん。ただし、相手を殺すのは無しだ。だが、殺されないことを理由に無駄な足掻きを続けるような真似は絶対に許さん。俺が決着だと判断した時が決闘終了だ。いいな?」 「あいよ……」 「うん……!」 「じゃあ始めるぞ……?」 広場中央に立つ二人を中心に、静かに固唾を飲んで見守る観衆。 片や身の丈と同等の長さを誇る大剣を構える海賊の男。 片や身の丈以上の斧を背負うガルムの少女。 体格差こそ圧倒的だが、得物の破壊力に差は見受けられない。 問題は果たしてそれを使いこなすことができるか…… 「始め!!」 「てぃやぁああああ!!」 開始の合図と共に飛び出したレイナ。 策も無しにただ真っ直ぐに突っ込んだだけ。 「うぉお!?」 だがその速度は、人間の常識のそれではなかった。 巨大な斧を抱えたまま、まさか一瞬で間を詰められるなど想像もしていなかった男に動揺が走る。 「えぇい!!」 ――ドッゴォオオオオン!! 反射的に後ろに跳ぶことで、間一髪レイナの振り下ろしを回避する男。 本来、彼の頭に振り下ろされるはずだった斧は大地を穿ち、硬い岩盤をもお構いなしに深々と突き刺さっている。 「冗談じゃねぇぞ……!?」 あんなものをまともに喰らってしまえば命の保証なんて言っていられない。 男の表情は先程までの冷静さを完全に失い、焦りと驚きに染まっている。 「流石はガルムだな……まぁ、ひよっこでもこれくらいはやってのけるだろ……」 戦いを見詰める面々の中、ただ一人冷めた目でレイナを見据える船長。 だが、当然自分の部下が負けるとは思っていない。 初手の衝撃で場の空気こそ味方につけたレイナだが、戦いはそう単純なものではないことをこの男は熟知していた。 「ふぅ……マジで驚いたぜ。これは気が抜けねぇな」 船長に次いで、冷静さを取り戻したのはレイナと対峙する船員の男だった。 自身の経験が危険信号を発しているのを感じる。 だがしかし、この手の相手に勝つための術は知っている。 「来なよ、レイナお嬢ちゃん。まだ始まったばかりだぜ?」 「言われなくたってぇ!!」 観衆達の予想に反し、相手を圧倒している様子のレイナ。 だが、戦闘が開始されてから時間が経過する程に、その違和感に皆が気付き始める。 船員は手を出すこともせず、じっくりとレイナの動きを観察しつつ回避に専念。 一撃も有効打を受けることの無いまま、既に開戦から五分以上が経過しようしていた。 「くっそぉ!!逃げてばっかりでずるいぞ!!」 「攻撃だけが戦いじゃねぇんだぜ?にしてもすげぇスタミナだな」 ここまでの戦況を鑑みるに、腕力、脚力、体力はガルムの血を持つレイナが勝っているように思えるが、彼女の表情からはそんな優位性は感じられず、逆に徐々に焦るような、不安の表情を浮かべ始めている。 「よし……大体わかったぜ。今度はこっちから攻めさせてもらう。覚悟しなよ?お嬢ちゃん」 「ふんっ!今さら何だ!!もう私の方が強いのはわかってるんだから!!」 「そうかい!?」 声と共に、真っ直ぐと大剣を突き出す男。 レイナの研ぎ澄まされた反射神経はこれを楽々と捉え、意図も容易く回避。 そのまま身を翻し、勢いをつけて男を叩き切ろうと斧を握る手に力を込める。 「これで……!」 「甘いぜ!!」 「わ!?なに!?!?」 肩口を足で抑え付けられた途端、振り回そうとしていた腕に力が伝わらなくなった。 それはレイナが知るはずのない戦いのための技術。 「おらよっ!!」 「わわっ!?」 体勢を崩しながらも、カウンターをなんとか躱したレイナ。 「覚えときな。強いだけじゃ勝てないんだぜ?」 「くそぉ……!!」 経験の差。 リーチの差。 それは身体能力で勝るレイナを少しずつ追い詰めていく。 焦りは呼吸を乱し、体力を瞬く間に奪っていく。 それでも何とか凌ぎ続けてはいるが、次第に男の攻撃はレイナの動きを捉え始めていた。 「ちっ……しつこいにも程があるぜ!!」 「うぅ!!」 「よく頑張ったよ。遊び半分だったが俺にとってもいい経験になった。もっと強くなったらまたやろうぜ?」 「ま、まだ終わってないんだからぁ!!」 この時点で、大勢は誰の目から見ても明らかだった。 観衆の中には、船長から発せられる決着の合図を待つ者も多かったことだろう。 「せやぁあ!!」 それでもレイナは諦めない。 「このぉ!やぁ!!」 決死の想いで斧を振り続けるも、握力の衰えた攻撃は簡単にいなされてしまい、遂に喉元に男の剣の切っ先が突き付けられた。 「おやっさん!これで決着ってことでいいんだよなぁ?」 「くぅ……」 「あぁ。この勝負……」 「ウォン!!!!」 「パピー!?」 決着の合図を寸断する咆哮。 目にも止まらぬ速さでレイナと男の間に割って入ったパピー。 「はぁ?なんでオマエが出てくるんだよ!どっかいけってんだ!」 「グルルルルル……!!」 男に対して明らかな敵対心を感じる。 鋭い牙を?き出しにして威嚇するパピー。 決闘の様子を見て、レイナがいじめられていると勘違いしたのだろうか。 「お、おやっさん!?どうすんだこれ!?」 「ウォン!」 「うん!行くよパピー!!」 「あっ!?てめぇ!!」 隙を突き、パピーの背に跨ったレイナ。 瞬く間に男の間合いから離脱し、体勢を整える。 「おい!いいのかよ、おやっさん!?」 「アイツを手懐けたのも……いや、アイツの信頼を勝ち取ったのもレイナの力ってわけだ。そいつらは二人で一人前なんだよ」 「そんな決闘ありなのかよ……まぁ、犬っころが一匹増えたところで大して恐くねぇけどな!」 「パピー……アイツをやっつけるよ!!」 「ウォン!!」 レイナを乗せたまま目まぐるしく男の周囲を旋回するパピー。 その動きはもはや目で追うことすら難しいものだった。 「くっそ……ちょろちょろと!!」 大剣を大きく振り回して自分の間合いを死守しようとするが、少しずつ目の慣れてきた彼は、パピーの背にいたはずのレイナがいつの間にか居なくなっていることに気が付く。 「あ、あれ?」 「当たれぇ!!」 「上か!?」 死角になっていた頭上から斧を振り下ろすレイナだが、ギリギリのところで勘付かれ、再び間合いを取られる。 だが…… 「ガルルルル……!」 「な!?パピー!?てめぇ!!」 後ろに跳んだ男の裾を咥え込み、動きを封じたパピー。 着地したレイナは、踏ん張る脚でそのまま地を蹴り、男の懐へと飛び込んだ。 「ありがとう、パピー!いっくよぉおおおお!!」 「ちょ、待て!!俺の負けだ!!おい――」 「カッキーーーーーーーーンッ!!!!」 レイナが斧腹をぶつける様にして男をひっぱたくと、彼はそのまま港を飛び越え、海へと落ちていった。 「はんっ……大したもんだ。レイナ、パピー。オマエ達の勝ちだ」 「やったぁあああ!!私達の勝ちだよ、パピー!!」 「ウォオオオオオン!!」 こうして正式に海賊団に入団することが認められたレイナ。 当然、これからのパピーの居場所もレイナの隣である。 「レイナ!飯はまだかぁ~!?」 「今日の上りは上々っと……そろそろ肉も仕入れとかないといけないか……」 「お~い!レイナ~!!」 「わかってるよ!ちょっと待ってってば!!」 レイナにとって、海賊団での日々は想っていたのとは少し違ったモノだった。 男衆しかいなかった海賊団の中で、母直伝の料理や、父譲りの金勘定のスキルを発揮していった彼女は、すぐに一団にとって必要不可欠な存在となっていき、幼くも船の生活を支える母親役のような不思議な立ち位置へと収まっていった。 レイナの成長はそれだけに留まらず、船上での戦闘でも、リーチ差を埋める巨大斧とパピーとの素早い連携により次々と戦果をあげていく。 こうして船長を含め、船員達の信頼を瞬く間に厚くしていった結果、船長が船を降りることを決めた時には、次代の船長の座を任されることになった。 本来ならば、最も若く、最も新入りであるレイナが船長を務めることに、船員からの不満の一つでも出そうなものではあるが、そんな声を上げようとは誰も思わなかった。 この話を聞くだけでも、どれほど彼女が努力を重ねてきたかが少しは理解できるだろうというものだ。 「そろそろ目的の海域?」 「おぅ、レイナ。見てみろよ?ここらにはまだ手付かずの船が山ほど沈んでるんだぜ!?」 「宝の山だぁ~!って……そろそろ船長って呼んでよね!!」 船内に残されているお宝目当てに、沈んだ船をサルベージしようとバルバームから少し離れた海域にまで足を伸ばしていた一行。 海賊団結成以来、こうした行為は初めてではなかったが、いつもとは違う海域での仕事はどうしても緊張が伴う。 船内はいつもよりもほんの少しだけピリピリしているように感じられた。 この空気を敏感に察していたレイナも周囲の警戒を怠ることはせず、パピーもまた同じくである。 「んん……?あんなところに島なんてあったっけ??」 波で少し船が流されでもしたのか、いつの間にか遠くに島が見えていた。 この距離でも視認できるサイズとなると、島の中でも相当巨大な部類に入るだろう。 とはいえ、特別興味を惹かれるものでもなかったため、レイナは再び作業に戻る。 「……あれ?え!?何で!?!?」 先ほどの違和感がとてつもない異常であることに気が付き驚愕する。 作業に集中していたとはいえ、遠くに小さく見えていた島が明らかに大きく、否、距離が詰まっていた。 こんな短時間でそこまで流されるような波は出ていない。 つまりは動いているのは船ではなく、島の方であるという事実が見えてくる。 「皆ぁ!大変!!島が近づいてきてる!!」 「あぁ?何だって??」 「島だよ!!あの島がこっちに近づいてきてる!!」 「島だぁ?……おぉ!?ハハハ!こりゃ縁起が良い!」 船員達に緊急事態を直ちに知らせたレイナだが、事態を把握しても慌てているのはレイナ一人だけ。 中にはレイナよりも早く島の存在に気づいていながら、笑みを浮かべて様子を見守る者さえいるようだ。 「な……なんで?」 「そういえば、レイナはアレを見るの初めてだったか?あれはアスピドケロンだ」 「アス……アスピ……?」 海獣都市『アスピドケロン』 巨大な亀の様な生物の背に人々が暮らす、移動する海上都市。 「航海中にアスピドケロンを見ると、その船は幸運に恵まれるってな。昔から言われてる迷信だ。今日の仕事は期待できるんじゃねぇか!?ハハッ!」 「あれって生き物なの!?」 ひとまず危険はない事を悟って胸を撫で下ろしつつも、レイナの興味は尽きない。 まだまだ幼い彼女の知らない広き世界。 そこにはまるでお伽話の様な話がいくらでも存在しているのだ。 アスピドケロンの登場に、活気立つ船上。 話を聞いた船員達も続々と甲板に集まってきていた。 だが、その顔はみるみるうちに青ざめていくこととなる。 「なぁ……ちょっと早すぎやしないか?前に見た時はもっとゆっくり進んでいたような……」 「あぁ……しかも、こっちに真っ直ぐ突っ込んできてやがる……このままじゃ……」 「「…………逃げろぉおおおおおおおお!!」」 急いで錨を引き上げ、帆を張って船を走らせる一同。 アスピドケロンはもう船の目と鼻の先まで迫っており、我を忘れたように怒り狂った顔が恐怖を煽り立てる。 「取り舵いっぱぁああああい!!」 アスピドケロンとの衝突コースから逃れようと、船首がゆっくりと左を向く。 躱しきれるか微妙なタイミング。 「おい!あそこ見ろ!アスピドケロンの顔の横!」 船の運命が間も無く決まるという最中、船員の一人がアスピドケロンを指差す。 波飛沫と船の揺れでしっかりと確認することはできなかったが、人間大の光る玉のようなものが宙に浮いているのが辛うじて見て取れた。 「バカ野郎ぉ!こんな時に何言ってんだ!!」 「す、すまん!!」 「……あれ……何だろ?」 我に返った船員達が再び忙しなく手を動かし始めるが、レイナだけは光の玉から視線を逸らさなかった。 「やべぇぞ、レイナ!避けられねぇ!!」 「そのまま直進!!」 「はぁ!?テンパってんじゃねぇぞ!?」 「あの子を助けないと!!」 「あの子って……誰のこと言ってんだ!?」 「あの光の玉!女の子が捕まってる!!」 「何だとぉ!?」 彼女の野生譲りの視力だけが捉えていた。 玉の中にぼんやりと浮かぶ、光る人影。 涙しながらに祈りを捧げる少女の姿を。 「前進!!早く!!!!」 「ぐ……ちっくしょう!どうなっても知らねぇぞ!?」 押し寄せる高波の中、前進を続ける船。 激しい揺れと、甲板にまで登ってくる海水の勢いで船員が次々と海面へと投げ出される。 「レイナぁ!こ、これ以上は無理――うわぁああああ!」 「コラぁ!船長って呼べぇ!!って、誰も残ってないの!?」 ただ一人、マストにしがみ付いて足を踏ん張り続けるレイナ。 その時、光の玉がアスピドケロンの眼前にふわりと躍り出る。 「なになに!?」 アスピドケロンが大きな口を開けた途端、光の玉は水泡のように弾け、中から女の子が放り出されるのが確認できた。 「ダメぇええええ!!」 「ウォン!!」 「パピー!?」 もう間に合わない。 諦めかけたその時、パピーが船の錨を引きずりながらレイナの傍に寄ってきた。 「おぉ!!それだ!!!!」 パピーから錨を受け取り、肩に担いだまま船首へと駆け出すレイナ。 船から投げ出された船員達は、荒れ狂う海面からなんとか顔を出し、その様子を見守る。 「いっけぇええええええええ!!」 レイナの手から勢いよく放たれた錨は、放物線を描きながら少女の元へと駆ける。 「早く捕まってぇええ!」 少女はその声に反応した。 反射的に伸ばされた手が錨の鉤を確かに掴んだ。 「やった!!」 「「おぉおおおおおおおおおお!!」」 物凄い速さで船の元へと引き返す錨。 それを離すまいと必死にしがみ付く少女は、辛くもアスピドケロンの口元から逃れることに成功し、そのまま船腹付近の海へと落ちた。 「わわわわっ!?落ちちゃった!!」 「ウォン!!」 「おぉ!ありがと、パピー!!」 慌てるレイナの足元に駆け寄ったパピーの口には大きな網が咥えられていた。 その網で少女を急ぎ海から掬い上げ、容体を確認する。 「ぷはぁっ…ハァ…ハァ…」 「生きてるー!?生きてたら寝てないで手伝ってー!せっかく助けたんだから!」 ―――――― ―――― ―― 「――という訳でね?見事、ルルーテを救い出した我ら海賊団!!そして、そして、こここそ我らがアジトのバルバームだぁ!!」 「わぁ!!ここがお姉ちゃんたちの村なんだね?」 半日程の航海。 アスピドケロンとルルーテとの邂逅を経て帰り着いたバルバームの村。 帰りの航海中、延々と続くレイナの話を聞き続けたルルーテだったが、その表情は明るい。 目の前で激しく繰り返される喜怒哀楽を心から楽しみ、様々な希望を胸に抱くこととなったその船旅は、ルルーテにとってとても充実したものとなったことだろう。 ルルーテの様子に、レイナも自分のこと以上に喜んでみせた。 「じゃあ、あとはよろしくね!!報告は後で聞くから!!」 「おぃ、レイナ!雑用押し付けて先に帰る気か!?」 「船長でしょ!!私はルルーテに村を案内してあげないといけないの!!」 「へぃへぃ……後で俺達にも話聞かせろよな!?」 「わかってるよー!じゃあ、いこっか?ルルーテ!パピー!」 「うん!レイナお姉ちゃん!」 「ウォン!!」 その仲睦まじい光景に、船員達の顔もついほころぶ。 船長という肩書を背負いながらも、やはりレイナもまだ少女。 初めて同年代の友を得たことがたまらなく嬉しいことは聞かずとも理解できた。 「そういえばルルーテのこと、全然聞いてなかった……ねぇ!?今度はルルーテの話を聞かせてくれる?」 「え~……あんまり面白い話はできないよ?」 「いいのいいの!教えて!ルルーテのこと、もっともっと!」 「じゃあ、どこから話そうかなぁ……」 この時点ではまだルルーテが自分より年上であったことを知らずにいたレイナ。 それを知ったところで、レイナが先輩風を吹かせてルルーテを妹分にすることに変わりはないわけだが、狼を連れた怪力少女船長と強大な魔力を操る右腕ルルーテ。 この義姉妹の名がバルバームを飛び出し、海を越えて大陸中に轟くことになるのは、そう遠くない未来のことである。 +愛叫ぶ轟音の歌姫ジョセフィーヌ 遠くアルモニアで、たった一人アタシの帰りを待つ愛する妹キャサリン。 何よりも大切な唯一の肉親。 アタシはあなたのために今、ここで刃を振るうわ。 「さぁ、出てきなさい!アタシの妹に手を出そうだなんて命知らずは、どこのどいつかしら!?」 事はほんの数日前、楽都『アルモニア』にて起こる。 遠征でアルモニアを訪れたシャムール義勇兵団。 その中の一人が、あろうことか道ですれ違ったアタシの妹に一目惚れして、声をかけた。 幼い頃からアタシが男なんて寄せ付けさせなかったから、あの子に男に免疫なんてあるわけがない。 だからこそあの子はコロッと騙されてしまい、その気になってしまった。 それは確かにアタシの不覚。 仕事であの子の傍にいられなかったことも、世間の恐ろしさを教えることを怠ってしまった。 でも、だからといって許せるはずがないじゃない! 「き、貴様!何者だ!!」 「ここがシャムール義勇兵団の屯所と知っての所業だろうな!?」 「アタシが何者かって……?見たらわかるでしょうが!!」 そう。 アタシこそ、大陸に名を馳せるアルモニア騎士団一番隊長ジョセフィーヌ! ただし、今日のアタシは愛する妹をたぶらかし、傷つけようとする不届き者を成敗するため、遠くアルモニアから遣わされた愛の守護者! 「……カマか?」 「いや、変態だ……!」 「はぁああああ!?何ですってぇ!?!?」 許さない。 あの子だけでなく、アタシの乙女心まで踏みにじるなんて……よくも……よくも! 「あんたらも同罪よ……いいかしら?あんた達は乙女に手をあげたのよ?心無い言葉でガラス細工のように繊細で美しい心を殴りつけたの……」 「な、何なんだこいつは……!?」 「覚悟なさいっ!アタシの……シャウトッ!!」 「ひっ――!?」 安心なさい。 死にはしないわ。 ただし、その心に刻み付ける! 乙女を傷つけた代償として、痛みと共に最大の恐怖を! 「はぁああああっ!!」 ――ドゴォオオオオオオオオン! 「――っ!?」 「これ以上の狼藉は見逃すわけにはいきません……ガラス細工の美しさを語るにしては、横暴が過ぎるというものでしょう」 振り切られたアタシの拳を素手で受け止めたのは、見慣れない隊服に身を包んだ大鷲のガルムの男。 よくよく見ると、男とアタシの拳の間には、風の魔素で生成された障壁が存在した。 とはいえ、直接のダメージが防げたところで、アタシの拳の衝撃はちんけな障壁一つで全て吸収しきれるものじゃない。 それを受け切るだけの鍛え方はしてるってわけね。 「あんた……誰よ?」 「無論、義勇兵団の関係者です。名高きシャムール特産のガラスを扱う職人でもあります」 「職人のくせして、少しはやるみたいだけど……それくらいでいい気になってんじゃないでしょうね?」 「まさか。アルモニア音楽騎士団、一番隊隊長ともあろう方の全力が、この程度だとは思ってはいません」 「あら……流石ね。職人なだけはあるわ。見る目あるじゃない。それとも単にアタシのファンかしら?」 「見紛うはずもない。深紅の隊服に、雄叫びを上げて敵を薙ぎ倒す豪斧。『轟音の赤鬼』ジョセフィーヌ殿。直接お目にかかるのは初めてだが、その武勇は遠く聞き及んでいます」 「その呼ばれ方はあまり好きじゃないのよね。いかにもゴツくてむさ苦しそうな名前じゃない?で、そういうあんたはどなた様なのかしら?」 「これは失礼。名乗りが遅れました。私はシャムール義勇兵団の遊撃隊隊長を任されております、アギラという者です。なにやら屯所で暴れている者がいると部下に聞き、参上しました」 シャムール義勇兵団? そういえばさっきからそんなこと言ってたわね。 えっと……なんだったかしら。 確か『自分たちの芸術を守るため』とか言ってこの辺の有志が集まってできた非正規兵団だったわね。 今ではそれが転じて『正義のために』だとかなんとか。 「でも、まぁ……つまりはあんたもアタシを止めに来たお邪魔虫ってことでいいのよね?」 「止めに来た、というのとは少し違います。正直なところ、私一人で貴殿を完全に抑え込むとことは難しいでしょう。ですが、それはあくまで実力行使ならば、という話です」 「と、言うと?」 いちいち面倒な言い回しをする男ね…… いい加減イライラしてきたわ。 ストレスはお肌の大敵だって言うし、さっさとぶっ飛ばしちゃおうかしら。 「聞けば、貴殿は妹に言い寄った我が兵団の者を探しているとのことですが、その妹君はキャサリンという名では?」 「…………不思議ね。アタシはここで妹の名前を口にした覚えはないのだけど」 「アルモニアでキャサリン殿に声をかけたのはこの私だったというだけのことです。つまり、貴殿の目的はこの私ということになる。ならば、私さえいれば無関係な仲間たちに刃を向ける理由もなくなると思うのですが……いかがでしょう?」 「へぇ……あんたがね…………」 見返りも求めないで剣を持ったその志は結構なことだけど、そんな連中がナンパに精を出してるようじゃ笑い話にもならないわ。 安心なさい、キャサリン。 あなたを毒牙にかけた悪しき男は、アタシが成敗してあげる。 所詮、男なんて女の前では飢えた狼でしかないの。 それが世界でアタシの次にプリティなあなたの前となれば、例え忠節を重んじる騎士であろうと、万人に崇められる聖人君主であろうと、一瞬で本性を剥き出しにする。 「いいわ……ちょっと表に出なさいな。直接話が付けられるならアタシも大歓迎よ」 「心遣い、痛み入る。というわけだ。全員屯所から出ることは許さん。この方は私の客人だ。いいな?」 「で、でも……アギラさんとはいえ、轟音の赤鬼を一人で相手にするのは――」 「客人だと言っている!いいな!?」 「わ、わかりました……!」 とことんくっさい男ね。 剣を捧げた場所は違っても、正義のために戦う者としての流儀は共通ってわけ? いいわ。 すぐにその化けの皮を引っぺがしてあげる。 「――んなもん知ったこっちゃねぇんだよぉおおおお!!」 「ぐ……はぁああ!?」 「アギラさん!?!?」 ベラベラと薄っぺらな言葉ばかり垂れ流す、そのいけ好かない顎を完璧に捉えたわ。 「アタシの素性を知って、どうせ大したことはできないと踏んだんだろうが、お生憎様だったなぁ!!」 「貴様っ!!アギラさんの誠意を無下にするつもりかっ!?」 「黙ってろ、三下ぁ!知ったこっちゃねぇんだよ!アタシにとっては愛する妹こそが第一!何よりの正義!騎士の誇りも礼節も、遥か彼方に置き去りにしてここに来てんだ!いい加減に悟れやぁ!!」 「っち……皆で取り囲め!!所詮は多勢に無勢だ!!」 「やめろ!!」 「ア、アギラさん……!」 「手出し無用!これは私とジョセフィーヌ殿との問題だ!」 軽~く五メートルは吹き飛ばされておいて、それでも立ち上がろうってわけ? そりゃ、仲間の前で簡単にやられるわけにはいかないものね。 まぁ、これで少しはやる気になったのならいいわ。 一方的に攻めるのは嫌いじゃないけど、すまし顔のまま逝かれるのは大嫌いなのよね……! 「仲間の手前、カッコつけてるとこ悪いけど、膝が笑ってるわよ?いいから全力でかかってきなさい。あの世まで返り討ちにしてあげるから」 「殺すつもりなら今の一撃でそうしていたはず……そうしなかったということは、何か狙いがあってのことでは……?」 「減らず口も大概にしなさいよ?あんたなんて斧を振るうまでもないと思っただけのことよ。それを今から証明してあげるわ」 なんてことを言ってはみたけど、この男が言ったことは的を得ている。 アタシの目的は『殺し』じゃない。 あくまで、妹に仇なす者を成敗すること。 「ふんっ!!」 もし仮に、心からキャサリンと愛し合う男が現れたとして、その男とあの子の未来に待ち受ける結果が、あの子が傷つくようなものだとしたら、そんな一時の幸せなんて得ない方がマシ。 「どりゃぁああ!」 ましてや、アタシの拳で簡単に音を上げるような軟弱な男に、あの子と真に幸せな人生を築くことなんてできるはずがない。 これまでだってそうだった。 「うぉらぁああああああああ!!」 薄っぺらな愛を語って、妹に近づこうとする男は皆そう。 何があっても幸せにしてみせる? 一生あの子を守り抜く? あの子に誓ったはずのそんな台詞を、アタシを前にして言い続けられた男なんていやしなかった。 「ふんぬぅうううううううううううう!!」 だというのに、どうしてこの男は立ち上がってこられる。 これだけアタシの拳を受け続けても、瞳の奥で燃える炎はこれっぽっちも衰えちゃいない。 「ど……どうしました……もう満足しま……したか……?」 明らかに違う。 これまであの子に近づこうとした有象無象とは。 「…………いいわ。話くらいは聞いてあげようじゃない。あんた、遠征でこっちに来た時にアタシの妹をナンパしたんですってね。大切なお仕事をほっぽりだしてまで女に現を抜かすなんて、あるまじき行為なんじゃない?義勇兵団とやらは見せかけだけの正義マンごっこだったってわけかしら?」 「そう……ですね…………自分でも、何故あのような行動を取ったのか……今でも理解できません…………しかし、これだけは確かです。私はキャサリン殿を一目で愛し、幸せにしたいと心から願ってしまった!」 「な……!?」 「相手がキャサリン殿の兄君であろうとも、ここは譲るわけにはいかない!まだ気が済まないと言うのであれば、何度でも拳を振るうと良い!だが、これだけは覚えておいていただきたい!我が剣はすでにキャサリン殿に捧げた!例えその斧でこの首が刎ねられることになろうとも、一度捧げた剣を曲げるような真似は絶対にしてなるものか!!」 「…………」 アタシとしてことが、言葉を失ってしまった。 このアギラという男なら、もしかすると―― 「――っ!?危ないっ!!」 その声でハッと我に返り、身を翻すと、猛スピードで一台の馬車が突っ込んできた。 でも、馬車に突っ込まれた程度で逝ける身体なら、アルモニア音楽騎士団の隊長なんて張ってないのよねぇ。 「ふんっ!!!!もう……危ないじゃない!!」 アタシは馬車から飛び降りてくる人物を目にして、驚きを隠すことができなかったわ。 馬車を受け止めたアタシに目を丸くしている御者なんて、比較にならない程にね。 「ジョセフィーヌ兄さんっ!!」 「キャ、キャサリン!?どうしてあなたがここに!?」 「騎士団の方々から聞きましたの!兄さんがアギラ様を追いかけてシャムールへ向かったと!」 「だからって、あなた護衛も付けずに――」 「アギラ様!?」 話の途中だというのに、あの男の姿を見た途端に駆け出すキャサリン。 あなたという子は、もうそんなにも彼のことが…… 「ご無事ですか!?あぁ……こんなにも血を流して……私の兄が本当に申し訳ありませんっ!」 「キャ、キャサリン殿……よいのです。兄君は、あなたを想うがために、私の元を一人訪れ、真価を試そうとしただけに過ぎないのですから」 「だからといって……早く治療を……!」 「心配は無用です。あなたの顔を見た途端、痛みなど忘れてしまいました。あなたの姿、声こそが、私にとっての何よりの癒し。どうか笑ってください。愛する妹のために全てを投げ捨て突き進む兄君と、こんな不器用な形でしかあなたへの想いを証明できない私のことを」 「……ふふ。あなた様がそう望むのであれば、キャサリンはいくらでも笑いますわ」 「おぉ……身体の内から力が湧いてくるのを感じます。やはり、あなたは私にとっての女神だったのですね。キャサリン殿……」 「アギラ様……」 「黙れ○○○野郎が!その○○臭い手をすぐキャサリンから離せぇええええ!」 なによこれ。 なんなのよこれ。 前回アルモニアで顔を合わせて、今日がまだ二回目。 それなのに、もうお互いの全てを信じ、完全に通じ合っています的な空気。 許すまじ。 あぁ、許すまじ。 キャサリン。 すぐにでもこの男の正体を暴いて、あなたの目を覚まさせてあげる! 「まだ認めては頂けないようですね……いいでしょう!ならば私も拳をもって、貴殿にキャサリンとの愛を理解してもらうのみ!」 「よく言ったぁああああ!!二度と立てないように捻り潰してやるわぁああああああああ!!」 ――二日後 「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ…………」 「はぁ……はぁ…………ま……まだ……だ……!」 「二人共!!もうやめてくださいませ!!」 キャサリンを賭けたアギラとの男同士――じゃなかった! 女と男と戦いは、二昼夜に及んで続いた。 互いに一歩も引かず、拳の交換を続けてはいたけど、それは最初のうちだけ。 やっぱりアタシの拳に敵う男なんて、そう易々と見つかるわけがなかった。 でも……それでも…… 「な……何で……これだけやられても立ってこられるのよ!?あんたは!!」 「……全ては…………キャサリン殿に捧げた……我が愛のため…………例えこの身が引きちぎれようとも…………彼女が見守ってくれている限り……この心が折れることはない!」 「あんた……」 「アギラ様……!」 こんな男に出会えるなんてね。 最愛の妹ながら、良い眼をしてるわ。 認めましょう。 この男なら本当にキャサリンを幸せにしてくれるかもしれない。 アギラに寄り添うキャサリン。 その絵は、まさに『お似合い』で、こんなにもアタシの心を震わせるんだもの。 「いいわ……その根性とキャサリンの気持ちに免じて、交際を認めてあげる」 「おぉ……感謝しますぞ!ジョセフィーヌ殿!いや、ジョセフィーヌ兄さんとお呼びしたい!!」 「そこまで許した覚えはないわよっ!!それに、もし!キャサリンを傷つけるような真似を一度でもしてみなさい!?その時は、アタシが絶対にあんたを許さないから!いいわね!?アギラ!!」 「あぁ……承知した!!」 「それよりも兄さん!今回の件、騎士団へはどのように報告するおつもりですか!?シャムール義勇兵団の方々にここまで無礼を働いてしまった以上、タダでは済まされませんわよ!!」 「そ、それは…………」 「構いません。仲間たちには私が口止めしておきます。あくまで、私とジョセフィーヌ殿の間に置ける個人的な問題であったと。ですので、ジョセフィーヌ殿はアルモニア音楽騎士団の方々に同じように報告してもらえれば、それで事は収まるかと」 「アギラ様……何から何まで申し訳ありません。もう二度とこのようなことがないよう、兄には私が責任を持って言いつけておきますので、どうかお許しを……」 「あなたは私が愛する家族も同然の方。となれば、その兄君であるジョセフィーヌ殿も私の家族。平和を守ること以上に、家族を守ることに理由が必要でしょうか?」 「ありがとうございます……!」 「ごらぁああああ!そこっ!二人の世界に入ってんじゃねぇぞ!?調子に乗りやがって、このガキャーー!!」 「もうっ!少しは兄さんもわきまえてください!ほら、兄さんも頭を下げて!!」 「あ……ヤダっ!ちょっとキャサリン……無理やりだなんて……」 てっきりキャラ作りかと思ってたけど、この男本物だわ。 くそ真面目なのに天然とかいう一番めんどくさいタイプ。 しっかり監視しておかないと何をしでかすかわかったもんじゃないわね。 「はははっ!では、これからよろしく頼む。ジョセフィーヌ殿。共にキャサリン殿を守り抜こうではないか!」 「いきなりタメ口だなんて、馴れ馴れしいわね。ほんっと、手の速い男だこと……まぁ、いいわ。堅苦しいのはアタシもゴメンだし。あ、あと『殿』も付けなくていいわ。どうせ何かつけるなら可愛らしく『ちゃん』とかにしてくれるかしら?」 「感謝する。ジョセフィーヌ殿。では、共に守っていこう!キャサリンちゃんを!」 「そっちじゃないわよ!!」 「な、なぜ怒る!?『ちゃん』とは若い女性に用いられる敬称で、キャサリン殿をそう呼ぶように指示されたものと解釈したのだが、違ったのか!?まさかジョセフィーヌ殿を『ちゃん』付けで呼べというわけではあるまい!?」 「あーーーーー!!やっぱ嫌い!!アタシこいつ嫌いよ!!!!」 「兄さん!!いい加減にしてくださいっ!!」 その後、アタシはキャサリンに連れられてアルモニアへと帰還。 到着直後に騎士団からの呼び出しを受け、今回の一件についての釈明を求められた。 少し意外だったのは、アタシへのお咎めが全くといっていいほどなかったこと。 団長から注意こそ受けたものの、当のシャムール義勇兵団からは抗議どころか『今後もより良い関係を』なんて書簡が届いたもんだから、部下たちへの体面もあってか、重い処分を科することは難しかったのでしょうね。 キャサリンは喜んでいたけれど、それがアギラの口添えあってのものだと考えると、少し複雑な気持ちにはなる。 とはいえ、これがきっかけとなり、彼らとの間に軋轢が生まれようものなら、キャサリンは大手を振ってアギラと顔を合わせることすらできなくなるわけで、それはあの子がひどく悲しむ。 だから、今回の事に関してはアギラに感謝しなくてはいけない。 仮にもアタシが認めた男だしね。 そうして本件は一件落着。 アタシとアギラは、共に妹を愛す、良き友人となったわけ。 ちょっと悔しいわね…… シャムールでの一件から一年。 アタシがアルモニア音楽騎士団団長に就任することが決まった。 前団長がいい歳になってきたもんで、後継者を指名するとか言い始めたのが始まりで、後継者を決める会議で満場一致の支持を受けたのがアタシ。 めんどくさそうな書類仕事に追われるのはお肌にも悪そうだから断ろうかと思ってたのだけど、このことをキャサリンに話すと大喜び。 最前線で戦っていたアタシをずっと心配してくれていたのね。 だからこそ、アタシは前線から一歩身を引く決心をした。 それで少しでもあの子が安心してくれるなら、書類の山の処理くらい安い手間ってもんよね。 「ジョセフィーヌ。団長就任おめでとう!君が団長ならば皆も安心することだろう!」 「兄さん。おめでとうございます。これで少しは気を休めることもできそうですわ」 式典衣装に着替え、会場へと向かう途中、廊下でアタシを待っていたのはアギラとキャサリンの二人だった。 来賓として招いたのだけど、二人揃って気が早いこと。 「ん~!ありがとう、キャサリン!もうあなたに心配かけないようにアタシ頑張るわね!アギラ!!式典中、アタシの監視がないのを良いことにキャサリンとイチャついたりしたらタダじゃおかないから……ね?」 「もうっ!兄さんってば!!」 「ははは!わかってるさ!むしろ変な虫が付かないよう心して警護しなくてはね」 「いやですわ、アギラさん。兄さんの前で……」 「そこっ!!!!イチャつくなって言ってんのよ!!!!」 「おっと、もう式が始まってしまう!急がなくては!」 「ちょっと!?わかってるの!?ねぇ!?ホントにわかってるんでしょうね!?」 「ほら!兄さん、急いで!!」 その後、式典はつつがなく執り行われた。 「アルモニア音楽騎士団一番隊隊長ジョセフィーヌ。今を以て、貴公の一番隊隊長の任を解き、新たに騎士団長の任を命ずる」 「はっ!謹んでお受けいたします!」 アルモニア音楽騎士団の新団長の誕生を受け、式典に出席してくれた面々が盛大な拍手をアタシに浴びせてくれた。 「姉御!いや、団長!!昇進おめでとうございます!!」 「あんなことまでやらかしておいて、団長にまで昇り詰めちまうだなんて、流石っすね!!」 「お姉さま!これからも騎士団をよろしくね~!!」 「団長になっても私たちのジョセフィーヌ様でいてね~!」 主に騒がしいのは団員たちで、その様子に騎士団外からの出席者が圧倒されているのがわかる。 「ちょっとあんたたち~?まだ就任式は終わってないんだから、少しは礼節ってものをわきまえなさい!!」 形式ばった重苦しい空気は一変、あっけらかんとした暖かい空気に包まれる会場。 これには前団長もやれやれといった様子。 うちの騎士団にはこっちのが合ってるものね。 そんな雰囲気をそのままに、式典後のパーティーへと移る会場。 「すごい人気だったな……『ジョセフィーヌ』の名は私たちの故郷でも聞き及ぶところではあるが、ここまでとは思わなかった」 「兄さんは私の事となるとああですけど、仲間想いで、人望が厚いと聞いていますわ。それだけに無茶をすることも多くて、私もハラハラすることが多々ありましたの」 「は~い!そんな妹想いで、仲間想いのジョセフィーヌさんの登場よ~!残念だけど、二人っきりの時間はこ・こ・ま・で!今夜はアタシが主役なの!」 「おぉ、ジョセフィーヌ!丁度君の話をしていたところだ」 「兄さん……お酒臭い……それに、そのお連れの方たちは……」 「ん~??」 ほんの数本ワインを空けてから、急いで二人のところにきたつもりだったのだけど、背中にしがみついたまま離れない部下達に気付かないまま引きずってきてしまってたみたいで。 「何よあんたたち!アタシはこれから愛する妹と兄妹水入らずの時間を過ごすのよ!!あっちへお行きっ!! 「ひっどいっすよ、姉御~!これから任務でご一緒する機会も減っちまうんですよ~?」 「そうっすよ!俺たちと思い出話でもしながら盛り上がりましょうよ~!!」 「嫌よ!!なんであんたらみたいなむさ苦しい男共に囲まれて酒飲まなきゃいけないのよ!一緒に飲みたけりゃ王子様系のイケメンでも引っ張ってきなさい!!なんならアタシの拳で今すぐ美しい顔に整形してあげようかしら!?」 「姉御のいけず~!飲みましょうよ~!!」 「んもうっ!剣を振ることばっかりでパーティー慣れしてない子はこれだから!!あ、ほら!あそこにダンスの相手を探してる子猫ちゃんたちがいるわよ!アタシほどじゃないけど、そこそこイケてるわね!」 「なにぃ!?おい、行くぞ!!」 「おぅよ!!」 しがみ付いて離さなかった部下たちを何とか振り払うアタシを楽しそうに笑いながら、アギラがこんなことを口にする。 「はははは!私たちのことは気にしなくて大丈夫だ。せっかくの機会だ。君も部下たちと親睦を深めてきたまえ!キャサリンのことも私が責任を持って警護する」 「気にするっての!だいたいあんたはいっつもいっつもそうやって余裕ぶっちゃってもぅー!なに!?アタシを挑発してるわけ!?」 「なんのことだ?」 「きーーーーっ!!」 これもいい機会だと思った。 キャサリンとアギラが交際を始めてそろそろ一年。 あの時の誓いを忘れていないか試してやるわ! 「いいわ……もう一度はっきりさせようじゃない。あんたがキャサリンに捧げた剣とやらで、この子を本当に守り抜けるか……!」 「なるほど……一年越しの再試験というわけか。その勝負、男として背を向けるわけにはいかんな!」 「アギラさん!?兄さんも、ちょっと落ち着いてください!」 「ふんっ!なによ!!ちょっと仲良くなって『アギラさん』なんて呼ばれるようになったからって、腑抜けて剣が鈍ってたりでもしたら即アウトよ?アウト~!」 「無論。むしろ、この一年。愛する者を守るため、以前にも増して鍛錬には力を注いできたつもりだ!今では君を相手取ることも叶うものと信じている!」 「は……よく言った……この爽やかチキンが!素揚げにして食ってやるわぁああああ!!」 「はぁああああああああ!!」 「むっ!?」 流れるように放たれる強烈な蹴り。 そして、このキレ。 アタシが飲んでいることを抜きにしても、速い。 「しかし、甘~~~~い!!」 「ぐはぁ!?」 「魔素も纏わせてないただの蹴り一発でアタシを満足させられるとでも思ってるのかしら!?そうやって場所や周りの目を気にしてる余裕が、いつかキャサリンに傷をつけることになるのよ!このおバカ~!!」 「ふ……たしかに、酒に飲まれるような男ではないか。ならば遠慮も無用という訳だ。どうだろう、ジョセフィーヌ?一つ賭けをしないか?」 「おもしろいじゃない。アタシが勝ったらあんたとキャサリンは即破局!絶縁よ!永遠にド田舎の果てで泣いてなさい!」 「いいだろう!ならば私が勝ったなら、キャサリンがシャムールで私と共に暮らすことを許してもらう!!」 「…………は?」 それっていわゆる同棲ってやつ? 結婚前のカップルが夫婦になった時の生活を想定して一緒に暮らすラブラブイベントってやつ? 「認めるわきゃねぇだろぉ、ボケぇ!!だいたいそれじゃアタシがキャサリンと過ごす時間が減っちまうだろぅがぁああああ!!」 「キャサリンとの別れを賭けるのだ。否が応でも認めてもらう!」 普通にやり合えば実力的にまだアタシの方が上のはず。 だけど、空気に煽られたアギラのこのやる気…… 酒もまだ抜けきっていないし、もしも負けでもすれば…… 「この決闘を見守る全ての者たちが証人だ!私が勝てばキャサリンとの暮らしを許してもらう!あなたが勝てば、私は手を引くことを誓おう!異論はないな!?ジョセフィーヌ!!」 「ぐ……!」 ちょっとした試験のつもりが、決闘同然の様相を呈してきたもんで、会場内の皆が騒ぎに気付いて集まってきちゃったじゃない。 もしものことを考えて、この場を煙に巻いてしまうのは簡単。 でも、新団長が就任初日にそんな醜態さらしたりすれば、騎士団そのものに不信感を抱かせることにもなる…… 「涼しい顔してえげつないこと考えるじゃない……アギラ。アタシが一度は認めた男だけのことはあるわね……」 「と、いうことは?」 「いいだろう……その決闘!!受けて立ぁああああつ!!」 あの子の兄として、親代わりとして、あの子の幸せだけを願って生きてきた。 漢として、絶対に負けられない闘いがここにある! それでもアタシを倒してのけたなら、もう何も言うまい! あんたに全てをくれてやる!! 「いくぞ!アギラぁああああ!!!!」 「こい!ジョセフィーヌぅうううう!!!!」 「待ってください!!」 「――っ!?」 その時、突然アタシとアギラの間に割り込んできたキャサリンによって拳が止まる。 「危ないじゃないの、キャサリン!」 「ジョセフィーヌ兄さん!私をいつまでも子ども扱いしないでください!!」 「キャサリン、どいていてくれ。これは私とジョセフィーヌの誇りを賭けた男同士の決闘だ。何人も止めることは許されない!」 「いいえ!これは私とアギラさんの問題ですっ!アギラさん変な空気にあてられ過ぎです!」 「キャサリン……?」 「兄さんが私のことを想い、これまでずっと守ってきてくれたことはよく知っています。でも、もういいんです!いつまでも私が兄さんにおんぶにだっこされていては、兄さんが報われません!」 「……いいのよ、そんなこと。アタシはそうしたいからそうしているだけ。あなたの幸せがアタシにとっての幸せでもあるの」 「いいえ!今回は私だって引きません!もし、それが兄さんの幸せだとするなら、そんな幸せは間違ってます!私はアギラさんの幸せを願うと共に、自身もまた幸せになろうと決めました!そう思える人に初めて出会えたんです!だから、兄さんにもそう思える人を見つけて欲しい。そうして初めて兄さんは自分の人生を歩むことができるんです!」 キャサリンが私に正面切って対立している。 初めての経験。 なんだかんだ言っても、いつでもアタシを信じ、後ろをついて歩いてきたキャサリン。 いいえ。 思えば、アギラと出会ってからこの子は変わった。 アタシという鳥篭から抜け出し、自分自身で幸せを見つけるために飛び立とうとしている。 なら、アタシにはもう…… 「今まで守ってくれてありがとうございました……兄さんのおかげで、今の私がここにいます。だから、もう十分なんです。今度は、私が兄さんの幸せを願う番です……」 「……アギラ……今一度誓いなさい。この子を泣かせるような真似をしたらブッ殺す!絶対に、守り抜くと誓いなさい!!」 「おうとも!私は彼女を永遠に守り抜くことを我が魂に誓う!!」 「任せたわよ……」 「兄さん……わかってくれたんですね」 「ごめんなさいね……もしかしたら、アタシのしてきたことは酷くおせっかいだったのかもしれないわ。守っているつもりが、いつまでもあなたを縛り付けていただけだった……」 「ううん……いいのよ、兄さん……だって、こうして私たちの結婚まで認めてくれたんですもの……!」 そうね。 これでキャサリンもアギラと結ばれて―― ん? 「ちょっと待ちなさい、キャサリン。今、あなた『結婚』って言わなかったかしら?」 「はい、そのように。だって、アギラさんは『永遠に守り抜く』とおっしゃってくれましたので……」 「安心してくれ、ジョセフィーヌ。誓いは違えない。我が剣は必ずやキャサリンの幸せを守り抜く!」 「てめぇ!!そこまで許した覚えはねぇぞぉおお!?」 「ぐほぉ!?」 「あぁ!?アギラさん!!兄さん、一体どうしたというの!?」 後日、間も無くキャサリンはアギラとめでたく式を挙げた。 当初は式をぶち壊してやるつもりで式場に乗り込んだアタシだったけれど、それも結局起きることはなかった。 花嫁衣裳に身に包み、心からの幸せを感じ、涙するあの子を見てしまったら、そんな気なんて失せてしまったわ。 アギラもそれに胸を張って応えていた。 きっと大丈夫ね。 あの二人なら、誰もが羨むような幸せを築いてくれる。 アタシも頑張らなくちゃね。 あの子もアタシの幸せを願ってくれてるわけだし。 どこかにいい男いないかしら。 「――って!何なのよこれ!?違ーーーーう!!こんなのアタシが予定していた幸せ発見ライフと違ーーーーう!!!!」 流れゆく日々。 団長となったアタシの日常は、早くも十五年が経過したが、自分の幸せを見つけるための道に影を落としたのは、毎日山のように机に積まれる書類たちだった。 最初の内だけだと思っていたこの憎たらしい山は、年を追うごとに巨大化し、今やアタシのデスクを埋め尽くそうとしている。 「団長……手が止まってますよ?」 「あぁん……エリオットちゃん!今や、あなただけがアタシの心のオアシス……いっそのこと、このまま二人で愛を育む永遠の遠征にでも出かけちゃう?」 「これが全部片付いたらそれも考えます」 「だって!どんだけ処理しても後から後から後からポンポンポンポン上乗せされていくじゃないの!!全部燃やしちゃっても手が追いつかないわよ~…………え!?今考えるって言ったわよね!?」 「ちなみに、団長の目の前の山の一番下に、妹さんからの手紙を挟んでおきました。書類を燃やしちゃったら、その手紙も燃えちゃうことになりますが、いいんですか?」 「手紙……キャサリンからの……はっ!?今日は太陽の日!?」 「その山を全て処理したら読んで頂いて構いません。ボクも手伝いますから、頑張りましょう」 「おっしゃぁああああ!やったろうじゃねぇかぁああああ!!」 毎月太陽の日に届けられる、愛する妹キャサリンからの手紙。 それはあの子がアギラと共にアルモニアを離れて十五年経った今も続いている。 子供が生まれ、日々すくすくと成長していること。 アギラが休暇の日には、家族みんなで近くの湖にピクニックに行くこと。 そんな幸せな日々が綴られた手紙は、唯一アタシが妹の幸せを知る手段となっていた。 でも、手紙の最後にはいつも同じ言葉が記されている。 ――兄さんは自分の幸せを見つけることができましたか? ごめんなさい、キャサリン。 あなたが願ってくれたアタシの幸せ。 それを見つけることはまだできていないの。 だって、騎士団の子たちときたら、アタシが付いてないと危なっかしすぎて、とてもじゃないけど自分のことなんて考えていられないんだもの。 でもね、最近こう思えてきたの。 忙しくて大変な毎日だけど、そんな日々の中で皆と笑い合える一瞬に感じる小さな幸せ。 そんな小さな幸せが積み重なったところに、アタシの幸せはあるのかもしれないって。 「――っしゃああああ!辿り着いたわよ、キャサリーーーーン!」 「お疲れ様でした。毎日これくらいの量を処理してくれれば、終わりも見えるというものなんですけどね……」 「また生意気言っちゃって。これは愛による力なの。そして、アタシはだれかれ構わず愛を振り撒くはしたない女とは違うの……」 「僕にはよくわかりませんね……」 「あら……じゃあアタシが愛を教えてあげましょうか?」 「たった今、相手を選ぶという話をしていませんでしたか……?心から遠慮します」 「あらぁ!あなたはその辺の有象無象とは違うもの~!ダメよ~?自分を小さく見積もったりしたら。身体とかいろいろ大きくならないんだからね!」 この子はエリオット。 五年程前、アルモニアの路上で拾った孤児。 いろいろと事情のある子なんだけど、放っておくこともできなくて今もここに置いている。 もしかしたら、話に聞くキャサリンとアギラの子共と歳が近かったこともあったのかもしれないわね。 でも、それは決して、この子の本質を見抜いたうえでの行いではなかった。 「でも、お陰様で助かってるわ。一人じゃとてもじゃないけど処理しきれる量じゃないもの」 「いえ。僕にとっても勉強になりますから」 「ホント、いい子を拾っちゃったわ……あんたなら隊長になっても皆が文句を言うことはないでしょ。いいえ!アタシが言わせないわ!エリオットちゃんを悪く言ってるのはドコの誰!?顔面を凹ませてあげる!!」 「それも団長が組織体制の見直しに尽力してくれたからです。本来なら、僕のような子供が……しかも新参者が隊長になろうと思ったら何十年も努力しないといけないはずなのに……」 「そういう見栄やしきたりを重んじるやり方は嫌いなのよ。アルモニア音楽騎士団は違うわ。なんてったって、他でもないアタシが団長なんですもの」 アタシ自身が驚いている。 今やこの目の前の少年の実力は騎士団内でも指折り。 ずぶの素人だった子が、わずか数年でここまでの才能を発揮するなんてね。 それについては、もはや団内の全員が知るところで、明日はこの子が二番隊隊長に就任するための式が執り行われる。 十二歳の少年を隊長にすると言った時のお偉方の顔ときたら…… 説得には苦労したけど、頑張った甲斐あったってもんよね。 「アルモニア音楽騎士団団長補佐エリオット。今を以て、貴公の団長補佐の任を解き、新たに二番隊隊長の任を命ずる」 「はいっ!謹んでお受けいたします!」 翌日、予定通り行われた就任式の場で、エリオットは堂々たる姿で新たな任を拝命した。 「「おぉおおおおおおおおおおお!!」」 歴代隊長の最年少記録を大きく更新した彼の隊長就任に、団員たちは大いに沸いた。 これもアタシにとっては小さな幸せの一つ。 幸せを掴み取ってみせたと、キャサリンに胸を張って言うことはまだ難しいけれど、それでも少しずつ近づいている。 キャサリンの願いが実を結ぶまで、アタシは頑張るわ。 「おめでとう。エリオット……」 そんなある日、シャムールから応援要請が届いた。 近頃、シャムールの街周辺で、正体不明の魔物の目撃例が多発していて、シャムールが総力を挙げて調査に当たってはみたものの、件の魔物を捕獲することは叶わず、原因を突き止めることができずにいるらしい。 長期間に渡り街の不安を放置するわけにもいかず、原因の究明と解決にあたり、アルモニア音楽騎士団に協力を依頼してきたってわけ。 一つ気になったのは、何故か応援部隊の指揮として、アタシが指名されていること。 でも、少し考えたら全てわかった。 シャムールでこんな事件が起きたことを知れば、遅かれ早かれアタシはキャサリンの身を案じて飛び出していく。 それこそいつかの殴り込みの時のように。 とはいえ、今やアタシは騎士団の顔である団長。 そんな真似をすれば、今度は直属部隊だけでなく、騎士団全体が動揺することでしょう。 そこで、あえてシャムール側から指名することでアタシに大儀名分を与え、動きやすくする。 アタシの性格をよく知っていて、シャムールの意向に介在できる力を持つ者。 まぁ、アギラしかいないわよね。 キャサリンからの手紙では、アギラ自身はもう前線を退いて、若い人材の育成に尽力してるって話だったけど、元義勇兵団の遊撃隊隊長ともなれば、シャムールのお偉方に口添えするくらいのことは今でもできるんでしょう。 「一番隊を召集してちょうだい!要請を受け、これよりシャムール周辺の魔物の調査、討伐任務の現地へ向かうわよ!」 乗せられた感があることは否めないけど、感謝するわ、アギラ。 もしかしたらキャサリンや甥の顔を見る時間もできるかもしれないしね。 でも、そんな妄想はあくまでも妄想に過ぎなかったということなのかしら。 「話と違うじゃない……どこにいるのよ、その魔物とやらは!?」 「我々にもさっぱりわからんのだ……アルモニア音楽騎士団に応援を打診した頃は、確かに魔物が周辺をうろついていた。それは調査団の報告でも確認できている」 シャムールに到着し、現地の騎士団連中に案内させながら調査に乗り出したアルモニア音楽騎士団。 でも、どれだけ探索しても、その魔物とやらの姿を発見することはできなかった。 「その魔物ってのはどんなヤツなの?」 「正直なところ謎だらけだ。姿形は様々だが、今まで見たこともないような奇妙な形をしている個体ばかり。捕獲して詳しく調査しようにも、人が近づこうとすると、すーっと煙のように姿をくらましてしまう始末だ」 「魔物が人間相手にかくれんぼってわけ?シャムール周辺のヤツらは随分と気が利くものね。おかげで退屈せずに済んでるわ」 「今のところはケガ人も物的被害も出ていない。ただ、存在していることだけは間違いないという状況だ」 「ホントにもう……気持ち悪いわね」 「まったくもってその通りだ。我々としても早急に解決したいところなのだが、なかなか成果をあげることができずにいる……」 案内役の顔を見ると、完全に参ってしまっていることがよくわかる。 ちゃっちゃと任務を済ませて、余った滞在時間でキャサリンたちとの時間を過ごそうと思っていたけど、任務を途中で放棄してそんなことするわけにはいかないし、残念だけどまたの機会になりそうね…… 「アタシたちがアルモニアに帰るまで、まだ三日あるわ。その間に何としてもヤツらを見つけ出すわよ!」 「協力、感謝する!」 シャムールの人々とアルモニア音楽騎士団は連携し、徹底的に街の周辺を捜索したが、丸三日が経過しても、標的どころか、その痕跡を発見することさえできなかった。 謎は深まるばかり。 アタシたちがやってきたことで、戦力的に不利になったと見て、どこかに身を隠しているのかもしれない。 だとしても、ここまで完全に自分たちの痕跡を断つことが、魔物の知能で可能なのかしら。 「あ~あ……結局、空振りだったわね……こんな気分でアルモニアに帰ることになるとは思ってなかったわ……最悪ね、もう……こんなにブルーになったのはいつ以来かしら?」 「これだけ探してもダメだったんです。何か進展があるのを待つしかないでしょう……」 「シャムールからも、引き続いて情報提供はしてくれると申し出があったわけですしね」 シャムール滞在最終日。 この日の調査も終了し、いよいよアルモニアへの帰路に就くまで残すところ数刻。 肩を落としながら部下たちと話すアタシの目の前では、帰投準備に駆け周る団員達の姿。 「そういえば、団長。シャムールには妹さんがいらっしゃったのでは?もう長いこと会ってないんじゃ……」 「まぁね……でも、任務も失敗しちゃったし、アタシだけウキウキしながらあの子のとこに遊びに行くわけにもいかないでしょ……」 これは自分に課した誓約。 騎士団内で最も権力を持つ団長という肩書があれば、多少仕事を部下に任せてプライベートな時間を作ることは簡単。 でも、アタシはその肩書を振りかざしたりはしない。 騎士団に所属する者たちは皆がアタシにとっての家族。 家族が一人でも頑張っている内は、アタシも役目を放って遊び呆けたりするわけにはいかない。 どのみち、甥の顔なんて見ちゃったら、戻って仕事なんてできなくなっちゃうでしょうしね。 「行ってきてくださいよ!もうあんまり時間もないですけど、こんな機会早々あるもんじゃないですよ?」 「……気持ちは嬉しいわ。でも、アタシも帰る準備とか、シャムールの面々に挨拶とかいろいろあるし――」 「大丈夫っすよ!団長、ずっと休み無しに騎士団のために働いてたじゃないですか!これくらいの特別休暇があっても誰も文句言いませんよ!それに、団長らしく振舞おうだなんて、姉御らしくないですよ?」 「姉御、ね……懐かしい呼び方しちゃって……でも、いくらアタシでも団長の立場ってもんが――」 「姉御も丸くなりましたね~?らしくないっすよ?俺たちは姉御が団長になるって聞いた時、すごく嬉しかったんすよ!団長になったからって、団長らしくなってほしかったわけじゃないんす!」 「挨拶や荷造りは自分たちがやっておきます!だから行ってきてください!!」 「あんたたち……」 「ほら!どんどん時間がなくなっちゃいますよ!!」 「もぅ……馬鹿ねぇ……団長をそそのかす団員なんて、あるまじきだわ!罰として、アルモニアに帰ったら酒樽の中で溺れさせてあげるから、覚えてらっしゃい!!」 「「いぇーーーーい!!」」 部下の計らいで得られたほんのひと時の余暇の時間。 十五年ぶりにキャサリンとアギラに、そして初めて甥に会える。 馬を走らせるアタシの視界が揺ら揺らとぼやけていく。 もう歳かしらね……涙もろくなっちゃっていけないわ。 「確か……こっちの方って聞いたけど…………」 シャムール義勇兵団の屯所で聞いたアギラの家の住所。 とはいえ、不慣れな土地で目的地まで真っ直ぐ向かうということはなかなか難しい話。 焦らないように、でも、急ぎつつ目的地を目指す。 「この道を真っ直ぐ進んで、突き当たりの家ね……!」 今行くわよ、あんたたち。 まずは思い切り抱きしめて、それから―― ――ズドォオオオオオオン!! 『ヒヒィイイイイイン!!』 「――っなに!?」 途端、地鳴りのように響き渡った爆音により、馬が足を止めた。 続いて同じ爆音が街のあちこちから響き渡り、ただ事ではない事態であることを告げる。 この時、アタシは二つの選択肢を迫られた。 一つ、キャサリンたちのところまで急行し、安否を確認する。 一つ、騎士団のところまで戻り、事態の把握と対応に努める。 ジョセフィーヌ個人としては前者。 アルモニア音楽騎士団団長としては後者。 迷いは延々と絡み合い、アタシの足を地に縛り付ける。 「敵兵発見!!」 「――っ!?」 直後、行く手に現れたのは、漆黒の鎧を纏った兵士たち。 それを見て、アタシは無意識の内に馬の腹を蹴っていた。 奴らが現れたのが、キャサリンの家がある方角だったことが理由だったのだろうと思う。 「おぉおおおおおおおお!!」 「な、何だこいつ……急に――ぐぁああああ!!」 間違いない。 こいつらがこの騒ぎの首謀者。 その正体は、帝国軍。 理由はともかくとして、シャムールを襲撃してきたのだ。 「キャサリィイイイイン!!」 立ちはだかる雑兵を蹴散らし、前へ前へと馬を走らせる。 『ゴァアアアアアアアア!!』 「何よ……あれ……!!」 目的の家に近づくにつれ、その家が既に半壊していること。 そして、そこにいる巨大な魔物が、何かに向けて威嚇している様子が見えてくる。 「母さんっ!!」 魔物の足元。 ちょうど家の影になって見えはしなかったが、そこから響き渡った幼い声を聞いた途端、アタシの脳裏でブチッと何かが切れる音がした。 「うぉらぁああああああああ!!」 比べようのない体格差。 黒く、硬い鱗に覆われた皮膚に刃は通るのか。 そんなこと考えるまでもなく、アタシは魔物の脳天目がけて斧を叩きつける。 『――ッグ……オォオオオオ……!!』 「キャサリン!?アギラ!?」 着地と同時に家内を見回すと、そこに見覚えのある顔が。 「ジョ、ジョセフィーヌ!?よく来てくれた、友よ!!」 「アギラ!!」 ちょうど魔物と相対する形で、血だらけになりつつ弓を構えていたアギラの姿。 その背後に、背中から血を流して床に伏すキャサリンと、泣きながら彼女にすがりつく小さな子供。 「何なのよ、コイツは!?」 「わからん……!突然現れて、暴れ出した。その時、崩れた屋根からミルヴァを庇ってキャサリンが……!!」 「ミルヴァ……?」 それは手紙で伝え聞いていたキャサリンとアギラの子の名前。 すると、他でもない、キャサリンにすがるこの子供こそがミルヴァ。 実際に見るのは初めてだけど、綺麗な桃色の髪は紛れもなくキャサリンから受け継いだもの。 「とにかく、さっさと片付けるわよ!コイツだけじゃない!帝国軍も街に攻めてきてる!!」 「帝国軍が!?くっ……なんて間の悪い……!!」 『グルルルル……!!』 よくよく見て、目の前の魔物がこれまで見てきた魔物のどれとも異質なものであることがよく分かった。 竜種のようだけど、体を覆う鱗と鉱石のような皮膚。 こんな個体、見たことない。 まさか、これがシャムール騎士団が探していた例の謎の魔物ってわけ? 「やれるわね?アギラ!」 「無論だ……!キャサリンを決して傷つけないと君の前で誓っておきながら、この様……罰なら後でいくらでも背負おうというもの!今はこいつを倒すのみ!!」 『ゴォアアアアアアアア!!』 振り下ろされる巨大な爪を皮一枚のところで避け、前へと足を踏み出す。 威力はとてつもないけど、そんなどんくさい動きじゃアタシは捕まえられないわよ! 「ふんっ!!」 地を蹴り、勢いに乗った体勢のまま放たれる一撃がこめかみを捉え、僅かに竜の重心が傾いた。 「はあっ!!」 すかさず同じ場所をアギラの矢の雨が襲い、竜はそれを庇おうと翼を盾にする。 でも、それじゃ視界が遮られて、アタシの姿が見えないでしょ? 「おらぁああああああああああああ!!」 『グギャァアアアア!』 余裕をもってあらん限りの力を溜め、渾身の一撃を見舞う。 かつて、どんなに巨大で強大な魔物であろうと仕留めてきた必殺の一撃。 「どうかしら?たまんないでしょ!」 「――っまだだ!ジョセフィーヌ!!」 『グルゥアアアア!』 迂闊だった。 技を放ったがための脱力感と、経験がもたらした油断がアタシの反応を一瞬遅らせた。 「ぐっ……!?」 「ジョセフィーヌ!?」 大木のような尾が鞭のようにしなって頭上から襲い掛かり、強烈な衝撃によりアタシの身体は床板を突き抜けて沈む。 「い、痛いわね……やってくれる……じゃない……!力任せは嫌われるわよ……?」 「無事か!?」 「えぇ……なんとか。なんて硬いのかしら……」 手早く片付けてしまおうと意気込んだはいいが、予想をはるかに上回る強靭さに、アギラの顔に焦りが見え始める。 アタシも同様だった。 必殺のつもりの一撃でさえ、僅かばかりのダメージを与えることが精一杯。 これでは逆にアタシたちの体力が持たない。 しかも…… 「母さん?母さん!?」 さっきからキャサリンがぐったりしたまま動かない。 出血の程からみても、かなり深手であることは間違いみたいね。 「このままじゃ……!」 「…………ジョセフィーヌ。頼みがある」 「なによ、こんな時に?」 「キャサリンとミルヴァを連れて、ここから逃げてくれ……!」 「あんた……なに言ってるの?」 意図していることは理解できる。 戦うにしても、背に二人を庇ったまま倒せるような敵ではない。 キャサリンの治療も急がないといけない状況。 それはわかる。 でも、傷ついたアギラが一人で戦って勝てるはずはないし、どんな理由があろうとも一人残していくような真似―― 「頼む……友よ。私には二人を抱えて逃げるだけの力は残っていない。だが、君ならなんとかできるだろう……?」 「だったら二人で逃げるのよ!アタシが二人を抱えるから――」 「追ってくるコイツをどうするつもりだ……?」 「それは……あんたが弓で牽制してくれれば……」 「はは……さっきも見ただろう。弓だけで抑え込めるならこんなことにはなってないさ。それに、帝国軍の奴らもうろついているはずだ」 「でも…………」 「大丈夫だ。私一人でもなんとか時間くらいは稼げる。君たちがこの場を去ったら、隙を見て私も脱出する……!」 「…………くっ!!」 アギラはそう言うが、それが容易でないことは明らか。 でも、全てを選ぶことはできない。 「アギラ……忘れてないでしょうね?あんたはキャサリンを『一生守る』と誓ったのよ!?こんなところで死んだりしたら、アタシがもう一回ぶっ殺すからね!!」 「あぁ……!すぐに追いつく!二人を頼んだぞ!!」 アタシはもう振り向かなかった。 キャサリンを背負い、ミルヴァを脇に抱え、駆ける足に力を込める。 信じるしかない。 アギラの誇りと信念を。 「父さん……!!」 「ミルヴァ……母さんを頼んだぞ!」 それからの道中のことはよく覚えていない。 噛み切った唇から滴る血に気付いた時、アタシはシャムール義勇兵団の屯所にいた。 腰かけた椅子に立て掛けられた斧の刃には夥しい血が付着していて、ここに辿り着くまでに相当数の帝国兵を斬ったことはうっすらと記憶にある。 それと、思い出せることがもう一つ。 屯所に駆け込み、急いで治療を施したキャサリンが、すでに息絶えてしまっていたこと。 アタシの頭は真っ白になった。 十年以上も顔を合わせることができずにいて、ようやく会えると思ったところに待っていたこの結末。 自身の幸せを掴み取り、兄のアタシの幸せまでも願ってくれた優しいあの子はもういない。 「……う……ひっぐ…………!」 ミルヴァはアタシの膝に顔をうずめながらずっと泣いている。 この子もまた、アタシと同様、アギラにキャサリンを託された。 でも、命を賭けて託された想いを、アタシたちは酌んでやることはできなかった。 「シャムール義勇兵団の屯所はここか?コイツを頼む……」 その時、屯所に訪れた男を見て、アタシの意識は覚醒した。 正確には、その男が大事に両手で抱いていたそれを見て。 「アギラ!?!?」 「え……?父さん!?父…………さん?」 男が抱いていたのは、アギラの亡骸だった。 「ミルヴァ……お前は無事だったんだな……!」 「グ、グラフィードさん!?」 ミルヴァがグラフィードと呼んだ男は、自身が先程見てきた光景を語った。 帝国軍と魔物の両方に襲撃されたシャムールの街がすでに酷い有様であること。 家で寝ていたところ、街が騒ぎになっていることに気が付き、表に出たところでアギラの家が燃えている現場に遭遇。 駆け付けはしたが、そこには巨大な魔物の死骸と、アギラの亡骸だけが残されていたこと。 あの魔物は炎を吐いたりはしなかった。 ということは、家が燃えたのは彼が自分自身の手で火を点けたということ。 幸せな思い出の詰まった家を自分で焼き払う。 それも、全ては愛する家族に生きて欲しいがため。 「俺がもっと早く駆け付けていれば結果も違ったかもしれねぇ……すまん…………すまん、ミルヴァ……!!」 「父さん……うぅ…………あぁ………………!!」 アタシは立ち上がり、ミルヴァに深々と頭を下げるグラフィードの元へと歩み寄る。 その時のアタシの心の内は、悲しみよりも、別の感情に支配されていた。 「あんた……傭兵のグラフィードね?名前くらいは聞いたことがあるわ」 「そういうあんたは……?」 「アルモニア音楽騎士団団長ジョセフィーヌよ」 「アルモニアの……?そういえば、遠征でこっちに来てたんだったか。不運だったな。出先でこんな事態に巻き込まれちまって」 「そんなことどうでもいいのよ……アタシが聞きたいのは、あんたがこれだけの騒ぎになるまで、どこで何してたかってことよ!」 力いっぱい襟元を締め上げられながらも、グラフィードは少しも抵抗しようとはしない。 やっぱり後ろめたいことがあるってわけ? 「俺は…………っ!」 「あんたがさっさと剣を振っていれば、もっと多くの人を助けられたんじゃないの!?キャサリンも!!アギラも!!!!皆が必死に戦って、守ろうとしている間、てめぇ――」 「やめてくださいっ!!」 間に割って入ってきたのは、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしたミルヴァだった。 「グラフィードさんは悪くありません……!ボクが……えっぐ……ボクがもっと強ければ……ひっぐ……」 「ミルヴァ…………」 この子が抱いている感情は自分のことのようによくわかる。 アタシだってそう。 キャサリンとアギラを守れなかった自分の弱さが憎い。 でも、この子はアタシとは違った。 アタシはそれをグラフィードに押し付け、現実から逃げようとしてしまったのに対し、この子は自分の弱さを認める強さをこの歳にして持っている。 「……ごめんなさい……悪気はなかったの…………」 「いや……こんな時だ。仕方ねぇさ。俺も同じようなことを考えることがあるよ…………」 「ミルヴァ……あなたにもよ。ごめんなさい…………!」 「おじさん……?」 それしか言葉にすることができなかった。 言い訳も、反省も、慰めさえも。 もっと注意深く魔物を調査していれば、何らかの兆候を得ることができていたかもしれない。 変な意地を張らず、キャサリンたちの家にすぐに向かっていれば守れたかもしれない。 たらればなんてくだらない。 終わってしまった時は還らない。 そう思っていたはずなのに、夥しい数の小さな後悔が重なり合い、大きな波となってアタシの心を揺さぶった。 その後、私は部下に引きずられるようにしてシャムールを脱出した。 最後まで抵抗を続ける姿勢を崩さなかったシャムール義勇兵団を街に残して。 アタシもアギラの故郷を取り返さんと斧を握ったが、アルモニア音楽騎士団団長という立場は、その行為を許してはくれなかった。 ここで団長を失うようなことになれば、シャムール騎士団ばかりか、アルモニア音楽騎士団までもが崩壊してしまう。 そのことを案じた、現地の団員が、アタシの前に立ちはだかったのだ。 グラフィードは、ミルヴァをアタシに預け、シャムールの戦火の中へと消えていった。 生きているのか、死んでしまったのかもわからない。 だけど、別れ間際の彼の顔は、自分の道を見つけた。 そんな顔をしていたような気がする。 後に、数日が経って、シャムールを完全に占領した旨の告知が、帝国軍より発表された。 それはシャムール義勇兵団の壊滅と、キャサリンとアギラが幸せを築いた街が失われたことを意味していた。 「……おじさん。ボク、強くなりたいです」 「そうね……アタシももっと強くならないといけないわ……」 妹夫婦を含む、シャムールで失われた多くの命の葬儀は、所縁の深かったアルモニアの地で行われた。 アルモニア音楽騎士団の全員が通りに並び、盛大な追悼曲を街中に響き渡らせる中、参列者たちの列の一端で、ミルヴァはアタシの手を強く握りしめる。 「アンタはこれからどうするの?」 「言った通りです。強くなります。ボクの力で、誰かを守ってあげられるように」 「アンタは十分に強いわ。自分の弱さを認め、それでも前を向いて歩き出そうとしているんだもの。それは簡単にできることじゃないわ。その強さを教えてくれた父さんと母さんに感謝なさい」 いくつもの死と戦場を乗り越えてきたアタシでさえできないことを、こんなにも小さな少年がやってのけるなんてね。 「はい……でも、結局母さんを守ることはできませんでした……」 「それは、その心の力を現実にするだけの経験がアンタになかっただけよ」 「だったら教えてください!心の力を現実にする術を、ボクに!」 本当に強い子。 あれだけの経験をしておきながら、真っ直ぐとアタシを見る瞳の奥には、熱い信念に裏打ちされた炎が灯っているのがわかる。 そういえば、アギラもこんな目をしていたわね。 「いいわ。アタシが本気であんたに叩き込む。その心が報われるだけの漢にしてあげるわ」 「そうすれば、ボクもおじさんのようになれますか?」 「それはこれからのあんた次第。努力なさい。そして、父さんみたいないい男になるのよ?」 「はい!」 「それと、アタシはおじさんじゃない。心は乙女よ。お姉さんと呼びなさい?」 「はい!!」 この子といつか、シャムールを必ず奪還して、あの子たちに見せつけてあげなきゃね。 あんたたちが育てた雛鳥が、堂々と翼を広げ、希望の空を羽ばたく姿を…… +漆黒纏う幽船の長ジェーン 「おい!待てって!ジェーン!」 男達は1隻の船に向けて声を荒げる。 広げられた帆に書かれた大きなドクロのマークが広大な海原に視線を向ける。 「アタシを止めようったって無駄さ!絶対に見つけてやるさ!よっし!出航だぁああ!!」 ジェーンが舵を切ると、船は荒波へと乗り出した。 目指すは悪魔の海域の中にあるデビルズガーデン。 「戻ってこいジェーン!!誰も帰ってきやしねぇんだ!お前だって死んじまうぞ!」 男達は揺れる船を心配そうに見つめながらまだ何か叫んでいる。 誰も帰って来ない悪魔の海域。 コンパスも効かず、見通しの悪い霧の中を進まなければ、その島にはたどり着けない。 本当にその海域の中にあるかどうかも分からない島を目指すという事は、命を投げ捨てるも同義だ。 「ヒッヒッヒ……。んなことは分かってるよ。だからこそ、アタシは帰ってくるさ!!」 誰に話しかける訳でもなく、ジェーンは海を見ながら楽しそうに笑う。 彼女をこの島に惹きつけるのは、怖いもの見たさ、興味本位、誰も出来なかった事を成し遂げてやろうという野心……。 色々な理由はあるものの、やはり根底にあるのは島を目指したきり帰ってこない両親の存在。 バルバームの島にジェーンを置いていったきり、彼らが戻ることはなかった。 首から下げた懐中時計を手に取ると、まだあの2人の声が聞こえてくる気がする。 ―― ―――― ―――――― 「なんでだよ!アタシも連れていけよ!家族だろ!?」 父は海図を広げた机を眺めながら、駄々をこねるジェーンを一蹴する。 「何度言えば分かるんだ?家族だと思っているからこそ、今回の旅には連れていけないと言っているだろ」 「くそ親父が!そんなに危険な所だったら行かなきゃいいだろ!」 ジェーンは机の足を殴り付け、怒りを露わにする。 「おい!やめろ!」 「うるせぇな!お前らがやめればいいだろうが!」 机の上に置かれていたコンパスや羽ペンが床に転がり、部屋の中は険悪なムードに包まれる。 ジェーンも喧嘩などしたくはないが、ここまで来たら引くに引けない。 父親はジェーンに乗せられて更にヒートアップしていた。 「ガキがグダグダとうるせぇんだよ!俺が決めた事に口出すんじゃねぇ!」 部屋のあちこちで物が宙を舞う。 壁にランプや本が当たる音を聞きつけて、母が部屋に飛び込んできた。 「二人共いい加減にしなさい!まったくあなたはどうしていつまでも子どもなのかしら!ジェーン!そんな男は放っておいてこっちにきなさい!」 母には頭が上がらない父は、舌打ちをしてから大きな音を立てて椅子に腰掛ける。 ジェーンは部屋を出る間際、最後の反抗だとばかりに落ちていたインク瓶を投げつけてから力いっぱいドアを閉める。 「反省しろバカ親父!」 「ジェーン、あなたも少しは大人になりなさい」 母は少し怒った様子でジェーンを見下ろした。 「だってよ!次の航海はすげぇ冒険なんだろ!?なんでアタシは留守番なんだよ!おかしいだろ!」 「私もジェーンの歳だったらそう言ってたわ。でもね、本当に帰ってこれないかもしれない危険な航海なのよ?」 「それは分かってるよ!だったら必ず帰ってくるなんて言わなければいいだろ!?変じゃんか!」 母は首から下げた懐中時計を外すとジェーンに見せる。 「あなた、これ欲しがってたわよね?」 ジェーンからすれば、欲しいなんてもんじゃない。 珍しいオウルホロウで作られた懐中時計。 バルバームの海賊の中に、持ってる人間なんて見たこともない。 あの父が結婚指輪の代わりにって母に渡したらしいが、本当にあのダメ親父がそんなガラにもない事をするのかと、疑わざるを得なかった。 母はこの時計を肌身離さず持ち歩き、大切に大切にしている。 「これを貴女に預けておくわ」 母は笑顔で、その懐中時計をジェーンの首に下げた。 「いいのかよ……?これあのアホ親父に貰ったんだろ?最初で最後のプレゼントだって言ってたじゃんか!!」 「勘違いしないで。預けておくだけよ?私達が戻ってきたら返して貰うから」 「な、なんだよそれ……」 ジェーンは懐中時計を見つめ、母にそれほどの覚悟がある事を理解した。 ―――――― ―――― ―― 「本当にバカな奴だ!後悔しても遅ぇんだからな!」 きっとあの2人が船を出した時もこんな言葉を掛けられたのだろう。 でなければ、海賊仲間から“夢見がちな夫婦の娘”なんて言われたりする訳がない。 両親はみんなからバカにされていた。 伝説のデビルズガーデン。 あの海域の中に本当にあると信じている人間は少ない。 噂は知ってはいるが、数あるおとぎ話の一つとして語られているだけだ。 魔の海域に隠された島デビルズガーデン、海の中に眠る街ポートレア、コルキドの氷海に眠る伝説の宝剣。 その一つでも証明する事が出来れば、この海に名を馳せる事が出来るのは間違いないだろう。 しかし、そんなものを大真面目に探していればバカにされるのは当たり前だった。 だが、ジェーンの両親はそのロマンを追いかけ続けた。 「夢見るのが海賊ってもんだろ!船も気持ちも全力前進だ!沈んで良いのは夕日だけってな!」 親父がいつも言っていた。 ジェーンはそんな親父を鬱陶しがっていたが、血は争えないらしい。 両親をバカにする海賊達の話を聞いていると腹が立った。 死人に口なし……何とでも言える。 戻ってこない親父達がバカにされるのは当たり前なのかもしれない。 それでも、だからこそ、自分がデビルズガーデンを見つけて戻ってくる。 そうすれば、きっと親父達をバカにしてた奴らを黙らせる事ができる。 何より、ロマンを追いかけたかった。 だから今日この日、単身悪魔の海域に向かって船を出す。 誰も成し遂げられなかった大義を果たす為に。 「てめぇら!見送りご苦労さん!ちょっくら悪魔に挨拶して戻ってくるわ!!」 バルバームの島はみるみるうちに小さくなり、やがて360度大海原に囲まれた。 待ってろよ親父、お袋。 今からアタシがお前らの汚名を返上してやる。 ――数日後 船は順調に目的地へと近づいていた。 見えてきたのは、忽然と現れた霧の壁。 噂では聞いていたが、いざ目の前にするとこの世のものだとは思えない。 「ヒッヒッヒ……こいつは楽しそうじゃん!」 ジェーンは笑い、臆する事なく霧の中に真っ直ぐと船を向ける。 中に入ると、驚いた事に数メートル先も見ることができない濃霧で囲まれた。 「こんな中進まなきゃならないのか?やってやろうじゃん!」 風が出てきたのか、帆がバタバタと音を立てる。 霧の中で強い風が吹くというのは、なんとも奇怪だ。 ここでは海の常識など通用しない事をジェーンは思い知る。 波が荒立ち、ギシギシと船体が軋み始めた。 そして、追い打ちのように雨が降り、やがて嵐がやってくる。 「こんなんどうしろって言うんだよ!」 舵を切る事もままならなくなり、立っている事がやっとな甲板から船内へと避難するジェーン。 船室にいれば雨風はしのげるが、いくら船に慣れているとはいえこの尋常ではない揺れ方に三半規管がおかしくなる。 「やっべぇな……一旦嵐が収まるまで待つしかないか……」 壁を伝い、自室までやってくると天蓋付きのベッドに飛び込む。 ここ数日、ろくに寝ていないせいで意識は朦朧とし、やがて深い眠りに落ちた。 ―― ―――― 「あれ?どこだここ?」 目を覚ますと深い霧の掛かった海に立っている。 海に足を付けているのにも拘らず、沈みもしない事に疑問を感じなかったのは、目の前の少女に視線を奪われたからだろうか。 黒いフードを被った少女は、ジェーンを真っ直ぐ見ながら口を開く。 「あなたは、ここに何をしにきたの?」 ジェーンは驚く事もなく、少女に笑顔を向ける。 「アタシはジェーン!海賊だ。ここらへんにあるっていうデビルズガーデンって島を探しにきた。お前は?」 少女は少しだけ動いたかと思うと、フードの影から瞳を向ける。 その瞳は、なんとも不思議な赤色をしていた。 「アタシは……守る者……」 「守る?守るって島をか?おい!ちょっと待てよ!」 ジェーンから少女が高速で離れていく。 特に歩いたり走ったりはしていない。 急速に遠くへ行く少女にジェーンは手を伸ばした。 「おい、待てって!!」 ―――― ―― 「待てって言ってんだろ!!」 目を覚ますと、天蓋付きのベッドで上半身を起こしていた。 「あれ……?夢か……」 もう一度ベッドに倒れ込んだ。 額に手を当てて、落ち着きを取り戻そうとする。 「えっと、今日は何日だ……」 自分が何をしていたのか、ハッキリと思い出す事ができない。 夢の中の少女の声が耳にへばり付いて、意識を集中する事ができないような変な感覚。 ふと横を見ると、見慣れない小さなタオルが落ちている。 手にとって見ると、ひんやりと冷たい。 よく見れば、ベッドの横に椅子が置かれており、上には鉄のバケツに水が揺れている。 「誰かがこの船にいる……?」 警戒しながら辺りを見渡すと、ドアが半分開いている。 バケツも小さなタオルもこの船の物ではない。 ならば、外からこの船の中に誰かが入ってきている事は間違いない。 看病をしていたのならば敵対している訳ではなさそうだが、何にせよまずはどんな奴なのか確かめなければ……。 次の瞬間、半開きだったドアが物凄い勢いで開いた。 飛び込んできたのは、年端もいかない少女。 構えていた自分が馬鹿らしくなるほど、明るい笑顔を向ける。 「お前……誰だ?」 少女は銀髪を靡かせながら、元気に口を開く。 「気が付いたんだね!良かった!私はプリシィだよ!もう起きないのかと思って心配しちゃった!はい、果物と水があるから、とりあえず口に入れて!」 少女のテンションについて行けず、呆然とするジェーン。 一体何が起きていたのか……。 一つずつ確かめなければならない。 「あぁ…悪いな…。看病してくれてたのか?」 「そうだよ!色々お話を聞こうと思ってね!」 「そうか……船は……」 そう言えば、船は波に揺れている様子がない。 ならば、どこか陸につけているのだろう……。 そこまで考えて、記憶が戻ってくる。 「あっ!!」 飛び起きると、プリシィと名乗る少女の肩を掴む。 「ここはどこだ!?デビルズガーデンか!?」 「でびるずがーでん??」 「違うのか?どこかの街に漂流してきちゃったか?」 プリシィは何か考えるような様子を見せる。 「そうなの!?じゃあこの島はでびるずがーでんって名前なの?」 島……やはり辿りついたのだ……。 記憶はないが、魔の海域を抜けて、ついに……。 渡された果物を一気に頬張ると、水で流し込む。 「こうしちゃいられねぇ!!外に行くぞ!」 壁に掛けられた帽子を被り、船室から走り出す。 「ちょっと!まだ動いたらだめだよ!!」 「こうしちゃいられないって!ついに来たのか!?ヒッヒッヒ!」 廊下を走り抜けて外の光が漏れるドアを蹴り開ける。 眩しさに目を細めながら、辺りを見渡した。 そして、見たこともない島が目に飛び込んできた。 「うぉおおおお!!本当にデビルズガーデンか!!ついに来たんだなぁ!!」 両手を上げて歓喜の声をあげる。 船の先端まで走り、島をよく眺めて見ると美しい砂浜の奥に森が広がり、あちこちに遺跡のような建物が見える。 「もう!そんなに飛び起きて死んじゃっても知らないんだから!」 後ろから急いで追ってきたのか、息を切らしながらプリシィが口を挟んだ。 「あー悪い悪い。誰にも成せなかった事をやったんだなって思ったら感動しちまってなぁ~!アタシはジェーン。プリシィだっけ?よろしくな!」 「誰にも成せなかったって、どういう事?この島は特別なの?」 不思議そうな顔をする少女に、興奮しながら説明する。 「特別も何も!!一年中霧に覆われ悪魔の住むと言われる海域!!コンパスも効かず、視界も全くない中を進んだ先にあると言われている伝説の島!!それがデビルズガーデンさ!!何人もの海賊がこの伝説の地に眠ると言われている財宝を求めて旅をしたが、誰一人帰ってきた者はいない!そこにアタシは辿り着いたんだ!感動しなくってどうする!?」 「あれれ!?そうだね……えっ!?ちょっと待って!そんなに怖い島だったのここ!?」 プリシィは慌てている様子だ。 そう言えば、そんな島に何故少女がいるのだろうか。 あまりにその場に馴染みすぎて忘れていた事を思い出したジェーンは、プリシィに疑問をぶつけた。 「っていうか、なんでこの島に子どもがいるんだ?お前はどうやって来た?もしかして島の住民がいるのか?」 「私はパパとママと一緒に船に乗ってたんだけど、いつの間にかここに来ちゃったの」 いつの間にか来れるような場所でもないような気がするが、逆に来ようとして来れる所でもない。 妙に納得できる答えに、ジェーンは頷いた。 「なるほどねぇ~遭難者か。まぁ、そうでもなければこの海域に来る事すらないとは思うけど……他に人はいないのか?」 「うん……」 プリシィは寂しそうに答える。 そうか、両親と来たはずなのに、その両親がいないっていう事ははぐれたのか、もしくはこの島に来たのはこの少女だけという事になる。 なら、ここは明るく振舞って元気づけなきゃならない。 沈んで良いのは夕日だけだ。 「そうか、それなら良かった!アタシの仕事を手伝え!この島には詳しいんだろ?財宝の在り処を教えてくれよ!そしたら、一緒にこの島を出よう!どうだ?悪い話じゃないだろ?」 「財宝?どういう事?」 少なからず、こんな少女でもデビルズガーデンに来た者としては先輩な訳だ。 何か島について知っている事もあるだろう。 両親と離れ離れになっているならば、その寂しさは誰よりも知っている。 親代わりとまではいかないにしろ、プリシィの面倒を見る事を決めた。 こうして、ジェーンとプリシィの二人は、翌日から島の各地にある遺跡を探検する事になった。 いつの物かも分からない風化した遺跡は、魔物の巣窟となっているらしい。 こんな危険な島でよく一人生きてこれたなと、プリシィを見て感心する。 彼女の扱う水魔法は、その年頃の少女の力とは思えない程。 こんな島に来た少女なのだから、何かそれなりに選ばれた人間なのだろうと笑みをこぼす。 この島を出たら、プリシィを自分の船に乗せる。 ジェーンはいつからか、そんな事を考えるようになっていた。 ――数日後 いくつの遺跡を回っただろうか。 特に目ぼしい物はまだ見つかっていないが、この探索は苦痛ではない。 こんな島に遺跡があるという事は、何かとっておきのお宝があるに違いない。 そう確信していたジェーンは、どこか常にワクワクした状態が続いていた。 「お宝あるかな~?もし見つけたら、一緒にこの島を出られるんだよ~?早く見つかると良いね!」 プリシィも相変わらず楽しそうに後ろを付いてくる。 長い間この島に暮らしているせいだろうか、明確にジェーンに話しかけている訳ではない独り言を口にする。 きっと色々なショックもあるのかもしれないと、特に何も言わずに放っている。 ただ、この時に限ってはそうも言っていられない。 「ちょっと静かにしろ……魔物の匂いがする」 遺跡の奥から今までにない程の禍々しい気配を感じる。 慎重に角を曲がると、大きな広間に巨大な四足獣の瞳が見えた。 「うわわわ~!?お宝の番人かな~?」 プリシィは小声で戯けた様子。 こんな敵を前にしても、泣き出したりパニックにならない辺り、やはり船に乗せても問題ないだろう。 むしろ、これほどの戦力ならば、そこら辺の海賊よりもよっぽど頼りになる。 「そうだといいな!よっしゃ!やっちまおうか!」 巨大なイカリを手に魔物に向かって襲いかかる。 プリシィは、ジェーンに合わせて魔法を詠唱した。 ジェーンの一撃が入ると四足獣は怯み、そこにプリシィの魔法が炸裂する。 浮き上がった所にジェーンがトドメの一撃を叩き込んだ。 「これで終わりだぁああああ!!!」 四足獣は倒れ、ピクリとも動かない。 「おっしゃ!今日も良いチームワークだったな!アタシと一緒に海賊やるか?ヒッヒッヒ!」 ジェーンは笑顔をプリシィに向ける。 「海賊~~?そんなのできるかな~~?」 「その魔法があれば大丈夫だろ!その歳でそれだけの魔術を扱えるなんて大したもんだ!」 認めている事はしっかり伝える。 父親を反面教師に、自分の有り方を考えていた。 バルバームに帰れば、誰もがジェーンの船に乗りたがる。 なにせ、あのデビルズガーデンからの生還者。 伝説の海賊船の船長となるからには、部下に信頼されなければならない。 そんな事を頭の隅で考えるようになっていた。 四足獣がいた広間を抜けて奥の祭壇までやってきたジェーンの目に飛び込んできたそれは、彼女が望んだ一品だった。 「おおおお!!これ見てみろ!!すっげぇぞ!!!」 「これな~に?大砲?」 船に装備する大砲がデビルズガーデンから拾ってきた物だとすれば、それ以上に象徴となるような物はないだろう。 財宝と呼ぶには少し違う気もするが、金目のものよりも何倍も価値がある。 「そうだ!船に乗せる用の飛び切り上物だな!」 「それじゃあ!財宝を見つけたって事なのかな!?」 「こんな形の砲筒見たことないし!これをアタシの船に乗せれば、そりゃあ驚かれるだろう!」 「やったやったぁあああーーー!!」 プリシィも自分の事のように喜んでいる。 いや、彼女もこの島から出る事が目的となっているならば、自分の事で正しいのだ。 砲筒をやっとの思いで運び出した2人は、さっそくジェーンの船に取り付ける。 船の主砲となったどこか神々しい砲筒を見て、プリシィも満足そうな顔をしていた。 「でもジェーン……この船で本当に大丈夫なの?」 プリシィが突然質問をぶつけてくる。 確かに、あの嵐をくぐり抜けてきた時に限界を迎えていたのだろう。 帆は破れ、あちこち傷つき、ボロボロになった船は、大凱旋を果たす船としては格好がつくか微妙な所だ。 それでも、一人でコツコツと資金を貯めて、ド派手な借金を作ってまで手に入れたこの船は、ジェーンにとって捨てられる筈のない船だった。 「あのな!この船はアタシの大事な船なんだ!絶対にこの船じゃなきゃだめなの!なんたってアタシの魂が入ってるからな!」 思えばここに来ると決めて、自分の船の名前を考えた日から随分長い時間が掛かった。 今でも信じられない事をしたという実感が徐々に湧いてくる。 「ヒッヒッヒ……!ジェーン・ドゥ号だ!これから乗る船の名前くらい覚えておけよな!それと、アタシの海賊船に乗るなら、今日からアタシの事は船長って呼ぶんだな!」 「せんちょう?」 「船で一番偉い人の事だよ!わかったか?」 「わかったよ!船長!!」 プリシィは楽しそうな笑顔を向けてくる。 こうして見ると、戦闘をしていない時の彼女は本当にただの女の子で、どこからあんな魔力が沸いてくるのか不思議に思う。 「ん~それでもプリシィみたいな子どもが乗ってると海賊船っぽくないか~?どうするかな~舐められたら嫌だし……」 プリシィを見ながら頭を悩ませる。 この海賊船に乗せてもビシっと決まる方法は何かないものか…。 「そうだ!!お前、うちの船の幽霊になれ!!」 「えっ?幽霊?」 「そうそう!こんなボロボロの船でもよ!幽霊船って言ったら格好良いだろ!?アタシは幽霊船の船長!そしてアタシが従えている幽霊!決めたぜ!!」 「でもでも!幽霊なんてわからないよ!どうすればいいの!?……えぇえええ!?」 一呼吸置いてから、無茶苦茶なことを言われていると気が付いたらしい。 「アタシは幽霊すら従えてしまう極悪船長!!お前はその船に乗る幽霊!そんな奴を仲間にしてる海賊なんて、前代未聞だろ!!ヒッヒッヒ!!」 デビルズガーデンからの生還だけではなく、更に強力な仲間を手に入れた。 両親をバカにしていた海賊達も、これで何も言う事は出来なくなるだろう。 考えるだけで笑いがこみ上げてくる。 デビルズガーデンから船が出る。 もう追い風を受ける帆は、ボロボロでないに等しいが、変わりに船首に取り付けたドクロの頭が、口から主砲を出しながら堂々と大海原に向かう。 霧の中でも迷わないようにプリシィの作った氷の道に沿って走る船は、ゆっくりと揺れながら順調に航路を進んだ。 甲板で舵を切るジェーンは、ふとプリシィの方に顔を向ける。 何やら一人でブツブツと独り言を言っているようだ。 「いつか2人で一緒にこの島を出ようって約束達成だね!これから2人で大冒険だよ!」 その言葉はジェーンに向かって吐かれた言葉なのだろうか。 背を向けているプリシィを見て、またいつもの独り言かとも考える。 後ろから脅かすつもりで肩を抱きかかえた。 「なんだ~その約束??まぁ確かに、これから大冒険だな!ヒッヒッヒ!!」 よほど驚いたのだろうか、プリシィは身体をビクっと震わせて、ジェーンの腕を掴む。 「もう!びっくりするじゃん船長!」 「ヒッヒッヒ!幽霊がこれくらいで驚いてたら世話ないぞ?もっと堂々としてないとな!」 「そんなのいきなり無理だよぉ……」 「なぁに!プリシィなら大丈夫だって!アタシが見込んだ女だ!」 「そうなのぉ?う~ん……わかった!もっと堂々とする!でも、どうやったら堂々となるの?」 そんな会話が霧に覆われた甲板に響き渡る。 この時のジェーンは、きっとプリシィはまだ色々と不安を抱えているのだろう程度にしか考えてはいなかった。 やがて、船は晴れ渡る世界へと飛び出す。 「よっしゃーー!!悪魔の海域を抜けたぞ!!アタシ達はデビルズガーデンから生還したんだ!!」 ジェーンは大空に手を伸ばして喜びを表現する。 プリシィも真似をして、両手をあげて飛び跳ねた。 「やったね船長!!」 ジェーンはこれからの事を考える。 まずはバルバームの島に行き、この大冒険の話をして、あの海賊達を見返してやる。 その後は……そうだな……。 世界を旅しながら、伝説の海賊として名を轟かせる。 この世界に、ジェーンの名を知らない者がいなくなるまで。 プリシィは楽しそうに笑う。 「これからも宜しくね!船長!エレシュちゃん!!」 「プ、プリシィ……?」 初めて聞く単語。 エレシュ……ちゃん……? 「あれ?船長!エレシュちゃんはどこに行ったの?」 突然プリシィは船の中を走り始めた。 「エレシュちゃんーーー!!?かくれんぼなのーーー??」 心配になるジェーン。 この船にはジェーンとプリシィしか乗っていない。 プリシィは何を探しているのだろう。 「ちょっと待てプリシィ!」 プリシィを追いかけて船内へと走り出す。 プリシィは不安そうな声を出しながら、船の中の部屋を片っ端から開けていた。 彼女が何をしているのか、ジェーンには想像も出来ない。 そして、廊下の突き当りにある最後の部屋、ジェーンの寝室に入ろうとしたプリシィの肩を掴んだ。 「いきなりどうしたんだよ?プリシィ?」 「船長……エレシュちゃんがいないの……」 ジェーンの首筋に、嫌な汗が流れる。 「なぁプリシィ……。エレシュって……誰だ?」 「え?何を言ってるの船長?」 不思議そうにしているプリシィ。 「いやいや、何を言ってるのか聞きたいのはアタシだ。エレシュっていうのは誰だ?」 プリシィの表情がどんどんと曇っていく。 「なんでそんな事言うの……ひどいよ船長……今までずっとずっと一緒に……3人でいたのに……」 プリシィは泣き出した。 ジェーンは、どうすればいいか分からない。 「待てってプリシィ!アタシ達は2人だっただろ?2人で財宝を探して、2人でデビルズガーデンから出たじゃんか!?なんか、悪い夢でも見たんじゃないのか?そうなんだろ!?」 プリシィはジェーンの手を振り解いて走り出した。 「船長なんかもう知らないもん!!」 ジェーンはその場から動けずに、プリシィをただただ見ている事しか出来なかった。 プリシィは何か夢のようなものを見ていて……いや、あんな島にずっと一人でいたんだ。 頭の中に友達を作らないと生きていくのも困難だったのかもしれない。 「アタシはどうすりゃいいんだよ……」 その場に座り込み、しばらく考えるジェーン。 話を合わせて、エレシュはデビルズガーデンに置いてきたとでも言うか……。 エレシュという名の人物が誰なのか分からない以上、適当な嘘を付いたとしても簡単にバレてしまうだろう。 どうすればプリシィを傷つけずに、いい方向に持っていける? エレシュの事が何も分からないなら、下手に芝居は打てない。 ならば、プリシィに当たり障りのないように、少しずつ聞くしか方法は……。 ジェーンはプリシィの部屋の前に立つと、一つため息を吐く。 「今は、正面切って聞いてみるしかないよな」 半刻程考えた後、覚悟を決めてプリシィのいる部屋のドアを開ける。 「プ、プリシィ……?」 部屋の中に入ると、彼女はベッドにうずくまっている。 そっと近づくと、微かに寝息が聞こえた。 泣き疲れたのか寝ているようだ。 「まったく……しょうがない奴だなぁ……」 次の瞬間、ジェーンは背後に凄まじい殺気を感じ取った。 「誰だ!?」 振り返ったジェーンは、目を疑う。 黒い布に包まれた“ソレ”は、明らかに生者ではない。 「……っ!?」 「大きな声を出さないで。プリシィが起きてしまう」 ジェーンの口元に人差し指を当て、声を出させないようにする。 その指は、白く、冷たく、硬い……まるで骨のような……。 その時、ジェーンは気が付いた。 この声、どこかで聞いたことがある。 記憶を辿り、その声の正体を探る。 (あなたは、ここに何をしにきたの?) そうだ。 デビルズガーデンに来る直前の夢の中。 黒いフードを被った少女。 あの時の声と、同じ声だ。 しかし、あの時は少女の外見をしていた筈だが、今目の前にいる“ソレ”はまさしく死神と言った風貌。 ジェーンは笑顔を作る。 「わかった。大きな声は出さないよ。アタシの部屋で話そう」 黒いフードの横を通り過ぎて、自室へと向かう。 ドアを開けると既に先回りしていたのか、“ソレ”が待ち受けていた。 「よし、質問をさせてもらうぞ。お前がエレシュか?」 「……随分と受け入れるのが早いのね。もう少し驚くと思ったわ」 「ヒッヒッヒ……海賊を舐めて貰っちゃ困るぜ。これから幽霊船の船長をやろうってんだ!これくらいでビビってたら世話ないだろ。まぁ……さっきは少しだけビビったけどな……」 「不思議な人ね……。お察しの通り、アタシがエレシュよ」 ジェーンはホッと胸を撫で下ろす。 プリシィの探していた人物に会えたのだから、状況は前進していると考えていいだろう。 「よし、1つずつ聞こうか。お前は、まず何なんだ?」 「アタシはあの子……プリシィを守る者」 そう言えば、夢の中でそんな話をしていた気がする。 「一回、アタシの夢の中で会ったような記憶があるんだけど、あれは夢じゃなかったって事でいいのか?」 「アタシはプリシィを守る者……あなたはデビルズガーデンに入ってきてしまった。だからプリシィの敵なのか、どうなのか、知りたかった」 「そう言えばあいつが言ってたな。オッドアイの人間だったか……今までずっと狙われてたっていう事か?」 「まぁ、そんな所ね」 「なるほど。安心してくれ!アタシはプリシィをどうにかしようなんて思ってないからな!あ、一緒に海賊をやろうとはしてるけど…ヒッヒッヒ……」 「貴女はそういう人だって知っているわ。だからアタシは手を出さずに今まで見てきた。プリシィをあの島から出そうとしてくれていたしね」 「じゃあ、次の質問だ。お前は、その、幽霊なのか?」 「幽霊……と言っていいのかは分からない。でも生者ではないわ。アタシはあの子の呪いとでも言うべきかしら。オッドアイの人間が高い魔力を所有しているのは、2つの魂を身体に宿しているから」 「ふ~んなるほどな」 「やけにあっさりと納得してくれるのね」 「まぁ、疑っても仕方ないだろうし、お前が嘘付いても良いことないだろ?」 「それはそうなのだけど……」 エレシュはジェーンが普通に会話を続けている事、更には自分の言った事を全て鵜呑みにしている事に疑問を覚えている様子だ。 しかし、ジェーンからすればそれは当然の事だった。 「プリシィの親はどうした?いなくなったって言ってたけど」 「……アタシが殺したわ」 「っ……!?なんでだ!」 ジェーンの表情が一気に強張る。 「あの子の親は、あの子を殺そうとしていた。直前まで悩んでいたみたいだけれど、あの子を庇い続ける事に限界を感じていたみたいなの。家財を詰んで海に出たのはいいけれど、何の宛てもなく海を彷徨う内に、気が滅入ってしまったのでしょうね。彼女を海に捨てると話していたのをアタシは聞いてしまった。結果、アタシが手を出す前に、海賊に殺されてしまったのだけれど、アタシはあの人達を見殺しにした。結果、アタシが殺したという事」 ジェーンは真剣な表情でエレシュの話を聞き続けた。 「それはエレシュが殺したんじゃない。クズみたいな海賊が殺したんだ。海賊は色々いる。そいつらみたいに、船を襲って金品を奪う奴らや、海の宝をサルベージして稼ぐ奴ら。アタシの親みたいに、色んな島に言って財宝を探す奴らとか、本当に色々いるから、アタシ的には一括りに海賊って言って欲しくないんだけどな」 「貴女の事は、それなりに信用しているからこそ、こうして姿をさらしたんだから」 「まぁ、その話は大体わかった。プリシィに変な期待をさせないようにするよ。それでいいか?」 「えぇ。構わないわ」 「それじゃ、最後の質問だ」 一番気になっていた事。 それを確かめなければいけない。 「何故プリシィに姿を見せない?」 エレシュは、それまでとは違い、少し間を置いてから切り出す。 「本来アタシは、あの子に姿を見せられないの」 「どういう事だ?」 「あの子にアタシの姿を見られたら2つの魂が消えてしまう」 「……なら、何故プリシィはエレシュの事を知ってる?」 「あの島、貴女がデビルズガーデンと呼ぶ島の周りは、世界の理がよじれた場所。アタシはあの空間にいる時だけ、あの子の意識と会話をする事ができた」 「なんだそりゃ?」 「貴女はあの島が本当にただの島だと思う?」 「……いや、そういう訳じゃないけどさ……変な遺跡いっぱいあったし」 「アタシだって最初は信じられなかった。あの子と会話が出来る日が来るなんて想像もしていなかったから」 「なら、なんであの島からプリシィが出る事を許容したんだ?お前だってプリシィと話したりしたいんじゃないのか?」 「それはそうだけれど、アタシと話しているよりも、プリシィには本当に理解のある人……生きている人間と生活をして欲しいから」 ジェーンは考える。 エレシュはこんな見た目をしているが、色々な事を考えて、今まで色んな選択をしながら、本当にプリシィの幸せを願っている。 「……わかった。アタシもお前と一緒だ。プリシィには楽しく生きて欲しいし、同じ船に乗る者として守ってやらないといけない。今からエレシュもアタシの船の仲間だな!ヒッヒッヒ……」 ジェーンは楽しそうに笑う。 「アタシが……仲間……?」 「おう!なんだ?アタシの船が不満だってのか!?」 「……フフフ……。そんな事を言われる日が来るとはね」 「これからよろしくな!ヒッヒッヒ……。そうだ、最後になんか一つプリシィに渡せるようなものないか?」 「あの子に渡せるもの?」 「あいつを納得させなきゃならないだろ?」 ――数時間後 プリシィの横に座るジェーンは、その寝顔を眺めていた。 「う、うーーん」 「起きたか?プリシィ!」 「船長……?あれ……?」 「ちょっと話があるからまず顔洗ってこい」 プリシィの意識を覚醒させてから、本題へと入る。 「エレシュがな、こいつをお前にって」 ジェーンは、黒のリボンを取り出した。 「え!?エレシュちゃんが?」 「あいつはな、あの海域から出る事が出来ないんだってよ。さっきまでアタシはエレシュの事知らなかったんだ。悪かった……。お前の大切な友達だったんだってな」 プリシィはリボンを受け取ると、まじまじと見つめる。 「これ、エレシュちゃんがつけてた……」 「あぁ。だけど、プリシィの事はずっと見守ってるし、アタシと一緒に海賊頑張れって言ってたぞ。お守りとして、それを付けててくれって」 ジェーンは、プリシィの手からリボンを取ると、彼女の右足に巻きつける。 「無くさないようにな。肌身離さず持っておけ。エレシュからの伝言だ」 キョトンとしているプリシィに笑顔で返す。 「船長……。エレシュちゃんにはもう会えないの?」 「そうだなぁ~。アタシの目的が済んだら、もう一度あのデビルズガーデンに行ってみようぜ?そしたら、また会えるだろ?」 「うん!そうする!!じゃあ、それまで海賊頑張らないとだね!」 笑顔になるプリシィを見てホッとするジェーン。 少し端折ってしまったが、彼女を納得させるには今はこれでいいだろう。 もし、本当の事を話さなければならない時がきたら、その時にまた考えればいい。 「よっしゃ!!それじゃあ!バルバームに向けて出発だ!遅れるなよプリシィ!」 船は小さな島を目指して進み続ける。 穏やかな風に乗り、順調な航海。 やがて、目的地であるバルバームが見えてきた。 「帰ってきたなーー!!」 「船長!まずはどうするんだっけ?」 「アタシの事をバカにしてた奴らの度肝を抜いてやるんだ!」 この時の事をシミュレーションして、沢山の言葉を考えた。 ついにそれを吐き出せると思うと、胸が高鳴る。 しかし、近づいてくる島を望遠鏡で覗いていると、何かがおかしい。 見慣れない船が多数、そして見慣れない建物。 大きな石作りの造船場は姿を変えて、レンガ作りの綺麗な建物になっている。 「ど、どういう事だ?」 とりあえず船を港につけたジェーンは、出迎えてくる海賊に更に驚く事になる。 「てめぇら!どこからやってきた!?そんなクソボロボロの船でバルバームに乗り込んでくるとはいい度胸だな!?」 剣を向ける海賊達。 その中に知っている顔がいない。 「待て待て!アタシはバルバームの海賊だ!ジェーンだよ!」 「ジェーン!?そんな奴は知らねぇな!!うちの島にはいねぇ!」 「どういう事だ!!?」 「船長どうしたの?」 プリシィが不安そうな表情でジェーンを見る。 「わからねぇ……が、何か変な事が起こってるのは確かだな」 ジェーンは混乱する。 「怪しい奴らだ!ちょっとこっちに来い!!」 男達に囲まれたジェーンとプリシィは、為す術もなく捕まってしまう。 「ちょっと待てよ!なんなんだよ!!」 「お前、珍しいモン持ってるじゃねぇか!」 ジェーンの胸に掛けられた懐中時計に手をかけようとする男。 「ふざけんな!これだけは渡さねぇ!」 男の手を振り解き、戦闘態勢に入るジェーン。 「プリシィ!もうめんどくせぇけど、やってやろうぜ!」 「海賊の戦いだね!船長!」 男達もそれに合わせて身構える。 「この懐中時計はオウルホロウで作られた超レアな代物だ!お前達が軽々しく手にしていいようなもんじゃない!」 「……オウルホロウ?どこだ?」 海賊達は顔を見合わせる。 何か反応がおかしい。 あの、魔導研究都市を知らない人間がいる訳がない。 男の一人が声を上げる。 「そう言えば聞いた事がある。何百年も昔に滅んだ、マーニルとガリギアの元となった都市が……確かそんな名前じゃなかったか?」 「あぁ!それなら聞いた事あるぜ?確か……絶魔地帯になっちまったんだろ?」 何百年も前に滅んだ? 親父がその街に行ったのはせいぜい30年前……。 ジェーンの頭に一つの仮設が浮かぶ。 この様変わりしたバルバーム。 知っている人間は誰一人としていない。 周りを見ると、見たこともない船の装備。 滅んだオウルホロウ。 行ったものは誰一人として、帰ってこない海域……。 エレシュの言葉を思い出す。 (あの島、貴女がデビルズガーデンと呼ぶ島の周りは、世界の理がよじれた場所) (貴女はあの島が本当にただの島だと思う?) 「なるほどな!!そりゃ誰も帰ってこない訳だ……」 急に叫んだジェーンに、プリシィはビックリしたようだ。 「どうしたの船長!?」 「ヒッヒッヒ……プリシィ、アタシ達はどうやら、未来に船を出しちまったみたいだぞ」 「……え?」
https://w.atwiki.jp/narlygensou/pages/62.html
文章型のサブストーリーを書くスペースです。 幻想スレの方であることを書く条件にします。 1.ヤミノセカイ 制作者 紅魔 本スレで紹介できなかった、未公開のバックストーリーです。 闇月神族の過去、龍の暗黒時代、由利の謎がここでわかります。
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/500.html
+小さき武魂の烈槌ジン 「修練が足りん!『武神一族』の男として、情けないとは思わんのか!!」 幼い頃から耳にタコができるほど聞いてきた父の言葉。 その厳しさに何度挫け、諦めようと思ったことだろうか。 それでも諦めることだけはしない。 「まだ……だ!オレはまだ負けてないぞ!!」 「そうだ、ジン!何度でも挑んで来い!!」 土埃にまみれ、傷だらけになりながらも歯を食いしばるジンと呼ばれた少年。 体に鞭打ち立ち上がる姿はまだ幼さが残るにもかかわらず、まるで戦士の出で立ちが垣間見える。 「うぉおおおおおお!!」 「甘いわっ!!」 一心不乱に父へと飛びかかったジンだったが、無策で力任せな攻撃が父に通用するはずも無く、いとも簡単にかわされた直後、強烈な反撃をもらう。 またダメだった。 そんな言葉が脳裏に浮かんだ後、ジンの意識は静かに遠のいていった。 「……ん……あれ?」 「お?起きたか?もうすぐ飯の時間だ。さっさと獲物を仕留めて、薪を集めてきな」 「あぁ……そっか。また負けちまったのか……」 覚醒したてでまだ少し朦朧とする意識の中、敗北した事実を把握した。 「これでお前の通算186連敗だな!あぁ……おれもお前に飯を作ってやりたいんだが……勝負に負けた方が作るって決まりなら仕方ねぇよなぁ?」 「うるせぇな!明日は絶対そのニヤケ面ぶっ飛ばしてやる!!」 そう吐き捨てると、すくっと立ち上がり、完全に意識がハッキリするのを待ってから、まるで散歩にでも行くような足取りで木々をかき分け森の奥へと入っていった。 「……あそこでこう……ガツンとやればもう少しやれたのに……いや、でも親父ならたぶんこうきて……あぁああああ!くそっ!!」 今日の勝負の内容を脳内で再現しながら、ぶつぶつと反省点を考察する。 考えるほどに、自分には足りないものが次々と見えてくる。 「よし。明日は『見』だな。ひたすら待って待って待って、痺れを切らした親父にカウンターをこう……お?」 そうこうしている内に、前方の岩陰に気配を察知したジン。 彼は、音も無く身をかがめ、ハンマーを持つ手に力を込める。 草陰に身を潜めたまま近づき、気配を殺したままそっと岩場の方に視線を向けると、お昼寝真っ最中の草食魔獣。 「あれなら十分だな……!」 後方に注意を払いつつハンマーを振りかぶり、一瞬のうちに力を爆発させて獲物へと飛びかかる。 「てぇやぁああああ!」 ジンの気配と大声により目を覚ました魔獣はすぐさま逃げ出そうと駆け出すが、振り下ろされるハンマーは既にその眼前まで迫っており、抵抗も逃走も叶わぬまま、鈍い音と共に命は絶たれた。 「ゴメンな……オレたちも生きるためなんだ。しっかり供養するから成仏してくれよな」 ジンは息絶えた獲物を前に手を合わせた後、ゆっくりと肩に担ぎ上げる。 「あとは薪を拾ったら晩飯だな」 これがここ数年における彼の日常である。 流浪の村『コーク』で生まれたジン。 大平原を点々と移動しながら生活する遊牧民の村コークは、その性質上、度々魔物の群れや野党に遭遇する。 そのため、村の人間は男女問わず幼い頃から戦闘のいろはを叩き込まれながら成長し、誰もが村を護るために戦う戦士となるのだ。 中でもジンの一族は突出した武闘派で、かつて『武神』と呼ばれた男の血を継いでいることこそがその理由だった。 彼らの一族は怒りや闘争心で感情が昂ぶると、角の様なものが頭部に現れ、爆発的な力を発揮するという特異性を備えており、長い歴史の中、その力で数々の苦難から村を救ってきた英雄的一族でもある。 ジンの父は、彼を幼い頃から戦士として教育した。 戦闘の知識と技術を得るための鍛錬は、幼い彼にはそれは厳しいものではあったが、弱音を吐くことは一度たりとも無かった。 武神の名に恥じぬ戦士となれ。 父が心に秘める想いは、声にせずとも彼に通じていたのだ。 そんな父の教えもあり、ジンは一族の名に相応しい力をめきめきと身に付けていく。 五歳の頃には魔物と一人で戦わせられた。 六歳の頃には見知らぬ森で単独サバイバルを強いられた。 七歳の頃には村の大人全員と決闘させられた。 そうして十歳を迎えた彼は、父と共に最後の修行を経るため、二人で旅に出た。 総出で見送ってくれた村の者達に恥じぬ、立派な戦士になって帰ってくる。 そう決意を固めて出発した旅だった。 「戻ったぜ、親父。良い獲物が獲れたんだ」 修行途中、通りかかった森の中に築いたキャンプに帰り着いたジンは、父に声を掛けるが返事がない。 「親父?いないのか?」 再度、応答を求めるがやはり返事はない。 目を閉じて周囲の気配を探ると、近くの河原から微かに人の声が聞こえる。 「誰と話してんだ……?」 少し緊張しつつ、ゆっくりと河原へと近づいてみると、そこには父の背中と、もう一つ見慣れぬ者の背中があった。 不審がって木陰から様子を探ると、ジンは戦慄することとなる。 「な……何だ、あの化け物……」 先程から感じていた得も言えぬ、形容しがたい緊張感。 その原因たる存在は、今まさに父と談笑している相手。 一見すると、ただのか弱い少女のように見えるが、気配を探ってみるとよくわかる。 内に潜む底知れぬ圧倒的存在感。 彼女の浮かべている無邪気な笑顔が不気味さを一層際立たせる。 勘違いではない。 にも関わらず、父は意にも介さぬ様子で談笑を続けている。 「何やってんだよ親父……まさか、気づいてないのか?」 困惑と焦りによって微かに精神が乱れた瞬間だった。 「っ!?そこにいるのは誰だ!?」 勘付かれた。 「くそっ!見つかっ――っと、うぉお!?」 慌てて武器を構え、体勢を整えようとしたジンだったが、虚を突かれたことで動揺したのか、足元の木の根に躓き、無様に尻餅をついてしまう。 「ぐ……こ、この野郎!かかってこい!!オレは逃げも隠れもしねぇぞ!!」 尻餅を付いたままハンマーを握り締め、精一杯声を張り上げて威嚇する。 だが、弓を引き絞る少女と、その隣で立ち尽くす父は、何故だがポカンとした表情を浮かべている。 「……ぷっ……くくっ……あっはっはっはっはっはっは!!」 「ジン……まったくお前と言う奴は……」 突如笑い出した少女と、呆れ果てた様子で溜め息をつく父。 「え……?何だよ!?どういうことだよ!?」 「あれがさっき話した息子のジンだ。まだまだひよっ子でな……」 「ニッヒヒ!いいじゃん、いいじゃん!可愛らしくて!」 ますます困惑するジンを余所に笑い続ける少女と頭を抱える父。 「お、おい、親父!誰だよこいつ!?危ねぇじゃんか!!」 「ちゃんと紹介してやるさ。こっちへ来い」 手招きされたジンは警戒を解かぬまま河原へと歩み出ると、父から少女の紹介を受ける。 「エルフ?『長命種』?」 「そだよっ!ほら?耳の形もジン君たち人間とは違うでしょ?」 少女の名はエルミア。 樹上都市『メルキス』を故郷に持つ彼女は、希少種であるエルフの中でも特別異質な存在である『長命種』と呼ばれる種だった。 その存在は伝説に語られる程で、嘘か誠か、千年以上の時を生きたという記録まで残っているとの話だ。 外見は二十歳を迎えた頃から変わることがなくなり、それから数十年の時を生きた後、一人で旅に出たという。 「って、ジン君って何だよ!?馴れ馴れしい呼び方すんなよな!」 「おいおい。これから一緒に旅しようっていう新しい仲間だぞ?少しは仲良くしたらどうだ?」 「はぁああああ!?聞いてないぞ、親父!!」 「今しがた決まったことだからな」 「よろしくねっ!ジン君!パパさん!」 「おいおい……パパさんはよしてくれ。照れ臭くって敵わねぇ」 父がこの女に何を見たのかは知らないが、知り合ったばかりの相手をそう簡単に信用できるわけがないとジン。 納得できないとの考えをはばかる事なく訴える。 「反対だ!エルフなんて得体のしれないヤツ簡単に信用できるわけねぇだろ!!そんなに若い女とご一緒できるのが嬉しいかよ、クソ親父!おふくろに言いつけるぞ!?」 「突然で動揺してしまう気持ちはわからんでもない……が……ここで母ちゃんを出すのは卑怯だろが!!この嬢ちゃんは俺よりもずっと年上だ馬鹿野郎!!」 「……え?マジで!?いくつだよお前!?」 「ん~……正確に数えられてるか分かんないけど、少なくともパパさんよりは年上ってことになるのかな」 驚いたジンがまじまじとエルミアを見澄ます。 人間の基準に当てはめれば、どんなに控えめに見ても二十歳そこそこ。 十五、六といったところだろうか。 「マジ……これでババァかよ!?」 「バッ!?お、お姉さんはジン君よりも大人だからね……うん……それくらいのことじゃ怒らないのだ。でも、寿命の長さで言えばまだまだ少女だから、あんまり失礼なこと言わない方がいいんじゃないのかな?うん」 「すまねぇな、嬢ちゃん。こいつは見た目通りのガキなもんでよ。許してやってくれ。俺がちゃんと説教しておくから」 「……ところで、パパさんはジン君に女性に対して年齢を聞いたりとかはするもんじゃないって教えてあげなかったのかな?」 「俺は教えたぞ!?こいつの物覚えが悪いだけだ!」 「嘘つけぇ!そんなこと教えられた覚えはねぇぞ!!」 「とにかくだ!新たなる旅の共の歓迎もかねて、乾杯といこうじゃないか!ちょうど晩飯の支度をしていたところだ!」 危うく話が脱線しかけたが、やはり考えを変えようとはしないジンの父。 「だから、勝手に決めんなよ!!だいたい嬢ちゃんって何だよ!?中身はそんな歳じゃねぇんだろ!?」 「そりゃ嬢ちゃんにその呼び方が良いって言われたからなぁ……」 「なんだそれ!?見栄張ってんじゃねぇぞ、ババァ!!オレはお前と一緒に旅なんか――」 「教育的指導っ!!」 不意にみぞおちを襲う衝撃。 反応すらできぬ速さで接近され、エルミアの拳が打ち込まれる。 「ぐぉ……お……」 「フンっだ!失礼しちゃう!!」 「ち……くしょ……オレは……認めてなんか……ねぇ――」 こうしてジンの希望は無視される形のまま会議に終止符が打たれた。 『世間を知る良い経験になる』 ジンは薄れゆく意識の中で、そんな父の言葉を聞いた気がした。 「ジン!飯の前に水浴びでもしてこい!汚いままだと嬢ちゃんに嫌われちまうぞ……?」 「はぁ!?なんでオレがこんなババ――」 「んん?何を言おうとしたのかな?」 新たに三人となった旅の日々も一カ月を迎えた。 未だ完全には納得していない様子のジン。 エルミアへの接し方からもそれが感じられる。 「バ……バ……バーカ!!いちいちこんなヤツのことなんて気にしてられるかよ!!」 「あれあれ~?いいのかなぁ?私はともかくとして、通りかかった町々の女の子達にいろいろ言われちゃうよ~?」 「ふんっ!そんな誰かもわからねぇヤツの評判なんて気になんねぇよ!」 「ふ~ん……『ねぇねぇ!ちょっとあれ見てよ!!やっだぁ……汚らしい。あんな恰好で町中うろつかれる身にもなってよね~!』とか?」 「……べ、別に気にならねぇ」 「『きっと身体を鍛える事ばっかりで頭の鍛錬はしてこなかったのね!お風呂の入り方ひとつ知らないなんて、なんて可哀そうな子なのかしら!!』とか?」 「…………」 「『うげぇ!?くっさ!ジンくっさ!!そんな体じゃ一生かかっても女の子のお相手なんてできそうにないわね!ギャハハハ!!』とか?」 「うるせぇな!オレは行かねぇなんて一言も言ってねぇだろ!?だいたい言われなくてもそろそろ行ってこようかなって考えてたところなんだよ!!」 「ふ~ん……」 エルミアのにやけ顔がジンの神経を逆なでする。 いつも事あるごとにジンにちょっかいをかけるエルミアと、大人な対応を心掛けたいがすぐに乗せられてしまうジン。 「一人で心細いなら私が一緒に入ったげよっか?」 「バ!?バカ言ってんじゃねぇよ!!」 「ニッヒヒ!かわいぃなぁ……顔真っ赤にして照れちゃって」 「ち、違ぇよ!!お前が怒らせるからだろ!?」 「そうだね~」 「ぐ……クソ……!もういい!!行ってくる!!!!」 「いってらっしゃ~い!」 「覗くんじゃねぇぞ!?」 「それはフリかな?」 「ふざけんな!!!!」 認めるもんか。 まだ頭ではそう考えているジン。 だが、その一方で、賑やかで退屈のしない冒険はいつの間にかジンにとって居心地の良いものとなっているのもまた事実だった。 考えと気持ちが一致しないモヤモヤ。 どちらが自分の本心なのか。 その結論を出すにはもう少し時間がかかるようだ。 「ったく……いつもいつも何かと絡んできやがって。どっちがガキなんだっつーの。歳だけはババァのくせに中身はてんでお子ちゃまじゃねぇか……」 ――ガサッ 「ん……?」 一人、河原で水浴びをするジンの背後で草むらが揺れた。 害意のようなものは感じられないが、念のためにと注意深く気配を探ってみる。 が、やはりこれといった気配は感じなかった。 野生の獣が通りかかったか何かだろうか。 「まぁ、ここはオレの方が大人にならないとだよな。とりあえずババァってのは止めてやるか。でも、それなら何て呼べばいいんだ?エルミアか?いや……今さら名前で呼ぶのもなんかなぁ……おぉ!クソエルフだ!クソエルフで十分じゃねぇ――ぐほぉえ!?」 その瞬間、再びジンが背を向けた草むらから何かが強烈に彼の背中を打った。 正体を確かめようにも、あまりの衝撃により何もできずにただただ宙を舞うばかり。 最近、こんなことばっかりだ。 そんなことを考えながら、やはりジンの意識は静かに沈んでいった。 ――バチィン!! 「うぉお!?え!?な、なんだ!?」 「やっと目を覚ました!大丈夫?ジン君」 「あれ?オレは何を?確か水浴びをしていたら突然……」 「さ、さぁ。何があったかは全然知らないけど、とにかく無事でよかった!!」 「え?まぁ……そうだな」 「早くパパさんのとこに戻ろ。もうとっくに晩ご飯できてるよ!」 「おぅ。そうだな」 背中に残るズキズキとした痛みが何かに襲われたことを証明していたが、経緯はともかくとして、五体無事である以上、特別大きな問題でもなかったのだろう。 森の動物の悪戯。 そんなものだと胸を撫で下ろしたジンは、エルミアと共にキャンプへと戻ろうと立ち上がる。 「……ねぇ、ジン君。こんな時、私がどんな反応するのが好みだったりするのかな?キャッ!とか言った方がいい?」 「ん?」 唐突な質問の意図がわからないジン。 彼は視線を己の身体へと移したところで全てを把握した。 先ほどまで自分が何をしていたのか。 それにより着ていた衣服をどうしたのか。 そのまま気絶した自分が今、どのような姿でエルミアの前に立っているのか。 「てめぇ!気付いてんなら早く言えよ、クソエロエルフ!」 「はい。ジン君の服」 いつもならエルミアも怒り出す場面のはずなのだが、そんな言葉を聞き流したエルミアが綺麗に畳まれた服を、熟れたリンゴのように赤くなったジンへと差し出す。 そのニヤけた表情がジンの気持ちを全て察していることを表していた。 「くっそがぁああああああああ!」 ジンは乱暴に奪うようにして服を受け取ると、それを抱えてキャンプへと逃げ帰った。 ――二カ月後 既に三人の旅は三カ月目を数え、何年も同じ時を過ごしてきた仲間同士の旅路のような、そんな落ち着いた空気が漂っていた。 「あ!おいしそうなハムが残ってる!も~らいっ!」 「おい!?オレが楽しみにとっておいたやつだぞ!?返せよ!!」 「ニッヒヒー!油断してる方が悪いんだよ~?!」 「このクソエルフ!だったら代わりに卵サンドよこしやがれっ!」 「あー!またクソエルフって言ったぁ!このぉ~!!」 「おいおい、二人ともちゃんと俺の話を聞いてるのか?これ程の武勇伝、なかなか耳にできる機会はないぜぇ?」 「昔々、王国騎士団の団長様とやり合った時の話だろ!?ガキの頃から何度聞かされたかわかったもんじゃねぇよ!」 「あれ?ジン君は今もまだまだお子ちゃまだと思ってたけど、違うのかな?」 「そりゃお前みたいなババァから見たら人間誰しもガキだろ!!」 「ちょっとパパさん!?今の聞いた!?!?ジン君には戦いのことよりももっと教えなきゃいけないことがあると思うの!!」 「いいからさっさとオレのハム返せよ!クソエルフ!!」 「ハハ。まったく……相変わらず仲の良いこった」 まるで緊張を感じさせない雰囲気。 だが、そんな浮かれた空気も、次第に落ち着きを見せ始めることになる。 今日の目的地はとある海峡。 その目的は、海峡付近に住まうとされる巨大な翼竜の討伐だ。 先日、通りかかった村の人間に竜の討伐を依頼された一行。 話を聞くところによると、長年この周辺の竜達を従え、群れのボスとして君臨する巨大な翼竜が存在するという。 その強大さと群れの規模から迂闊に手出しできない状態が続き、そうこうしている間にも群れの勢力はどんどん拡大を続け、とうとうその脅威が村にまで及び始めているとのことだった。 正義感に駆られたジンの父はこれの討伐を引き受けた。 「……ジン。嬢ちゃん。そろそろ真面目にいくぞ。直にヤツの縄張りだ」 「わかってるよ。ジン君は私が絶対に守ってみせるから!」 「余計なお世話だっての。オレだってずっと鍛えてきたんだ!もうガキじゃねぇ!!」 「軽口叩いてる暇があったら周りを警戒しろ。既にヤツに見つかってるかもしれないんだからな」 この一件を引き受けた当初、翼竜の討伐へはジンの父とエルミアの二人で向かうことになっていた。 しかし、これまでの修行の成果、己の力を試したくて堪らなかったジンがこれに同行することを願い出たのだ。 幼い頃から鍛えてきた息子とはいえ、まだ早いと彼の父は願い出を一蹴したが、これを庇うようにエルミアが提案を持ちかけた。 現地では常に自分がジンの傍でサポートする。 ジンの父は、訴えるように自分を見上げる息子とエルミアに根負けし、こうして三人で現地まで赴くこととなったのであった。 「……パパさん。ジン君」 「あぁ……近づいてくるな」 翼竜の住処とされる海峡に足を踏み入れて間もなくして、強大な気配がこちらへと近づいてくることを察知した一行。 「ジン!気を抜くなよ!!」 「いつでも来やがれってんだ!!」 この一件に対するジンの意気込みが伝わってくる。 だが、それは緊張感を孕んだ戦士のそれではなかった。 ただでさえ強大な気配が、距離が詰まる程に膨らんでいくのをひしひしと感じ、ついに一行の視界に巨大な翼竜の影が姿を現す。 ――グォオオオオオオオオオオオオ!! 遠足前の高揚感を無邪気に楽しんでいる子供のような、そんな決意や意志とは無縁な、空虚な気持ちが崩れ去る瞬間でもあった。 「あ、あれが……翼竜……なんてデカさだよ……!?」 青い鱗を体表に纏い、翼を広げたそれの大きさは小さな山さえも思わせる。 「……まずいな!」 「パパさん!!」 「わかってる!予定変更だ!!」 「え!?おい!!何で逃げるんだ!?戦うんじゃねぇのかよ!?」 当初の予定では翼竜と遭遇したら即戦闘との運びとなっていたのだが、急遽、一行は海岸方向へと駆け出す。 想定外。 それなりの個体を想定していたはずのジンの父とエルミアだったが、それを遥かに凌駕する相手だったのだ。 「開けた場所じゃヤツの格好の獲物になる!海岸の岩場までヤツを誘い込むぞ!嬢ちゃん、頼む!!」 「任せて!!」 ――ギャァアアアア! やや後方の上空から迫りくる巨大翼竜。 それを支援する様に、小型の翼竜が一行の行く手を遮る。 「邪魔だぁああ!!」 足を止めることなく眼前の翼竜たちを薙ぎ払い、突き進んでいくジンの父。 「お、オレだってぇええええ!!」 そんな父の背中を見て自身を奮い立たせたジンもこれに続く。 「はっ!えいっ!!」 一行は常に頭上を巨大翼竜に取られながらも、エルミアが弓で援護してくれるおかげで何とか海岸まで辿り着くことに成功し、岩陰へと身を隠した。 「俺の読みが甘かったぜ……まさかあんな化け物級が人里近くを縄張りにしてやがるとはな……」 「それでもやるんでしょ?パパさんは」 「当たり前だ。このまま放置すれば、あの村は近いうち確実に壊滅する」 「でも、あんなのどうすんだよ親父!これまでの魔物とは比べ物にならないぜ!?逃げるだけでも精一杯だってのに、本当に勝てるのかよ!?」 「落ち着きなよ、ジン君。パパさんはただ逃げたんじゃなくて、勝つためにここまであの竜を誘い出したんだよ?」 「流石は嬢ちゃんだ。わかるか?ジン。ここならヤツを討てる!」 「ここでなら……?」 父に促され、切れた息を整えながら周囲の環境を吟味する。 海岸の岸壁沿い。 足場はさして広くは無く、あちこちに岩が立ち並んでいて死角が多い。 さらに、潮風に煽られた海水の飛沫で視界も悪い。 とてもじゃないが戦いやすい環境だとは思えなかった。 「わかんねぇか?ここは俺達にとっても、ヤツにとっても戦いにくい場所だが、その影響は図体のでかいヤツにとっての方が遥かに大きいんだよ。向かい合っての決闘をするわけじゃねぇんだぜ?」 「まだジン君には難しかったかな?」 「う、うるせぇな!十分わかったよ!!とにかく、ここでならアイツに勝てるんだろ?やってやろうじゃねぇか!!」 「ジン?どうした……?」 「あ、あれ……力が……入らねぇ……」 武神一族の名に恥じぬ戦士となる。 故に戦いから逃げることはあってはならず、護るモノのためにも勝たなくてはならない。 ジンはハンマーを握る度にその言葉を胸に重ね刻み続けた。 それと別にもう一つ。 いつまでも自分を子供扱いする父とエルミアに成長した証を見せつけ、見返してやりたい。 自分は既に一人前の戦士であると。 憧れ続けた父と肩を並べ、共に戦える男になったと。 それこそが彼の信念であり、彼の行動原理の根源。 しかし、気づいてはいなかった。 習慣化されたことによる弊害。 数を重ねる程に少しずつ緩んでいく決意。 無意識化で薄れていく想い。 自らの勢いで消えてしまいそうなほど轟々と燃え盛っていたはずの胸に宿る炎。 それは数々の苦難という向かい風を受けながらも、抗うように道を示してきた。 そのはずだった。 激しかったはずの揺らめきは、いつしかランプの中にあるロウソクの火のように落ち着いたものとなり、当たり前に、ただただジンの足元をぼんやりと照らすだけの、ただそれだけのものに成り果てていた。 己を圧倒するかつてない強大な敵を前にし、その事実は最悪のタイミングで露呈した。 恐怖。 戦いに身を置き続け、とっくに克服したと思っていた感情。 今のジンは、初めて命のやり取りを体験した昔のあの頃に、すくんだ足でただ立っていることしかできなかったあの場の自分に還ってしまっていた。 「…………お前はここに隠れていろ。嬢ちゃん。悪いが付き合ってもらうぜ?」 「……うん。大丈夫だよ。パパさん」 「ま、待ってくれよ!オレだって戦えるんだ!!さっきだってやれてた――」 ――――グォオオオオオオオオオオオオ!! 「……ッ!?」 吹き荒れる風音を寸断するような咆哮がヤツの再来を告げる。 その声を合図にして、ジンの震えは一層激しさを増し、もはや戦闘に参加できるような状態でないことは誰の目にも明らかだ。 間を置かず、頭上を大きな翼を広げた巨体が覆い隠し、一帯に影が落ちる。 ――グルルルル……!! 「ジン!絶対にここを動くなよ!?いくぜ!嬢ちゃん!!」 「ジン君……まだジン君には少し早かった。それだけのことだよ。君はこれからまだまだ強くなる。いつかヤツをやっつけられるくらいに。だから……今は耐えて!」 「あ…………」 岩陰を飛び出し、立ちはだかる巨竜に向かっていく二人。 ジンは遠ざかる父の背中にすがるように手を伸ばした。 対等な戦士として父の傍に。 父にも明かしていなかった想い。 だが、すくんだままの脚で、届くことは叶うはずもなかった。 ――グギャァアアアアアア!! 「おっと!危ない、危ない!」 矢で牽制しつつ巨竜の注意を引き付けるエルミア。 軽やかな足運びで、繰り出されてくる強烈な攻撃を紙一重で捌き続ける。 「こっちだぜ……ノロマがぁああああ!!」 攻撃を当てられないことに苛立ち、巨竜に生まれる隙。 そこを突くことで確実に一撃、また一撃と叩きこんでいくジンの父。 巨竜に相対するジンの父とエルミア。 彼らの戦いが開始されてから、おおよそ十分が経過したが、激戦必至と思われていた戦闘にも関わらず、一行の予想は良い意味で裏切られることとなっていた。 二人は巨大な翼竜を相手に、開戦時から優位な展開運びを見せている。 その理由は大きく二つあった。 一つは地の利。 狭い足場は巨体の竜にとって、二人以上に動きを大きく制限される枷として働き、さらにはあちこちに存在する岩が竜の死角、また攻撃を防ぐ盾として機能する。 これは戦地をここに定めた二人の経験の成せる判断が生んだアドバンテージ。 そして二つ目の理由が『風』である。 嵐が近いのか、時間の経過と共に強まる潮風。 本来、ボスである巨竜を援護するはずの小型の翼竜たちだが、そのことごとくは強烈な風に阻まれ、満足に飛行することが出来ずにいた。 その結果、図らずも戦地は風の結界に守られた闘技場となり、一行にとっては文字通り、勝利を運ぶ追い風であると言えた。 「くぅ……風が強すぎて矢が真っ直ぐ飛ばなくなってきた……!」 ただし、必然的に風の影響は二人にも及ぶ。 特に弓を主武器として戦うエルミアにとっては大きな問題だ。 騙し騙し戦闘を継続してはいたが、いよいよ正確な射撃が困難になってきた。 「任せな!合わせろよ…………嬢ちゃん!!!!」 ――グ……ゴォアアアア! 岩陰を縫いながら巨竜の側面に躍り出たジンの父は、その横っ腹に全力の一撃を叩き込むことに成功する。 「おぉ!ナイスだよ、パパさん!!」 巨体をくの字に折りながら、呻き声をあげる竜。 激痛に歪ませた巨竜の顔が、エルミアの潜み隠れていた岩の前へ狙ったように差し出される。 「はぁっ!」 すかさず矢を番え、一点を狙いすまして殺意を放つエルミア。 ――ギャォオオオオオオオオ! 矢は見事に竜の右目を穿ち、視界の半分を奪い去った。 「畳みかけるぞっ!!」 「了解だよ!パパさん!」 ――グゥ……!! 一気に間合いを詰めようとする二人だったが、それに対して動きを止めた巨竜。 その身体が風船のように膨らんだように見えた。 「ッ!?これは――」 「パパさん!避けて!!」 ――ォオオオオオオオオオオオ! 空気の質を変えるほど強大な魔力。 巨竜の口元からそれが一気に噴出される。 「なにっ!?」 「うわわわわわわわっ!?」 ブレス。 触れたモノ一切が瞬く間に凍り付き、機能を失い自壊する絶対零度の魔力波である。 「あんなもん喰らったら一溜りもねぇな……!」 「次っ!来るよっ!!」 巨竜の攻撃パターンが変わった。 近い標的をひたすら追いかけ、爪や尾で押しつぶそうとする力任せで単調な攻撃から、仁王立ちしたまま距離を保ち、広範囲を一方的に制圧するブレス主体の攻撃へと。 片目を奪われたことで、ジンの父とエルミアはヤツの『獲物』から『敵』へと意味をシフトしたのだ。 ――ォオオオオオオオオオオオオ!! 巨竜は見境なくブレスを連発。 瞬く間に辺り一面が銀世界と化していく。 「……え?」 そして、未だ少し離れた岩陰から戦闘の一部始終をただ傍観していたジンにもその脅威が迫る。 「ジン!!」 「パパさん!?」 身動き一つ取れないまま氷波に包まれたジン。 周囲から伝わってくる冷気が死を予感させた。 しかし、ここで数瞬置いてジンが違和感に気が付く。 冷たい。 寒い。 だが、それは身体の機能を奪い去られるほどのものではなく、その間に温かい何かを感じた。 まるで何かが自分の身を包んで守ってくれているような…… 恐る恐る目を開けたジンは知る。 彼を包み、護っていたものの正体。 「……何で……親父……?」 「………………だい……ぶ……か……?」 ブレスが止んでなお、残された冷気が父の衣服と皮膚をパキパキと凍らせ続けている。 「なんだよ……なんだよこれ……親父……?おい!!しっかりしろよ!!」 ジンが父の身の案じてその体に触れる。 すると、薄い氷が剥がれ落ち、その下からどす黒い紫に変色した父の皮膚が顔を見せた。 壊死した細胞は本来の皮膚の弾力を失い、ひび割れ、吹き出すように血が流れ出てくる。 あまりに無残な姿となった父を前に、ジンは完全に思考力を失った。 しばらく暴れ続けた巨竜は、そのまま逃げるように岸壁を飛び降りて海岸の方へと飛び去っていく。 その様子を見届けたエルミアも二人の傍へと駆け寄る。 「ジン君!!パパさんは無事――ひっ!?」 親しい人間の見るに堪えない姿にうろたえるエルミアだったが、すぐに冷静さを取り戻す。 「ジン君!まだ小型の翼竜がうろついてる!パパさんを安全な所へ運ばないと!!」 「…………」 「ジン君!?」 「………………」 ――パァン! 「あっ……!エルミア……オレは……」 自分の頬を打たれた衝撃により、完全とは言えないまでも思考力を取り戻したジン。 「しっかりしてっ!パパさんを助けないと!!」 「……あぁ。そ、そうだな。わかった!」 偶然、近くに洞穴を発見した二人。 瀕死の状態にあるジンの父を奥へと運び入れて、静かに横にすると、エルミアがすぐさま傷の診断を始める。 専門的な医術の心得がない彼女ではあったが、長年培われた経験から、その傷の重度をある程度予測することはできた。 「なぁ……助かるんだろ?親父は平気なんだろ……?」 「…………だ、大丈夫!私、薬草取ってくるから!パパさんを見てて!!」 「わ、わかった!!」 『大丈夫』という言葉。 それは安心させるために発せられた嘘なのか。 助かる見込みがあるという希望の言葉なのか。 その真偽すらわからない自分の見識の狭さと未熟さが歯がゆく、悔しい反面、救われた気もしたジン。 もう父と一緒に旅をすることも、話すこともできなくなるかもしれない。 そんな結末が待っているのかもしれないなどと、考えただけでも挫けそうになる。 ここでもまた逃げ出した。 現実から目を反らし、流れる時を受け入れるだけの小さな人形。 それが今のジンの正体だった。 「…………ジ……ン……?そこに……いる……のか……?」 「お、親父!?目を覚ましたのか!?今、エルミアが薬を探しに行ってくれてるから、あと少しだけ頑張れよな!!」 「……嬢ちゃん……が……?は……はは……優しいなぁ……」 「水飲むか!?オレは何をしたらいい!?オレ……オレ、結局親父の足を引っ張っただけで……!!」 「お前は……気に病むな……俺が……決めたんだ……」 いつも耳にしていた豪快な声は見る影も無く、外の風音で簡単に掻き消されてしまいそうなか細い声。 ただの一つだってそれを聞き逃すまいと、ジンは父の口元へと顔を寄せる。 「……親父!オレ、強くなるからさ!あの竜よりも強くなって親父達のことも護れるようになるから!」 「はは……そりゃあ…………いいな」 「だろ!?だからこれからもオレに稽古付けてくれよ!なぁ!?今までよりもずっと頑張るから!!」 「……大丈夫だ…………強くなる。お前には……天賦の才が……ある……からな。ずっと見てきた……んだ……保証……してやる」 ただでさえ弱々しかった声がさらに小さくなっていく。 「おい……大丈夫かよ!?しっかりしてくれよ!?なぁ!!」 「よく……聞け…………ジン…………」 「親父……?」 「嬢ちゃんが……お前を……ずっと……大き……く……成長させて……くれる……学べ……」 「何、死ぬ間際みたいなこと言ってんだよ!!オレに技を教えるのは親父の役目だろ!?やめてくれよっ!!」 「おま……成長を…………出来ない…………残念だが…………」 「頼むよ!待ってくれ!!オレはまだ親父に何も…………!!」 「もっと……もっと……俺より……も…………嬢ちゃん……よりも…………」 「……親父ぃ!!」 「コイツ……お前……託……す…………」 感覚などとうにないのだろう。 そんな父の指先だけが何かを握ろうと微かに動いている。 ジンはそこにしっかりと握られた父のハンマーの影を見た。 「………………っ!!」 受け止めなければならない。 どうしようもなく弱かった自分を。 戒めろ。 もう逃げるわけにはいかない。 「武神…………血と……コークを………………れ……」 既に聞き取ることもできない、小さく、途切れ途切れの言葉。 「………あぁ」 例え声になっていなくとも、父の想いは欠けることなくジンへと流れ込んでいく。 「きっ……やれ……る…………そし……いつ…………か――――」 拳を石のように固く握り締めながら微動だにしないジン。 ゆっくりと目を閉じ、何かを想う。 「……………………」 その先の台詞が何だったのか。 彼だけが知ることのできた言葉。 ジンは雄々しく締まった表情で、父の言葉に心の中で力強く答えてみせた。 父からの応答が二度とないことを知りながらも。 「ジン君!パパさんは!?遅くなってゴメンね……なかなか目当ての薬草が生えてなくて、それで――」 少しして、薬草を摘んだエルミアが戻ってきた。 彼女の声に振り向きもせず、ただ父の亡骸の前で茫然とへたれ込むジンの背中を見て全てを察する。 「…………あぁ……ゴメン……ゴメンなさい……私が……私がジン君の傍にいるって言ったのに……!私がもっとしっかりしてれば、パパさんが――」 「違う…………オレが……オレのせいだ」 「ジ、ジン君……?」 「オレが無理言って付いてこなきゃ親父は死ななかった……オレがちゃんと戦えてれば親父は死ななかった……オレがもっと強ければ親父は死ななかった……」 「そんなこと――」 「違わねぇよ……!」 「……ジン君」 「だからエルミアは悪くない……」 「…………とりあえず。パパさんを送ってあげよ?」 洞窟の外に再び出てみると、嵐はいつの間にか過ぎ去っていた。 ジンの父の亡骸を大切に抱きかかえながら岸壁をよじ登ったエルミア。 彼女は日当たりの良さそうな場所を見つけると、そこに深く穴を掘り、ジンの父を埋葬した。 その間、ジンはどこか冷めた目で、ずっとその光景を見守っていた。 「ほら……ジン君もパパさんを見送ってあげて?」 血を滲ませ、泥だらけになった手の平を合わせながら、ジンに黙祷を促すエルミア。 「………………」 そうしてジンもやっと何かを想いながら墓の前で手を合わせた。 しかし、数秒程で手をそっと離すと、おもむろに墓に近づく。 「……これは置いていくよ……親父」 墓標に見立てたどこから拾ってきたのかわからない石。 その傍らに自分のハンマーをそっと置くと、もう一つのハンマーを肩に担いだジンが踵を返し、すたすたと歩きだした。 「どこに行くの?ジン君」 「…………」 「ヤツのところに行くんだね?」 エルミアの声に足を止め、ぽつりと呟く。 「…………行かせてくれ」 「止めても行くんでしょ?分かってるつもりだから。ジン君の気持ち」 咎めつつも、エルミアはいたって穏やかだった。 怒るのではなく、促す。 まさにそんな感じ。 いつものような楽観的な空気も、からかうような無邪気さも今は影を潜めている。 「傷ついたあの翼竜は巣へ逃げ帰ったんだと思う。傷が癒えるのを待つには自分の住処が一番安全で安心できるからね」 「…………エルミア?」 「相手はヤツ一体だけじゃないよ。私達がヤツと戦ってた時、他の竜が邪魔に入ってこなかったから忘れかけてたけど、ヤツは群れのボスなんだ。だから巣の周りには従えてる小型の翼竜がいるはず」 依然として憮然な態度のままのジンではあったが、エルミアはそれには触れようとはしなかった。 優しくはせず、慰めることもせず、ただヤツの元へとジンを導くことに注力する。 それがジンとって一番良い。 そう判断したのかもしれない。 「アイツは逃げるとき、海の方に飛んでいったからね。もしかしたら海岸線に大きな洞窟でもあるのかもしれない」 「…………」 「あくまで予想だから、外れるかもしれないけど。とりあえず浜辺の方に向かってみると良いと思う」 「…………あぁ」 エルミアがジンの元を離れたわずかな時間。 たった数刻の間に、人が変わったかのような表情を見せるジン。 当の本人はそのことに気づくことさえできなかったようだが、エルミアが多大な心配を募らせていることは言うまでも無かった。 聞きたいことも、言いたいことも沢山あっただろう。 だがそれでも、ジンを一人で行かせることに決めたのだ。 「無事に帰ってきてね。ジン君。待ってるから!」 ジンにとって、巨竜を倒すという行動には、父の敵討ちだけに留まらない意味がある。 どうしようもなかった、かつての自分との決別。 新たな第一歩を踏み出すための、避けて通ることの許されない試練。 どうしようもなく馬鹿で、口ばかり達者で、強いつもりで弱かった自分。 それに気付けず、気付こうともせず、ただ有耶無耶に誤魔化し続けた自分。 そんな、どこまでも子供だった自分を捨てるための一歩。 「……そういやまだ親父にちゃんと謝ってなかった。あの時も……あの時も……あの時もだ……」 思い返される父と共にあった十数年の人生。 どれだけ迷惑をかけ、何度喧嘩し、同じ数だけ感謝したことか。 「今までのこと……多すぎて覚えきれてないけど……ゴメン。それから……ありがとう。一回くらいちゃんと言えれば良かったな…………」 海岸線へと降り、ブツブツと独り言を零しながら浜辺をなぞる様に歩き続けるジン。 どうやらエルミアの予想は的中したようだ。 前方に見える切り立った岸壁の上空を、三匹の小型翼竜が旋回している。 壁の中腹にはヤツが余裕で通れそうなほどに大きな横穴がぽっかりと口を開けていた。 「……あそこか」 足を止めずにそのまま巣へと歩み寄っていくジンだったが、海に面した岸壁はとても登れるような代物ではなく、無理に入ろうとして足を滑らせでもすれば、瞬く間に潮の急流に飲まれ、海の藻屑と消えてしまうことだろう。 それは当然、ジンも理解していた。 彼は岸壁の横へと回り込み、適当に当たりを付けると、深く深く息を吸い込みながら、ハンマーを振りかぶる。 「………………ふっ!!」 岩盤の分厚さを正確に測ることはできないが、岸壁とその中の空洞のことを考えれば、到底人間の力で突破できるような厚みではなかったはず。 そんなことを今のジンが考慮していないのは言うまでも無かったが、それでも彼の表情はあまりにも自然すぎるものだった。 自信に満ちているわけでもなく、かといって微かな不安さえも感じさせない。 歩く。 手を上げる。 そういった『できる』ものとして考えて疑わないもの。 当たり前のものを、ただ当たり前にこなす。 そんな表情だった。 ――ズドンッ!!!! 大地を揺るがすに至る衝撃と、爆発の様な轟音に付近の動物達が騒めく。 その人智を超えた光景は、誰の目にも武神の力の胎動が映ったことだろう。 ハンマーの縁を綺麗に象ったような見事な丸い穴。 硬く分厚い岩盤を突き抜ける剛力。 その力を分散させることなく完璧に、ただ一点だけに凝縮させた技術。 武神の血を継ぐが故の芸当か。 はたまた彼の父の教えが導いた果ての奇跡か。 「…………っ!?」 決意を新たに、洞窟の闇に足を踏み入れようとした瞬間だった。 彼の心にまたあの絶望が静かに忍び寄る。 目の前にする圧倒的な敵。 震える恐怖。 迫りくる死。 横たわる父。 消えゆく希望。 「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」 振り切った。 もう同じ過ちは繰り返さないと誓ったから。 ジンの胸に溢れる想い。 明暗様々な感情が渦巻く。 「……待ってろよ」 洞窟の内部は想像よりもずっと広かったが、構造的には複雑なものではなかった。 巨大な一本道がひたすら奥へ奥へと続いている。 ――ギギッ!? 「邪魔だ……どけよ!」 ――ズドンッ!! ここは翼竜の巣。 群れのボスである巨竜以外の竜がいることは予想していた。 ジンは父から受け継いだ意志で、そのことごとくを薙ぎ払っていく。 竜を一体、一体倒す度、足を一歩、一歩踏み入れる度に覚えのある気配が近づく。 間違いなくこの奥にヤツがいる。 「はぁ……はぁ……もうすぐそこだ……!!」 十数体は振り払っただろうか。 洞窟の最深部に繋がる一本道に小型翼竜の亡骸が点々と並ぶ。 その先にあった窯状に広がる広大な空間。 そこにヤツはいた。 「はっ…………はぁ……はぁ…………はぁ…………」 仄暗いドームの中心で動かずに横たわる巨体。 戦闘態勢でないにも関わらずビリビリと伝わる存在感。 十分すぎる覚悟をしてきたはずのジンではあるが、堪らず息を呑む。 「……?」 そしてすぐに違和感に気が付いた。 先刻の戦闘過程や、圧倒的な力の差があるとはいえ、自分を狙う敵を前にして、微動だにしようとしない不自然。 敵にすら値しないと侮られているわけではなかった。 それよりももっと下。 眠る己の傍らに立つジン。 それは巨竜にとっては考慮する必要のないモノ。 つまりは、いようといまいと関係の無いモノとして扱われていたのだ。 これ以上の屈辱があるだろうか。 決死の覚悟で踏み込んだ死地で、存在を無視される。 ここでジンの無意識下に僅かに残っていた恐れは完全に消えた。 「おい。さっさと起きろよクソトカゲ……」 ジンは小さく呟いた。 静かでいて、しかし果てしなく激しい怒り。 例え難い殺気が巨竜の身体に這い寄る。 ――グォオオオオオオオオ! 次の瞬間、巨竜が咆哮を上げながら飛び起きる。 「よぉ……こっちは準備万端だぜ?」 ――グルルルルルルル…… 状況が把握しきれていないのか、キョロキョロと何かを探すように首を回す巨竜。 そして巨竜は気づく。 突如、自身の寝込みを襲った、あの死の気配。 それが目の前の小さな人間から発せられたものであることに。 「一発だ……一発で決めてやる…………!」 躊躇することなく真っ直ぐに巨竜へと歩み寄るジン。 驚くほど落ち着いた様子で、ただ眼前の獲物を見据える。 昂る感情と溢れんばかりの怒り。 身体の奥から満ち満ちる力。 それでいて妙に頭はスッキリしている。 そんな感情とは裏腹に、身体の熱が冷めていくのがわかる。 洞窟の腹に穴を開けた時と同じだ。 だが、あの時以上の力強さを感じる。 そして……そう。 額の辺り。 熱も、力も、想いも、まるで何もかも全てがそこへ凝縮されていくような…… ――ゴァアアアアアアアアアアアア! ジンの間合いに竜が触れるか否かの刹那。 先手を取った巨竜が選んだ攻撃手段はブレスによる強襲。 その勢いと攻撃範囲は、集中を研ぎ澄ましたジンとてかわしきれるものではなかった。 「……ッ!?」 眼前に迫る死。 先の戦闘、盾となるために自分の前に飛び出した父の背がフラッシュバックする。 瞬間、ジンの力は臨界点を迎え、爆発した。 「舐めんなよ!?」 凄まじい冷気を身に浴びながらも、足を後方に目一杯蹴りだしたジン。 出血の感覚と、燃えるような痛み。 そんなもの意にも介さず無理やり竜の眼前に躍り出ると、持てる全ての力を込めた一撃を憎き怨敵の脳天に振り下ろした。 「うぉらぁああああああああああああ!!」 静寂に包まれた洞窟の最奥部。 完全に頭部が潰され、絶命した巨竜と、呆然と立ち尽くすジンの姿がそこにはあった。 竜と決着を付けた後、ジンは二つの疑問を抱えていた。 一つ。 ブレスの直撃を食らったはずの自分が、痛手こそ負いはしたものの今だに生存していること。 そして二つ。 違和感を感じ、額に手をやると触れた奇妙な感触。 二本の突起。 他に言いようのない何かが存在していた。 それは先ほどまで感じていた熱と力が引いていくのに比例して次第に沈んでいく。 正体について心当たりはなかったが、何故だかそれはとても愛おしいモノのように感じられた。 強く、温かく、厳しく、優しい。 まるで父の手に触れているような。 そんな感覚だった。 額の違和感が完全に消えたところで、ハンマーを肩に担ぎ上げたジン。 いつまでもわからない疑問について考えても仕方がない。 エルミアを待たせていることもあり、彼は洞窟を後にしようと踵を返す。 この時、疑問の一つは解決された。 「……なんだよ。また護られちまったのか……」 先ほど竜の放ったブレスが直撃した場所と、ジンが竜へ飛びかかろうと地を蹴った跡。 その位置が微妙に前後にズレていたのだ。 ジンの父とエルミアが巨竜と戦闘した際、竜は片目を失ったために正常な距離感が狂っていたために生じたズレ。 そんな理論に基づいた真実など彼にとってはどうでも良かった。 またしても父に護られた。 当の本人がそう思ったのだから、事実はその通りで良いのかもしれない。 「……あれ?アイツ……」 ――無事に帰ってきてね。ジン君。待ってるから! 父の墓標を離れる前、そんなことを口にしていたはずのエルミアが、洞窟を出てすぐの所で、大きな岩にもたれかかりながら静かな寝息を立てていた。 「…………」 眠ったままのエルミアに歩み寄ったジンは、少しの間何かを考えた後、エルミアを起こさないよう気を付けながら言う。 声になるかならないような、そんな小さな小さな声。 「………………ありがと」 やはり言葉にするのはくすぐったい。 だが、口にすることで知ることのできた気持ちは、思いのほか悪いものではなかった。 同じ言葉を父にかける機会はいくらでもあったはずなのに。 「おい、クソエルフ?てめぇ、なんでここにいんだよ?何気にも程があるんじゃねぇのか?」 ジンがハンマーの柄で彼女の頭をコツンと小突くと、彼女はゆっくりと目を開いた。 「あ……遅かったね、ジン君。あんまり待たせるから追いかけてきちゃったよ」 「もう一回寝とくか?良かったら手を貸すぞ??」 「ニヒヒ……大丈夫だったんだね。無事に戻ってきてくれてありがとう」 いつもよりどこか穏やかな雰囲気を纏うエルミア。 屈託のない笑顔と優しい言葉は様々な風となって、ジンの心を通り過ぎる。 「……おぅ!」 ひと時の休息を得た後、これからについて話し合った二人。 まずは今回の件を報告するため、ジンの故郷であるコークへと一度戻ることにした。 気の進む話ではないが、ジンの母には一刻も早く伝えなければならない。 その後、母と共に父の墓を訪れよう。 そんな内容だった。 「それからはどうするの?」 「旅を続けるに決まってるだろ?まだまだオレの修行は終わってないからな」 「そっか……強くなろうね。ジン君」 「もう親父に護ってもらわなくてもいいようにならないとな!!」 「お~!言うようになったねぇ!じゃあ、私もそれまで先生役として一緒に旅をしてあげないとだね!」 「ずいぶんと悩みの多い旅になりそうだな……」 「大丈夫、大丈夫!きっと悩んでる暇なんてないくらい、たくさんの新しい出会いや発見が待ってるよ!!」 +白き鬣の百獣王ガレオス 「敬愛せしガルム族同胞諸君よ。忘れてはならない……どんな者達にも負けぬ気高き誇りを胸に、耐え忍んだ日々があったことを!忘れてはならない……その苦難を乗り越えた先に手にした今だということを!」 王宮のテラスから、獣境の村『ヴィレス』の中央広場に集まる人々に叫びかける。 「我が父、第十六代ヴィレス王アレイオスは過去を糧に現在を築いた!他種族と肩を並べ、共存の道を模索することができるまでに!そして私は、その跡を継ぎ、今の繁栄を糧に未来を創る!」 役目を終えた父の眼差しを背に受けながら、さらに民達からの期待が込められた視線をその身に集める。 「諸君!私を信じ、共に進んでほしい!そして共に掴もう!更なる繁栄と輝ける未来を!」 「「うぉおおおおおおおおおお!!」」 「頼んだぜ大将!!」 「ガルム族の未来のためにー!」 「感謝する……皆よりの信頼を盟約とし、これを果たす事を誓う!我、ガレオスはここに、第十七代ヴィレス王として、戴冠(たいかん)したことを宣言する!!」 ―――――― ―――― ―― 「なかなか良いスピーチだったんじゃねぇか?親父殿も安心したことだろうぜ」 戴冠式(たいかんしき)を終え、パレードへと向かうために王宮の中へと引き返したガレオス。 鳴り止まぬ歓声がこだまする廊下の壁にもたれ掛かり、ガレオスを待ち構えていたと言わんばかりに声をかける人物がいた。 「ありがとうございます。ガルオン殿」 「おいおい……もう俺は指南役でも何でもないんだぜ?王様」 「…………そうであった。これからは近臣として傍に付いてもらうぞ!」 「ふっ……謹んで、拝命いたす!」 「ところで、皆のあの顔を見たか?」 「広場に集まっていた者達ですかな?」 「あぁ……彼らは、まだまだ若輩者の私を微塵も疑うことなく受け入れてくれた……それはこれ以上ない喜びだが、同時に……恐ろしくもある」 「今更ですな。我らガルム族を代表する記号こそがヴィレス王。そこに個を挟み込む余地があるとでも考えておられたか?」 「それを言ってしまえば、誰が王となっても変わらぬということではないか!」 「ガレオスという名の一人の個ではなく、ガレオスという名の王としての責務を果たせ!目的のために何が最善で、最も高い可能性を得られるかを常に考えろ!それが王に従う全ての臣民に対する義務だ!そしてそれができるか否かは、王の器次第だ……!」 「……やはり私よりも貴方が王になるべきだったのではないか?」 第十六代ヴィレス王アレイオスが長きに渡り座り続けた王の座から退位することを決めたのが半年前。 彼は種の希望を託す次代の王を指名することはせず、その器に値する者を見つけるために大陸中のガルム族に御触れを出した。 ~集え。未来を託すに値せし者よ。余が礎となり、其は道と成らんことを願う~ この声に応えた多くの者がヴィレスに集い、その中から次代の王を定めるべく王位継承戦が開かれた。 これにアレイオスの実の息子であるガレオスも参加。 当時から継承者との呼び声高く、その人望と器は村の住人皆が知るところであった。 そして、もう一人。 若くしてアレイオスの右腕として近衛隊の隊長を任されていながら、ガレオスの指南役をもこなしていた白虎一族族長ガルオン。 この二人のいずれかが次代の王となるだろうとの前評判だった。 しかし、誰しもが想像した二人の激闘が実現することはなく、圧倒的一強状態で大会は進み、第十七代ヴィレス王を戴冠したのがガレオスである。 ガルオンはガレオスを含め、多くの者達から大会参加を勧められるも、これを辞退したのであった。 「柄じゃねぇんだよ……ちょっと熱くなるとすぐこれだ。ご無礼な物言い、誠に失礼しました」 「そんな理由で……」 「もし殿下が私めに劣ると申されるなら、勝てるよう精進すれば良いだけのことかと。そして、それを傍で力添えさせていただくことこそが我が道と信じておりますゆえ!」 かつては小さな集落に過ぎなかったヴィレスの村は、アレイオスの王政の元に広い領土と数多の臣民を抱え、一つの国家として大陸に名を知らしめる程に成長した。 もう村と呼ぶには似つかわしくないヴィレスだったが、長くその名で慕ってきた住人はその呼び名に誇りを持っている。 かつては他種族からの迫害対象となっていたガルム族だが、彼の采配により一致団結し、その力と文化と誇りを他種族に示すことで地位を獲得。 今や他種族が軽視できない程の存在となり、共存のために手を差し伸べてくる種族さえも出てくるようになった。 これは当然、アレイオスの功績だ。 しかし、傍で彼を支え続けたガルオンの存在があってのものとも言える。 自分はそんな偉業を礎として、より輝かしい未来のために大役を任されたのだ。 「……大儀である」 「おっと……パレードの予定でしたな。さぁ、皆を待たせております。お早く参りましょうぞ!」 「うむ……!」 胸を張れ。 自分は父に、ガルオン殿に、村の皆に選ばれたのだ。 誇りを持って使命を果たすのみ。 「さっさと起きぬかぁ!!」 「うぉお!?ガ、ガルオン?こんなに朝早くどうしたのだ?」 「殿下が王になられたとはいえ、先代様より仰せつかっている使命が無くなるわけではありませぬ」 「剣の鍛錬か?しかし昨日は政務やらパーティーやらで……」 「それが何か?少なくとも私めから一本取れるようになってから言い訳して頂きたい」 「う……うむ……」 幼少の頃よりアレイオスの命で指南役を務めているガルオン。 兄貴分として、時に厳しく、時に優しく接してくれた彼との関係は今の自分を築く重要な要素となっている。 当然、感謝に堪えない限りなのだが、自分が王となった今でも変わったのは言葉遣い程度で、いそいそと支度をするこの背に感じる殺気と威圧感はこれっぽっちも変わることは無いようだ。 「さぁて、まずは一本調子を見るとするか。その後、十本勝負だ」 「ふふ……変わらぬな。槍を握ると戦いにのみ専念するその姿勢」 「正直、お前を相手に慣れない話し方すんのはくすぐったくて敵わねぇんだ。この時間くらいは今まで通りやらせてもらうぜ?」 「臣下の者も見ていません。私もこちらの方がやり易い」 「そいつは助かるぜっ!!」 「はぁああ!!」 それから一刻程の鍛錬を終え、朝食へと向かう。 「おいおい……別に王になったからって剣が不要って訳じゃねぇだろ?むしろ先陣切って敵をなぎ倒す戦王とか呼ばれた方が貫録も出るってもんだ」 「また無茶を……手を抜いているわけでも、不要だと思っているわけでもありません。ガルオン殿が手の抜き方というものを知らぬだけです!」 「今日のペナルティは朝食の肉だったからな。本気にもなろうってもんだぜ……!」 「まったく……」 十本の勝負稽古で、一本も取れなかった場合に課せられる罰。 ガルオンとの初めての稽古の日に交わされた……否、交わさせられた約束だ。 それから一度たりともその罰から逃れられたことはない。 食堂が近づくと、扉の前に控えるメイド達が見えてきた。 ガルオンとの師弟の時間は終わりだ。 そろそろ王とその臣下のあるべき姿に戻らねば。 「今日は昼までに商会の者との顔合わせに出向く。護衛を頼むぞ」 「承知いたしました。では殿下、また後程。お待ちしておりますゆえ……」 ガルオンの浮かべる笑みから、肉を心待ちにしているという意図を察する。 あまり待たせて機嫌を悪くされでもすれば面倒だ。 用事もあることだし、手早く朝食を済ませて商館へと向かおう。 「わざわざ殿下自らご足労頂かれるとは、恐悦の至りにございます」 「そう堅くならずとも良い。知識として理解はしていても、やはり直接見ぬことには始まるまい?」 「仰せの通りかと」 一国の王とはいえ、国内に目を向ければその仕事は役人とそう変わらない。 暫らくはこうした視察や雑務がメインとなるだろう。 不慣れゆえにより慎重に、入念に取り組まねば。 「殿下、そろそろお時間です」 「む?そうか。では、これからもよろしく頼む」 「こちらこそ、何卒よろしくお願いいたします」 商館を出るとその足で王宮へと戻る。 昼食を取り終えたら書類を片付け、その後にまた外回り。 「お疲れですかな?」 「泣き言は言っておられん。これも使命だ」 「ですな」 「それにしても流石だ。私ですらうずうずして体を動かしたくなるというのに、近衛隊隊長としての顔もまた本物だな。ガルオン」 「最初は疼きを抑えるのに苦労したものです。これも父君に長年仕えていた成果ですな。殿下も嫌でも慣れるでしょうぞ」 「ふふ……だと、いいのだがな」 彼の言葉の通り、数年もすれば政務にもすっかりと慣れ、生まれた余裕でより大きな視野と慎重さを持って仕事に励んだ。 戴冠当時は少し浮いて見えもした冠はすっかり居心地を良くし、第十七代ヴィレス王の姿をより確固たるものとして周囲に示し始めていた。 「いつまで寝てやがんだ!!」 「む!?あぁ……すまぬ。もう朝か」 「いつになっても朝の弱さだけは治らんな……それを考えて重要な案件を無理やり午後に調整している臣下達の苦労も少しは考えてやれ」 「返す言葉もない……」 「まぁ、それでも文句一つ言ってこないのは、それだけお前の頑張りが認められているということだ。俺の目から見ても随分王らしくなったもんだと思うぞ」 「毎日必死さ……少しの油断や慢心がガルム族全体の明日を奪う結果となるやもしれぬのだ。手が抜けるはずも無かろうよ」 「寝た途端にその心構えが消えちまうのが何とも惜しいな……」 「ふ……今朝は随分と小言が多いな。何か良い事でもあったのか?」 ガルオンは自らの髭を触りながらいつになく得意気に話す。 「おう!実はな……ガキが生まれた!!」 「なんと!?それはめでたい!!」 「ガキなんぞうるさいだけだと思っていたが、あれは良いぞ!」 「奥方と子の傍にいてやらずともよいのか?」 子を持った事がないから分らないが、想像するにひと時も離れたくないものではないのだろうかと考える。 「二人を養うためにも一層気合を入れて稼がねばならん!あ、残業はしばらく無しの方向で頼むぞ!?」 楽しそうに笑うガルオンを見て、ガレオスは釣られて笑ってしまう。 「すっかり父の顔だな」 「あぁ!それから、子の名前を決めようと思うんだが、俺も女房もこういうのはあまり得意でなくてな。どうせなら良い名前を付けてやりたい。そこで、お前の案を聞きたい!」 「自分の子の名だろう?奥方と決めた方が良いのではないか?」 「安心しろ!お前に決めてもらってはどうかと提案したら、女房も大賛成だ!」 「それはまた……」 「男だ!強そうな名前が良いな!」 「わかった。今日一日ゆっくり考えてみよう」 「おぅ!では鍛錬だ!」 生まれてからおよそ三十年。 歳をいくら重ねても、頼れる兄として接し続けるガルオン。 その彼がついに子の父になると思うと、つい時の流れを感じてしまう。 「今日は王都からの使者が来るって話だったな」 「うむ……最近、やたらと我々の政策に口出しするようになってきた。山ほどの書簡では飽き足らず、とうとう直接こちらに出向いてくるようだ」 「ガルムを毛嫌いする連中が未だに王都にもいるってことだな」 「友好関係を結び、表向きは共存の道を模索しているように見せかけているが、処々に我々を警戒している節がある。過去の事を考えれば無理からぬことか……」 「散々、貶してた相手が急速に力を持ち始めたわけだからな……できる事なら上手く取り込もうって腹なんだろう。八つ裂きにでもされれば大人しくなるかもな」 「わかっていた事だ。これを本当の共存の道とし、我々の未来を勝ち取るために私は王になった。父上から継いだ本当の使命はここからだ……!」 「背中は俺が守ろう。下手な隙を見せるなよ?俺が苦労することになるからな」 「無論だ。物心ついてから最高の指南役に教えを乞うているのだから」 「へへ……気持ち悪いな……」 午後になり、どことなく王宮内がざわつき始めた。 どうやら王都からの使者が到着したようだ。 会議室の椅子に腰かけ、迎え撃つように扉を見据えてその登場を待つ。 ――ガチャ 「おや?既においででしたか。お待たせしてしまったのであれば申し訳ありません」 「此度は長旅ご苦労であった。ヴィレス王ガレオスである。貴殿らを歓迎するぞ」 「こ、これは……ヴィレス王自ら会議に臨まれるとは聞いておりませんでしたが?」 「これまでは書面でのやり取りのみであったからな。王都の高官殿がわざわざこちらまで出向く程の重要な案件となれば、やはり私が自らお相手せぬわけにもいかぬであろう?」 「……お心遣い、誠に感謝いたします」 「では、始めようか?此度はいったい何用かな?」 会議室内にはガレオスと王都からの使者が三名。 その他、互いの護衛が数人ずつ。 部屋の外から中の様子を伺っていたガルオンが、会議の開始を察して近衛隊の元へと向かう。 「よし……話に入った。まずは報告を」 「はっ!門からの報告では村に入った王都の者は全部で二十名。その内、使者三名と護衛三名が室内におりますので、残る十四名が不確定要素となります」 「部屋の前にも護衛を二人置いていた。こちらも扉に二人付けているからそれは問題ないだろ」 「残る十二名の所在ですが、数人ずつに分かれ、観光を装い領地内に散っております。予想外の動きだった為、内三名の行方が不明。現在も足取りを追っているとのことです。また、用意された客室には使者を含む数人のみで、多くは村の宿に部屋を取ったようです」 「わざわざそんな手間のかかることを……何かやらかすと宣言してるようなもんじゃねぇか。敵ではないと装っているが、いつ何をしでかすかわからん連中だ。王宮内の各所には兵を配置。治安維持部隊にも応援を要請してそいつらの所在を早急に突き止めろ。あまり派手には動くなよ?一応、表向きはお客様だからな」 「はっ!」 「大変です!!」 「ちっ……遅かったか。どうした!?」 「そ、それが……」 ―――――― ―――― ―― 「先程もご説明させていただいたように、帝国の不穏な動きを確認しております。よもやとは思いますが、その牙を我々に向ける日も近いかもしれません」 「帝国の現存勢力は我々ヴィレスにも満たぬ程度で、今の王都の戦力であれば問題なく対処できる規模だと把握しているが?」 「これはまだ極秘事項ですが、最近、氷塞都市コルキドと手を組んだとか……詳細は我々も掴めてはいませんが、コルキドのヴァーンフリート王が突然失脚したとの話も入っておりまして……何かを企んでいる可能性も否めません」 「なるほど……で、我々に何を望むと?」 「……そこで我々上層部は、友好関係を結ぶ近隣諸国に対し、有事の備えとして新たな『同盟』関係を結び、その結びつきを強化し、より確実な抑止力とすることを考えております」 「同盟か……困った時には互いに助け合い、手を取り合う事で共存の道を模索する。種族に関わらず、生有るもの皆が持つべき精神の在り方だな。して、具体的にはどのようなものか?」 「はい……まずは、各国の保有する戦力の一部を王都が借り入れ、同盟の中心として抑止力の象徴となります。今回、貴国には我々と手を結ぶ最初の国となっていただけないか、と参上した次第です」 「何だと!?ふざけるな!!」 咆哮となった喝が部屋を震わせる。 「戦争となり、国や民を救うために助けを乞うのであれば喜んで助けの手を差し伸べようというものだ!だが、それは何だ!?体のいい口実を盾にして人質を取り、有無を言わさず言い成りにしようという謀略に過ぎぬではないか!」 「……当方にそのようなつもりは全く御座いません。事が動いてから救援を求めても間に合わぬという例もあります。それを未然に防ぎたかったのですが……残念です」 「白々しい限りだな……!」 ――コンコンッ 「……何用か?」 「はっ!会議中に失礼かとは思いましたが、早急にご報告したき件が御座いましたので……」 「後にしろ。こちらも立て込んでおる」 王都の使者は手のひらを上に向けて、扉の方へ向ける。 「いえいえ。何やらそちらもお急ぎのご様子。こちらはお気になさらずに……」 「……では、少し失礼する」 近衛隊の兵士の一人だった。 王都の使者を気にしながら、そそくさとガレオスの耳元に駆け寄ると、内容が漏れぬように報告を述べる。 「……何だと!?」 「おや?どうかなさいましたか?」 使者は、口元の奥で笑っているようにも見えた。 「お話中失礼します!」 扉がノックされると、王都の使者の一人が入ってくる。 向こうもこの事件を耳に入れるつもりであろう。 それはそうだ。 ガルオンが王都の馬車を襲撃し、兵を負傷させた。 耳を疑う報告ではあったが、間も無くして王都兵に連行されてきたガルオン他、数名の近衛隊員。 特にガルオンが目にかけていた部隊内の白虎一族の者だ。 ガルオンを含め、一騎当千の兵揃いだがまるで抵抗する様子がなく、ただ顔を伏せているばかり。 その少し後ろには、話を聞きつけた隊員達が心配そうにその様子を伺っている。 どうやら間違いではないようだ。 「これはどういう事ですかな?」 話を聞き終わった王都からの使者はガレオスに詰め寄る。 「待て……まずは事情を聴かぬことには――」 「どうやら事の重大さを理解しておられないようだ!自国に出向いてきた友好国の荷馬車を襲い、さらにはその人間を傷つけたのですよ!?これは戦争に発展してもおかしくない事案といっても過言ではないでしょう!!」 熱くなっているのか、それとも大きく演技をしているのか……。 「だからこそ話を聴かねばならんのだ!!」 猛るガレオスの迫力に再びひるむ使者一同。 ガルオンは舌打ちをしながら顔を伏せたままにしている。 「一度ご退室願おう。これはヴィレス領内の事案。まずはヴィレスのやり方で対処させて貰いたい」 ガレオスは鼻息を荒くしながらも、出来るだけ冷静に伝えた。 「……わ、わかりました……ですが、事実確認が取れましたら、その時はその処分についてもじっくりお話しして頂くことになるかと思いますので、どうかご覚悟ください」 王都からの使者が捨て台詞のようにそう言い残して部屋を後にする。 ガレオスはガルオン達とだけで話がしたいと、近衛隊に下がるよう促す。 部屋にはガレオスと捕らえられたガルオンの一行が残された。 ひとつ息を吐いて、落ち着いて話を始める。 「何があったか話してもらえるな?ガルオン」 「……すまねぇ」 ガルオンは下を向いたまま、歯を食いしばっているようだ。 「それではわからぬ!何故、そのようなことを!?」 「…………今すぐ俺達を斬れ」 「ならぬ!まずは話して貰おう!例え言い訳でも、嘘でも良い!何故か!?」 「……ガレオス。まだ間に合う」 進まない話に痺れを切らしたガレオス。 「……こ……の!!」 「どうかお待ちを!!」 ガルオンに掴みかかるガレオスを見て、慌てて割って入る白虎の若者達。 その表情は、ガルオンが頑なに口を閉ざしているのは何か訳有りであることを語っている。 「私達は……ガルオン殿は嵌められたのです……!!」 「余計な事は言わなくていい!」 ガルオンが厳しい剣幕で口を挟む。 「いいえ!言わせてください!」 「貴様……!」 大人しくしていたガルオンがその身体を起こす。 今にも体を拘束している縄を引きちぎり、その口を塞ごうと暴れ回るガルオン。 「ガルオン!!」 それをガレオスが押さえつけ、話の続きを問い詰める。 「話してくれ!嵌められたとはどういう意味だ!?」 「それが――」 事の顛末はこうだった。 会議が始まった直後、生まれたばかりのガルオンの息子が誘拐された。 話を聞きつけたガルオンがすぐに家へ向かいその場にいたという妻に事情を聴くと、フードを被った二人組の男が家を訪ねてきたという。 外国から土産を売りに来たというその男達の相手をするために目を離したほんの数分間の間に子供がいなくなったというのだ。 ガルオンは治安維持部隊にも応援を頼み、目撃証言を集めて息子を捜索した。 すると、見慣れぬ装いの男達が、揺り籠程のサイズの荷を大事そうに荷馬車に積んでいるのを見たとの証言が取れた。 その荷馬車に案内されると、それはあろうことか王都から使者と共に村を訪れた荷馬車だったのだ。 激昂したガルオンは、共にいた白虎一族の近衛隊員達と共に馬車を強襲。 荷を護衛していた兵士を殴り飛ばし、その荷を強奪したのだが、検めるとそれはガルオンの子供ではなく、ただの土産用の木彫りの像だった。 「恐らくは王都が仕掛けた罠でしょう……明らかにガルオン殿を狙い撃ちにしている……父親ならば誰しもが同じ行動を取る筈です!それを分かってて荷馬車を襲わせ、私達を王都に剣を向けさせたのです!!」 「ぐ……うぅ……余計な事を……!!」 ガレオスに抑えられていたガルオンは、今にも喰い掛かりそうな勢いで荒い息を吐きながら報告する白虎の若造を睨みつけていた。 「それで!?ガルオン殿のお子は!?」 「私達が馬車を襲ってすぐ、広場の噴水で無事保護されたとのことです……」 「そう……か……」 ガレオスには心当たりがあった。 ガルム族の存在を良しとしない者達の存在。 今回、王都から使者が派遣されてきたこの件そのものにも大きく関わっているであろう意思。 全てはこの事件を引き起こすための布石だったのだ。 わざと不信感を与えるような振舞い。 あえてこちらを怒らせるような言論も。 こちらに反感の意思を抱かせ、事件の正当性を高める為のもの。 恐らく今回の首謀者は、この件を表沙汰にすることでガレオスの失墜を狙い、ガルム族そのものを手中に収め、良い様に扱うことを目的としている。 「この件を命じた者がレミエールにいるはずだ……そやつを探し出し、吊るし上げる!」 「無駄だ!俺達を斬れ!下手人を処罰すれば王都への体面を保つことはできる!傷を最小限に抑えることができる!」 ガルオンが叫ぶ。 力を入れすぎたせいか、縄が肌に食い込み、血が滲む。 「そんなことできるはずがなかろう!!」 ガレオスも感情的に怒鳴りつけた。 ガルオンは一族の若造に視線を向けながら、背中に縛り付けられた拳を強く握る。 「お前たちにも申し訳が立たぬ。元はといえば俺の軽率な行動が招いた結果だ……!」 「顔を上げてください、族長!貴方は間違ったことはしていない!我らが罪を被ることでガルム族全体の明日を守れるのなら、喜んでお供いたします!」 やり取りを静観していた、ガルオンと同じく捕縛された白虎一族の近衛隊員もこれに賛同する。 「感謝する!」 「貴様らまで……正気か!?」 「事は一刻を争う!今も奴らは裏工作を進めているはずだ。本当に奴らの首謀者を見つけ出せたとしても、その時にはもう真実は闇の中だ!今しかないのだ!」 「それは……だが……」 「これ以上、お前にもヴィレスにも迷惑をかけたくないのだ……どうか、このまま頷いてくれ……!」 「迷惑などと……数々の苦難も共に乗り越えてきたではないか!」 「個ではなく、王としての責務を果たせ!己を信じる者達のため、何が最善で、最も高い可能性を得られるかを考えろ!最初に言ったはずだ!それが王であるための義務だと!」 「ガルオン殿……!」 「種の王であれ!それは茨の道だが、お前だからこそ歩める道であると俺は心から信じている!」 「殿下!我々の想いも同じです!いつか、ガルム族が輝かしい繁栄を築くことを切に願っております!」 「しかし……」 頑なに譲らないガルオンと白虎一族。 無力な自分を恥じ、悔しさに打ちひしがれながら、ガレオスはこの提案を受け入れた。 これまでの礎と、臣民の未来を想っての苦渋の決断。 聞こえはいいが、結局は一部を切り捨て、全体を取っただけの苦肉の策。 それが正しい王の姿であるとは到底思えなかった。 「お話は御済みですかな?では、結論をお聞きしましょう。此度の件の始末、どうつけるおつもりですかな?」 王都の使者を待たせる客室に一人向かったガレオス。 してやったりといった表情の使者の顔は、次の言葉を聞いて青々と変容した。 「下手人である白虎一族族長ガルオンを、一族もろとも永久国外追放とする……!」 「国外追放だと!?」 「幸い、この件で死者は出ておらず、破壊されたのも馬車一台。それを償うには十分すぎる処罰であると考えている」 恐らくガルオンがガレオスにとって掛け替えのない者であることも調査済みだったのだろう。 だからこそガレオスはガルオンの処遇を決めきれず、結果的に泥沼へとはまっていく。 そういう算段だったはずだ。 「だ、だが……その……」 まさに予想外だと言わんばかりの慌てよう。 やはりそういうことだったのだ。 それすらもガルオンは見抜き、事情も説明しようとせず、無理やりでも自分を説き伏せようとした。 「無論、私が自ら王都へと出向き、然るべき謝罪もするつもりだ。それで良いか?」 「しかし――」 「良いな……?」 「ぐ……う……」 あの場でガルオン達は死をもって事を収めようとしたが、それだけは何があっても避けなければならない。 言われるがまま彼らを処罰するしかなかったガレオスが、唯一下すことのできるせめてもの償いだった。 そのことは否応なしに使者にも伝わったことだろう。 この直後、王都からの一行は会議の事など忘れたかのように都へと逃げ帰っていった。 彼らの報告を受け、帝都の上層部がどんな顔をするのかは知る由もなければ興味もない。 「ガルオン……結局はお前の言うがままにするしかなかった私を、どうか許して欲しい……」 「その話し方……そうか……決めたのだな」 「王の背負わねばならぬ責任と重圧。これがそれらのもたらす苦悩だというのであれば乗り越えてみせよう。個であることを捨て選んだ道だ。それを貫かねばお前たちにも顔向けができぬ」 「それで良い。父君もそうであった。自分という存在が日々失われていく中で全てを絞りつくすまで戦い続け、殿下に次の未来を託した。殿下もそうあるべきだ」 ガルオンの目に後悔はないように見える。 「うむ……」 「そうだ!我が子の名は考えたのか!?」 「私にまだその資格があると申すか?」 「愚問だ」 「そうか……では…………ガルディスと」 「ガルディス……良き名だ……!」 「達者でな。いつしか遠くお前たちの地までこの村の名を轟かせてみせようぞ!」 「心待ちにしてるぞ」 ―――――― ―――― ―― あれから十年。 当時、悪化するかと思われた王都との関係だが、その後のガレオスの行動を鑑みた王都上層部はその意志の強さと誇りを認め、対等な関係での同盟を築く道を選択した。 さらには、これに同調する様に他の種族もガルム族との関係を構築。 今や獣境の村『ヴィレス』は、ガルム族の名と共に大陸中に知れ渡り、その力と存在を確固たるものとして位置づけた。 ガレオスが父アレイオスから受け継いだ礎は、見事にその先へと紡がれていく道へと成ったと言えよう。 「殿下。コルキドより、殿下宛に書簡が届いておりますがいかがいたしましょう?」 「コルキドからだと……?」 何かを察したように封を切り、早速中に入っていた手紙に目を通す。 それは他でもないガルオンからの十年ぶりの言葉だった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 我が盟友、教え子、弟であるガレオスに向けて 久しいな。 朝は起きれているか? ヴィレスとガルム族の繁栄。 王ガレオスの活躍の噂。 このコルキドまで伝え聞いている。 随分と立派になった様で何よりだ。 今回、筆を執ったのは、お前に謝らねばならぬことがあるためだ。 まずは帝都との一件について。 真実を知る者は俺を含め、あの場にいた僅かな者達のみ。 我が子を含め、一族の末裔達はそれを知らず、お前の事を『一族を追放した悪者』だと憎んでいることだろう。 どうか、それを許してほしい。 もし、真実が公になれば、再びガルム族全体が危険に晒されることもあるだろう。 この一件は、このまま忘れ去られなければならない。 お前にばかり押し付ける形になり、本当にすまない。 それからもう一つ。 まだ道半ばにあるお前を残し、先に逝くことを許してほしい。 先日、山賊と揉めた際にやられた傷から感染症にかかった。 あの程度の連中相手に傷を負うとは、俺も落ちぶれたものだが、どうやら寄る年波には勝てないらしい。 居場所は違えど、心だけは共にあり続けるものと決めていたのだが、それもここまでのようだ。 これからもヴィレスと、ガルム族の未来を頼む。 お前を認めた父君と俺の目を信じろ。 何だってやれる。 最後に。 我が息子に会うことがあれば目をかけてやって欲しい。 最後の鍛錬の日のペナルティを決めていなかっただろう。 これはそれだ。 ガルオン ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ――十数年後 長きに渡る王座を退き、また次なる世代へと希望を繋ぐため、ガレオスは先代のように王位継承戦を開き、広く参加者を募った。 しかし、その中に全てを託すに値する人物を見ることは叶わず、彼は頭を抱えていた。 「爺よ……この中から選ばねばならぬか?」 「心中お察しいたしますが、そうした御触れ元に開かれた大会ですので……」 「ふむ……」 「失礼致します。殿下、至急お耳に入れたき件が!」 「どうした?」 「はっ!村に向かう街道途中で、帝国軍と騒動を起こしている者がいるとの知らせが!」 「帝国軍と?ほぉ……向こう見ずな者がいたものだな」 「それが……その者……白い虎のガルムだとの情報が……」 「白い虎だと!?」 「殿下……まさか、その者……」 「爺!この場は任せた!!」 「殿下!?でしたら我々もお供させていただき――」 「ならぬ!村に無用な問題を持ち込むわけにはいかぬ!儂が一人で向かう!!」 「継承戦はいかがなさるおつもりで!?」 「ここにはおらぬと言ったはずだ!!」 「しかし、殿下お一人では――」 「儂は冠を置くと決めたのだ!王となってから、長い間儂は自らの想いとは違う、王としての意志を貫いてきた。しかし、冠を置いた今であれば次なる希望のため、儂は個としての意志を貫く!!」 「お、お待ちを!!殿下ぁああああ!!」 ガルオン…… お前の魂を継ぐ者を、見せて貰おうか。 +無垢なる聖域の守護獣ルパ 深い森の中、木々の隙間を駆け抜けていく二つの影。 一つは人の形をしている。 大きさから察するに、まだ随分と幼い。 もう一つの影は魔物だろう。 四本足で地を蹴りながら駆ける姿は、一目で人間のそれではないとわかる。 どうやら二つの影は連れ立ってどこかへ行こうとしているのではなく、追走劇を繰り広げている最中のようだ。 しかし、幕引きはもう間も無く訪れる。 見る見るうちに詰まっていく間隔からもそれが伺える。 「追いついたぞ~!」 二つの影が重なろうとした瞬間、追っ手側の影が飛び上がり、吠えた。 「スパーン!!」 手にするは巨大な斧。 自重を優に超えているであろうその鉄塊を軽々と振り抜くと、魔物の急所を見事な一閃が切り裂き、結果、呻き声を上げる暇もないまま魔物は絶命し、力無く地に転がった。 「ゴメンな。おいしくモグモグするから、許してくれな」 たった今、魔物の命を奪い去ったばかりの人影が、その亡骸の元へと歩み寄りながら小さく呟いた。 それは少女だった。 年の頃は五、六といったところか。 簡素で露出の多い服装に、鮮やかな黄緑色の髪がよく映える。 手足と頭には魔物の毛皮を細工したであろう装飾品とマント。 そして、背とマントの間からひょっこりと顔を見せる尻尾。 ガルムである。 そう。 これは狩り。 弱きモノの血肉を、強きモノが糧とする自然の摂理。 肉の調達を請け負う者、それを加工する者、こうした様々なフィルターを通しているために忘れがちではあるが、人とて決してその摂理から外れているわけではないのである。 それが例え、幼い少女であろうともだ。 「んしょ……早く帰らないとな。母ちゃん待ってる」 少女は魔物の亡骸を肩に担ぐと、踵を返し、散歩をするかのように森の奥へと消えていく。 左手一本で巨大な斧を棒っきれのようにブンブン振りながら歩く姿もそうだが、それに加えて、自身の体よりも二回り以上も大きな死骸を抱えているというのに、重たそうにする様子は微塵もない。 その瞬間、歩く姿のみを見ても、普通ではない何かを確かに感じさせた。 少女が獲物を持ち帰った先。 それは森の奥に隠れ潜むようにして築かれた里。 数十棟ほどの木造りの家々が建ち並び、さながら大きな村のような体を成している。 ここまでならそう珍しくもない光景。 この里の特異な点は、住人たちの姿にあった。 木陰で昼寝を楽しんでいる男。 家の前で何かの肉をさばいている女。 広場で追いかけっこをしながら遊んでいる子供たち。 彼らの姿をよく見ると、全員がガルムであることがわかる。 「母ちゃん、ただいまだぞ!獲物!でっかいの取ってきた!」 他よりも一回りほど大きい家にとてとてと駆け込んだ少女は、先程仕留めた魔物を誇らしげに掲げる。 どうやらそこは彼女の暮らす家のようだ。 「おかえりなさい、ルパ。ずいぶんと立派なのを狩ってきたわね」 「んひひ~!」 ルパと呼ばれた少女。 彼女は母に狩りの成果を褒められ、ご満悦な様子。 「何度も聞くようだけど、森の外には出てないわね?里以外の人とも会わなかった?」 「ルパ、ちゃんとやってるぞ?里の掟守ってる!」 「そう。ならいいの。夕飯の支度済ませちゃうから、少し待ってなさいね」 里の掟。 一つ、森の外に出ることなかれ。 一つ、外界の者の侵入を許すことなかれ。 この掟は里に唯一存在する住人全体の決まりごと。 里に生まれ、物心ついた子供たちは最初にこの掟を教え込まれ、生涯を通して守り抜くことを誓う。 何故、このような掟が存在するかを説明するためには、やや時を遡る必要がある。 ルパが生まれる遥か以前。 その日は、この里が生まれた日。 この地に初めて、とあるガルム一族が踏み入った日。 今でこそ落ち着きを見せてはいるが、当時と言えば、ガルムが人間たちから激しい迫害を受け、奴隷のように扱われていた頃。 この頃、大陸に生きる者たちの最大の脅威は帝国ではなく、命を脅かす魔物、獣の類だった。 凶暴な気性、人間が持たない強靭な牙や爪。 世は弱肉強食とはいえ、そんな彼らと戦うには、人間という肉体は貧弱過ぎた。 そんな彼らの前に、その類と同じ形をした部位を身体の一部に持ち、そのうえ自分たちと同じ言葉を話し、思考する者が現れたらどう思うだろうか。 誰しもが恐怖し、とても平静ではいられなかったはずだ。 人間はその存在を蔑み、虐げた。 それこそがガルムという種である。 ルパの一族は、かつて人間の奴隷として売られるために奴隷市場の檻の中にいた。 しかし、不当な扱いから逃れるため、その後に初代の里長となるルパの祖父が皆を先導。 結託した一族は、そこから脱出に成功し、安住の地を求めて大陸各地を放浪することとなる。 そして、旅の末に辿り着いたのが樹上都市「メルキス」だった。 そこは人間ではなく、エルフが治める土地。 そこでなら、人間が自分たちに抱いた感情も存在しないと考えたからである。 しかし、ときに現実とは無情なもの。 純血種こそを絶対正義。 種の誇りを重んじるエルフたちにとって、他種族と関りを持つことは一種の禁忌とされており、人と獣の混血種であるガルムは尚更軽蔑すべき対象だったのだ。 エルフはガルムに手を差し伸べるどころか、早々にこの地を立ち去るようにと邪険に扱った。 これはガルムではなく、例え人間であったとしても結果は変わらなかっただろう。 だが、そのことを知らなかったガロたちは憎んだ。 人間を憎み、そしてエルフを憎み、世界をも憎んだ。 かといって、エルフを攻撃しようなどという感情は芽生えなかった。 彼らとて知性ある者としての誇りを持っていたから。 安住の地を探し求める旅は続く。 だが、既に旅路での消耗が限界を迎えつつあったガルムたちには休息が必要だった。 肉体的にも勿論のこと、抱いていた希望が打ち砕かれた精神的なショックも大きかったのだろう。 多くの者たちが足を踏み出すことを諦めていた。 ここでルパの祖父は気が付いた。 メルキスの目と鼻の先にありながら、エルフの気配どころか、まるで手付かずの自然がそのまま一つの結界を形成したかのような異質な森の存在に。 理由はわからない。 豊富な果物や木の実。 食用に適した小動物。 一歩踏み入れば、そこは自然の恵みが溢れ返る楽園。 エルフたちにもそれはわかっているはず。 だというのに、なぜ彼らはこの地を放置しているのか。 わからないが、ルパの祖父はそこに希望を見た。 そして、一族の皆を連れ、森の奥へ。 そこに隠れ里を築き、安住の地とした。 森の外に出れば、エルフの目に触れ、怒りを買うかもしれない。 外界の者が里の存在を知れば、エルフにも里の存在が知られ、何らかの処罰を受けることになるかもしれない。 そうしたことを未然に防ぐための掟である。 「なぁ、母ちゃん?人間って悪いヤツなのか?エルフも?」 「どうかしらね……悪い人とは限らないのかもしれないけど、お父さんやお母さんは人間にも、エルフにも会ったことがないからわからないわ」 「探せば良いヤツもいるかもなのか?」 「そうね……でも、あなたが生まれてくる前、お爺さんたちはそういう人を探して色んなところを旅したわ。みんな辛くて悲しい思いをたくさんしながら。それでも見つからなかったのよ……」 「なんでみんなワイワイ仲良くしないんだろうな」 「……ルパ?厳しいことを言うけど、あなたは今、この里をまとめる長の立場にあるのよ?変な気を起こしちゃダメだからね?」 「変?人間やエルフと仲良くするの変なのか?」 「そういうことじゃなくて――も、もういいから!早くご飯食べてしまいなさい!」 「はぁい……」 いつもこうだ。 こういった話をしようとすると、何故か母は怒って話を終わらせようとする。 それはルパにとって、悲しいことでもなければ、腹立たしいことでもない。 ただただわからない。 不思議なことだった。 食事を済ませ、家の屋根上に飛び上がったルパは月を眺めつついつものように考える。 「今日の月はまんまーる!キレイだぞー!」 生まれながらにして、里と森の中以外の世界を知らぬルパ。 外のことで知っていることは、母から口を酸っぱくして教え込まれたこの里の歴史と、他種族との因縁のことだけ。 この里の長だった祖父。 その息子であり、次の里長となったルパの父。 さらにその跡を継いで、同胞たちを守る使命を帯びた自分。 ルパが生まれる以前、里に大量の魔物が近づく事件があったらしく、このとき、魔物の気配をいち早く察知した父ガロは、里の戦士を引き連れ、里を守るために戦い、勝利をおさめ、そして、命を落としたという。 ルパがこの話を理解できるようになったとき、彼女は父の行動を誇りに感じた。 家族だけでなく、立派に仲間を守った彼の勇姿に憧れた。 だから、自分もその使命を継いで戦えるということは素直に嬉しく思った。 しかし、一つだけ理解できないこともあった。 なぜ話し合える者同士がいがみ合うのか。 なぜ傷つけあうのか。 その答えを知ろうにも、 母に話を聞いても相手にしてもらえず、里の老人たちに聞いても結果は同じ。 ルパは、純粋すぎる心で一人その答えを必死に見つけようとしたが、理由は今なおわからない。 だが、一つだけはっきりと理解していることがある。 仲間を守ること。 それがルパの使命―― ―― 五年後。 月日は経ち、ルパは十歳を迎えていた。 この頃になると、彼女も里の長として相応しい力を存分に発揮し始め、周囲の者たちもその将来に期待し、胸を躍らせていた。 里で誰よりも強く、誇り高かった父ガロに勝るとも劣らない長になると。 「やぁ、奥さん。こんばんは。良い肉が手に入ったから、ルパに食べさせてやろうと思ってね。あの子はいるかい?」 「まぁ!いつもありがとう!あの子もきっと喜ぶわ。ルパ!?お隣さんがお肉を届けてくれたわよ?」 「んー?」 玄関口で話すルパの母と里の仲間。 母の呼び掛けに対し、その頭上からルパの空返事だけが返ってくる。 「また屋根上に上がって月を眺めてるのかい?」 「えぇ。ごめんなさいね。すぐに呼ぶから。ルパ!?ちゃんとお礼しなきゃダメでしょ!?」 「あー……いいよいいよ。ほら、今日は三日月の晩だから、なおさら楽しみにしてたんでしょ!」 「三日月……もしかして、紫の三日月の言い伝えのことを?」 「オレもガキの頃は信じてたよ!ロマンがあるじゃないか!」 「ちょっとやめてよ、そんな迷信。あの子もいつまでもそんなもの信じてないで、もっと里の長としての自覚を身に着けて欲しいものだわ……」 里の者ならば誰しもが一度は聞いたことのある言い伝え。 『紫色の三日月の夜、新たな友との出会いがある』 毎年、ある時期にだけ必ず月が紫色に染まる日があり、その日が三日月の晩と重なったときだけ見られる紫色の三日月。 周期的なものではないため、数年から十数年に一夜、タイミングが悪ければ数十年と見られないこともあるという。 それほどに珍しい夜ならば、何か特別なことがあって欲しい。 そうした淡い願いから生まれた話といったところだろうか。 「はは!あの子はまだ十歳だよ?毎日ぐんぐん成長して、ガロさんに負けないくらいの力は付いてきたけど、まだまだ子供なんだ。ちょっと夢を見ることくらいは許してやりなよ!」 「それはそうだけど……」 その日は陽が落ちる夕方から、ずっと屋根の上で月が昇るのを待ち続けていたルパ。 なぜそこまで待ち遠しく思うのか。 彼女にとって、紫の三日月の言い伝えには特別な意味があった。 新たなる友。 里の者しか知らず、森の外に出ることのできないルパにとって、それはまさに未知との遭遇。 掟に触れることも理解していたが、その相手が友達になれるような者ならば、里の者たちもさほど怒ることはしないだろう。 ルパはそんな出会いに想いを馳せていた。 「まだかな、まだかな~?まだまだかな~?」 完全に陽は落ち、月の姿が煌々と夜空に映し出されたとき、それは訪れた。 「うぉおおおお!?紫だ!紫だぞ!!」 屋根上で寝転がりながら、呆然と空を眺めていたルパが飛び上がり、喜びを身体全体で表現する。 空に浮かぶ三日月は、確かに紫色に染まっていた。 あまりにも幻想的な光景。 次第に里の者達もそれに気が付き、目と心を奪われていく。 「新しい友達がお話にくるぞ!早くこないかなぁ~……今からワクワクだな!!」 あとは言い伝え通り。 新たな友が訪れるのを待つだけ。 長年夢見た瞬間が、現実になることをそわそわしながら月を眺め続けるルパ。 森の外からの来客を待ちわびて、念入りに周囲に気を配る。 「なかなかこないなぁ~……ウズウズが止まらな――っ!?この匂い……!!」 そのとき、里の中でルパだけが気が付いた。 「ザワザワ……友達じゃない…………?」 森の外から漂ってくる気配。 それは他でもない魔物の群れの気配。 微かにではあるが血の臭いも漂ってきている。 今回訪れたのが友達でなかったことに肩を落とすルパだったが、次の瞬間、彼女の気配の質は変容した。 言い伝えを信じ、夢見る無邪気な子供から、里を治め、同胞たちを守るために戦う長へ。 「みんなが危ない……ルパが戦わなきゃ!」 里の者に知らせることすらも忘れ、自身の内に燃え上がる使命感に従って行動を開始するルパ。 天高く舞い上がった彼女の姿が紫色の三日月の中に浮かんだかと思いきや、そのまま目にも止まらぬ速さで魔物の気配の元へと駆けて行った。 生い茂る木々により陽射しは阻まれ、昼間であっても暗がりの多い森の中。 夜ともなれば、その暗さは闇そのもの。 それでもルパの足取りには、躊躇などといった要素は全く存在していない。 獣染みた夜目と、毎日庭のように駆け回っている場所だからこそできる芸当。 「んん?何だ??」 気配に近づくにつれ、異変を感じ始めるルパ。 魔物の群れの強烈な気配の中に、弱々しく感じる別の気配。 それに際し、ルパは一度足を止める。 彼女は、身を低くし、息を潜めながらゆっくりと気配の元へと忍び寄り、状況を草陰から観察した。 「くそっ!みんな無事か!?頑張れ!すぐに助けが来る!!」 夥しい数の魔物に囲まれた見慣れぬ人影。 すらっと伸びる四肢と、尖った耳。 色白い肌に鮮やかな緑の服が映える。 それはルパが生まれて初めて目にする森の外の者であり、ガルム以外の種族であった。 「なんだアイツ……なんかルパと全然違うぞ?ピンピンしてて、ナヨナヨしてる……あれがエルフか?」 エルフが握り締めているのは弓。 体のあちこちに怪我をしている。 どうやら魔物と戦っているようだ。 それにしても、魔物の集団と向かい合って戦うなど、日常的に魔物と戦っているルパから見れば愚の骨頂であった。 魔物との戦闘においては一撃必殺、先手必勝が最も効率が良く効果的。 集団を相手にするときは、囲まれないよう次に動く先を考えながら、翻弄するように動き回ること。 それこそが里の戦士に習い、ルパが経験によって磨き上げた戦法である。 同じことができないまでも、何か策を考えた上で戦いに臨むくらいのことは他種族であってもしそうなものではあるが。 否、よく見ると男の足元に同じくエルフが数人横たわっているのが見えた。 「アイツ……仲間守ってるのか。だから逃げないのか」 いくらルパの夜目が利くとはいえ、さすがに詳細な傷の程度までは視認できない。 しかし、完全に気を失って動かないところを見ると、深刻な事態なのだろう。 すぐに治療しなければ、手遅れになるかもしれない。 だが、ルパは動かず、ただ静かにその様子を見守った。 もし里に近づこうとする者がいた場合、速やかに森の外に追い出すこと。 それがエルフともなれば、存在を知られることすらも危うい。 掟でそう教え込まれているルパにとって、目の前の光景は、ただ形の違う敵同士が殺し合っているだけ。 このまま里に危害が加えられないのであれば、意味も無く戦う必要はない。 これは里の者であれば誰しもが取ったであろう判断で、里の長としも正しい判断だといえた。 「ゴメンな……ルパもみんなを守らないとだから……」 ルパはエルフに対する謝罪の言葉を、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 『グルルルル……!』 「くそ……もう矢が……!!」 『グォアアアアア!!』 「うわぁああああああ!?」 とうとう一人最後まで戦っていたエルフまでもが倒れ、彼らの運命が決する。 これもまた狩りだ。 弱きモノの血肉を、強きモノが糧とする自然の摂理。 今回はエルフが弱者で、魔物が強者となった。 それは当たり前のことであるはず。 自分の生きてきた世界ではそうだった。 「こ、こんなところで……死にたく……ない…………」 この獲物たちには抵抗する力は既に残っていない。 そう判断した魔物たちが、男たちに襲い掛かろうとした時…… 「――っがぉおおおおおおおお!」 『グル……!?』 ルパは魔物の群れの前に無心で飛び出していた。 傷つく者、弱い者を守る。 それは里の教え以前に当然の行いであり、父ガロが命を賭して貫いた誇りであり、ルパにとっての行動原理。 彼女はちらっと横目でエルフたちの様子を確認。 どうやら全員気を失っているようだ。 これならばエルフに見られる心配も、里の発覚についても心配はなさそうである。 「……よーし!ルパが相手だ!いっくぞー!!」 何かを振り切ったといわんばかり手をグルグルとぶん回すルパ。 突然、新たな敵が登場したことにより戸惑う魔物たち。 彼女はその隙を見逃さず、斧を手に魔物の群れへと斬りかかる。 『グギャァアアア!』 「クルクル……ドーン!」 敵の数は視界に入るだけでも二十体以上。 それだけに留まらず、仲間の異変を感じ取った新手が次々と湧いてきている。 その総数は如何ほどか。 「バキバキドーン!」 『グルル……グォアアアアアア!』 「がぉおおおおおおおお!」 『グ……グルル……!!』 いくら数が多いとはいえ、ルパにとっては狩り慣れている獲物。 個体としての戦闘力は比べるまでもなく、咆えて威嚇するだけでも一定の効果があるようだ。 こうした手段を駆使しながら、ルパは包囲されないよう敵を翻弄し続け、一体、そしてまた一体と着実に獲物を狩っていく。 何も全てを狩りつくす必要はない。 魔物とて、群れを存亡させることを考えれば被害が限界を超える前に撤退していくはず。 「はぁっ……はぁっ……んひひひ!」 本来なら、限界が近いのはむしろルパであったかもしれない。 だが、今の彼女は楽しんでいた。 狩っても狩っても後から湧いてくる獲物。 戦果である獲物の死骸は山を築き、なおも積み上がっていく。 何かを守りながら戦うという、かつてない経験。 色濃くにじむ疲労。 個の限界を感じる苦戦。 どれもが初めてで、純粋に刺激的で、気が昂(たかぶ)った。 そして、狂気の中にいるかの如く研ぎ澄まされたルパの感覚が、新たな強力な気配を察知する。 森の外からこちらへ向かってくる邪悪なもの。 群れのリーダーだろうか。 『グルル……!!』 魔物たちも同様にその気配を察知しているようだ。 「んひひっ!!」 だとしても今なら負ける気がしない。 どんなに巨大で、どんなに強大な相手であろうとも。 そうした意気込みがルパの表情からもはっきりと感じ取れる。 「な……なんだこれは……!?」 「……あれ?」 現れた気配の主の姿を見て、ルパは一気に現実へ引き戻された。 耳も、肌も、背後に横たわるエルフたちと同じもの。 手にするのは盾で、服装は紫色と、多少の差異こそあるものの、それは間違いなくエルフであった。 自分の感覚がおかしくなったのではないかと思い、何度も気配を探りなおすが、力強くどこか邪悪なこの気配は、間違いなく目の前のエルフから発せられている。 否、それよりも考えなくてはいけないことをルパは思い出す。 我に返ったルパの脳裏をよぎる里の掟。 彼女に刷り込まれた、里を守るための教え。 エルフに姿をさらしてしまえば、そこからルパの存在がメルキスに知れ渡ることになり、最終的には彼女の唯一の居場所である里に対し、何らかの対応がなされるかもしれない。 「…………事情はわかった」 そう述べ、盾を構えたエルフ。 それを見て、ルパの中の何かが切れた。 「がぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」 一体何が『わかった』? 魔物と結託してルパがエルフを襲ったと勘違いしたのか。 それとも、ルパを見ただけで里の存在まで勘付いたのか。 いけない。 里を守らなくては。 「なっ!?何だ!?」 突如雄叫びを上げたルパに対し、新手のエルフは明らかに動揺している。 だが、ルパの思考はそんなこと意にも介さない。 「帰れ!出てけ!!森から出てけ!!」 「ちょっと待て!?どうした――」 「うるさーい!!エルフは嫌いだ!!」 里を守らなければ。 そのことだけを考え、ルパはエルフを威嚇し続けた。 『グォアアア!』 「む~……邪魔ぁあああ!!」 『グギャァアアアア!』 好機と見てか、周囲を取り囲んでいた魔物が再びルパに襲い掛かるが、もはや近づくモノ全てを反射的に攻撃する狂人になりつつある彼女。 そのことごとくを斬り伏せながら、彼女は威嚇を続けた。 「帰れ!早くそいつらを連れて帰れ!!もう絶対に来るな!!」 「くそっ……一体何がどうなっている……!?」 この場に現れながらも、目まぐるしく変わる状況に最後まで付いていけなかったエルフは、ルパの圧倒的な野性味と戦闘力に圧されたのか、言われるがままに横たわった仲間のエルフたちを無理やり抱えて森の出口へと走って行く。 「ふー……!ふー……!」 「ルパ!?無事か!?」 「み、みんな……」 直後、里の戦士たちが駆け付け、魔物は討伐しつくされた。 到着がもう少し早ければ、エルフと接触していた自分の姿を見られていたことだろう。 だが、事は何も解決していない。 里に帰り、調理された魔物の肉を手渡されても、食欲などわかなかった。 あのエルフは何だったのだろうか。 エルフの姿なのに魔物のように大きく邪悪な気配。 それでいて、敵意は感じられなかった気がする。 さらに、掟を破ってしまった罪悪感。 そのことでこれから起こるかもしれない最悪の事態。 ルパは心にモヤモヤを抱えたまま、見えない空気の壁に押し潰されるような恐怖を覚えながら、その日は床に就いた。 ――翌日 天気の良い昼下がり。 だというのに、ルパは日課の狩りもせず、家の屋根上でぼーっと一人考え込んでいた。 勿論、昨日の出来事について。 「うー……ルパ、どうしたらいいんだ…………」 考え込みすぎて、昨晩一睡も出来なかった影響か、いつもフラフラしていた思考がいつも以上に定まらない。 「…………ん?」 そんなぼやけた彼女の感覚を刺すように刺激する気配。 間違いない。 意識下にこびりついて離れなかったこの感じ。 昨日、森の外へと追い返したはずのあの盾持ちのエルフの気配。 「……っ!!」 ルパは走った。 誰にも知らせることなく。 誰かに気付かれてしまうよりも早く。 普段の彼女であれば『凝りもせずによくも!』と、息巻いて駆けていきそうなものであるが、その時の彼女の表情は、焦りに塗れた悲痛なものだった。 「おぃ!何してる!おまえ!!」 頭上から突如声を掛けられ、びくっと体を震わせた人影が上を見上げると、大樹の枝先にちょこんと座るルパがいた。 彼女は人影をじっくり観察し、昨日の記憶と照らし合わせる。 やはり間違いない。 昨日のエルフ。 「帰れ!ルパはもう来るなって言った!」 軽く牙を剥きながら、怒りを露わにするルパ。 昨日よりも深いところまで森に入られた。 やはり里を攻めに来たのではないか。 彼女は警戒を怠らぬまま男を威嚇し続ける。 だが、そんなルパに対し、男はいたって平静に言葉を返す。 「ルパ……?それは君の名前か?俺の名前はシオンだ。君に聞きたいことがあるんだが、少し話をしないか?」 「違っ!ル……ルパは……ルパは……ルパなんて名前じゃない……ぞ……?」 「でも、今自分のことをルパって……」 「うぅ……うるさいぞ!話ってなんだ!?」 「話を聞いてくれるのか?助かる」 「ち、違う!違うぞ!ルパはそんな悪いことしないぞ!!いいから帰れ!!ドカーンしちゃうぞ!!」 自分をからかっているのだろうか。 あまりの敵意の無さに、そんな感覚にさえ陥ってしまう。 「いいから帰れ!早く帰れ!!帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れー!!」 「……今日のところは機嫌が悪いみたいだな。大人しく帰るよ」 「もう来るな!早く!!シャカシャカ動け!!本当にドカーンするぞ!!」 「わ、わかったから……!」 結局何をするでもなくすごすごと森を出て行ったシオン。 項垂れた彼の背中を見ながらルパはあることを思い出す。 「あ……モヤモヤのこと聞くの忘れたぞ…………」 だが、それももはやどうでもよかった。 二度もああして森から追い出されたのだ。 これで本当に二度と森に踏み入ることはないだろう。 もし、もしも再びあの男が森に現れた時が来るとすれば、それはすなわちエルフが里を襲いにやってきたという宣戦布告。 それこそがルパが一人悩み抜いて出した回答だった。 ――さらに翌日 森の中を駆けるルパ。 狩りのためではない。 またしても例のエルフ、シオンの気配が森に入ったのを感知したからだ。 「またおまえ!ルパ、もう来るなって言った!何回も言った!!」 「毎回、突然現れるんだな……昨日は話しそびれてしまったので、改めて出向かせてもらったんだが……まだ機嫌は治らないのか?」 既に警告は繰り返した。 疑う余地はない。 「ルパたちをいじめにきたな!?させないぞ!ルパがみんなを守るんだ!!」 「いじめる!?ちょっと待ってくれ!そんなつもりはない!」 相対するシオンは慌てて敵意の無さを訴えてきた。 それを見てルパは思い出す。 発せられる気配こそ邪悪な印象を受けるが、いつだってシオンから敵意や悪意のようなものは感じられなかった。 野性的な感覚と、裏表のない純粋さを併せ持つルパにして、それを見誤ることもないだろう。 「……おまえはエルフだ。ルパたちはガルムだ。仲良くない。いじめに来たんじゃないのか……?」 「仲良くないか……そうだな。それは否定できない。だが、それはガルムに限った話じゃない。エルフは根本的に他種族と親交を持つことを良く思ってはいないんだ。それこそ、余程のことがなければ攻撃しようなどと考えない。例えば、メルキスに害意でも向けない限りな」 「ほ……本当か……?」 「他でもないエルフの俺が保証する。信じて欲しい」 「……………」 ルパの心はすっと軽くなった。 自分が掟を破ったために、里が滅ぼされる。 ここ数日、彼女の心を強烈に圧迫していたそんな不安が一気に解消されたから。 「良かったぁ…………!」 ため息交りに心からの声をこぼすルパ。 ペタンと尻餅をついて呆ける彼女。 その様子を眺めていたシオンも、つい笑みをこぼす。 「はは……誤解は解けたようだな。なら――」 「お話は終わりだな!もう帰っていいぞ!ほら!出てけ!!」 「……は?」 打って変わって、再びシオンを森から追い出さんとするルパ。 シオンはその変わり身の早さに驚き、ただ戸惑うばかり。 「待て!誤解は解けたんだろう!?」 「ルパたちをいじめに来たんじゃないのはわかったぞ?でも、掟だからな!仕方ないぞ!」 先程までルパの中での優先順位は、里の危機の回避が何よりのもので、その次に里の掟となる。 そして、エルフがルパの里を攻撃しに来たのではないとわかった時点で、ルパの行動の最優先事項は里の掟となったわけだ。 単純明快、迅速果断。 相対する者がどんなに理不尽に思ったとしても、ルパの知ったことではない。 「動け!走れ!!出て行かないとドカーンだぞ!!」 「な、何なんだもう……!」 吹っ切れた様子で斧を振り回すルパを見て、今の状態では言葉も通じないだろうと判断したのか、シオンは抵抗することもなく、とぼとぼと森の出口へと歩いて行った。 「んひひ!里も平和にワイワイ!掟も守ってガッシガッシ!これでみんな安心――あ……またアイツのこと聞くの忘れたぞ……」 ――さらにさらに翌日 ルパも全く予想していなかったでもないが、本当にまた来たときは驚きを隠せなかった。 「も~!おまえ!しつこい!!帰れ!!」 「なぜ俺が悪者にされているんだ……誤解なら昨日解いたはずだろう?」 「それは終わった!ルパは掟を守るだけだぞ!!」 「その掟ってのは何のことなんだ?」 「掟は掟!森に入るな!!」 四日間にして四度目の警告。 まだ懲りないのだろうか。 目的など知ったことではない。 だが、里に近づけるわけにはいかない。 何かを訴えかけようとしているようだが、今の自分は里の長であり、掟を誰よりも重んじなければならない立場。 「出て行け!本気でバキバキするぞ!!」 怒りに殺気を交え、より攻撃的な威嚇に切り替える。 牙を剥き、斧を振り回し、爪で地を抉る。 もう次はない。 言葉だけでなく、姿勢でもそう訴える。 「……わかった。今日も帰るさ」 伝わったはずだ。 去り際のシオンの表情を見て、そうルパは確信した。 ――さらにさらにさらに翌日 ルパの内に燃え上がっていた怒りは、徐々に困惑へと変わりつつあった。 何度警告しようが、何度威嚇しようが、もう忘れたといった顔で翌日また現れる。 「相変わらず、お早い登場だな。魔物に勘付かれないように、自分なりに気配を絶っているつもりなんだが……結界でも貼ってあるのか?」 「けっかい……?何だそれ!?ルパはおまえの気配すぐわかる!魔物みたいだけど、ちょっと違う!」 「なるほど……やはりコレのせいなのか……?」 「ぶつぶつうるさい!!来るなって言ってるんだぞ!!毎日毎日しつこいぞ!!」 「生憎、煙たがられるのには慣れている。それに、俺はただルパと話がしたいだけだ」 怒るルパを相変わらず柳に風と受け流すシオン。 「ルパのこと、ルパって呼ぶな!ルパって呼んでいいのはみんなだけだぞ!!」 「みんなってのは仲間か?他にも仲間がいるのか!?」 「――っ!?」 いけない。 これ以上はいけない。 言葉を交わすほどにボロが出る。 シオンが里に興味を持てば、いつか里を探し出し、それをメルキスのエルフに告げ口するかもしれない。 回避したはずの滅びが現実のものとなるかもしれない。 「もうヤダ……おまえとはもう話さないぞ!絶対に!絶対に話さない!!頭の奥がグチャグチャでグラグラだ……!!」 「ルパ……?」 「ルパのことを呼ぶのをやめろぉおおおおおおおお!!」 「――ぐぁっ!?」 ルパはシオンを殴り飛ばした。 何を言っても裏目に出てしまう。 他の方法を知らなかった。 「……ぐ……うぅ!」 「あ…………」 遥か後方まで吹き飛んだシオンの体は大木の幹に打ち付けられ、鈍い痛みに彼の表情が歪む。 それを見たルパの顔もまた同じくらいに歪んでいた。 「えっと……ルパは…………その…………」 「……大丈夫だ。わかってる。ここにはもう来ない」 一瞬遅れてやってきた罪悪感。 無抵抗の者に手をあげてしまった。 里の長としての、ガルムの戦士としての誇りを傷つける行為だ。 それはルパが初めて体験した感情だった。 ―― さらにさらにさらにさらに翌日 既に陽が傾き始めているというのに、今日はまだシオンの姿を見ていない。 手をあげられたことで、やっと理解したのだろうか。 ルパの訴えがシオンに通じたのであれば、それは里の長として正しい行いを成したはず。 里を脅かす脅威を未然に防いだのだから。 だが、ルパは釈然としなかった。 心の内に巣食っているモヤモヤはより大きなものになっている。 理由は明確。 シオンを殴った手の感触が未だに消えないのがその証拠だ。 彼のことを知りたいと考えていたはずが、どうしてこうなってしまったのか。 問題が一つ片付いたかと思えば、また新たに一つ。 「う~……!!まただ……頭がグチャグチャしてきたぞ……」 日々をこんなに頭を悩ませながら生きたことはなかった。 特訓し、魔物を狩り、月を眺め、肉を食い、眠る。 精一杯生きているつもりでいた自分の人生はなんだったのか。 「――えっ!?何で!?」 ふと感じるシオンの気配。 森の中には入ってきていない。 まだ随分と距離がある。 それにしても、痛い思いまでして、それでも懲りないのか。 「…………よぉし!」 ルパは駆ける。 このモヤモヤの原因がシオンならば、やはり彼自身をどうにかする必要があると思ったから。 もう一つ腑に落ちないことがある。 いくら察知しやすい類の気配とはいえ、里から森の外までの距離がいったいどれだけあるだろうか。 さしものルパとて、通常これほどまで遠方の気配を察知することはできないはず。 これではまるで、シオン自身がルパに呼びかけているような。 彼女にはそう思えた。 あっという間に森の外縁部の傍までやってきたルパは、足の速さを緩め、姿勢を低く、忍び足で縁まで近づいた。 木陰から森の外の様子を入念に確認し、エルフの気配がないかを探る。 これまでは森の中に入ってきたシオンを追い出すため、仕方なく接触してきたが、掟では森の外に出ることは禁止されており、その理由はエルフを含む他種族に自分たちの存在を知られないようにするためである。 シオンは、メルキスのエルフがガルムを攻撃することはないと保証した。 だが、それはあくまでもメルキスに害を及ぼさないことが前提。 森の外をうろつくガルムを目にすれば、メルキスのエルフたちがどういった判断をするかまではわからない。 メルキスと里を繋ぐ一直線上。 その上の森の境界線ギリギリのところにシオンの姿があった。 「…………」 周囲に気を払いつつ、シオンの挙動に目を光らせる。 一歩でも森に入ったら、今度はどうしてやろうか。 そんなことを考えながら、木陰から監視を続けたルパだが、時間がどれだけ経過してもシオンはそこを動こうとはしなかった。 「……………………」 シオンはただ森の奥を見つめ、何をするでもなくただ時を過ごすだけ。 「………………………………う……うずうずするぞ……」 気配を絶ちながら獲物を観察し続けるという行為は、狩りをする上では必ず経験するもの。 だが、観察対象がこうまで何もしないケースとなると、ルパとて経験はなく、気を見計らうこともせず仕掛けたい気持ちになってくる。 結局、月が昇った後、傾き始めるまで頑張って監視を続けてみたが、状況は何も変わらなかった。 シオンの気配は依然として強烈に発せられており、これであれば異変があったとしても里からすぐに察知できる。 そう判断したルパは、シオンに姿を見せないまま、里へと帰っていった。 ――さらにさらにさらにさらにさらに翌日 「ぐむぅ…………!」 里に帰り、ルパは寝床に入ったはずなのだが、太陽が昇ってもその目が閉じきることはなかった。 こうもシオンの気配を感じ続けていては、神経が落ち着かず、またも眠るに眠れなかったのである。 相変わらずシオンの気配は同じところから動いていない。 恐らく彼も眠っていないのではないだろうか。 それどころか、食事や水さえも口にしていないのではないか。 感じる気配は一晩通して全くぶれることがなかった。 そもそもシオンの目的は何だ。 話がしたいと言っていた気がする。 シオンが直接ルパの元を訪れようとすれば、森に入るなり話もせずに追い返される。 ならば自分の元へルパを呼び寄せることで、会話の機会を得ようとしているのではないか。 そう考えると妙に納得できた。 諦めたわけではない。 方法を変えただけ。 ルパは眠気で細っていた目を見開き、立ち上がった。 ――ドサッ!! おもむろに投げ置いた数匹の魔物。 ルパがここに来るまでに仕留めた獲物だ。 彼女が家を出て一刻程が経過した後、彼女はシオンの前に姿を現していた。 「食え!」 「やっと来てくれたか。いや、顔を出してくれたか」 シオンの目の前に転がる魔物の死骸。 そこから少し視線を上げ、ルパの足元を見ると、森の外には出てきていないことがわかる。 「掟なんだからな!ルパは森からは出ないぞ!」 「それでいいさ。十分だ」 「おまえがお腹空いて死んだら、いっぱい魔物が寄ってくる。それはダメだ。ルパが困る。だから食え!」 ルパが少しバツが悪そうにしていることを承知の上で、そこにあえて触れないシオン。 「そこまでわかってるのか……いや、ありがたい。いい加減腹が空いて我慢の限界だったんだ」 「おまえ、ずっとルパを待ってたのか?」 「あぁ。どこにいるかもわからない君が俺に気付けるように、あえて魔素を全力で垂れ流していた。おかげでクタクタだ……」 「そんなにルパとお話ししたかったのか?」 「そうだ。まずは君に感謝を。同胞を救ってくれたろ?」 「あれはたまたまだぞ!たまたま!!」 「それでも君のおかげで命を救われた者がいることは確かだ。ありがとう」 シオンが座したまま頭を深々と下げ、ルパに感謝の意を示す。 しかし、いくら取り付く島もなく追い返し続けたとはいえ、感謝の言葉を述べたいだけなら、これまで何度もチャンスはあったようにも思える。 まだ他にも理由があるのだろうか。 「それだけなのか?」 「いいや。他にも君に聞きたいことがたくさんあるんだ。君のことを知りたい。君がどこの誰で、何故こんなところにいるのかを」 あるにはあった。 だが、理由と呼ぶにはあまりに弱すぎるというか、些細過ぎる目的。 「…………本当にそれだけなのか?」 「それだけだが?ところで……この肉はどうさばけばいいんだ?」 「…………」 色んなことを覚悟してここまでやってきたことが馬鹿らしく思えてきた。 「んひひ!」 「聞こえているか?こいつのさばき方を教えて欲しいんだが……」 「端っこをサクッと切って、皮をビーッとやって、お腹をパカッとして、グログロを全部出して――」 「あー……大丈夫だ。よくわかった。他の魔物とかと変わらないんだな」 懐から小さなナイフを取り出すシオン。 それを見てもルパは微動だにしない。 自身に対して敵意がないことは今さら論じるまでもなくわかっているから。 それからは毎晩シオンの元を訪れることが新たな日課となったルパ。 初日にシオンのことを山のように聞き出し、彼の生い立ちや過去を知ったことで、ルパの中のモヤモヤは瞬く間に消え去った。 次に、ルパは自身のことを全て話した。 自身の立場のことも。 里のことも。 一族の過去のことも。 この行為は、里の者からみれば常軌を逸した行為といえる。 最も警戒すべき相手であるエルフに、自分たちの何もかもを晒してしまったのだから。 しかし、この時のルパにはその先の不安など微塵もなかった。 そもそも里の掟には直接触れていない。 シオンに会うときにしても、森の外に足を出すことだけはしないし、シオンを森に入れることもしない。 ルパは里の長として、掟を守ることだけは遵守し続けた。 とはいえ、危険であることはルパとて説明されるまでもなく承知している。 それでもなぜシオンに全てを打ち明けたのかと聞かれれば、彼女は笑って『シオンなら大丈夫』と答えるだろう。 数度顔を合わせただけの仲だというのに。 直感と言ってしまえばそれまでだが、ルパは心の底から信用できると思える何かをシオンに感じていた。 こうしてシオンは、ルパが初めて目にした森の外の者であり、ガルム以外の種族であり、そして初めて得た里の外の友人となった。 「そうか……君たちも大変だったんだな…………」 「エルフが森に入ってこないのは、その『せいいき』ってヤツだからなのか?」 「あぁ。聖域は古くからメルキスに伝わる伝承で、神秘の自然が溢れる妖精たちの楽園とされている」 「ようせい?モグモグしてるコイツらのことか?」 「これはただの魔物だよ……だが、こんなに多くの魔物が聖域の中に生息しているとは知らなかった。しかも、どれもこれも見たこともない種だ」 「ふーん……」 「良くも悪くも人の手が全く加えられていなかった森だからな。そのせいで他の森には存在しないような原生生物や、凶悪な種の魔物が多くいるんだろう。よくそんな森の中で生きてこれたな」 「ゴチャゴチャした話はわかんないけど、ルパはガルムの長なんだぞ!ちっちゃくても里で一番強いんだ!みんなも強いけどな!」 「住めば都か。君のパワフルさの所以がよくわかったよ」 「シオンも強いぞ?前にルパが思いっきりドーンしたのに元気だった。魔物なら一回でヘロヘロなんだぞ?」 「一瞬、気が遠のいたけどな……」 シオンから聞く話は、どれもこれもがルパの知らないものばかりで、彼女の見識とは異なるものだった。 森と外の境界線を挟む二人を中心に、世界がどんどん広がっていくような気がして、次第にルパの興味は森の外の世界へと向かっていった。 「ん?そういえば、俺のことシオンって呼んでくれるようになったんだな」 「シオンはもうルパの友達だからな。シオンもルパのことルパって呼んでもいいんだぞ?」 「ははっ……友達だもんな。名前で呼び合うのが普通だよな。一度怒られてるから気を付けてたんだが、無用な心配だったみたいだ」 「あの時はルパとシオンは友達じゃなかったからな!」 「はははっ!それもそうか」 「あー!そうだ!!紫の三日月のお話!!」 「紫の月?」 ガルムに伝わる言い伝えでは、『紫色の三日月の夜、新たな友との出会いがある』とある。 それは毎年、ある時期にだけ必ず月が紫色に染まる日があり、その日が三日月の晩と重なったときだけ見られる紫色の三日月。 いつ訪れるかもわからなかったあの夜、それは初めてルパとシオンが出会った夜。 つまりは、言い伝えは現実となり、今こうしてルパの目の前に存在していることになる。 「紫の三日月を見るとな、新しい友達に会えるんだって母ちゃんが言ってた!ルパとシオンが会った日が紫の三日月の日!ほら!!ほらぁ!!!!」 「真紫月(しんしづき)のことか。俺も詳しくはないけど、大気中の魔素が活性化して光の影響がどうとかって話だったかな……」 「しんしづき……紫色の月の名前か?」 「そうさ。ガルムにはそんな伝承があるんだな。ちなみにエルフには『不吉の前触れ』として伝わってるよ」 「不吉って知ってるぞ!なんか恐いヤツだ!」 「真紫月の晩は魔素が活発化しているから、いろんな植物や魔物に影響を与えることがあるんだ。俺とルパが出会った日、魔物が大量に発生してただろう?あれも真紫月が関係しているらしい。だからこそエルフのみんなは不吉なんて言うのかもな」 「シオンはすごいな……何でも知ってるんだな……!」 「そんなことないさ。俺も話に聞いただけで、詳しく研究してる人も大陸中にたくさんいる。俺なんかよりもそういう人の方がもっといろんなことを知ってるよ」 「でもでも、シオンとは会えたぞ?ガルムのお話も本当ってことなんじゃないのか!?」 「言い伝えは土地や種族によって変わるものだからな。でも、そんな話があるってことは、昔本当にあったことがお伽話として残っているのかもしれない。だからルパが聞いた話も嘘とは限らないさ」 「んひひひ!そうだな!!」 「………………」 「ん?どうしたんだ、シオン?」 先程までとは打って変わって、急にルパを見つめながら黙り込むシオン。 「お腹痛いのか?」 「ルパ……」 彼の表情はやけに改まった深刻そうなものだった。 「お薬か?薬草が近くにあるぞ!?」 そんなにも症状はひどいのだろうか。 ルパが慌てて森の奥に向かおうとした時だった。 「ルパ。森の外に出てみないか?」 「……え?」 突然の提案にルパは凍り付く。 シオンはルパの立場や一族の事情を全て知っている。 それは、ルパがどれだけ一族のことを想い、里の長としての立場を重んじているのかを知っているはず。 そのうえでこんな提案を持ち掛けた。 「何でだ……?シオン、ルパの友達なのに……!!」 悲しかった。 紆余曲折を経て、やっと友達になれたと思ったのに。 彼を信用して全てを話したのに。 自分が大切にしているものを軽んじられたことが、ただただ悲しかった。 「そうじゃない!最後まで聞いてくれ!」 涙ぐむルパの目の前まで駆け寄ると、真っ直ぐとルパの目を見て言葉を続けるシオン。 「このまま森の中に閉じこもったまま生きるのはやめるべきだ。ルパだけじゃない。里にいるルパの仲間みんなも!」 「でも……掟が…………」 「それはもう過去のものだ。ガルムが昔、人間から迫害を受けていたことは俺も知っている。でも、今の世界は違うぞ?」 「違う……?」 森の中に完全に閉じこもり、外界との接触を避けてきたため、ガルムの里の時間は止まったまま取り残されている。 ルパは妄信的に紫の三日月の言い伝えを、誠の話だと信じていたが、今では真紫月という名はほぼ一般的なものとなり、そのメカニズムまでもが少しずつ明らかになってきている。 同じく、ガルムが受けていた他種族からの迫害についても、今ではガルムという種が一定の立場を獲得し、そうした動きもほとんど見られなくなっている。 ルパたちが知らないだけで、世界は常に変化し続けているのだ。 「俺に全部任せてくれなんてことは言えないけど、ルパの力になれる人を知っている。その人の力があれば、ルパも、里のみんなも外の世界で自由に暮らせるようになるかもしれない!」 「みんなで外に……」 「ヴィレスって国を治めてるガルムの王様がいるんだ。その国では大勢のガルムが自由に楽しく暮らしてるらしい!」 ルパの心は揺れていた。 実際、シオンと接するようになってからというもの、今まで興味がなかったはずの外の世界に対する想いは強くなりつつある。 だが、意識下まで刷り込まれた里の掟がルパの心を締め上げる。 「俺もそうだ。メルキスで同胞たちに蔑まれ、堪らなくなって街を飛び出したから外の世界を知ることができた。だからこそ今の俺があるし、ルパとも出会えた。ルパもいろんな人に会って、いろんなことを知って、いろんなものを見よう!もっともっと多くの友達だってできるぞ!」 諦めずに訴え続けるシオンだが、ルパにはその必死さが理解できない。 だが、その必死さには確固たる理由があるように感じられた。 「掟を破るのは恐いと思う。森の外だって良いことばかりとは限らないかもしれない。それでも、知らないまま捨ててしまうのはもったいないと思わないか?不安なら俺が支えてやるし、傷つきそうになったら俺が守ってやる」 「うぅ……でも……」 「ルパはみんなを守りたいんだろう?森の中に閉じ込めておくことは守るとはいわないぞ?俺が里のみんなに話したって聞いてはもらえないだろうけど、ルパの言葉なら聞いてくれるはずだ」 「う……うぅ…………!」 「ルパのお爺さんやお父さんは必死にみんなの居場所を作ろうと努力した。その時はそれが精一杯だったのかもしれない。でも、ルパは新しい道を見つけて、歩み出す機会を得ることができたんだ。立場を継いだだけでいいのか?何かを変えようとは思わないか?ルパは里の長だろ?いつもの元気で踏み出してこい……!」 ルパは震えながらも、差し伸べられた手を掴み取った。 「が…………がぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」 その咆哮は、木々の間を駆け抜け、ガルムの里にまで響き渡る。 瞬間、ルパは境界線を越え、文字通り新しい一歩を踏み出したのだ。 その後、ルパはシオンを連れて里に戻った。 里の者たちは慌てふためき、シオンに刃を向けようとする者さえいたが、ルパがそうはさせなかった。 ルパはシオンと共に頭を下げ、これからの方針を語る。 ヴィレス国王ガレオスに会い、里の皆の居場所をもらえるように依頼してくると。 いくら説明したところで、確かに突拍子もない話。 最初は鼻で笑われたものだが、二人の訴えを聞くうちに、里の者たちの反応は徐々に変わっていく。 拒絶に染まっていた心は次第に興味に染まり、孤独を望んでいたはずの意思は自由を求めるように。 ルパとシオンによる説得は三日三晩続けられ、最終的には里の者全員に受け入れられた。 「シオン!王様ってどんな人だ!?長よりも偉いのか!?」 「王様みんなが立派な人とは限らないから、難しいな。ただ、これから会いに行くヴィレス王は、とても国民に慕われる素晴らしい王様って話だ」 「おぉ……楽しみだな!ルパたちのこと助けてくれるかな!?」 「大丈夫さ。ルパもある意味、小国の王みたいなものだからな。民を想う気持ちを無下にするような人じゃないはずさ」 「ルパが王様?ヴィレスにも王様……王様は一人じゃないとダメだから……ルパと王様が勝負?」 「頼むからそれだけはやめてくれ…………」 ガルムとエルフ。 種を超えた絆で結ばれた二人。 そんな彼らだからこそ起こせる奇跡もあるはず。 目標は獣境の村ヴィレス。 自分たちを信じ、里で待つ皆の未来を守るために。 二人はその想いを胸に、力強く地を蹴った。
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/501.html
+炎帝の魔神ガルスターク 「我…炎の化身…全てを…焼き尽くす…!!!」 赤々とした皮膚からは、触れることさえ許されない程の炎が吹き出す。 彼が踏み歩いた草は灰になり、樹木は燃え上がる。 他の者を寄せ付けない…その風貌はまさに魔神。 魔神は帝国の兵士に連れ去られた一人の少女を探し、北へ北へと歩を進めていた。 魔神がまだ人間だった頃の人格は、僅かに残る精神で炎の魔神から身体を取り返そうと、必死にもがく。 (それ以上破壊を繰り返しても何も得ることは出来ない!今すぐ俺の身体から出て行け!) 「フンッ!精神のみで…未だ足掻くとは…!黙って我の復活を見届けろ!」 (くそっ!どうして…こんなことになってしまったのだ……) ――数週間前 炎鉄都市イオの鍛冶職人の中でも、ひときわ体格の良い大男がいた。 彼の作る防具は鍛冶屋街でも指折りの名品と評判高く、遠くイエルの傭兵団からも発注がある程だった。 人柄も良い男は、街の人々から「ガルさん」と呼ばれ慕われていた。 その日も男は一人工房で肩当てを作成していた。 赤々とした鉄にハンマーを打ちつけては水に付け、邪魔にならず且つ強度の高いフォルムを目指す。 額の汗を拭って真剣な目で鉄の塊を見つめ頷くと、最後の仕上げに入った。 そんな工房を一人の少女が訪れる。 長い黒髪に赤いリボンをつけたまだ幼さの残る少女は、工房の入り口に立ったままジっと彼を見つめていた。 どうみても客ではないその風貌から、迷子か何かだと思った男は心配して声を掛けた。 「おや、お嬢ちゃん見ない顔だな。どうしたんだい?」 少女は表情を変えずにボソボソと返答をする。 「……おじさんはわたしを助けてくれる?」 「なんだ?ママとはぐれちまったのかい?どっから来たんだ?」 「ママは……いない……。だから……会いたい……」 少女の顔が少し歪んだような気がした。 入り口から工房の中に静かに歩いてくる少女。 何か訳ありのようだと、男は少女に近付く。 「お嬢ちゃん、名前は?」 「私はララノア。おじさんは…」 少女が話していると、男は身体が一瞬軽くなったような感覚を覚えた。 長い時間作業をし続けていた疲れが、その瞬間だけなくなったような不思議な感覚だった。 少女は言葉を続ける。 「もう……私の……」 その瞬間、地響きと共に工房が揺れ、外からとてつもない爆発音が聞こえた。 地震……いや、もっと何か、想像も出来ないような事が起こっていると、男は直感的に感じ外に飛び出す。 「っ……!!」 屋外に出ると肌を焼かれるような熱を感じる。辺りを見渡すと、街の象徴である火山が真っ赤に燃え上がり、そこら中に火の粉が飛び散っていた。 「こいつは……大変な事になった!!」 目の前の光景を理解した男は急いで振り返る。 「お嬢ちゃん、悪いが少しばかりここで待っててくれるか?俺は街のみんなを助けなきゃ……」 工房の中に少女の姿はなかった。 「確かにそこにいた筈なのに……ララノア?どこだい?」 辺りを見渡しても少女の姿はなく、霧のように消えて無くなってしまった。 何が何なのか分からず、唖然としているとまた外から爆発音が聞こえ、工房が大きく揺れた。 「くそぉっ……!!どうなってんだ!?」 今は最優先で住民の避難をしなければならない。 男は工房を背に街の路地を走り周りながら大声を出す。 「みんな無事か!?火山が噴火した!!!全員避難しろぉおお!」 声の出る限り叫ぶが、返事もなければ人の姿が一切ない。 もう避難をしたのだろうか……。 更に走り回ったが、普段賑やかな商店街にも、街の集会場にも人の影はなかった。 男は呼吸を整えながら足を止め、ふと火山の方に目をやると、火山の山道の入り口に人の影が見える。 その長い黒髪と体格から、あの少女以外に考えられなかった。 「ララノア!そっちは危ない!ダメだ!!」 言葉が届かないのか、少女は山道へと歩いて入っていく。 男は必死で追いかけるが、炎に包まれた建物の瓦礫が崩れ、道を阻まれる。 回り道をしながら死にもの狂いで走るが、少女に追いつく事ができない。 無我夢中で走り、火口まで辿り着いた所で、男は目を疑う。 火口から噴き出るマグマは巨大な炎の魔神となり、少女を見下ろしている。 普段であれば現実として受け入れる事が出来ない状況だが、そんなことを気にしていられる状態ではなかった。 「ララノア!逃げろ!」 炎の魔神は拳をあげて、少女に襲いかかる。 男は、腰にぶら下げていた鍛冶用のハンマーを手に取り、魔神に向かって跳びかかる。 そのまま魔神の身体を力任せに殴りつけた。 「グォオオオオオオオ!!!!」 魔神はよろけるが、すぐに体勢を立て直す。 男はこの魔神が天変地異を起こしている原因だと直感し、魔神を睨みつける。 「貴様の好きにはさせない!この街は俺が守る!ララノアにも指一本触れさせはしない!このガルスタークが相手をしてやる!!」 男は高く飛び上がり、男の2倍はある魔神の頭上からハンマーを渾身の力で振り抜く。 しかし、魔神はマグマの中から盾を取り出して男の攻撃を防ぎ、更に男を盾で殴りつけた。 ハンマーは遠くへ飛んでいき、男はものすごい勢いのまま壁に打ち付けられる。 「ぐあっ!畜生………なんの…これしき!!」 魔神はそのまま少女を狙い、盾を振り上げて少女に襲いかかる。 「させるかぁあああああ!!!」 男は燃えている魔神に素手で殴りかかった。 魔神は大きく怯み、体勢を崩す。 男は殴りかかった勢いのまま、更に魔神の手に蹴りを入れて、持っていた盾を振り落とさせる。 魔神の手から落ちた盾を手に取り、更に高くジャンプすると盾を上空に構え、魔神を睨みつける。 「これで終わりだ!!あるべき場所に帰れ!!」 魔神の頭に盾を振り下ろし、確かな手応えを感じた。 「グォオオオオオオオ!!!!」 魔神は火口に倒れていき、マグマの中に落ちる。 火口の崖に着地した男は、集中を切らさずマグマの底を睨む。 魔神はマグマの中で暴れるが、そのまま沈み、消えていった。 男はほっとして尻もちをついたが、少女の事を思い出して側に駆け寄る。 「怪我はないか?ララノア…」 少女に差し伸べた手は、ボロボロに焼けただれていた。 少女は泣きながら男の手を握り、声にならない声を出す。 「なんでそこまで……。今…私が…治して…あげるから……」 その時、火口から炎が吹き出し、少女に向けて降り注ぐ。 「危ない!伏せろ!!」 男は魔人から奪った盾を構え、少女を守る。 しかし、襲い来る炎を防ぎ切る事はできず、盾を回りこむように炎が男の身体を包み込み、そのまま男の中へと流れ込んだ。 そして、男はその場に倒れ、そのまま意識を失った。 男が意識を取り戻すと、慣れ親しんだ工房だった。 仰向けに寝ているが、身体が熱く、何かがおかしい。 自分の腕を見ると、あの魔神の腕そのものだった。 炎が吹き出し、熱せられた鉄のように赤々としていた。 「気がついた……?」 聞き覚えのある声の方向を見ると、あの少女が座っていた。 「ララ…ノア…無事……だった…か……」 少女は涙を浮かべている。 「ごめんね……私のせいで……」 男は少女の顔を見て、少しだけ安心した。 「ララノ…アの…せいでは…ない……泣くな…」 「違うの……私が…私が…」 大粒の涙を流す少女の背後から、多数の影が見えた。 どこかの兵士? 鎧を着た男達があっという間に泣いている少女を取り囲む。 「貴様ら…誰だ…!」 男は必死に身体を動かそうとするが、傷が深いのか起き上がる事さえできない。 兵士の一人が少女の顔を見て頷き、他の兵士に合図をする。 兵士達はそのまま少女を担ぎあげて工房の外に連れ去った。 男は薄れゆく意識の中、必死に少女の名を呼ぼうとするが、もはや声すらも出せずに闇の中に落ちていく。 男が意識を取り戻すと、街の郊外の草原にいた。 何か、身体がおかしい……思ったように動かせない。 そればかりか、自分の意識と関係なく身体が動いている。 (これはどういう事だ!?勝手に身体が…!?) 「騒々しい…誰だ…我の中で…叫ぶのは……?フン……なんだ……この身体の……“前の”主か……」 男の身体は、炎の魔神に乗っ取られていた。 今は魔神に話しかける事しかできない。 (貴様!どこに行くつもりだ!?) 「我を…邪魔する…あのガキを…始末する……。さすれば…この身体は完全に……我のモノだ……」 (なんだと!?ガキとは…ララノアの事か!?ララノアに手を出すな!あの子は何も悪くない!) 魔神はごうごうと燃えるその手を頭に当てる。 「この身体に……入る時…ガキが何かをした…許さぬ…。ヤツを殺せば…貴様も消えるだろう…グハハ!!」 あの時、あの火山で、死に際の魔神はその魂を男の身体に宿したとでも言うのだろうか。 しかし、男がそれを確かめる術はない。 魔神は歩みを進める。 男は何もできない自分に苛立つが、どんなに足掻こうが身体を制御する事はできなかった。 数日後、男が目覚めると目の前に帝国軍の兵士団が見えた。 魔人は兵士団へと真っ直ぐ歩いていく。 帝国兵達は突然現れた、魔人が何なのかまだ分からない様子で、警戒の色を見せている。 「なんだあいつは……!?魔物か……!?」 魔神は歩みを止めずにニタリと笑うと帝国兵達に問う。 「ガキを……連れて…行った…鎧……と同じ……。ガキは……どこだ……」 兵士は魔神に驚き、剣を抜く。 「なんだこいつ喋ったぞ……何を言っているんだ…??くそっ!全員構えろ!こいつを討つぞ!!」 剣や弓を構え、魔神に向かい襲い掛かった。 「大人しく差し出せば良いものを……ウォオオオオアアアア!!」 魔神は身体に力を入れ、赤く光ったと思うと大爆発を起こす。 「燃えろ……グォォオアアアア!!!!」 「うわぁああああああ!!!」 あたり一面が焼け野原となり、そこに立つのは魔神だけだった。 「ゴミ共が……我に……歯向かうとは……ガキは……どこだ……」 男はなんとかして状況を打開しようと考えたが、その惨劇をただ見ている事しか出来なかった。 魔神は“少女を探し、帝国軍を目の敵にする化物”として大陸の中で噂となった。 噂が広まってから数週間後、誰も近づく事のなかった魔神に、声をかけた妖精がいた。 「こんにちは!うわわ。噂通り、すごい人ですね」 「何だチビ…我に……殺されたいのか…?」 妖精は炎の魔神に向かい、物怖じせず会話を続ける。 「いやいやそんな…!私は敵ではないですよ!お兄さんが探しているのは、帝国軍に連れ去られた少女なんですよね?」 「いかにも…。貴様……何か知って…いるのか……?」 「その少女の情報はないのですが……帝国と敵対している勢力がありまして、そこの人と協力すれば帝国の事も詳しいんじゃないかと思いまして…革命軍という組織を紹介したいのです。一人で広い大陸を探すのは大変だと思いますし…よかったらお話だけでも聞いてみませんか?」 魔神はニヤリと笑う。 「面白い…チビだ……いいだろう……我の力…貸してやる……」 「そうこなくっちゃですね~!ではでは、早速ご案内しますね!」 妖精に連れられ、魔神は歩を進める。 +無垢なる氷壁シルティア 見上げるほどの巨大な氷の壁で囲まれた氷塞都市コルキド。 コルキドは都市国家のひとつであり、国王を頂く王権制を敷いている。 分厚くて堅牢な氷の壁はあらゆる攻撃を防ぎ、敵は攻撃の無意味さと極寒の環境に屈していく。 コルキドには三種の神器と呼ばれる武具が伝わっており、そのうちの一つは神器エーデルラインと名前がついた氷の盾であった。 その盾は、雪のように白く純真な心を持った人間のみが触ることが出来る。 代々の所有者は心映しの儀と呼ばれる儀式で選出されてきた。 心映しの儀が行われるキッカケは満月の夜、神器エーデルラインから始まる。 「こ、これは…王に知らせなければ!」 宝物殿を守る衛兵は王に報告するために慌ただしく走った。 神器エーデルラインを扱うに足る資格を持つ適合者が生まれると盾は淡く白い光を発する。 王宮に安置された神器は、適合者である子供が生まれた事を知らせた。 「ヴァ、ヴァーンフリート王!報告します!エーデルラインが淡い光を放ち始めました」 「なんだと?それは真か?」 「はい!しかとこの目で確認いたしました」 「そうか、では心映しの儀の準備をするよう司祭に伝えるのだ」 「は、ただちに!」 衛兵は王からの命令を司祭へ伝えるために慌しく走っていった。 翌日、コルキドで布告が出される。 『氷の盾、神器エーデルラインはコルキドで適合者が生まれたことを知らせた。これによって、次の新月の晩に王宮で心映しの儀を執り行う。昨日、生まれた赤子の親は、次の新月の日に必ず王宮へ来るように』 適合者を探す儀式は、すべての穢れが浄化された穢れ無き新たな月の夜。 つまり、盾が反応してから最初の新月の夜に“心映しの儀”を行い探さなければならない。 これはコルキドで昔から行われている伝統の儀式であった。 「準備は順調に進んでいるか?」 「これは、ヴァーンフリート王。このような場所まで…ご足労感謝いたします」 「よい、それよりも状況はどうなのだ?」 「は、祭壇の造営は滞りなく進んでおります。儀式はなんら問題なく行えるかと」 「そうか」 ヴァーンフリートと司祭は王宮の中庭に建てられた祭壇を見上げる。 「新月までもうすぐだな、適合者が見つかるとよいが…」 「御心配には及びますまい。すべては神器エーデルラインが導く事でしょう」 「うむ、そうだな」 造営は順調に進み、祭壇は完成を迎えた。 新月の夜まであと一日を残す。 其の頃、コルキドの街は心映しの儀の話でにわかに色めき立っていた。 適合者として盾に選ばれれば王宮での生活が待っているからだ。 「おい、ついに明日だな?いや~うちの子が選ばれたらと思うとドキドキするぜ。そういえばアンタんとこにも赤ちゃんいたよな?」 「はんッ!このやろ!うちの子はもう3ヶ月目だ!たく…知ってるくせに!」 「へっへ…すまねぇ、悪かったよ。そう怒るなって」 「まあ、選ばれれば将来は安泰だろうし。浮かれる気持ちはわからんでもないがな」 「王宮で暮らすようになれば、食いっぱぐれる事はないからな」 適合者と認められればその家族と共に王宮で仕えることとなる。 極寒の環境であるコルキドは生きていくだけでも大変である。 誰しもが王宮での豊かな生活を夢見るのも無理はなかった。 そして儀式当日…王宮の中庭には赤子を連れた十名程の人が集まる。 厳かな雰囲気の中で司祭の声が祭壇に響く。 「皆の者、よく集まった。今宵は神器エーデルラインが新たな所有者を選ぶ新月の夜。これより継承者選別の為“心映しの儀”を執り行う。順に赤子を連れて祭壇を登ってくるのだ」 司祭の号令を合図に“心映しの儀”が始められた。 集まった人々は赤子を腕の中に抱きながら、順番に祭壇を登る。 「この白く凍り付いた盾に触れた時、濁りが解け鏡のように触れたモノが映し出された時、その者が継承者となる。心して受けよ!」 最初の親子が司祭の前へと進み出る。 そして赤子の手を盾に触れさせる。 「ううむ、エーデルラインには何も変化が起こらんな。残念ながらこの子は適合者ではない。次の者、前へ進むがよい」 こうして次々と盾に触れては変化を見るが、一向に適合者は見つからなかった。 「次で最後か……この子の名は何と言う?」 最後に残った親子に司祭は名前を尋ねる。 「はい、シルティアと申します。司祭様」 だあだあと赤ん坊は司祭に向けて手を振っていた。 「シルティアか……悪くない名だな。そなたらで最後だ。適合者であってほしいものだが…さあ、エーデルラインに触れるがよい」 母親は赤ん坊の手を盾へと伸ばす。 そして、赤ん坊の手が盾に触れた時だった。 白く濁っていた盾は、手が触れた部分を中心に、まるで何かが溶けていくように澄み渡っていく。 どんどん透明感を増しては綺麗になっていく盾は、やがて赤ん坊の顔をはっきりと鏡のように映し出した。 「お…おお……なんという」 周りでは適合者が現れたと喜びの声が聞こえる中、司祭は言葉を飲み込んだ。 盾の変化が止まらずに続いていく。 一度、鏡のように赤ん坊を映していた盾の表面はさらに透き通りくっきりと向こう側が見えるほどになっていた。 前例のない事態に司祭をはじめとして、祭壇に集まった人々がざわざわと騒がしくなる。 「盾がこんなにも反応を示すとは…」 「これは一体どういうことだ?」 「この赤ん坊は本当に適合者なのか?」 場は一転して討議がなされた。 前例のない盾の反応から、本当に適合者として認めてよいのかと議論のやり取りが始まる。 「皆の者、静まるのだ!」 様子を見ていたヴァーンフリートが、皆を落ち着くようにと鎮める。 そして、祭壇上の司祭に向かって問いかけた。 「その子は適合者で間違いはないのだな?」 「はい…間違いはないでしょう。しかし、ここまでの反応が出るとは…。この赤ん坊はエーデルラインに選ばれた歴代の所有者を超える存在かもしれません」 「そうか、それでは緊急で協議を開く為この場を一旦解散とする!衛兵、シルティアとその母親を客間に案内せよ。追って沙汰を伝える」 「は!かしこまりました」 シルティアと母親は衛兵に王宮内の客室へと連れられて行く。 「司祭、今後の事を相談したい。関係者を集めてくれ」 「承知しました」 そして、程なくして王宮内の一室に王や司祭をはじめ、コルキドの長老や学者などが集まってきた。 「皆の者よく集まってくれた。話は聞いているだろうが、シルティアという赤子がエーデルラインに選ばれた。そして、今までに例のないほど強い力を秘めているようなのだ。これに対して何か意見はないか?」 一人の学者がすっと立ち上がり意見を述べる。 「王様、神器エーデルラインは心を映し、心の美しさを力へと変える盾。恐らくシルティアの心は穢れがまったくないのでしょう」 コルキドで長老と呼ばれる老人が席を立つ。 「純粋すぎるガラスのような魂は汚しちゃならん!穢れじゃ!穢れから守るのじゃ!」 長老は激しくまくしたてる。 「長老…落ち着いてください。」 その様子を見た司祭も口を開いた。 「確かに穢れから守るというのは一理あります。力を失ってからでは手遅れでしょう」 「そ、その通りじゃ!手遅れにしちゃいかんのじゃ!穢れから守るのじゃ!!」 長老の言葉はさらに激しさを増していく。 「王様、如何でしょうか?シルティアを穢れから守るために隔離した環境を用意するというのは?」 学者が提案すると司祭もその案に相槌をうつ。 「なるほど、それならば力を失う心配はなくなりますね。私もその案に賛成致します」 ややあって、目をつむって考え込んでいた王が口を開いた。 「シルティアを我が王宮で徹底管理の元に育てることにする!」 衛兵が呼ばれ客室にいる母親に協議の結果が伝えられる。 最初は驚いていた母親だったが、後に姿を見せた司祭にコルキドの為だと諭され、泣く泣く了承する。 そして、シルティアは母親から引き離されコルキドの王宮で育てられる事となる。 ――数年後 シルティアは王宮で徹底された管理の元に穢れと考えられるもの全てから隔離された。 身の回りの世話は王宮に務める女中が手伝い、異性との接触がないように細心の注意をもって育てられた。 それは、異性との関わりは穢れを生んで純真な心を傷つけてしまうと考えられた為であった。 シルティアが物心ついた頃から施設での教育が始まる。 武術や魔法の勉強、純粋な心を穢さないように美しい童話だけを与えられた。 武術は清く正しい心構えとコルキドの盾として戦える力を、魔法は回復魔法や身を護る防御魔法を中心に教えられていく。 シルティアが娯楽として与えられた童話は王宮の者達が内容を厳選していた。 それは、誰も死なないし誰もが幸せな物語であった。 「ねぇ、この本読んでー?字が難しいのー」 シルティアは本を持って女中のエプロンを引っ張ってせがむ。 「はいはい、よろしいですよ…あれまぁ!?シルティア様、いつもの童話はどうしたのです?これはシルティア様の読むものではありませんよ!」 シルティアの持ってきた本を見て女中は驚く。 「えー…そうなのぉ?」 納得できない様子でシルティアは不満気な顔を見せる。 「ええ、あちらで童話の本を読みましょうね!そうそう…シルティア様、この本はどこから持ってきたのですか?」 シルティアは不満げだったが、黙って台所のテーブルを指差す。 女中は本を取り上げてからシルティアを読書室へと連れて行く。 後に台所のテーブルに本を置いていた者が見つかり、厳しい処分を受けていた。 シルティアは育つに連れて夢を見るようになる。 いつか童話のように白馬に乗った王子様が自分を迎えに来ると。 そして、穢れを知らずに清く純粋な魂のまま育ったシルティアが盾の正式な所有者となる日が来た。 「シルティアよ、さあ神器エーデルラインをその手に取るがいい」 司祭に促されて祭壇から盾を手に取る。 パァアッと盾が輝き、白く濁った部分は無色透明に透き通っていく。 司祭はその様子に満足しながら両手を高く掲げる。 「皆の者、祝福の声をシルティアに!ここに新たなコルキドの盾が誕生したことを宣言する!」 ワァアーッと歓声が上がる。 その日からシルティアはコルキドを護る最強の盾としての活動を始めた。 “コルキドの盾”とは名誉ある称号であり、コルキドを護る使命を帯びている。 そして、シルティアは兵士と共に街へ押し寄せる魔物と戦う事となっていく。 初めての戦闘。 初めての魔物との対峙。 魔物は人を襲う危険な生き物で、決して相容れるものではないとシルティアは教えられていた。 しかし、美しい童話を読んで育ったシルティアには分からなかった。 「なんで同じ生き物なのに手を取り合うことができないのでしょうか…」 自分の目の前で傷ついていく兵士や魔物達を見たシルティアは、お互いに傷つかないように戦いを収める方法を考える。 そして、次の戦闘が行われた時だった。 「まったく次から次へとキリがないな!」 「本当だよなー、一体どっから湧いてきてるんだか…」 防寒具をまとった二人の兵士が顔を見合わせて話しをしている。 兵士は魔物達の動向を見張るのが役目であった。 視界に映るのは集結する魔物の群れ。 「奴ら、そろそろ行動を起こしそうだな…狼煙をあげるか」 「ま、待て!あれはシルティアじゃないのか!?」 一人が大声を上げる。 兵士が目にしたものは盾を掲げて魔物の群れに突っ込むシルティアの姿だった。 「無茶だ!急いで狼煙を上げろ!シルティア様に何かあったらまずいことになるぞ!」 兵士の一人が慌てて火を起こし始める。 「あ!おい!あれを見てみろ!」 突然、魔物の群れの前に猛吹雪が巻き起こる。 荒れ狂う猛吹雪の前に魔物達は怯えはじめ、一体、また一体と退散していく。 そして、最後の魔物がいなくなると同時に吹雪は止んだ。 晴れた後にはシルティアがその場にただ一人立ち尽くしていた。 「ま、マジかよ…こいつはすげぇ!」 一部始終を見ていた二人の兵士は感嘆の声を上げる。 シルティアが魔物の群れに前に立ち、盾を構えると同時に猛吹雪が巻き起こる。 それはまさしく神器エーデルラインの力であった。 この日を境に魔物は鳴りを潜める。 この事は人間、魔物共に死傷者なく戦いを終わらせた事として、瞬く間にコルキド中の噂となった。 シルティアは、その実績と魔物すら傷つけないという優しさでコルキドの人々から厚く信頼される。 「あ、ママ!シルティア様だよ!わーい、シルティア様ー!」 ぶんぶんと子供がシルティアに声をかけては手を振っている。 人気の高いシルティアが街に姿を見せると、人々はコルキドの盾を一目見ようと集まって来ていた。 ある日の事だった。 今日もシルティアの周りには人だかりができている。 沢山の人々に囲まれる中で、一人の男が前に進み出てきた。 「君みたいな綺麗な人がコルキド最強の盾なんて!!ボクのハートは君の虜だよ!是非握手させてくれ!」 返事を聞くよりも先に男はシルティアの手を握っていた。 そして、手を握られて変な汗をかきだすシルティア。 「へっぁっ!?あ、あの!その!えーっと……」 シルティアが男に何かを言おうとするが、男は満足したかのように手を振りながら人混みへと消えていった。 シルティアは男に握られた手をジッと見てみる。 今は変な汗も引いているようだった。 その後、同じように女性にも手を握られるが変化はない。 「さっきのは何だったのでしょうか…?」 コルキドの兵士たちはシルティアに対してうやうやしい態度で接する。 ずっと女性に囲まれて育ったシルティア…その為、先ほどの握手が異性と触れた初めての瞬間だった。 平穏な日々が続いていた。 あれ以来、魔物もコルキドを襲うことはなくなっていた。 だが、静かな日々は長くは続かない。 コルキド近辺に帝国軍が駐屯していた時の事。 シルティアは陣を歩きながら沢山の帝国兵達を珍しそうに見ていた。 「なあ、次の進軍先聞いたか?」 「いや、まだ指令はきてないから決まってないんじゃないか?この戦争は負けるわけにはいかないからな。お偉いさん方も慎重に軍議しているんだろう」 「それもそうだな…沢山の人が死んでるもんな。あーあ、早くこんな殺し合いみたいな戦争終わらせて欲しいよ」 「おい、滅多なこと言うもんじゃないぞ。こんなん聞かれたら俺もお前も懲罰もんだ」 「す、すまねえ」 二人の帝国兵の雑談だろう。 その会話のやり取りをシルティアは耳にする。 …センソウ? 沢山の人が死ぬ…コロシアウ? 聞いたこともない単語だったが、ただひとつ“沢山の人が死ぬ”という、この言葉の意味だけははっきりと理解できた。 そして、気になったシルティアは帝国兵達の側まで駆け寄り質問をぶつけた。 「あ……あの、少し聞きたいことが…あるんですが、先ほど言ってた…セ、センソウとかコロシアイとは…ど、どういう意味なのですか?な、なぜ沢山の人が…し、死ななければならないのでしょう」 目も合わせずに、どもりながら質問を投げかける。 いきなり現れた少女に帝国兵たちはきょとんと顔を見合わせたが一人が口を開いた。 「見たとこ…お前さん、コルキドの盾だよな?こんな少女だと思わなかったが…お嬢ちゃんはそんな事も知らねぇのかぁ?」 帝国兵はシルティアに戦争について講義を始めた。 戦争とは人々が互いの正義を押し付けあうこと。 それによって殺し合いが始まり、沢山の人がお互いを傷つけ合っては死んでいく。 「例えばだな…この剣。こいつは人を殺すための道具だろう?」 帝国兵は腰に携えた剣をスラッと抜いてシルティアに見せる。 「それに、お嬢ちゃんの持ってる盾だって、武器にもなるし使い方によっちゃあ、人も殺せるだろう?」 「え、え……」 シルティアは大きなショックを受ける。 今までそんな風に思ったことがなかったからだ。 神器エーデルラインを持つ者はコルキド最強の盾となる。 一度も、武器としてこの盾が人を傷つけるなどとは思ってもみなかった。 そして、純粋に『何も知らずに』言われたことだけをしていた自分が急に嫌になる。 もしかしたら、何の罪もない人や魔物の命を一歩間違えれば奪う事になっていたのかもしれない。 「私は世の中の事、何も知らなかったんですね…」 そう考え始めた瞬間、穢れがシルティアの心に少しだけ広がる。 途端に盾は濁り始め、透明度がだんだんとなくなっていく。 自分が魔物達にしてきた事でさえ、いけない事だったのではないだろうか? シルティアがそう思い始めると同時に持っていた盾は凍りつき始める。 「エーデルライン……」 盾がシルティアの心情を表したかのようだった。 凍りついた盾はそのまま氷に包まれていき持つことすら出来なくなる。 『雪のように白く純真な心を持った人間のみが触ることが出来る』 シルティアはエーデルラインに伝わる言い伝えを思い出す。 そして、盾は王宮の一室に安置される事となる。 幸いな事に今までの功績からシルティアが王宮を追い出されるような事はなかった。 「シルティア、何か迷いがあるようですね。穢れがなくなれば、また盾を扱うことが出来るようになるはずですよ」 事情を聞いた司祭も穢れがなくなれば、また、盾を扱えるようになるとシルティアを励ます 「エーデルラインは代々の所有者の意志が宿っております。時期が来るまで…穢れがなくなるまで…今は休む事です」 司祭の言葉にシルティアは、はいと小さく頷いた。 盾を持つことが出来なくなってから数日が経ち、シルティアは塞ぎ込んでしまっていた。 そんな時だった、息を切らしたコルキドの兵士が王宮に駆け込んでくる。 「ハァ、ハァ…た、大変です!そ、外に!コ、コルキド目指して大量のアンデットの集団が迫ってきています!!」 「え…そ、それは間違いないのですか!?」 兵士からの報告を受けシルティアは慌ててベランダから王宮の外を窺う。 既に数体のアンデッドが街に入りこんでおり、ただならぬ雰囲気と穢れた死の匂いが街を包み込もうとしていた。 街の住民はただただ怯えている様子だ。 「なんていうことなのでしょう…」 シルティアは呟くと同時に神器エーデルラインが保管されている部屋へと走る。 「わ、私が何とかしなければ…コルキドの盾として…!」 住民を護ることしか頭にない。 盾を持てなくなったという事実は忘れていた。 シルティアは部屋に着くとエーデルラインが安置されているのを確認する。 盾は冷気を纏い、真っ白に凍りついた状態で、静かに…誰も近づけない様子だった。 盾にそっと手を触れる。 表面から微かに濁りが解けた。 そして、霞んだ鏡のようになった盾にシルティアの姿が映る。 「皆を護りたい…でも、この力で誰かを傷つけてしまうかもしれない…」 強力な力を持つ神器エーデルライン。 シルティアはその力を使うことで誰かを傷つけてしまう事に深い葛藤を抱く。 「貴女にとって穢れとは…何ですか?」 突然、盾に映ったシルティアの姿が、シルティアに語りかけ始めた。 「え……」 盾は淡い光を放ち鏡面に映し出されたシルティアの姿がシルティアに問う。 「貴女にとって穢れとは…何ですか?」 シルティアの姿は同じ質問を繰り返す。 「け、穢れとは……」 シルティアは戸惑っていた。 盾に映る自分の姿はどんな答えを求めているのか?これはエーデルラインの心?色々な考えが脳裏に浮かんでは消えていく。 「穢れを知らぬ者は、純真であるとは言えません。穢れを知っているからこそ、純真であり続けられる。貴女にとって穢れとは何ですか?」 盾に映ったシルティアの姿は質問を繰り返す。 シルティアはその言葉の意味を考える。 「私は…穢れとは人を故意に傷つけ、不必要な苦痛を与える事だと思います」 盾の中のシルティアは更に質問を続ける。 「では、穢れはどうすればなくせると思いますか?」 「護ってあげることが出来れば……」 そこまで言ってからシルティアはハッとした。 私は誰かを傷つける事を恐れていた…けど、それを理由に恐れていては何も護れない。 戦争、殺し合い、穢れは至る所にある。 私は弱き者や大切な人を護るための盾になりたい。 シルティアはひとつの答えを導き出した。 「私が護って…その穢れを受け止めます!弱き者や大切な人、私が人々を護るための盾になります!」 一瞬、パァアッと盾が輝く。 そして、盾に映ったシルティアの姿はにっこりと微笑みながら透き通っていった。 「我が名はエーデルライン。所有者の心を映し、その美しさを力に変える盾。先人達の意志は、貴女を真の所有者として認めます。貴女の御心はきっと多くの者を救うでしょう」 盾の濁りが晴れて表面が美しく透き通る。 シルティアはぎゅっと盾を掴んでみる。 この盾を受け継いできた先人達の意志を強く感じる…。 「同じだったんですね…悩んで悩んで、悩み抜いて決心したのですね」 シルティアは決意を固め、盾を持ってコルキドの外へ向かって駆け出す。 コルキドの兵士達は街に入り込んでいたアンデット達と交戦していた。 その後に続くアンデット達の姿はなく、兵士達がよく食い止めてくれているようだった。 コルキドの街門に差し掛かる頃、激しい剣戟(けんげき)の音が耳に入ってくる。 街壁前ではアンデットの群れとコルキド兵達は激戦を繰り広げていた。 どの兵士も必死の形相で踏ん張っているが、兵士達の顔には疲労の色が濃い。 そして、数体のアンデッドが兵士の一角を突破する。 一箇所でおきた綻びは全体の陣形の乱れを起こし、アンデット達は我先にと街壁へと迫っていく。 「ええいっ!持ち場を離れるな!踏ん張れ!」 指揮官が声を張り上げて励ます。 しかしアンデッドは数を増やし続け、奇怪な声と音が除々に大きくなっていく。 そのあまりに不気味な音に、兵士達の士気は落ちていくようだった。 「く、くっそぉ…コルキドが魔物なんかに負けるかぁっ!」 兵士達は奮戦するが、その顔には悲壮感が漂っていた。 コルキド陥落…その言葉が頭に浮かんではかき消していく。 「ゴッ!?グガアアッッ!」 突然ドーン!と大きな音を立てて城壁に取り付いていたアンデッドの数体が地上まで落とされる。 「な、なんだ?一体どうしたんだ?」 一人の兵士が街壁の上に視線をやる。 そこには神器エーデルラインを構えた一人の少女…コルキドの盾であるシルティアが立っていた。 「シ…シルティア!?盾は使えなくなったのでは…」 兵士はシルティアの姿に驚く。 「皆さん!諦めてはいけませんっ!!」 空に向かって大きく盾を構えたシルティアは短い助走をつけ、街壁から一気にアンデット達の群れに向かってダイブする。 そして、全身全霊の力で盾を地面に突き刺した。 「私は迷いません!無垢なる氷壁の意志達よ…私に力をッ!」 盾は光を放ち、あたりに吹雪が巻き起こる。 「エーデルラインッ!」 シルティアは盾からシールドを張りその場にいた兵士達を守る。 そして、巻き起こった吹雪は段々と勢いと激しさを増していく。 あたり一帯は一切の視界がなくなるほどの猛吹雪と化していた。 数十分後、吹雪は勢いが弱まっていき辺りが晴れ渡っていく。 アンデット達の姿は一切なかった。 周囲にはアンデット達の物であろう壊れた武器、そして氷の破片が落ちていた。 「か、勝ったのか?や、やったー!」 「うぉおお!コルキドの盾の力を見たかっ!俺達の勝利だー!」 戦場のそこかしこで歓喜の声がドッと沸く。 兵士達はシルティアに駆け寄っては感謝の念を伝える。 照れているのだろうか、そこには顔を真っ赤にするシルティアの姿があった。 シルティアはアンデット達を追い払った事を報告する為に王宮へと帰還する。 「カニコフ王、街を脅かしていたアンデット達を追い払う事に成功しました」 「おお、よくやったぞ!さすがは我がコルキド最強の盾だな!はっはっは、よい気分じゃ。苦しゅうない。これからも我がコルキドの為に……」 「あのっ!お言葉ですが……」 王の話を遮ってシルティアが意を決したかのように話をする。 「カニコフ様が…王の代理になってから帝国の蛮行が目立つようになったと…街の人から私は聞きました」 「シ、シルティア…?」 王は焦りの表情を見せる。 「カニコフ様。いや、コルキド王!私は帝国の蛮行を止めるために旅に出ようと思っています」 シルティアはスゥーと息を吸い込んでから言葉を続ける。 「私はこの盾に宿る所有者達の意志と約束をしました。弱き者達を護ると。今、大陸では戦争が起きていて、多くの人が傷つき、殺し合っていると聞きました。私はこの争いを止めます。例えそれがどんなに愚かだとしても、それが私の意志です。私は…やっと自分が生まれて来た意味が分かった気がするのです」 そういうと唖然とする王を背中にシルティアは王宮を後にした。 シルティアが去るという報を聞き、続々と住民が訪ねてきては名残惜しそうに別れの言葉をかけられる。 中には引き留めにかかる者もいたが、シルティアの強固な意志の前は変えられなかった。 ――この戦争を止める コルキドの街を出発しようとすると住民達が列をつくるようにシルティアを見送りにきていた。 以前、シルティアに握手を求めた男も姿を見せていた。 「本当に出て行ってしまうんですね……とても残念です!必ずコルキドに帰ってきてくださいね!コルキドの住民は誰もがシルティア様の帰りを待っています!」 前よりも一層強く手を握って握手をする男。 「!!!あ、は、はい!あ、あありがとうございます。必ずコルキドにこの盾と共に帰りますから、そ、その手を……」 シルティアは手を振り切り慌てて出発した。 永久凍土である山を降り、絵本でしか見た事のなかった雪や氷のない緑の森を見てシルティアは感動を覚えた。 だが、コルキドから一番近い街のシャムールへ辿り着くかの頃…シルティアは周囲からただならぬ気配を感じる。 盾を構え周囲を見渡す…すると、真っ黒な出で立ちをした男がシルティアの前に姿を現す。 男は全身にドクロを纏い、多くの穢れと死を間近においているように感じていた。 「ヒヒヒヒ……お前が、コルキド最強の盾か!あぁ!なんと美しいいい!」 男は不気味な笑い声を上げながらシルティアに話しかける。 「だ、誰ですか!?私を知っているのですか?」 「あぁ…我はずうぅっと、ヒヒッお前を見ていたぁ。その無色透明な魂……そして盾!」 「そ、そうなんですね。あ、あの、そ、そんなにじろじろ見ないでください!」 「ヒヒヒ……1度でいい。その盾に触れさせてくれぇ……我が触ったらどうなるのか知りたいのだ」 男はシルティアの持つ盾に目をやって近寄ってくる。 「あ、あなたからは良くないものを感じます……そそ、そ、そんな人にこの盾を触らせるわけには……!」 後ずさりながらシルティアは威勢を張ろうとするが、男はお構い無し一気に距離を詰める。 「ならば、お前を直接触らせてくれ……ヒヒヒッその美しい魂に触れてみたいのだ!」 男はシルティアに手を伸ばそうとした時だった。 「そ、そそそそんな汚らわしい(穢らわしい)事できません!」 シルティアは顔を真っ赤にして地面に盾を突き立てる。 そして、瞬時に周囲には吹雪が巻き起こった。 だが、男は吹雪にも動じなかった。 「ヒヒヒヒッ!素晴らしい!こんなにも力が!!やはりその魂、我の手中に収めたい。お前が欲しいぞ!!」 男は不気味な笑い声を上げながら興奮気味に喋る。 「――――!!!!!!!!」 シルティアは得体の知れない男とその言動にパニック状態に陥ってしまう。 「うぅぅうういやぁぁぁああああああっ!!!!」 突然、シルティアは大声を張り上げた。 そして、地面に刺した盾に力をいれ、男との間に壁を作っては一気に駆けて逃げ出す。 シルティアは初めての事にパニックになりながらも男は絶対に穢れの塊、触れてはならない存在だと顔を真っ赤にし、涙目になりながらも全力で走り去った。 「ヒヒヒっ!どこまで逃げようと無駄だ!我が名はザラムゴール!お前を!必ず手中に収める!ずっと視ているからなぁ!ヒヒヒヒヒヒッ!!!」 男は去るシルティアを遠目に見ながら不気味な高笑いをあげていた。 +冒険望む精霊の風クラッズ 商業都市イエルの東側にある貴族街。 気品のある屋敷の一つが、レノール家の屋敷だった。 他の貴族に比べれば弱小家門のレノール家。 家長のレノール伯は、仕事では部下を使わずに自らの足を使う主義であった為、忙しい毎日を送っている。 その影響で市民に顔が広く知られており、貴族の中では評判の高い男だった。 家を任されていた妻は、メイドと共に長男クラッズを大事に育てる。 クラッズは母やメイドに甘やかされながらすくすくと育つ。 中々会えない父がたまに帰ってくると、クラッズはその日あった事や、母が読んでくれた絵本の話を、休むことなく話し続けた。 父はクラッズの話を半分聞き流しつつも、自分の後継者として育てようと考えていた。 そんな父親の考えは知らずに、クラッズは好奇心旺盛な子どもに育っていく。 5歳になると、母が読んで聞かせてくれた冒険者の本の主人公に憧れ、自分も冒険者になる事を夢見る 一人街に出ては何か事件はないかと探しまわる。 商店街を歩き、周りの人達に話しかける。 「おっちゃん!何か困った事はない!?何でも言ってよ!俺がなんでも解決するよ!」 果物の露天を出す中年男性は、笑いながらかわいい常連さんに手を振る。 「はっはっは!!レノール伯の坊主か!今日も元気だな!今は何もないから、何か困った時にまた頼むよ!」 手を振り返したクラッズはそのまま街を散策する。 今まで入った事のない路地に入り、薄暗い道を進む。 ふと、更に狭い横の路地から声が聞こえてきた。 「お嬢ちゃん!悪いようにはしねぇからよ、お兄さん達と遊んでくれよ~」 クラッズが路地を覗くと、燃えるような深紅の髪が目に止まる。 赤髪の持ち主は小さな女の子…その周りにはチンピラのような男が3人。 「お嬢ちゃんお家はどこだい?お父さんはお金持ち?俺達に協力してくれたら、美味しいおやつをあげるよ?」 見ていられなくなったクラッズは、その路地に走って突っ込む。 「お前ら、女の子をイジめんなぁあああああ!!」 全力で男達に向かって走り、男の一人に渾身の飛蹴りを入れる。 男は吹っ飛び、道に派手に転んだ。 「大丈夫か!?こっちだ!逃げようぜ!」 赤髪の少女の手を取り、逃げようとするが男達に腕を掴まれる。 そのまま持ち上げられて壁に叩きつけられた。 「ヒーローごっこか?ガキが調子乗ってんじゃねぇぞ?」 「あの子困ってるじゃんか!お前らみたいな悪いやつ……」 クラッズの腹部を殴りつける男。 ゲホッっと咳き込みしゃがみ込むクラッズに、容赦なく蹴りを見舞う。 「おい!どうした!?この子を助けてぇんだろ!?」 クラッズは口から血を出しながら薄目を開けて赤髪の少女を見ると、いつの間にか姿を消していた。 (良かった…助けられた…) 初めて絵本の中の冒険者のように人を助ける事ができたと、嬉しさがこみ上げた所で大きな声が響く。 「てめぇら何やってんだ!!」 駆けつけてきたのは、角材や包丁を持った商店街の男達だった。 「やべぇ、逃げるぞ!」 3人組は反対方向に走って逃げていく。 倒れたクラッズの元に商店街の男達が駆け寄った。 「坊主大丈夫か!?おーい!連れていくから道開けろ!」 果物屋の男に背負われたクラッズは、そのまま商店街まで連れて行かれた。 氷が入った袋を顔に当てられると、痛みが走る。 クラッズは赤髪の少女の事が気になった。 「おっちゃん…女の子は…どうした?」 「おう、そこにいるぞ。坊主がやばいって俺達に声かけてくれたんだ。この子を助けたんだってな!お手柄だぞ坊主!」 腫れた目を見開いて辺りを見渡すと、少し離れた場所から赤髪の少女は心配そうにクラッズを見ていた。 クラッズは起き上がり、痛む足を我慢しながら赤髪の少女の方に歩いて行く。 「カッコ悪いところ見せちゃったな…みんなを呼んでくれてありがとう」 笑顔を見せて手を出し握手を求める。 赤髪の少女は一瞬驚いたような顔を見せた後、目に涙を溜めながらその手を握り返した。 「私の方こそありがとう。沢山怪我させちゃって、ごめんね」 「お前、なんで泣いてるんだ?どっか怪我したのか?」 「大丈夫…そうじゃないから…」 「良かった!俺も全然平気だから!気にしなくていいぜ!」 笑顔を見せるが、その視界に突然地面が映りこむ。 「うわぁあああ!」 後ろから果物屋の男に腰を掴まれて抱えられたクラッズは、足をバタバタとさせて暴れる。 「なにが平気だよ!ボロボロになりやがって。家に連れてってやるから大人しくしてろ。レノール伯…いや、お前の父ちゃんにも俺から説明してやるから」 「離せよ!おい!」 そのまま肩に乗せられて、後ろ向きに貴族街に連れて行かれるクラッズ。 赤髪の少女は手を振ってクラッズを見送る。 「本当にありがとう!」 クラッズは身体を起こして、大きな男の背中から手を振り返す。 「もう変な男に捕まったりするんじゃねーぞー!」 クラッズを見て顔面蒼白の母は、すぐに手当を始める。 果物屋の男は経緯を説明した後、もう少し早く気が付ければと深く頭を下げる。 クラッズの母は助けてくれた事で充分だと礼を返した。 屋敷のメイドに包帯だらけにされたクラッズは、ベッドに寝かせられて額に氷を付けられてる。 初めて、お話の中の冒険者のように強敵に立ち向かい、人助けが出来た。 怖さと嬉しさが混ざり合ったような不思議な興奮が冷めずに、クラッズは眠れない夜を過ごす。 『冒険者になる』 心の中で強く決心した。 (あんなチンピラに負けているようじゃダメだ…俺はもっと強くなる!) 次の日から身体を鍛え始めた。 屋敷の庭で走り回り、木に登っては飛び降りて、はたから見れば子どもが遊んでいるようにしか見えないかもしれないが、クラッズは強くなる為に無我夢中だった。 ふぅ…と額の汗を拭い、庭に置いてあるテーブルの上に水の入ったコップを見つけて飲み干す。 どうやら母も応援してくれているようだった。 一層気合が入ったクラッズは、また走りだす。 ――数週間後 屋敷の門にメイドが並び頭を下げると、その横をレノール伯に続き果物屋の男が歩く。 数日振りに帰ってきた父親の顔は険しく、何か問題が出ているのだろうとクラッズは直感する。 父が屋敷に入るのを確認すると、裏口から先回りして父の書斎の隣の部屋である物置に身を潜めた。 父が入ってくると、果物屋の男を招きいれる。 「では、詳しく教えてくれるか」 果物屋の男はクラッズに接している時とは違い、真面目な顔で報告をしている。 「巷で噂になっている山賊の件ですが、行商人が被害にあっておりまして、我々商人の元に品が届かない事がしばしばありまして…特に被害がひどいのは宝石商と武器商です」 「その山賊の隠れ家は分かっているのか?」 「それが…見た者によれば北東の山に帰っていくようですが、詳しい場所までは分かっていないようです」 「なるほど…。傭兵団に相談しても良いが…時間が掛かるやもしれん。こちらでもできるだけ調査はしよう」 「ありがとうございます」 クラッズは直ぐに身支度を整えて家を出た。 北東の山と言えば、クレアシオンの森の奥。 見つけられるかは分からない。 山賊の住処を見つけられたとして、自分に何ができるのかも分からない。 それでも何もせずにはいられなかった。 クレアシオンの森を抜けて、獣道を進んで山の奥へ奥へと進んでいく。 日が落ち始め、辺りが暗くなってきたがクラッズは引き返そうとは少しも思わなかった。 やがて、木々の隙間から山小屋が見えてきた。 人の気配はない。 クラッズは慎重に山小屋に近付いて、窓から中の様子を確認するが、やはり中には人がいそうにない。 ドアには鍵が掛かっておらず、侵入する事に成功した。 中の部屋へと進んでいくと、盗まれたと聞いた宝石や武器が山のように積まれていた。 その光景に、間違いなく山賊のアジトだと確信したクラッズは、他に何か情報はないかと山小屋の中を物色する。 しかし、遠くから人の声が聞こえてくる。 とっさに奥の部屋に逃げ込み、最初に目についた大きな盾の影に隠れて物音を立てないようにジッと待つ。 ドアの開く音がして、足音と共に男の声が聞こえてきた。 「はぁ~今日はなんだったんだ?ガセネタ流されたのか?」 「いつもは積み荷の中身までバッチリなのにな…まさか行商人が感づいて直前でルートを変えたか……」 「いや、そんな筈はねぇ!今までは直前に予定を変えたって情報もあっただろ」 どうやら、山賊達に情報を流している者がいるらしい。 クラッズは、山賊達の会話を頭の中で復唱しながら、必死に内容を覚えようとしていた。 その時、クラッズの隠れている部屋のドアが開く音がする。 「もう信じねぇ方がいいんじゃねぇのか?この盾が本当にすげぇ一品なのか分からねぇし…」 山賊達は、乱暴に持っていた武器を部屋の中に投げ捨てる。 斧や剣が飛んできてクラッズの隠れている盾に当たる。 「たっ……!」 思わず漏れてしまったクラッズの声を山賊達は聞き逃さない。 「誰だ!そこにいるのは!!出てこい!!」 クラッズは考える。 (今、全ての武器をこっちに投げていたとしたら、相手は丸腰だ…なんとかなるかもしれない) 瞬間盾を持って山賊に突っ込んでいくクラッズ。 「うぉおおおおおお!!!」 山賊は盾で押し倒されて転げまわる。 「だぁああ!!!なんだ!?」 無我夢中で盾を振り回していると、クラッズは自分の身体に異変を感じる。 身体が軽く、奥底から力が湧き出てくるような感覚に襲われる。 その時、盾に周りの空気が吸い込まれているような気がするが、何が起きているのかが分からない。 「チビ!!てめぇなんのつもりだ!!」 山賊は武器を拾ってクラッズに立ちはだかる。 盾の吸い込む風はどんどん強くなり、小屋がガタガタと揺れだした。 「なんだ!?これは……おい、チビ!てめぇやめろ!!」 山賊は慌てふためく。 クラッズは目を閉じて盾を抑えているのが精一杯で、それ以上何もできない。 盾の吸い込む風は勢いを増して、ついに山賊は立っている事もできず小屋の柱にしがみつく。 「あの盾……本当に……!!」 山賊が言葉を発したかと思った瞬間に、盾は眩い光に包まれて大きな爆発音を立てた。 クラッズは閉じていた目を少しずつ開けると、周りには木材が散らばり、上を見上げると星が出ている。 山小屋は完全に破壊されて、山賊が何人も倒れていた。 「なんだ…これ…どうなってるんだ?」 盾を持ったクラッズは、まだ少し風の出る盾を持ったまま立ち尽くしていた。 瓦礫が崩れる音がするとボロボロになった山賊が立ち上がってきた。 クラッズは盾を構え直して力を入れる。 すると盾からまた風が吹き荒れて、山賊は吹き飛び近くの木に激突した。 「ぐあっ…!こんなガキが……精霊の風使いだと……どういう事だよ…」 クラッズは盾を構えたまま近付いていく。 「まて…まてやめろ……悪かったから…死にたくねぇ…」 怯える山賊に違和感を覚えたクラッズは、盾を構えながら質問をする。 「精霊の風って何の事だ?」 山賊は尻もちをついて、両手を軽く横に出して敵意がない事をアピールしながら話し出す。 「なんだよ知らねぇのか…。その盾は骨董品でな、精霊の祝福がついた盾っていう話だ。俺達にはただの鉄くずにしか見えないが……見るやつが見ればすげぇ値段が付くって聞いて奪ってきたんだよ。精霊の風使いでなきゃその能力は出せないって聞いたが…お前がそうなんじゃないのか?」 クラッズは自分の手を見る。 「俺が精霊の風使い?」 「なぁ、知ってる事は話した。もういいだろ。助けてくれ」 その時、遠くの方から草木を掻き分けてくる足音が聞こえた。 音の方向を見ると、鎧を着た数人の傭兵が歩いてきているのが見えた。 傭兵の一人がクラッズの顔を見ると、驚いた様子で足を止めた。 「あんたは…レノール伯のぼっちゃんか?これは一体……」 イエルに戻ったクラッズは、事の経緯を父親に報告した。 山賊の一味は傭兵に捉えられて、今は檻の中にいるそうだ。 レノールは心配そうな表情でクラッズの肩に手を置く。 「何故そんな危険な所へ…精霊の風とやらがなかったらどうするつもりだったのだ」 クラッズは盾を父親に見せて嬉しそうに話す。 「大丈夫だよ父さん!俺はこの盾で冒険者になるんだ!だからこの盾を俺に譲ってくれるように武器商人の人に…」 クラッズの言葉は遮られる。 「クラッズ…あまり私を困らせないでくれ…」 クラッズは話を聞こうともしない父親に苛立った。 「もういい!父さんになんと言われようとも、俺は絶対に冒険者になるから!」 部屋を出て行くクラッズを呼び止めようともせずに、ため息だけ吐いた父親は書斎の椅子に戻って仕事の続きを始めた。 クラッズはその足で武器商人の元に向かう。 夜も遅く、店は閉まっていたが、ドアをガンガンと叩いて武器商の男を呼んだ。 「うるせぇな!こんな時間にどこのどいつ……あ…?なんだレノール伯の坊主じゃねぇか。どうした?」 男はクラッズが持っている盾を見ると目を丸くした。 「お前、その盾は……。なるほどな。傭兵の奴らが盗まれた武器を回収してきてくれたが、盾を使いこなした精霊の風使いってのは坊主の事だったのか!お手柄だったじゃねぇか!」 「頼みがあるんだ!この盾を譲ってくれよ!」 「はっはっは!レノール伯のぼっちゃんに頼まれたんじゃ断れねぇなぁ!それに、みんな山賊に頭を悩ませてたんだ…坊主が解決してくれたんなら、商店街の奴らを代表してお礼をしねぇとな!いいぞ!持ってけ持ってけ!」 こうしてクラッズは精霊の盾を手に入れた。 クラッズは屋敷にいる事が少なくなる。 街に繰り出し、周りで起こる事件に片端から頭を突っ込んでは暴れ回った。 「お前のせいで仕事がなくなっちまう」と傭兵から言われては、嬉しそうに笑っていた。 しかし、商店街の人々はささいな疑問を持っていた。 精霊の風使いというのがどれ程の力なのかは分からないが、何故いつも事件に関わる事ができて、且つどんな状況でも打開できてしまうのか。 例えば、クラッズが追い剥ぎを追いかけていると、逃げ道の先の橋が突然崩れて捕まえてしまった。 他にも、ただの幸運では片づけられないような事が度々起きていた。 街の中で噂が広がる。 『精霊の風使いは、精霊の加護を受けている』 クラッズはそんな噂を気にせず、冒険者になることだけを考えて毎日暴れ回っていた。 ――数年後 レノール伯の書斎で、青年となったクラッズは父に呼びだされていた。 「お前は私の後継者になって貰わなければならない。少し甘やかしすぎたようだ…。これからは勉強をしなさい。立派な大人になって私の跡を継ぎ、家門を発展させる為に全力を尽くしてもらう」 クラッズは驚いた。 その顔は疲労が貯まり、少し見ない間にシワだらけとなった父を前に、クラッズは動揺していた。 「まってくれよ。俺は冒険者に…そろそろ家を出ようと……」 「ならん。お前には専属のメイドを付け、勤勉に勤めて貰う。入ってくれ!」 レノール伯が廊下の方に向かって声を掛けると、静かにドアが開きメイド服を着た一人の女性が入ってくる。 「失礼します。本日からクラッズ様のお世話をさせて頂く事になりました、メイドのリーズレットと申します。よろしくお願いいたします。」 「まってくれ!俺はそんな……」 言いかけたクラッズは、入ってきた女性の姿を見て言葉を詰まらせる。 燃えるような深紅の髪。 脳裏に焼き付いているあの少女が成長した姿を想像すれば、目の前の女性のようになるだろう。 忘れる事が出来ない、初めて冒険者のように勇気を出せたあの日の、赤髪の少女に似たその女性から目を逸らす事ができない。 「君は……もしかして……」 リーズレットの目がほんの少し動いたような気がした。 「早速ですが、クラッズ様のお部屋にお勉強のご用意をさせて頂きました。一緒に来て頂けますか?」 「あ、あぁ……」 クラッズはあまりの衝撃に、彼女に言われるがまま自室に行く。 廊下の途中で、どうしても確かめたいと思いリーズレットの背中に声を掛けた。 「なぁ、リーズレット…?昔、商店街の路地でチンピラに絡まれてなかったか?」 リーズレットは足を止めて、一つ間を置いてから振り返る。 「申し訳ありませんクラッズ様。そのような記憶は御座いません」 彼女は笑顔で返答するが、クラッズにはとても人違いだとは思えなかった。 自室のドアを開けると、机の上から床まで山積みになった本が天井まで届きそうだ。 「あの…これ全部読むの……?」 「いいえ!読むのではなく、覚えて頂きます!」 ニコっと笑うリーズレットに立ちくらみがした。 それからクラッズは言われた通り勉強をする。 歴史、政治、外交、物流と貿易…。 毎日、朝から夜まで本を睨みつけている生活になり、頭がおかしくなりそうだった。 片時もクラッズの側を離れようとしないリーズレットには隙がなく、逃げ出そうにも逃げ出せない。 少し外に行きたいと打診してみるが、レノール伯に怒られてしまうからダメだとあっさり断られてしまった。 仕方なく言われた通り勉強を続けていたが、本に囲まれた生活に限界を感じて、屋敷の者が寝静まった深夜に窓から抜け出すようになった。 夜の街を一人歩くクラッズ。 前のように事件がないかと探すが、真夜中の街には人が少なく、ただ星を見ながら散歩をしているだけだった。 それでも、ずっと部屋の中で勉強漬け、更にはリーズレットに監視されている事で溜まったストレスの発散にはなった。 一人の時間は長くはなく、日が昇る前に部屋に戻らなければならなかったが、その時間だけは自由に、自分の思った方向へ足を進める。 クラッズはそんな生き方がしたいと心から思いながら、現実逃避とも言える散歩を毎晩のように繰り返していた。 ある日、クラッズはまた父に呼び出された。 今は言われた通り勉強をしている。 何も咎められる事はないだろうと思いながらも、何を言われるのかと考える。 父の書斎のドアをノックしてあけると、父が難しそうな顔をしていた。 「クラッズ。真面目に勉強しているようだな」 父の声はやせ細り、本当に父なのかとクラッズは疑う程だった。 「父さん?どうしたの…?なんか…元気ないけど……」 レノール伯はその声を無視して話を続ける。 「クラッズ、お前をシュレイド家に婿養子として出す事にした。この家の為に勉強させていたが、それも無駄にはならないだろう。相手はシュレイドの一人娘だ。なんだ?その顔は…約束された大出世だぞ?」 シュレイド家は、イエルの3大貴族の一つの大貴族。 婿養子になるという事は、シュレイド家の跡継ぎになるという事だった。 「なんだ…それ…。そんなのなんで勝手に決めるんだよ!?なんでよりによってシュレイドなんだよ!!」 クラッズは怒りを抑えられなかった。 シュレイド家は、自分達の利益の為には住民を苦しませる事も厭わない、更に言えば利益が出るならば人も殺すという噂までクラッズの耳に入る程、評判の悪い家門だった。 レノール家門は、これまでシュレイドとは出来るだけ関わらないようにしていた。 シュレイドのやり方にレノール伯は賛同せず、これまでどんな取引が持ちかけられても首を縦に振らなかった筈だった。 レノール伯は静かに言葉を続ける。 「シュレイドは力をつけすぎた。もう、うちのような弱小家門は反発すれば潰されてしまう。もし潰されてしまえば今までの苦労が全て水の泡だ」 確かに、シュレイドは次々とその傘下に貴族を引き入れて、3大貴族の中でも頭一つ飛び抜けた存在となっていた。 その傘下に入るばかりか婿養子となれば、確かにレノール家は安泰だろう。 しかしそれでも、今まで家門の為に足を使い、その人生を捧げてきたような父が、正反対のような男の権力に屈したという事に、クラッズはどうしても納得ができない。 「そうだとしても!!シュレイドの傘下に入ったら、父さんが今まで頑張って作り上げた街の人達の信頼がなくなっちゃうかもしれないだろ!?それでも良いっていうのかよ!!」 レノール伯は、肩を震わせながら背中で語る。 「今までずっと遊んでいたお前に…何がわかるというのだ……」 「なんにもわかんないよ!!俺は反対だ!大体、結婚なんかしたくもないし、シュレイドの所なんて尚更ごめんだ!!」 大声を出したクラッズだったが、父はクラッズの方を振り向いて負けないくらいの声量で怒鳴り散らす。 「もう決まった事なのだ!!!見ろ!!契約書だ!!これで家門は安泰なのだ!!!黙って言う通りにしろ!!」 涙を流しながら叫ぶ父親を前に、クラッズは呆然とした。 父の泣いた顔なんて初めて見た。 目の前の男の苦労なんてクラッズには想像もできないが、きっと何か訳があるのだろう。 今までずっと、大貴族と一人で戦い続けていたのかもしれない。 父はクラッズの胸に崩れ、肩を掴んで俯いた。 「もう決まった事なのだ…頼む…」 父の姿を見て、クラッズは決心する。 「わかった。俺に任せてくれよ」 それからは屋敷の中でクラッズは何もせずにいる。 リーズレットは相変わらずクラッズの側にいた。 クラッズは、ふとリーズレットに訪ねてみる。 「なぁ、リーズレット。俺がシュレイドの家に行く事が決まったのは知ってるのか?」 リーズレットは表情を変えずに返答する。 「はい。存じておりますよ」 「そうか……」 「補足をするのであれば、まだ正式な婚姻は決まっておりません。シュレイド様からレノール様に色々と注文が来ているようで、それを全て飲まなければ、この話はないと……」 「何!?そんな話があるのか!?」 クラッズは立ち上がる。 「どういう事か詳しく教えてくれないか!?リーズレット!!」 「最初は、商店街から取っている税の引き上げと、上げた分の税の横流し。次はレノール様が管轄する地域で行われている傭兵の巡回警備の縮小。その次は、この家門が保有している土地の30%を贈与。最後に、事故と見せかけてクラッズ様を殺して、婚約者の家であるシュレイド家が盛大な葬儀をあげる事で、レノール家が得ている市民から信頼をシュレイド家に渡す計画まで」 「待て待て!!なんだよそれ!!」 「全ては、レノール家を存続させる条件として、シュレイド様が注文されているものです」 「シュレイド……!!」 「私はクラッズ様に亡くなって欲しくありません。だから、この契約書がシュレイド様に届く前に拝借してきました」 リーズレットから手渡された紙には、確かに父の文字があった。 確かに、クラッズの命と引き換えに、目の眩むような金額が書かれている。 クラッズは拳を強く握る。 シュレイドは父と結託している…。 そして、自分の命をも取ろうとしている…。 そう考えると、いても立ってもいられなくなった。 ――その日の深夜 クラッズは静かに盾を持ち、いつもと同じように窓から屋敷を抜けだした。 向かうはシュレイド家。 イエルの街を牛耳り、父を苦しめるシュレイドを許せるわけがなかった。 坂を登り、シュレイドの大きな屋敷が見えてきた。 クラッズは身を潜めながら正門を覗く。 大きな門の周りには、あちこちに重装備の見張りがいる。 「正面突破はさすがに厳しそうだな……」 屋敷の裏門へ回るクラッズ。 日が登れば更に見張りが増えるだろう。 時間はあまりなかった。 「ん?なんだ?」 裏門を見ると丁度交代の時間なのか、人の姿がない。 なんなく敷地内に侵入し、屋敷の裏口までやってきた。 そっと扉に手を掛けると、裏口の鍵が空いている。 これだけの大貴族ならば、侵入者なんて何年もいないのかもしれない。 「都合がいいな…」 そのまま屋敷の中に入り、シュレイドを探す。 所々に兵士はいるものの、やり過ごしながら進む。 できるだけ足音を立てないように広い廊下を進んでいくと、2人の兵が護りを固める大きな扉が目に入った。 きっとあの扉の中にシュレイドがいるのだろう。 クラッズは確信して兵の前に姿を出した。 「おらぁああああ!!」 兵士2人を盾で殴りつけて、そのまま扉が開かれる。 天蓋付きのベッドに寝ていたであろうシュレイドが、慌てふためいて床に転がり落ちる。 「何事だ!!」 「シュレイド。随分好き勝手やっているようだな。今日でそれも終わりだ」 クラッズは盾を構えてシュレイドに向ける。 「貴様は…レノールの息子か!?そんな事をしてどうなるか分かっているのか!?お前の家は終わるぞ!?」 「どっちみち終わらせる気なんだろ?なら、俺が何をしようと変わらないよな?」 「くっ……!」 シュレイドがベッドの枕の下に手を潜らせたのをクラッズは見逃さなかった。 盾を構えてシュレイドへ突っ込んでいく。 シュレイドは短剣を構えていたが、クラッズの盾に吹き飛ばされ窓を突き破る。 バルコニーに飛び出たシュレイドの胸倉を掴んで、クラッズは柵の外に腕を伸ばす。 屋敷の3階に位置するこの場所から落ちれば、間違いなく無事ではいられないだろう。 「さぁ、どうするシュレイド?ここで死ぬか、父さんと交わした約束を全て破棄するか、どちらか選べ」 シュレイドはあまりの恐怖にガタガタと震え、クラッズの腕にしがみつく。 「頼む!助けてくれ!お前の家にはもう何もしない!頼むから!」 後方から足音がした。 「シュレイド様!ご無事……貴様!!そこで何をしている!!シュレイド様を離せ!!」 見張りの兵士たちが部屋に入ってきて武器を構えたが、クラッズはシュレイドを掴んでいない方の手で盾を掲げて力を込める。 盾から物凄い風が出て屋敷内を吹き抜け、兵士は立っている事も許されない。 その風に巻き込まれているシュレイドは、足をバタバタさせながら泣いていた。 「本当に…お前の言う通りにする…だから……助けてくれ……」 クラッズはシュレイドを部屋の中に投げ捨てると、紙とペンを取り出してシュレイドに突きつけた。 「今の言葉、嘘じゃないよな?一筆書いて貰おうか」 シュレイドは泣きながらペンを走らせる。 紙を受け取ったクラッズは、シュレイドに向けて言い放つ。 「夜分にお邪魔したな。これからは汚い事しないで、真っ当な貴族になるんだな!」 屋敷を後にしたクラッズは、清々しい気分でレノール家に戻る。 これで、全て終わった。 そう思っていた。 ――翌朝 リーズレットに起こされクラッズは目を覚ました。 「クラッズ様。レノール様がお呼びです」 昨晩の事が父の耳に入ったと考えて、クラッズは父の書斎に向かう。 ドアをノックしてから中へ入るとレノール伯は上機嫌な顔で出迎えた。 「クラッズ!ゴミ共はいなくなった!私達の時代だ!」 父は今までに見せた事もない優しい顔をしている。 クラッズはそんな父に厳しい目線を飛ばす。 「あんたがした事は全部わかってる。俺の命を売ろうとしてた事も全部だ!」 レノール伯は、クラッズの顔を見て気まずそうな笑顔を見せる。 「……知っていたのか…。それはただの口約束で、本当に実行する訳がないだろう。これまでお前の事は大切に育てたのだから」 「嘘だ。なんなら今から一緒にシュレイド家に行くか?シュレイドに聞けば分かる筈だ」 父は笑いながら話す。 「あぁ、いいとも!もっとも、もう話せる状態ではないがな!」 クラッズは何か会話が噛み合っていない事に気がつく。 「話せる状態じゃない…?」 「なんだ?全部リーズレットから聞いている訳ではないのか?ならば教えてやろう。昨晩シュレイド家に何者かが侵入して、敷地内にいたものは……」 レノールは楽しそうに笑いながら、言葉を続ける。 「全員虐殺されたんだぞ?」 「なっ………!?」 クラッズの頭が真っ白になる。 (虐殺?どういう事だ…昨日確かに暴れたけど…誰一人殺してなんか…) 「お前は何か勘違いをしているようだが、そんな約束なんかなかった。今まで私はシュレイドに脅されていただけだ。」 クラッズは混乱した。 (何が…どうなってる……) 自室に戻ったクラッズは頭を抱える。 (シュレイド家の人間が虐殺された?昨日あの後に誰かが入ったのか?そんな短時間で…あの量の兵士を全員…?どれだけ大勢で…?そんな大規模な戦闘が…?) いくら考えても答えは出ない。 数日が立ち、街の傭兵団が事件を調査していたが、犯人は分からず仕舞いだった。 よく考えれば、街の人間に嫌われていたシュレイド家が滅んだ所で損をするのは一部の人間。 それならば傭兵団も対して力を入れて捜査をしないのも当たり前なのだろう。 現に、あれだけ色々な痕跡を残したクラッズも容疑者に挙がっていなかった。 ――数日後 クラッズは決心をして父の書斎にやってきた。 「父さん、今ちょっといいか?」 「なんだクラッズか…何の用だ?」 「俺はこの家を出て行く。俺の命を売ろうとしたあんたの跡なんて継ぎたくない」 レノール伯は少し考えた様子だったが、ため息を吐いて答えた。 「帰ってきたくなっても、お前など息子でもなんでもないぞ?」 どこまでも人をバカにしたような態度を取る父に拳を握る。 「そうさせてもらう」 荷物をまとめて、屋敷の外に出ると、母やメイドが見送ってくれる。 母は悲しそうな表情をしながら別れを惜しむ。 クラッズは母にはこれまでの事を何も言わないと決めていた。 不良息子が家を出たくらいに留めておかなければ、ただたんに母を悲しませるだけだと思っていた。 リーズレットにも手を振りながら屋敷の門から外に出る。 大きな盾を持ち、クラッズは本当の冒険者としての1歩を踏み出した。 ――イエルの街を出て、街道を西に向かって歩きながらこれからの生活にワクワクしている。 空に向かって両手を上げて伸びをした時、妙な視線を感じた。 後ろを振り向くと、3台の馬車から大勢の男達が出てくる。 「誰だお前ら…?」 周りを囲まれたクラッズは盾を構える。 一人の男が口を開く。 「大人しく街を出られると思うなよ…人殺しが…」 その男には見覚えがあった。 確か、シュレイドの傘下に入っていた貴族の家門の長…。 大方、シュレイド家が滅亡した事で利益を出しにくくなった奴らが、その原因はクラッズと考えて復讐しようとしているのだろう。 「一人相手に随分な人数だな」 「シュレイドの家を一人で崩壊させた男が何をいっている…よし、かかれ!!」 必死に戦うクラッズだったが、何十人もの兵を相手に多勢に無勢だった。 後ろから殴られ意識を失う。 「っ……!くそ……!」 目を覚ましたクラッズは、薄暗い牢獄の中にいた。 湿度が高く、ジメジメとした室内には血の匂いが漂っている。 手には手枷がつけられ、頭も身体もあちこち痛い。 周りを見渡していると、何か不自然な事に気がつく。 目の前の鉄格子の扉が空いているのだ。 壁掛けランプが地面に落ち、横になりながらも小さな火がゆらゆらと揺れている。 その明かりが照らす先に、兵士だろうか…鎧を着た男が倒れ、腹部から血が出ているように見えた。 (どうなってる……?俺は捕まったはずじゃ……) 近づこうと腰を上げようとすると、「ジャラ」と音がした。 自分の腕を見ると、右手に大きな手枷がついている。 手枷からは太い鎖が伸び、鎖は床に落ちて暗闇の中へと続いている。 だんだん目が慣れて来た。 鎖の先を追うと、靴がうっすらと見える。 この狭い空間に、もう一人、生きた人間がいる。 「っ……!!?」 鎖の先はその人間の腕に伸び、自分の右手についている物と同じ手枷がつけられている。 クラッズは、まだ覚醒しきらない頭を必死に働かせる。 今の状況や、これまでの事。 自分の知らない所で、想像もできないような“何か”が起きていたとすれば、目の前の人物が関わっているのだろう。 「こんな所で・・・何をしてるんだ・・・?」 言葉を選んで質問するクラッズ。 彼女は、燃えるような深紅の髪の隙間から、白い歯を見せた。 +光機の鎧デアラスール ――暗い…… ――何も見えず…… ――何も聞こえず…… 意識を取り戻した時には既にここにいた。 それは『闇』としか呼びようのない空間だった。 いつからなのか。 何故なのか。 答えを探すべく、闇の中でそれは思考を巡らせる。 ――名は……デアラスール…… ――私は……何をしていたのだろうか…… ノイズがかる記憶の中、鮮明に思い出せることが一つ。 決して大きくはないが、どこか犯しがたい神秘的な雰囲気が溢れる建物。 荘厳な門を開き、我が家に入るかのように足を踏み入れる自分。 その手にはとても大きな……盾のようなものが握られている。 玄関間の奥まで進むと、ふと立ち止まって振り返る。 眩い陽の光を浴びながら、潜ってきたばかりの門を静かに見つめる。 どうやら何かを待っているようだ。 そして……待つ。 ただただ、ひたすらに待つ…… ――私は何を待っていたのだろうか…… 記憶と呼ぶにはあまりに思い出せることが少ない。 それでも、なおその記憶が自分自身のものであることは確信できた。 なぜなら、自分が何物にも代えることのできない、それ程の使命感を抱いてそこにいたことを覚えているからである。 このわずかな記憶は、そんな感情があるからこそ失われずに残ってくれているものなのかもしれない。 だが、その使命の正体までは思い出すことはできなかった。 しばらく考え込んでみた結果、やはりというか、それ以上の情報を思い出すことはできなかった。 しかし、不思議と落胆はない。 並の者ならばこの時点で打ちひしがれてしまう者がいてもおかしくないのかもしれない。 我が身のこととはいえ、感情の起伏が乏しいというか、楽観的というか…… 自分というものが少しわかった気がした。 それからいろいろなことをした。 時間だけはいくらでもあった。 あるかどうかも分らなかったが、脱出を目指して出口を探し回った。 歩けているのだろうか? いるかどうかも分らなかったが、同志を求めて呼びかけてみた。 声は出ているのだろうか? しばらくして、動くことをやめた。 脱出不可能。 孤独。 無。 得られた情報はそれだけ。 訪れるかわからなかったが、変化を待つことにした。 その間、途方に暮れていても仕方がないのでいろいろ考える。 開けているのか、閉じているのか、完全な暗闇の中で自分の目がどうなっているのか、それを確認する術について考察してみた。 そもそも自分の体は今どうなっているのか、触覚がないままに確認する術について考察してみた。 浮いてはいないが、落ちてもいないような、なんとも不思議なこの空間の謎について考察してみた。 思考ができるという事実から、意識だけは確実にここに存在しているわけで………… 意識のみが存在する世界ならば、この『暗闇』と例えた黒い景観は………………… 色とはそもそも物体に反射した光情報を…………………………… 無とは黒か、白か、透明か……………………………… すなわち『透明』の世界とは……………… ………………………… ……………… …… 16573…… 思いつく限りの事をすべてやり尽し、最終的には考える事柄すらも思いつかず、ただ時間を数え続けるだけとなった。 3015031…… 意識を取り戻してからどれほどの時間が経ったのだろうか。 あれだけいろいろやったのだから数日ということはないだろう。 1年? それとも10年? 初めから時間を数えておけばよかった。 524902097…… 永遠とも思える膨大な時間が教えてくれたのは、自分が如何に絶望的状況に置かれているのかという事実のみだった。 70376845322…… 刻まれていく数字が大きくなるにつれ、心にのしかかる絶望感もまた重くなっていくような気さえする。 100000000000…… またひとつの大台を迎えた。 一段と重い絶望感と微かな達成感が入り混じり苦笑がこぼれ落ちる。 ………………………… 数を数えることすらも諦めた。 助けてくれ。 死すらも存在しない世界の重圧。 ここにきてそれに耐えきれなくなった魂が悲鳴を上げはじめる。 バチッ! そんな音が聞こえた気がした。 絶望故か、微かに視界が歪む。 もしかするとこのまま消えることができるかもしれない。 が、そんな解釈を打ち消すように瞬く間に闇を払い広がっていく光。 徐々に明るさを増していく世界の中で、待望の変化により思考が止まり一瞬呆ける。 何をやっている! 状況を打開する術を、必死に希望を探す。 あれは…… 月?太陽? 闇を照らす巨大な光源。 あまりの眩さに目がかすむも……しがみつく様にそれに手を伸ばす…… 「あ、あれ…?空っぽ?確かに人の気配がしたのに…なんでだ??えぇえええ!すごい!動いてる!!なんでなんで!?」 久しく聞いた『音』は、少しおどけた様な、どこか間抜けな声に思えた。 強烈な光に眩んでいた視力は間も無く戻り始め、キラキラと目を輝かせながら自分を覗き込むように見つめる人物の姿を認識したところで、自分があの世界から抜け出せたことを理解する。 (まさか……女神……?) 口から出かける「女神」という言葉。 だが、それは真っ先に目についた、特徴的な三つ編みの金髪と、頭に乗せたゴーグルとリボンにより過ちであることを諭される。 女神と呼ぶにはあまりに珍妙だった。 「ここは、どこだ?」 実際に耳にする自身の声さえも懐かしく感じ、感動すら覚える。 「アタシの研究に関わっていた人間がこの技術を盗んだのか…?」 傍らに転がっていたデアラスールの頭部を拾い上げ、何やらブツブツと言いながら観察している少女。 「ねぇ、この兜ってどこで手に入れたの?」 返答はおろか、質問したいことがまだ山ほど残っている自分に対し、お構いなしと言わんばかりに問い詰めてくる少女。 「……わからない。何も覚えていない……」 その答えに考え込んでしまう少女だが、本当にそれ以外の答えが見つけられなかった自身を情けなく思う。 「それとも、アタシの研究……この努力の結晶を、他の研究者が先に完成させていたとか……?」 頭についた三つ編みを豪快にぶんぶん振り回しながら苦悩し続ける様は思いのほか微笑ましいものだ。 状況が大きく変わってから少し時間が経ち、少女の姿のおかげもあってか、緊張もほぐれ、思考が大分まとまってきた。 あの空間から抜け出す際、自分を包んだ光から強力な力が流れ込んでくるのを感じた。 恐らくこの少女が身に着けているグローブに何らかの魔力的機能が備わっているようだ。 そうなると、やはり自分を救ってくれたのはこの少女…… そして、自分がまず何をしなければならないのかを思い出す。 「私は助けてくれたお礼がしたい!あなたの為なら何でもしよう」 自分が何者で、何が起こり、何をしていたのか、そんなことよりもまずは感謝を。 心からの想いは自然と体を動かし、平伏するかの如く少女の前にひざまずかせる。 少し何かを考え、にやりと笑う少女。 「ふーん。ちょうど実験台が欲しかったところなんだ!君はなかなか興味深いしねぇ。そうだ、遺跡の外に出れば君の事を知ってるやつがいるかもしれないし、アタシについてきてよ!」 「はい、主様。このデアラスール、主様にこの身を捧げま…す」 (む?力が……) 「うわぁぁあああ!!バラバラになった!!」 身体機能を取り戻すにはどうやら魔力が不十分だったようだ。 各部の結合が解けてしまった鎧の体を見て少女は慌てふためく。 「主様……すみません。身体にまだ力が足りていないようです」 「力…?あ!そうか!」 少女は床に散らばるデアラスールへと近づき、その本体にグローブで触れ、魔力を一気に流し込んだ。 魔力に反応し、磁石のように再び繋がっていく鎧を見た少女は興奮する。 「おおおお!!なにこれおもしろい!!」 「感謝いたします。主様」 「実験開始ぃ!!」 「……主様?もう十分です。主様?」 少女は、デアラスールが元の姿に戻ってなお、グローブから流れ出る魔力を止めることはしなかった。 それどころか、その出力をどんどん上げていく。 「主様?これ以上は……うぉおおおおおおおおおおおお!!!!」 羽が生えた。 体に満ち満ちる力。 まるで生まれ変わったようだった。 そして次の瞬間、手足が吹き飛んだ。 鎧の体が耐えうる限界を超えたためか、溢れ出した光の魔素が爆発を起こしたようだ。 ――これが主様と私の出会いだった。 ジゼル。 それが主様の名だった。 「よーし!デアラスール!今日は君の体に組み込んだ魔力回路の基礎稼働実験をするよ!」 ジゼルは、科学技術が非常に発達した『電磁都市ガリギア』で、魔素を利用した身体強化の研究を続けていた科学者だった。 しかし、街が帝国軍の攻撃を受けたために街から避難。 その避難先として逃げ込んだこの遺跡の中で偶然デアラスールを発見し、以降ここを拠点として研究を続けている。 「準備は整っております。主様。いつでも開始してください」 デアラスールの鎧の身体には、ジゼルが自身の研究により開発した、グローブ型身体能力強化デバイスの基礎となっている魔力回路に酷似したものが備わっていた。 その技術を解析、発展させ、さらには己の研究と組み合わせることにより、さらに一段階進んだ新境地へと研究をシフトさせることを考えた。 「それじゃあ……ポチッと!」 「……魔力の発生を感知。今のところ問題ありません」 デアラスールは、自身を救ってくれたジゼルの恩に報いるため、身を捧げて忠義を尽くすと誓った。 そんな彼にとって、我が身が彼女の最大の目標に大きく貢献できることは至上の喜びであったことだろう。 「よしよし!じゃあ出力上げていくよー!」 遠隔操作で出力を徐々に上げていくジゼル。 「む?主様。これはいささか出力を上げすぎではないかと……」 「回路の最大出力測定と負荷実験のほうもパパッとやっちゃおうと思ってね」 「効率的……さすがでいらっしゃいます主様」 2人が出会ってからというもの、毎日が実験の日々だった。 ジゼルは自分の開発したグローブの魔力回路をデアラスールへと組み込んだり、もともとデアラスールに備わっていた回路を改造したりと、様々な研究を行った。 この実験もその一環である。 「けっこう出力上げちゃってるけど大丈夫―?」 「……問題なし。主様の望む限りどこまでも上げ続けてくださいませ」 (こ、ここで私が先に折れてしまっては、主様の実験が中断されてしまう……それはあってはならん!絶対にだぁああああ!) 「おー!余裕あるねぇ!じゃあ、もういっちょ出力上昇ポチッ!」 「ぬぉおおおおおおおおおおおおお!力が……!みなぎってくるぅうううううう……あっ」 「えっ?」 直後に響き渡る爆発音は、遠くカリギアの街中まで響き渡った。 ――翌朝 「昨日の実験は大変だったね……」 「申し訳ありません主様。私が不甲斐無いばかりに……」 「いや!おかげでかなり高出力まで魔力を高めることができると証明できたよ!このままの性能をグローブに移植できれば研究はまた大きく前進する!」 「たとえ失敗の中からでも、貴重な成果を見つけ出してはものにする探求心。さすがでいらっしゃいます主様」 「でさぁ、前々から思ったんだけど、さらなる実験のためには、被験者でもある君の強化も必要なのかなって思ったのよ」 「なんということか……昨日の実験で情けなくも下半身が木っ端微塵になった私のためにまた貴重なお手を煩わせてしまうとは……」 「まあまあ……遅かれ早かれ、研究が先へ進めば必要なことなわけだしね」 「どこまでもお優しい方であられる……どうぞ。お仕えした時よりこの身体、全て主様のものにございます」 「むっふっふ……じゃあ遠慮なくいかせてもらうよー?」 ――さらに翌朝 「一夜漬けにしてはよくやったアタシ!やっぱ天才!?あぁ、もともとか!」 「感謝感激。見た目は以前と変わらぬ様子。しかし、それでも確信できます。今の私はもはやデアラスールでありデアラスールではない。それほどの力の変化を感じます」 「見た目か……そういえばさ、君って武器って持ってないよね」 「確かに。否……確か以前は盾を携えていたような……」 「まだ遺跡のどっかに転がってるのかなぁ……じゃあさ、とりあえずその盾が見つかるまでの間、代わりの武器が必要になるよね?」 「確かに……。主様に何時如何なる危険が及ぶとも限りません。そのようなものがあれば、より確実に主様をお守りすることができます。あ、いや、武器がなくとも我が身に変えても必ずや主様をお守りし――」 「あー、わかった!わかったから!で、何が欲しい?せっかくだからさぁー……気分を変えて盾以外のものなんかも使ってみてもいいと思うんだよねぇ」 「主様より与えられるものは全て最高、最適です。全てお任せいたします」 「むふ……じゃあいろいろいってみようかねぇ……とりあえず12本腕に改造しての十二刀流プランA……次に緊急射出攻撃機能搭載腕部プランB……そんでもって頭部への光魔法発射機構装備プランC……」 「素晴らしいです主様。どれも画期的かつ独創性溢れる主様ならではの発想です」 (どんな姿になろうとも私は主様への忠義を忘れることはない。決して。絶対に) 実験の過程による鎧の損傷を防ぐ為のデアラスール強化を含め、ジゼルの研究は進んでいった。 ――数ヵ月後 「……まさか……まさか全て失敗するなんて……」 遺跡の一室。 そこには、しゃがみ込みながら頭を抱えるジゼル。 そして、その少し上をクルクルと旋回しつつ飛び回るデアラスールの姿があった。 「主様。魔力転換式浮力生成翼。コントロールが難しいものの、素晴らしい完成度です」 「当たり前でしょ!ほかでもないアタシが改良したんだから!」 しばらくジゼル達が取り組んでいたデアラスールの武器の作成作業だったが、その過程は凄惨たるものだった。 ここにきて、デアラスール自身の性能を高めすぎた故の弊害が発生したのである。 生身の人間が扱うことを前提に作られた武器や兵器では、デアラスールの圧倒的な出力に耐え切れなかったのである。 「剣を持たせれば握った柄が砕け散るわ……槍を持たせれば振った端から柄が折れるわ……機械兵器を組み込めば出力に耐え切れず爆発四散……はは……失敗したままになんてできるわけもなく来る日も来る日も……ははは……」 「しかし、この翼は正常に動いているようですが?」 「その翼はアタシと会った時に生えたものでしょう?もともと、君の鎧の一部だったぶん、魔力回路との相性も良いの。外部から全く新しい別の回路を取り付けるよりも確実で安定してるってわけ」 「理解しました。ですが、そうなると一つ疑問があるのですがよろしいですか?」 「グローブの回路は外部からの回路なのに、君の中でも正常に機能しているのはなぜかって?それは君に備わっている魔力回路の性質と、グローブに組み込んである回路の性質が似ているからだと思うんだ。どっちも魔素を媒介にして、身体を動かしたり、強化するものだからね」 「理解不能。申し訳ありません主様。未だに技術的な話になると理解が追いつきません」 「ん?いいのいいの。君は君にできることを十分にこなしてくれてるから……っていうか、さっきからちゃんとデータは記録してるよね!?」 「む?」 「む?……じゃないっての!ばかーっ!」 「ご、ご安心を主様!まだ余力があります。今からでも記録を開始し――」 「ちょちょちょっ!前っ!前見てっ!」 「はっ……!?」 デアラスールは弁解しようと視線をジゼルに向けたため、コントロールを誤り、そのまま壁へと高速で激突した。 「弁解の余地もありません主様…また損傷してしまいました……」 頭部だけが壁にめり込んだままジゼルへ謝罪する。 「少し気を抜くとコントロールがぶれるか……」 翼の改良への興味で頭がいっぱいの彼女の耳には、壁の奥から漏れ出してくるデアラスールの言葉は届かず、結局壁の中から彼が救出されたのは、半日ほどが経過した後であった。 ――翌日、同所 「膨大な魔力は当然強力だけど、それだけコントロールが難しい。特に飛ぶときなんかは常に安定させつつも高魔力を消費し続けなくちゃいけない。」 「状況把握。昨晩の新機能の出番というわけですね」 「そう!基礎回路に新たに加えた新機能!飛ぶために発生する魔力の流れに対して、違う魔力の流れをぶつけることで強制的に流れを修正して安定させる優れもの!」 「飛行操作が安定すれば、他の行動に余裕が生まれるということですね」 「あぁ……知ってたこととはいえ、自分の才能が恐ろしい……これが天才ゆえの苦悩というやつなのか……あ、ちなみに、前に出力上げすぎて君が吹き飛んだことがあったでしょ?限界値を超えそうになるとブレーキをかける為の機能もついでに追加しておいたから」 「爆散回避。主様……やはりあなたは天才であられた……」 「じゃ早速、実験いってみようか!」 「かしこまりました……でゅわっ!」 実験開始に伴い、さっそうと空を舞うデアラスール。 「何その掛け声……」 「申し訳ありません。なぜか言わなくてはいけないような気がしました」 「まあいいや……じゃあ記録とっていくねー」 「極めて良好。昨日に比べて格段に操作性が向上しています」 「よしよし!安定装置のほうは機能してるみたいね!じゃあ、次は出力上げて制御装置の方の検証いくよー」 「おぉおおおおお!順調に出力が上昇。まだまだいけるかと」 (む?臀部にピリピリと違和感が……?) 「そろそろ最大出力に届きそう!どう?爆発しそう?」 「ぬぅううううう!力が……力があふれてくるぅうう……しかし、以前とは違う。主様。限界を超える手前で強い力に抑えられている感覚が確かにあります」 「よっしゃー!実験は成功だー!」 自身の成果に満足し、思い余って歓喜の舞を踊るジゼル。 しかし…… 「む!?むむ!?!?主様!異常事態発生です!」 「え?何!?ボンしそう!?」 「いえ。そうではな……し、痺れ……身体が…………動か…………なく……」 鳥のように空を舞っていたデアラスールは、みるみるうちに失速……ついには浮力を失い墜落した。 「これは……麻痺?無理やり制御したから?でも、その可能性は十分に考慮したはず……だとすると……まさか……いや……だとすると……」 「主様。どうか気を落とさずに」 悔しげな表情でうつむきながら何やらぶつぶつと言葉を並べるジゼル。 失敗すること自体は初めてではない。 むしろ幾度となくその失敗を糧に研究を進化させてきた。 だが、今回の実験はジゼルにとって今までよりもより大きな意味を持っていた。 これに成功さえすれば、あとはグローブに同様の機能を移植し、人間の生身での調整を残すのみだったのである。 全てではないにしろ、これまでジゼルがどれだけの努力を重ね、夢を果たそうとしていたかを十分理解しているデアラスール。 麻痺から回復し、起き上がった彼は、肩を落とすジゼルに声をかける。 「これまでの実験で何度失敗しようとも、挫けず、諦めず、そして必ず障害を乗り越えてきたではありませんか。それに、爆発してバラバラになることに比べれば、この程度どうということもありません」 「デアラスール……」 「私にできることがあれば何でも仰せつかりください。主様は、私の主様にございます」 「……ふ、ふん!そうだよ!この程度なんてことない!まだまだ研究は残ってるんだからね!」 わずかばかりの強がりが垣間見えるも、その瞳に諦めの感情は一切感じられなかった。 「承知いたしました」 (いつまでも、どこまでもお供させていただきます) ニヤリと笑みを浮かべながら動く鎧を見つめる少女。 少女の前で膝をつく動く鎧。 いつかの再現のような光景だった。 ――その直後だった。 「ん?何だ貴様たちは!?」 遺跡調査のために赴いていた帝国兵の一団と遭遇したのである。 「げっ!?帝国兵!なんでここに!?」 「主様、お下がりください。ここは私にお任せを」 「ちょっと!?戦闘するくらいの出力を出しちゃったらまた麻痺するかもしれないんだよ!?」 「理解しています。それでも私は、主様にこの身を捧げると誓いました」 この時、ジゼルは身体強化グローブを研究室に置いてきていた。 頻繁に訪れていた場所。 さらには、これまで戦闘に直面したこともなかった。 そんな経験が生んだ、ほんの微かな油断ではあったが、現実とはやはり不測の事態というものが起こるものである。 「ここで何をしていた!?」 「怪しい連中だ……連行して取り調べるぞ……!」 2人を捕らえようと近づく帝国兵達。 「主様へ危害を加えることは私が許さぬ」 そこにはジゼルを背に庇いながら立ちはだかる黄金の鎧姿があった。 「何だ、この鎧男は?どこかの騎士か?」 「武器は持っていないようだが警戒は怠るなよ!」 その場にいた帝国兵達は6人。 デアラスールに警戒しつつ、ゆっくりと2人を取り囲むように陣形を組む。 「数的不利。このままでは……」 (飛行しての退避は可能。しかし、飛び立つ前に飛びかかられては対応できぬ……どうにか隙を……) 「やばいやばいやばい……どうするどうするどうする……出口はアイツらの後ろだし……この状況を突破するにはあれがこうで……」 デアラスールの背後で、ジゼルもまた必死に打開策を探る。 しかし、ゆっくりとではあるものの、歩みを止めない帝国兵達にとうとう2人は壁際まで追いやられてしまう。 「よし……おれの合図で一斉にかかるぞ!」 「「了解!」」 次の瞬間には、2人は為す術も無く捕らえられてしまうだろう。 もはや後のない状況。 「ぬぉおおおおおおおお!」 「えーっ!?確かにそれしかないけど、それは無理でしょ!」 ただ捕まるのを待つくらいなら、僅かな可能性に賭けてみる。 決心したデアラスールは翼に魔力を流し込む。 「何だ!?翼が光ったぞ!?」 「まさか飛ぶなんて言うわけじゃないだろうな!?」 「とにかく押さえつけるぞ!」 一瞬、怯んだかに思えた帝国兵達だったが、逃がしはしないとデアラスールへ飛びかかる。 「……無念!!」 ――諦めかけたその時だった。 「ぐぁあ!!」 「何っ!?こいつらの仲間か!?」 突如として遺跡の瓦礫の中から何かが飛び出し、帝国兵の1人を吹き飛ばす。 「あ……あれって……」 ジゼルが頭上を見上げながら何かを指差した。 何が起きたのか把握できずにいるデアラスールは、指先の差す宙へと目を向ける。 クルクルと回転しながらゆっくりと落下してくる物。 それはまるでデアラスールの方へと導かれるように落ちてくる。 「これは……!」 掴んだものは希望。 彼が長きに渡り使命を共にしてきた盾である。 「おぉおおおお!それって、あれでしょ!?前に君が言ってたやつでしょ!?」 「はい……私は主様を守る盾。その象徴にございます」 それはデアラスールの魔力に反応したからなのか、それとも、主を守らんとする強き意思の成した奇跡なのか。 どちらにせよ、確かに戦況は一変した。 「何かと思えば、ただのバカでかい鉄屑ではないかっ!」 「怯むなっ!数ではまだこちらが有利だ!」 しかし、怖気づくどころか、さらに殺気立つ帝国兵達。 「うぉおおおお!」 そんな帝国兵達が動く前に、一番近くにいた兵士を盾で殴り飛ばすデアラスール。 「ぐはっ!!」 思いもしなかった反撃に帝国兵達の顔に一瞬恐れが見えた。 「主様!」 「うんっ!」 その隙を見逃さずに突くデアラスール。 声に呼応し、素早くデアラスールの背へとしがみ付いたジゼル。 「しまった!」 まるで打ち合わせされていたかに思えるほどの素早い連携。 帝国兵が2人に駆け寄ろうとした時、既にデアラスールは宙高く飛び上がっていた。 「天井を破壊し、脱出します」 「おっけー!あ、何度も言うようだけど、あんまり出力上げすぎないように気を付けてよね!?ここでビリビリして落下なんてことになったら目も当てられないから!」 ――その夜 「つ……疲れた…………」 「主様。今日は大変でした。お戻りになられてから、少しも休息を取られていないご様子。お早くお休みになられた方がよろしいのではないかと」 「んー……まあ、そうなんだけどねー……でも、その日の実験記録はその日のうちにまとめておきたいの……」 ジゼルの年頃を思えば、帝国兵に襲われる経験はトラウマにだってなりかねないようなものである。 それなのに、まるでそんなことなかったかのように研究に没頭するジゼル。 そんな一流の研究者である彼女だからこそ、自分が再び目を覚ますきっかけを与えてくれたのだ。 その恩として、彼女が望むままの生き方を守ることを誓った。 しかし、こうも考える。 研究用の資料や薬を調達するために訪れる街で、度々見かけるジゼルと同年代の若い娘達の姿。 あの娘達と今のジゼル、そのどちらが本当に正しい生き方なのだろうか、と。 「いかんな。私としたことが、まるで主様の親のようなことを考えてしまった」 彼女に差し入れるためにとカップにコーヒーを注ぎながらそんなことを考える。 「主様。コーヒーをお持ちしました。ほんの少しでも休まれて……む?」 ほんの少し目を離した間に、主は机に突っ伏したままスースーと静かな寝息を立てていた。 「主様。お風邪を召されてしまいます」 「むにゃ……今日は……良い記録が……むふふ…………」 寝言を呟きながら幸せそうな寝顔のジゼル。 デスアラールは彼女の肩にそっと毛布をかけ、ランプの灯りを消した。 その際に目に入った記録帳には、しっかりと今日の記録が書き記されていた。 ――数週間後、とある街 「何という幸福感。暖かい……」 街はずれの小さなカフェ。 その日、テラスで優雅にくつろぐデアラスールの姿があった。 一週間前の事である。 「研究は新たな段階へ移行だ!次は君以外の“人間”で実験を行うよ!」 ジゼルの言葉に従い、デスアラール達は近郊の街を訪れた。 当初は、協力者の1人や2人すぐに見つかるだろうとたかをくくっていた彼等だったが、 未だにジゼルは街中を走り回り、目についた人を片っ端から勧誘している。 ジゼルの研究は人体での実験が必要不可欠であり、そういった話に進んで協力しようという人間はなかなか現れなかった。 当然、デアラスールも勧誘を手伝うと申し出たが…… 「君みたいなごっつい金ぴか鎧に、急に話しかけられたらみんなビビって逃げちゃうでしょ!?アタシ?アタシはほら、ビビるとかの前に好奇心とか興味心とかがさ!」 と、申し出を断られてしまった。 やりきれない感情を覚えるも、主の命令では断る事はできなかった。 ジゼルの言葉を聞き入れ、仕方なく待機することになったデアラスール。 待機中はとくにやることもなかったので、数日前にジゼルに取り付けてもらった、日光から光の魔素を補充する機能を試してみたところ、これが何とも言い難いものだったのだ。 「主様。やはりあなたは天才であられる……」 既に活動に必要な魔素は十分に摂取できている。 それでもこの気持ちを味わうためだけに今日も陽が落ちるまで日向ぼっこ。 「体中が暖かな光に包まれ、体が自然と浮き上がるかのような高揚感だ……っは!人間の睡眠というものはこれに近いものなのではないだろうか!?わたしは今、昼寝というものを体験しているのだろうか?」 「見つけたーっ!!デアラスールぅううう!!!!」 「む?主様!?」 リラックスタイムから急変。 自分を呼ぶ小さな声を確かに検知したデアラスールはあたりを見回す。 すると、遠方からこちらへ駆けてくるジゼルの姿が見えた。 デアラスールも主を迎えるようにジゼルへと駆け寄る。 「頭ぁ!頭取って!頭下げてぇええ!!」 「む??」 近づいてくるジゼルは、デアラスールに頭部である兜を外し、ジゼルの方へとお辞儀するよう指示する。 無関係の人間が聞けば混乱する内容だったが、デアラスールには通じたようだった。 「かしこまりました」 指示の意図までは理解できなかったが、命じられるままに頭部を取り外し、そのままジゼルに頭を下げる 「でゅわっ!」 駆けてきた勢いそのままにデアラスールの鎧の中へと飛び込んだジゼル。 「蓋ぁ!頭付けてっ!!それから静かにここで静止!」 未だに行動の意味が理解できないデアラスールだが、やはりここは命令に従う。 ジゼルを腹の中にかくまったまま頭部を取り付け、直立不動でその場で立ち尽くす。 少しすると、ジゼルが走ってきた方向から2人の衛兵がやってきた。 「ややっ!?これは騎士様ですかな?」 「なんとも神々しい鎧姿ですなぁ!」 金の鎧姿のデアラスールに対し、やや好奇の目を向けながら話しかける衛兵達。 「じつは今、人を探しておりましてねぇ……こちらの方に逃げてきたはずなんですが、見かけませんでしたかぁ?この辺りでは珍しい金髪の少女なんですがねぇ……」 衛兵の話によると、最近、怪しい誘い文句で街中の人間を人体実験に勧誘する金髪少女が街に出没しているらしい。 当然、それがジゼルの事であることはデアラスールもすぐに把握した。 (どうしたものか……静止せよとの主様からの命だが、何か答えねば私にも疑いがかかってしまう……主様の身代わりとなれるのであれば問題はないが、主様は今ここにおられる……どうすれば…………) 「あのぉ……聞こえてますかぃ……??」 何も言わずに立ち尽くすだけの金色の鎧男。 さすがに衛兵もその挙動に不信感を覚える。 (飛んで逃げるか…否、そもそも静止せよとのご命令…そうか!恐らく主様は、ここはあえて何もしないことこそが正解とおっしゃっているのか……!) 「……見なかったなぁ」 (それは無理がありますぞ……!!) 衛兵に声をかけられてから、無言のまま経過すること約1分。 ついに鎧の中から聞こえた返事は、その厳格な雰囲気とはまったくもって似つかわしくないジゼルの声だった。 「……何か、今の声おかしくなかったか?」 「あぁ……それに、さっきから怪しいな、あんた……」 「まさか金髪少女の仲間か!?」 「こっちへ来い!お前なにか知っているな!?」 さすがに誤魔化されない衛兵達は、デアラスールを取り調べようと、路地裏の方へと突き飛ばした。 ――カコォオン…… 「おっと、兜が取れちまった……」 勢いよく突き飛ばしたせいか、衝撃でデアラスールの頭部が外れて地面に落ちた。 「へっ……悪いなぁ……まぁ、あんまり手荒なことされたくなかったら大人しくついてき……え?」 「お、おいっ!!!!おまえ……頭が……え……あぁ!?」 兜が外れればそこには頭があり、顔がある。 それが普通で、それが当たり前。 そんな常識の外の住人であるデアラスールの正体を見た衛兵達は言葉を失う。 「……みぃ……たぁ……なぁあああああああああ!!!!」 「うわぁあああああああああああああ!!!!」 「お、お、お化け鎧だぁああああああああ!!」 腰を抜かした衛兵達。 そこへ追い打ちをかけるようにジゼルは鎧の中から声をあげて脅かした。 瞬間、信じられない速度で叫び声をあげながら2人は逃げ去っていったのだった。 「ぷはぁ!どう?追っ払えた??」 鎧の中で縮こまりながら隠れていたジゼルが顔を出して安全を確認する。 「作戦成功。見事に主様の思惑通りに事が運びましたね」 「え……?あぁ……うん!でしょ?やっぱり天才は何をさせても天才ってね!」 (まさかアドリブだったのですか主様……?) 「さてと、じゃあ協力者探しを再開しますかっ!」 「主様。やはり私もお供した方が」 「んー……まあ、それもそうね。またさっきみたいなことになっても困るし、君がいれば衛兵達もビビって近づいてこれないだろうしねぇ……むっふっふっふ」 それからというもの『動く黄金のお化け鎧』の話は瞬く間に広がり、街中の噂となる。 さらに、いずれは大陸中の酒場で語られる事となるのであった。 ――その晩 「ここだけの話なんだけどな……?出たらしいぜ」 「また、そんな話かよぉ!おめーの話はいっつも嘘ばっかじゃねぇか!」 「今度のはマジなんだって!実際にこの街の衛兵が今日見たらしいからなぁ……」 街の酒場で酒を飲みかわす数人の男達。 酒のつまみにとその中の1人が語り始めた。 「その話によるとな、今この街では中身のない黄金の鎧がうろついてるらしいんだよ!」 「ははっ!黄金の鎧だぁ?なんとも派手な幽霊だなおぃ!」 「あー……そういや最近見かけたなぁ。黄金の鎧」 「ほらみろっ!やっぱり本当にいるんだよヤツは……!」 「でも、その鎧、街はずれのカフェで日光浴してたぞ?」 「ぎゃっはははははは!鎧のまま日光浴!!蒸し焼きにでもなりたいのかよっ!!!!」 ついには話を始めた男さえも笑い話にして笑っていた。 その少し離れた個室で聞き耳を立てている少女がいることも知らずに…… 「むふふ……これは使えるね!ちょっとついてきてくれる?デアラスール」 「主様。何をお考えで?」 「これはグローブの被験者を確保するチャンスっ!君は話の空気を読んで動くだけでいいからね!」 「承知いたしました」 おもむろに男達の方へと歩き出したジゼル。 その後ろをデアラスールは指示通りついて歩く。 「ねぇねぇ、お兄さん達!」 「んん?誰だぁ??」 声をかけられた男が振り向く。 「……え?ま、まさか黄金の鎧!?」 「お、おい!もしかして、おれ達がさっき笑っちまったから、その復讐に……」 振り返った先には、満面の笑みを浮かべる少女と噂の渦中にあった黄金の鎧の姿。 突然の遭遇に男達は慌てふためく。 「それは違うから安心していいよ!ちなみに、この鎧もお化けなんかじゃないよ!」 ジゼルは男達をなだめ、こほんと軽く咳払いをひとつ入れて語り出した。 「この鎧さ、じつはアタシが開発した最新の魔導鎧なんだよねぇ……だから、ほら!」 実際にデアラスールの頭部を外し、中を覗いてみるように男達へ促す。 「おぉ……ほんとに空っぽだ……」 「最近はこんなもんまで作れるようになったのか……」 素直に関心する男達の様子に満足気なジゼルは続けた。 「しかも、この最新型は、中に入らなくても操作が可能な優れものなのっ!操作は簡単!誰でもこのグローブを装着することで……この通りっ!!」 当然、グローブにそんな機能は備わっていないが、デアラスールがここで軽く腕でも動かせば、それは遠隔操作の実演に早変わり。 そうなれば次は実際に男達もやってみたいと自ら進んでグローブをはめてくれる。 それこそがジゼルの狙いだった。 (理解しました。主様。ここで空気を読んで私が行動する事によって被験者が得られるわけですね) その意図はデアラスールにも伝わった。 かに思えた…… 「流石は我が主様。天才であられます。これほどの発明は過去類をみない最高のものでしょう!しかも、それを実際に手に取って体験することができるとは……あなた方はとても幸運です!」 「「え……?」」 ジゼルを含め、その場にいた全員の口から同時に漏れた声。 「こ、こいつ、喋ったぞ!!!!」 「やっぱり化け物じゃねーか!!」 鎧のとったまさかの行動を目撃した男達は、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。 「なんでっ!?どうしてそうなった!?!?腕の1本でもウィーンみたいな感じで動かしてくれるだけで良かったのに!!空気を読んで動いてくれるだけでいいって言ったよねぇ!?ねえっ!?!?」 作戦は見事に失敗。 ジゼルは、デアラスールを指先で力強くツンツンツンツン小突きながら怒りを露わにする。 「任務失敗。てっきり、機を見計らい、私が主様の研究成果を称賛することで、男達の関心を買おうとしたものとばかり」 「何それぇ!?まるでアタシの研究のスゴさがアイツらに伝わってなかったみたいじゃない!!」 ジゼルの怒りが治まるまでの間、デアラスールは数百発ツンツンされ続ける羽目となった。 「はぁぁぁぁぁぁ……アタシも作戦を全部説明してから行動するべきだった……」 「どうか気を落とさないでください。主様」 「それわざとやってない!?!?君が言えたことじゃないよねぇええ!?!?」 「む……不覚。言葉の選択を誤ったようです」 そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけた衛兵達が酒場のドアから雪崩れ込んでくる。 「ここに怪しい2人組!自称天才の金髪少女と、動く鎧がいると通報を受けたっ!!」 「げっ!?こんなことしてる場合じゃないっ!逃げるよ!!」 「承知いたしました。退避行動。飛びます」 一目散にデアラスールに向かって飛び込むジゼル。 デアラスールはジゼルの身をしっかりと受け止め、直後に宙に舞い、そのままいとも簡単に屋根を突き破る。 ぽっかりとあいた穴から、衛兵達のポカンとした顔を一瞥(いちべつ)するジゼル。 「あぁー……今回も駄目だったなぁ……」 「主様。ひとつよろしいですか?」 「ん?さっきのことならもう怒ってないよ?」 「いえ。先ほど衛兵が申していましたが、主様は自称天才などではありません。間違いなく本物の天才科学者ですよ」 「い、いやぁ……知ってることとはいえ、やっぱり照れるなー!!あ、そうだ!さっきの遠隔操作だけどさ、あれホントに作っちゃおうか!」 「主様のお望みのままに。私にできることがあれば何でもお申し付けください」 そのまま街を脱出することにした2人。 彼らはまだ見ぬ実験台を探して別の街へと旅立っていく――
https://w.atwiki.jp/sokulibe/pages/502.html
+深淵に埋没せし記憶ダリア 部屋の片隅でゆらゆらと揺れる小さな炎。 膝を抱えながら、見守るようにその光を見つめる女の姿。 ロウソクの炎が映り込んだ瞳は、宝石のようにキラキラと輝いているが、その奥にはどこか寂しく、哀しげな、そんな影が見え隠れしているような気がした…… 「ダリア。またそうしているのか……」 ダリアと呼ばれた女は、自分を呼ぶ声に後ろを振り返る。 「次の指令らしい。皆を集めろ」 ダリアと呼ばれた女は、その声にコクリと小さく頷き、少し惜しむようにロウソクの火を吹き消した。 ――いつからだろうか。 時々、ああしてロウソクに火を灯すようになったのは。 静かに火を眺めていると心が落ち着く。 どこか懐かしいような、そんな穏やかな気持ちになる―― 招集を受け、赴いた別の部屋。 薄暗く、少し開けたその中心には、自分の他、数人のメンバーが集められていた。 「揃いましたね。では、今回の指令内容をお伝えします……」 ――暗黒組織『夜の鍵』 怪異的な事件や現象が起きるたび、巷でその名が囁かれる。 ただの噂話と、作り話と、その存在を疑う者も多いが、我々は闇の中に確かに存在する。 目的は「この世の全てを手に入れる」こと。 馬鹿げていると人は笑うかもしれない。 だが、我々を統べる『団長』と呼ばれる人物。 その正体は団員達でさえも知らない。 それでも、その言葉と行動、示してきた結果は、それを目にした人間を一瞬のうちに虜にした。 私も、そうして団長に……夜の鍵の一員として仕える身。 「…………となります。今回の指令は以上です。何かご質問は?」 半刻程の時間をかけ、団長からの指令がメンバーに伝達された。 淡々と指令を告げるこの女は、団長ではない。 団長の指示を他のメンバーへと伝達、大掛かりな作戦では指揮の補佐なども行うようだ。 組織内で団長と頻繁に接触を持つのは主に創立時のメンバーだという話。 伝達を担うこの女は団長の何なのだろう。 団長の正体も知っているのだろうか。 ――ぐっ!……まただ……組織のこと……団長のことを考えると頭に痛みが走る……! 「聞いているのか、ダリア!」 「え!?あ……」 その様子を隣にいた別の男メンバーが叱責する。 突然の大きな声に我に返るダリア。 「最近、少し気が抜けているぞ……気を付けろ……!」 悔しそうに唇を噛むダリア。 「ケケケ……」 そんな様子をニヤニヤと笑いながら見ている他のメンバー。 ダリアはキッと彼らを睨み付けて一蹴する。 「おー……こわっ」 (チッ……卑しい連中だ!だが、確かにたるんでいた……私は何をやっている……!) ――翌日、早朝。 『ミール』と『ラグーエル』のおおよそ中間。 そこには、生い茂った木々が空を塞ぎ、ほとんど陽の指さすことのない真っ暗な森が存在する。 『黒の森』と呼ばれ、周辺の人間が近づくことさえためらうその森の外れに、周囲を警戒しながらゆっくりと歩く2つの人影があった。 「ここらで別れるぞ。最近、この辺でも帝国軍の兵士が目を光らせてるらしい。用心しとけよ?」 「言われるまでもない……」 「けっ……ちょっと団長に気に入られてるからって、お高くとまってんじゃねぇよ……!」 影の正体はダリア。 それと、同じく組織のメンバーである男。 男はダリアに聞こえるように愚痴を垂れながらラグーエル方面へと歩いていく。 「ふん……安い男だ……」 そう吐き捨て、一人残されたダリアは、今回の指令のためにミール方面へと足を向ける。 (団長のお気に入り) 歩きながら、その言葉を心の中で繰り返す。 身に纏う鎧と盾。 闇の力を宿すとされているこれら魔武具は、自分が組織に加わる際に『団長』から直接授かったもの。 組織のため、団長のために力を振るうと誓った瞬間でもある。 それが私の最初の記憶。 それ以前の記憶は無い。 思い出す必要もない。 知ったところで何も変わらない。 あの時の誓いは、心からの想いであるのだから。 だが、それでも知りたいことはある。 盾を傾けると覗く、その裏に刻まれた言葉。 ――最愛の人を守る為、この盾を振るう 自分が彫ったものではない。 恐らくは前の所有者が刻んだものなのだろう。 もしかすると団長自身の言葉なのではないだろうか。 それを何度か直接聞こうと考えたことはあった。 「ぐうっ……またか……」 深く考えようとすると走る頭痛。 まるで身体の内なる何かが、それを阻むように頭をガンガン殴りつけるような。 触れてはならない。 知ってはならない。 そう訴えられている気がする。 今は考えるのをやめよう。 与えられた指令が何よりも優先される。 ダリアは邪念を掻き消すように頭を強く振った。 ――任務を終えて必ず帰ると約束しよう。 そんな言葉が頭の中に響いた。 「そうだ……私はダリア。団長に仕える『夜の鍵』の使者……!」 指令を終え、アジトへと帰り着いたダリアは、またいつもの部屋の隅で膝を抱えていた。 ゆらゆらと揺れる小さな炎。 その光を見つめる瞳の輝きは、以前と変わらぬように見える。 が、その奥に潜む影は、わずかではあるが一層深く、暗いものになっているようだった。 「やっぱりここか、ダリア」 「何か?」 「…………」 ダリアに声をかけた男は、一瞬何かを懸念するかのように考えた後、こう告げた。 「次の指令だ。集まれ」 ダリアが帰還してから1日と経たぬ間に下される新たな指令。 それでも彼女は嫌な顔一つどころか、さも当然のような表情でコクリと頷き、また少し惜しむようにロウソクの火を吹き消した。 「では今回の指令をお伝えします……」 いつもの薄暗い部屋。 いつのようにただ聞き入れる指令。 「数週間に渡り帝国兵の動向を調査し、それらを精査した結果、ミール近辺に革命軍の構成員が潜伏している可能性が高いとの結論に至りました……」 この言葉に、その場にいた者達の顔に歓喜の表情が浮かぶ。 ダリアを含め、組織のメンバーは、革命軍の拠点の所在を突き止めるため、連日調査任務をこなしていたのだ。 そして、その目的は、革命軍内部に組織の人間を送り込み、いわゆるスパイとして行動させることにあった。 夜の鍵は、目的を阻む存在として、帝国軍を敵視している。 そして革命軍もまた、帝国軍の侵略行為に抗おうと戦っている。 帝国軍という同じ敵を持つ組織ならば、得られる情報も有用なものとなるだろう。 だが、その先にあるであろう最終的な目的に関しては、何一つ知らされることはない。 一癖二癖もあるメンバー達がそれでも従うのは、やはり『団長』の存在がそれほど大きいということなのだろう。 「気を緩めてもよいとは言っておりませんが?綿密な調査にも関わらず、確定的な情報の入手には成功しておらず、革命軍は徹底した厳戒態勢を敷いているようです。当然、帝国軍に対する罠という可能性も残っております……」 一喝され、緩んだ表情を再び引き締めなおす一同。 「これに伴い、我々は調査対象をミール近辺に限定。集中的な調査を行うことにより、革命軍拠点の特定を試みます……」 集中調査。 それは、実際に任務にあたる際の危険度が激増することを意味している。 帝国軍も、革命軍を排除しようとその所在を探している以上、鉢合わせする可能性は高まるうえ、目標である革命軍に途中で感付かれた場合は作戦自体が水泡に帰すこととなる。 「詳細な作戦については、団長様の決定が下り次第、追って通達するとのことです。それまでは各々待機してください……」 ここしばらく休みなどほとんど取ることなく働き続けていた一同にとって、休息を取る機会ともいえる「待機」の言葉は喜ばしい。 だが、即決即断を常としてきた団長の行動としては、あまりに異常の事態であった。 組織に加わって以来、待機指示など受けたことのない一同にとって、この言葉の重さは緊張感のみを与える結果となる。 恐らく、それほど絶対に成功させなくてはならない重要な作戦なのだ。 女の声や表情には出ていないが、場が緊張に包まれていく。 「それでは、解散……」 「その前に、ひとついいか?」 重い空気のまま解散となりかけたその時、ダリアが口を開いた。 「……いかがしましたか?」 皆が一様に指令をただ聞き入れる。 それが当たり前になっていたその場において、予想していなかったダリアの進言。 一同は戸惑いを隠せない。 「今回の作戦行動、その立案に私も参加させてもらいたい」 「……今、なんと?」 通常、『夜の鍵』の具体的な作戦については、団長一人でこれを決定し、速やかにメンバーに伝達するといったケースが多い。 例外として、大規模作戦の際などにおいては、創立時のメンバー数人が作戦立案に協力することもあったが、それも稀である。 「ダリア様……あまり思い上がらぬ方がよろしいかと……」 『夜の鍵』のメンバーは、もともと『団長』という人間に惚れて加わった者達が多く、そのため皆が「団長の力になりたい」という 強い想いの下に行動している。 その時間は長いほど組織への、ひいては団長への想いも人一倍のものだ。 それゆえに、組織の中ではまだ立場が弱いながらも、団長から武具を直接授かった経験を持つダリアに対し、メンバー達が好感を抱いていないことはもちろんの事、今のような発言に対する反応が過敏になってしまうことは仕方のないことなのかもしれない。 「私とて『夜の鍵』の一員だ。少しでも組織の役に立ちたいと考えている……」 「それはここにおられる方々の全員がそうであるものと思われますが……?」 「今の手法では、私の能力を全て活かしきることができない……それは、組織に対し、手を抜いていることと同義だ……」 「…………残念ですね……まずは、その品のない口の利き方から直して差し上げましょうか……?」 「自身を大きく見せようとして、言葉遣いや振舞いに気を遣っていたようだが、メッキが剥がれてきているぞ……?」 「てめぇ!いい加減にしやがれっ!!」 ここにきて、女とダリアのやり取りを横で見ていたメンバーのうちの一人が声を荒げる。 指令はそれすなわち団長の言葉。 組織のメンバーでありながら、従うべきはずの言葉にまで噛み付こうとするダリアの態度に、これ以上我慢できなかったのである。 「ふんっ……」 「あ……?ぐあっ!?」 怒りが頂点に達し、ダリアに詰め寄ろうとした男だったが、その視界は瞬く間に上下が逆さまになり、直後、彼の背に強い衝撃と痛みが走った。 「私の態度が気に入らないというのならば構わない……かかってこい……」 「おいおい……不意打ちが一発決まっただけでもう勝てるつもりかよ……!!」 ダリアは、団長が自ら組織に引き込んだ人間である。 このような例は珍しく、それは少なからず組織内のメンバーの不信感と嫉妬を生んだ。 だが、それ以上に、これまで彼女が組織の一員として尽くしてきた姿、なによりその技と力はメンバーの誰しもが認めていた。 投げ飛ばされたことでダリアの実力を改めて確認し、スイッチを切り替えた男。 その雰囲気は先ほどまでのヘラヘラしていた様子とは全く違うものだった。 張り詰めた緊張感により、再び静けさを取り戻した室内。 「お二方とも、どうか落ち着いてください。仲間割れをしていても何も始まりません……」 「……」 その様子を見かねた女は、ゆっくりとダリアに語り掛ける。 「ダリア様。そのご意見は聞き入れられません。これは、この組織が守ってきた秩序。それはご理解いただけますね?」 「あぁ……」 「それでもなお、好き勝手に動きたいとおっしゃるのなら……好きにするとよろしいかと……」 「組織に対する裏切りだとでも言うか……?」 「結果次第かと。団長様の意向に沿う結果であれば、生き残る道もあるいは……」 「異論はない……役立たずは切るべきだ……」 「では、そのように……」 「あぁ…………その……すまない」 「…………」 ――翌日、同アジト内、某所 「ダリア様が待機指示を無視し、単独で行動を開始いたしました」 広い部屋の中央に巨大な作戦卓。 山積みになった書物や資料。 それを囲むようにして椅子に腰かける数人の男女達。 報告を受けた彼らは、メンバーの命令違反を耳にしたというのにどこか楽しげな雰囲気に見受けられる。 「団長様の読み通りでございました。流石です……」 「まさかとは思ったが、本当に指令を無視するとは……」 「ほらな……団長に賭けてて正解だった!」 「……次はレート倍で」 「だったら、次は私にベットしなさいよ……いい夢見せてあげるわよぉ?」 「ははっ!血と一緒に金まで吸い尽くしてやるってか!?リリヴィスちゃんよぉ!?」 そんな男女達のさらに奥。 ゆったりとした椅子に腰かけながら、静かに笑う人影があった。 室内にも関わらず深くかぶった帽子が特徴的である。 「ふふ……ここからさ……」 ――その頃 作戦の中にあった『ミール』という情報を頼りに、ひとりで革命軍拠点の所在を掴もうと、ダリアは峠を歩いていた。 「馴れ合いが性に合わぬとはいえ、自分のことながら思い切ったものだ……」 日々与えられる雑用のような指令。 それでも、組織に、団長に尽くそうと懸命にこなし続けてみたものの、それがどれほどの貢献になるだろう。 ひとつ指令を済ますたび、自分の心には達成感よりも不安が積み重なっていった。 そんな時に訪れた機会。 この作戦さえ成功すれば、間違いなく団長の目標に大きく近づくことになる。 これは好機だ。 不安で押しつぶされそうな状況。 どうせこのままでは近いうちに自分は押しつぶされてしまう。 ならばいっそのこと、後戻りできない状況に身を投げてでも。 そんな想いがもたらした行動だった。 「少し休むか……」 アジトを抜け出してから丸一日。 歩き詰めだった足はパンパンに張り、空腹と喉の渇きのせいで疲れが一段と増すようだ。 ミールへの道中で見かけた小さな街。 陽も落ちてきたその日は、そこで宿をとることにした。 「ん?なんだ?」 荷物を宿に置き、食事のために赴いた酒場が何やら騒々しい。 「たった一人で威勢がいいじゃねえか小僧!」 「俺たちが誰だかわかってんだろうな!」 (ちっ……帝国軍の兵士か……) そこにいたのは帝国軍の兵士が4人。 ダリアはすぐさま柱に身を隠し、その様子を伺う。 誰かを囲って、何やら揉めている様子だった。 身を隠しながら、ダリアは傍にいる酒場の客らしい男に事情を聴いてみることにする。 「おい……何かあったのか?」 「ん?何だあんた?帝国軍の兵士だよ。あいつら、毎晩のようにここで酒だの女だの好き勝手にギャーギャー騒いでやがんだ……」 「誰かと揉めているようだが……?」 「ああ。帝国軍に逆らうわけにもいかねえから、みんな黙ってたんだがよぉ……あの兄ちゃんが奴らを注意したんだ」 それを聞き、兵士達の体の隙間から男の姿を確認するダリア。 囲まれている男はまだ若く、体つきも華奢に見えるが、全くひるむ様子もないまま兵士達の顔を見据えている。 「身の程知らずな奴だ……だが、気になるな……あれはこの街の人間か?」 「あの兄ちゃんか?いや……見ねぇ顔だ。旅人じゃねぇか?」 ダリアは改めて青年を注視する。 見慣れない法服を身にまとい、杖のようなものを携えている。 帝国軍の人間を相手に問題を起こそうとするような人間は、まず一般人にはいないと言ってもいい。 (どこかの神官か?もしかすると革命軍と何か関係がある者の可能性も……) 状況を整理し、自分がどう動くかを考えるダリア。 そのとき、自分に向けられる鋭い目線に気付いた青年。 青年は視線を辿り、ダリアと目を合わせた。 「はっ!?君は!」 その瞬間、青年に声をあげられ、帝国軍の兵士達もまたダリアの存在に気が付く。 「あぁん?お仲間かぁ!?」 「ちっ……余計なことを……!」 帝国軍に目を付けられたダリアの取れる行動は二者択一。 「逃走」か「戦闘」か。 本来であれば、自分に関係のない厄介事はなるべく避け、さっさと街の外へ逃走するところであったが、どうしても拭い切れない予感のようなものがダリアの袖を引く。 結果的にダリアが選択したのは「戦闘」だった。 「そこの女!おまえもこっちに……え!?」 「はぁっ!!」 突然の攻撃。 呆気に取られた兵士は、体勢を整える前に吹き飛ばされる。 「自分が何してんのかわかってんのか、てめぇ!?」 仲間がやられ、慌てて剣を抜きダリアへと向ける兵士達。 「実戦も知らない雑魚共がっ!」 明らかな敵意を持って攻撃してくる相手に対し、未だに脅しが通じると思っているのか、剣を振るうことを躊躇する兵士達は、ダリアにとって敵ではなかった。 瞬く間に4人の兵士を倒してのけたダリアに対し、周囲にいた客達は歓声を浴びせる。 「「うぉおおおおおおおおおおお!!」」 「すげぇ!かっこいいぜ姉ちゃんっ!!」 「酒持ってこぉおおおおおおおい!」 歓喜に沸く周りとは裏腹に、ひとり冷めた表情のダリア。 「ふん……調子の良い連中だ。おい、大丈夫か?」 戦闘態勢を解きながら、青年へと話しかけたダリア。 何の算段もつけずにアジトを抜け出してきたダリアにとって、わずかでも革命軍に近づく可能性があるのなら、と助けた青年。 わらにもすがる思いで厄介事を引き受けた彼女だったが…… 「あ……え?」 理由は定かではないが、混乱している様子の青年。 兵士達と対峙していた時とはまるで様子が違う。 実は内心、恐怖心で一杯だったために腰を抜かしたのだろうか。 「おまえ、革命軍の関係者か?」 はずれか。 とは思いつつも、念のために、もう一度質問をするダリア。 あまりに直球的な質問だったが、誤魔化そうとすればその挙動はどこかに現れる。 それを見逃さまいとぶつけた問いだった。 「え?か、革命軍……?」 相変わらず混乱しているようだ。 だが、その反応に不審な点は感じられなかった。 「無駄骨を折ったか……」 帝国軍に手を出した以上、もはやダリアはお尋ね者である。 (増援が来て、さらに面倒事になる前にこの街を出るか……否、ひとまずは身を隠し、ほとぼりが冷めるのを待つべきだな) これ以上、ここに留まり続けることは大きな危険を伴う。 だが、もうひとつの可能性をダリアは考えていた。 それは自分からではなく、革命軍からこちらに接近してくる可能性。 この騒ぎの噂を聞いた革命軍が、自分の正体を確かめるために接近してくる可能性は捨て難い。 帝国軍と敵対する者。 その意味では同志ともいえる立場の人間相手に、どれほどの興味を持つだろうか。 考えたダリアは、急ぎ潜伏場所を確保するため、ため息交じりに酒場を後にした。 「待ってくれ!君なんだろ!?シャロン!」 「え?なに!?」 背後からの声に振り返るダリア。 自分を呼んだ声ではない。 だが、あまりに自然と振り返ってしまった自分の行動に驚く。 「……やっぱり君なんだね?」 そこにいたのは先ほど助けた青年。 他人と勘違いでもしているのだろうか。 「人違いだ……私はシャロンなどという名ではない」 「いいや……間違いない……!シャロン……ずっと探していた!」 不思議と青年の声は心に響く。 どこか懐かしく、愛おしいような。 「ぐうっ……!またか……!」 そんな気持ちを掻き消すように走った頭痛。 「シャロン!?どこか痛むのか!?今すぐ傷を……」 「近づくな!私に触れるな!!」 青年が伸ばした手を払いのけるダリア。 触れてはいけない。 関わってはいけない。 鳴り響く頭痛がそう訴えてきている気がする。 「私はダリアだ!シャロンなどという女ではない!これ以上関わるな!!」 「待ってくれ!!」 思わず口にしてしまった本名。 だが、そんなことよりも、今はその場から、その男から逃げ出したかった。 ――任務を終えて必ず帰る そうだ。 私には任務がある。 這い寄ってくる何かを振り払うように走り出したダリアは、夜の闇へと消えていった。 ――数日後 「ぐはぁ!!」 「追っ手を差し向けるならもっとマシなのをよこす事だ……」 先日の一件以来、帝国軍の敵として識別されたダリアは、追っ手をひたすら返り討ちにし続けた。 それどころか、帝国兵を視界に捉えようものなら、自ら躊躇無く攻撃をしかけるようになっていた。 冷たさ、静けさ、彼女が持っていたそんな雰囲気は今の彼女からは感じられず、どこか必死で、苦し気という言葉が似つかわしい。 手を付けてしまったものは仕方ない。 どうせやるなら派手にやる。 そんな理由を並び立ててはいるもの、吹っ切れたというわけではなく、何かを忘れるために戦いに身を投じているように思える。 「そろそろ出てきたらどうだ?敵意は無くとも、あまりに鬱陶しいようなら叩き伏せるぞ……?」 周囲に散らばる帝国軍の兵士の亡骸。 戦場だった場所の中心たった一人、深く深呼吸し、息を整えてから静かに呟いたダリア。 「わっ!?えっと……バレちゃってましたか……噂に違わぬ勇猛っぷりなのですよ!流石ですー!」 ダリアの位置から10メートル程離れた茂みの中。 観念したように、ゆっくりと茂みから現れた声の主は、とても小さな……妖精だった。 「昨晩からの絡みつくような視線。気付かないとでも……?」 「むむ!これでも尾行が上手だねってホメられるんですよー??」 「無駄話は不要……私を監視していた理由は……?」 「わわっ!えっと……何から話せばいいんだっけ……!?」 「……革命軍が何の用だと聞いている」 「え!?そこまでわかっちゃうんですか!?まだ話してもいないのに!!」 「たった今話してもらった……」 「わわっ!?ハメられたのですよ!」 「やはり革命軍か。もう少し頭を使った方が良い……革命軍の草の者はおまえのような者しかいないのか……?」 目的である革命軍への手がかり。 それをも飛び越え、よもやの直接の接触。 予想を超える収穫ではあるが、目の前の妖精の緊張感の無さに達成感は削がれていく。 「むむぅ……!ひどいですよ!あんまりですよ!!まあ、あれくらいの視線に気づけないようでは用事なんてないんですけどね!軽いテストのようなものですよ!」 ピリッと緊張感が走る。 「……テスト?」 「はいっ!実は、その革命軍の方々があなたに興味を持っているのですよ!是非、お茶だけでもいかがかなーっと」 お互い、完全に信用したわけではない。 だが、相互の利益を考えれば手を結ぶ機会は逃したくない。 「……少し時間をもらいたい」 「ええ!もちろんいいですよ!」 様々な思考が行き交う。 自分の役目は、このことを団長の耳に入れ、今後の対応の指示を仰ぐこと。 「知っての通り、今は少し立て込んでいる。それを片付け次第、話を聞かせてもらおうと思う」 「追っ手の帝国軍のことなら、特別に我々が引き受けてもいいですよ!?」 革命軍とて優秀な人材は喉から手が出るくらい欲しいはず。 だが、そのためとはいえ、無用なリスクは進んで負いたくはないのだろう。 どこかから情報が洩れる可能性を考慮し、できるだけ手早く手駒にしておきたいといったところか。 「……別件だ。他愛のない個人的な用件だが、無視できない」 下手な嘘は逆効果になりかねない。 例の青年のことをふと思い出したダリアは、とっさにその事実を隠れみのにすることで、団長への報告任務を隠し通す。 「あー……男の子を助けたそうですね!我々があなたに興味を持ったのもそれがきっかけといえばきっかけなわけですけど……」 「あの様子だと私を追ってくる可能性が高い。それはそちらにとっても邪魔な要素だろう?」 「それは、そうですね。それも我々に任せていただいていいですけどぉ……あれあれ?もしかして惚れちゃいましたか??」 「馬鹿なことを!!せ、せっかく助けてやったのだ。このままだと愚かな真似を繰り返すことになりかねない。目覚めが悪くなるようなことはゴメンだ……釘を刺しておきたい。それだけだ……!」 もう関わらないと決めたはず。 所詮は真実を隠すための囮。 なのに、こうも考えてしまうのは何故か。 ここのところ振り切ろうとしていたモヤモヤが、また忍び寄ってきた。 「わ!?そんなお約束みたいな言い訳しなくてもいいのですよ!」 「ちっ!」 「わわわわ!?そんなマジにならないでくださいよ!」 キッとダリアに睨み付けられ慌てる妖精。 最初に馬鹿にする発言をされたことが原因なのだろうか。 妖精の言動の所々に、ダリアを挑発するような意図を感じる。 「とにかく……それが済んだら話にも付き合おう……」 「……わかりました。では『イエル』の街でお待ちしているのですよ。後日、あらためて!」 「イエルだな。わかった……」 なんとか妖精を説き伏せ、団長へと報告するための時間を作ったダリア。 「それから、念のために言わせていただきますけど、くれぐれも我々に関することは口外しないようお願いしたいのですよ」 「無論、理解している……」 ゆっくりと緊張が解けていくのを感じるダリア。 あとはこのままアジトへ戻るのみ。 が、妖精に背を向けた途端、ヒヤリとした寒気のようなものが彼女の背をなぞった。 「ちなみにあなたを尾行し始めたのは、昨日の夜じゃなくて2日前からなのですよ?わざと気付かないフリをしてくれてたんですか?お優しい方なのですよ……では、また……」 気配が完全に消えたのを確信するまでダリアは動けずにいた。 力いっぱい盾を握っていた手を解くと、そこには汗がにじんでいた。 ――二日後 アジトへと戻ったダリア。 ダリアの足ならば一日もあれば歩ける距離だったが、彼女はあえて遠回りをした。 まずは開けた草原で周囲に監視の目がないか入念に確認。 その後に歩く道も、追跡する者がいればすぐに察知できる一本道の洞窟などを選択した。 尾行の可能性を排除するため、念には念を入れての行動だった。 「ダリア!?おまえ無事だったのか……」 帰還の報告を受けたメンバーの一人がダリアの下へと駆け寄る。 安否の心配をしてくれていたのか、それともはねっかえりが無事に戻ってきたことを悔やんでいるのか。 真意のほどはわからないが、気には掛けてくれていたようだ。 それだけで少し救われた気がした。 帰ってきたのだと。 「おまえが戻り次第、直接報告しに来させるようにと団長からお達しだ」 「団長が……?」 団長に直接会える。 それは、彼女が鎧と盾を直接授かって以来となる、二度目の経験だった。 「重要な作戦に関わる事案だ。この近隣で帝国兵相手に大立ち回りしている女がいるとも聞いているが、おまえのことだろう?その件についても何らかの話があるだろう」 「……わかった」 少ししてから現れた他のメンバーに連れられ、ダリアはその場を後にした。 その際、自分の後姿を見送った男は、暗がりでよく見えなかったが、不敵な笑みを浮かべているような、そんな気がした。 その日。 とっくに陽は沈み、朝焼けがうっすらと浮かび始めた頃に目的地へと到着した。 迷宮とも呼べるこのアジトの全容を把握している者は、組織内に果たして何人いるのだろうか。 同じアジト内だというのに、自分が歩いてきた時間を思うと、異次元に迷い込んだかのような錯覚にさえ陥る。 「お待ちしておりました。団長様がお待ちです……」 大きな扉の前でダリアを迎え、案内役を下がらせる女。 伝達役をこなす姿を何度も見てきているが、他にも何やら下働きのようなことを任されている印象だ。 世話役、もしくはこの女も創立時から団長に仕えている何かなのだろうか。 部屋の扉がゆっくりと開かれ、そんな考え事は綺麗に吹き飛ばされる。 「おかえり。ダリア」 『団長』。 それと創立時の面々と思わしき男女が数人。 緊張と共に感動が沸き上がる。 「疲れただろう……この部屋へのルートは極秘情報になっている。そのため少し遠回りをさせることになってしまった。すまないな」 顔は帽子の影に隠れて見えない。 だが、かけられた声の優しさに心が軽くなった。 思い返される記憶。 団長に初めて出会い、団長に力を授かり、団長に仕えると誓った記憶。 間違いなくこの方は『団長』であると確信した。 「この度の我が身の勝手極まる行動。誠に申し訳ありません……」 どんな罰でも受ける。 アジトを出たあの日、心に決めたことだ。 「規律を乱すことはいけない事だ……だが、君がここへ戻ったということは、その罪以上の成果を持ち帰ったということなのだろう。とてもじゃないが咎める気にはなれないよ」 「はい……ありがとうございます……!」 「では、早速聞かせてもらおうか。君の成果を……」 「はい!」 ダリアは詳細に報告する。 帝国軍の敵であることをアピールし、革命軍の目を誘うために街で騒ぎを起こしたこと。 数日の後に革命軍からの接触を受けたこと。 イエルで再び接触する約束を取り付けたこと。 「……素晴らしい……これ以上ない成果だ」 「ありがとうございます!」 「……では、次の指令だ。このまま革命軍の内部へと潜入し、工作員として動いてくれ」 「はい」 「具体的な動きについては改めてまた伝達させよう……まずは何人かメンバーを先立って潜入させる」 「え!?それは……私ひとりでは……心許ないと……?」 「いいや。君の身を案じてのことさ……」 「…………」 「この件についての重要性は君も理解していることだろう……それゆえに危険も多い……」 「……はい」 「革命軍に君の存在が発覚し、戦闘になる可能性もある……そうなれば一人で逃げ出すことは戦力的に難しい」 「…………はい」 不服ではない。 だが、自分の力を信用してもらえてないのか、そんな不安が感情を曇らせる。 「……これも君が革命軍への足掛かりを得てくれたおかげだ。だからこそ、君にはもっと大切な……大役を頼みたいと考えている……やってくれるな?」 「あ……ありがとうございます!必ずや……!」 「ああ……そう言ってくれると信じていた。では、少し休息をとるといい。ここのところずっと休んでいないと聞いている。仕事にも支障が出る可能性があるだろう……」 「はい。お心遣い感謝します……」 今すぐにでも動きたい気持ちで一杯だったダリアだが、団長が自らかけてくれた温情。 彼女はその甘い言葉に従うことにした。 報告を終え、新たな指令を受け取ったダリアは退室しようと扉の取っ手に手をかける。 「……ダリア……報告し忘れていることはないな……?」 作戦に関わる事は全て報告した。 団長の求めている答えが何かを考える。 ――まただ。 ふと思い出すあの男の顔。 作戦とはなんの関係もない! まさか、団長はこのことを聞いているのか……? 隠すようなことではない。 知っていること、見たことを全て話すだけだ。 「そのようなものはありません……」 話してはいけない。 護らなければいけない。 心がなぜかそう訴える。 「……そうか。報告ご苦労だった。君には期待しているよ……」 「……はい」 ダリアは背を向けたまま答え、手にかけていた取っ手を押し、部屋を後にした。 頭痛に耐える表情を団長達に見られないように。 ダリアが部屋を後にしたのを確認してから、幹部らしき男の一人が吹き出した。 「ぷっ……ははっ!また賭けはおれの勝ちだ!」 つられるようにして部屋にいる者達が口を開く。 「帝国軍を相手取っての大胆な行動……あまりに危険と思われましたが、この結果もやはり団長様の読み通りとは……流石です……」 「これを機に団長の逆張りは控えることにしよう……これ以上負けても傷を広げるだけだしな……」 「ははっ!リリヴィスちゃんに癒してもらえよ!ん?あれ?なぁ、リリヴィスちゃんいないみたいだけど?」 「別件で外出中のようだ……」 「別件?」 示し合わせたかのように、彼らの視線が団長へと注がれる。 「ああ。彼女には革命軍潜入の先陣に立ってもらうため、先に目標へ向かってもらった。これからと言っただろう?まだ、始まってもいない。本当のゲームはこれからだ……」 帽子の影から覗く瞳の光。 その見据えるモノは果たして。 明けていく空色に隠れるように、闇は姿をくらましていく…… ――一週間後 革命軍と再び接触するため、イエルへと向かうダリア。 その道中、朝焼けの街『トレイユ』を通りがかろうとした時、彼女は再びあの青年と出会うのであった。 「やっと見つけた……シャロン!」 「またおまえか……丁度いい。もう関わるな。おまえの探す女と私は無関係だ。それから、あのような馬鹿な真似はもうするな……それだけ忠告しておきたかった……」 あれからずっと自分を探していたのだろうか。 先日の様子とは打って変わり、違う意味で落ち着きがなく、ブツブツと何かを呟いている。 思えばあの時、とっさにこの男を庇ってしまったために、団長にまで隠し事をすることになってしまった。 これ以上、自分が乱されるのは嫌だ。 「さらばだ……二度と会うことはないだろう……」 (これでいい……これで元通りだ……) その場を足早に去ろうとする彼女。 だが、青年はその手を掴んで離さなかった。 「僕だ!ハシュテッドだ!わからないのか!?」 「しつこい奴だ……!ここで果てたいのか!?」 「シャロン……帰ってきて来てくれ……任務を終えて必ず帰ると約束してくれたじゃないか!」 必死に訴えかけてくる表情。 だが、それ以上に「任務を終えて必ず帰る」という言葉に強く心が揺さぶられるのを感じる。 「な……なぜ、おまえがその言葉を知っている!?」 頭の中で繰り返されてきたあの言葉。 『夜の鍵』のため、『団長』のための言葉。 それをなぜこの男が知っているのか。 「シャロン……本当に忘れてしまったのか……君はやはり……」 「ぐぅっ……ああっ……!!」 また襲ってきた頭痛。 今回のそれはこれまでのものと比べられない程の痛みだった。 「あぁああああああああああああああ!!」 「シャロン!大丈夫か!?シャロン!!」 「あぁああああああああああああああああああああ!!!!」 「うっ!?」 痛みに耐えかね暴れるダリアを抱きしめようとしたハシュテッドだったが、顔面を殴りつけられ弾き飛ばされる。 「シャ……シャロン!君は……」 「だまれぁえええええええええ!!もう私を乱すな!関わるなぁああ!!」 「そんな……」 「私はダリア!!貴様など知らない!!!!」 そう吐き捨てた彼女は、ハシュテッドから逃げるようにして、その場から走り去ろうとする。 「ま、待つんだ……待ってくれ……!」 なおもしつこく彼女の足を掴み、引き留めようとするハシュテッド。 それは執念を超えた、呪いのようにすら感じられた。 「う……うわぁああああああああああああ!!」 痛みと恐怖に我を忘れたダリアは、足元に這いつくばっているハシュテッドに向け、手にする盾を思いっきり振り下ろす。 轟音の後の静寂。 夜虫の鳴き声だけが小さく聞こえる。 「はぁ……はぁ…………」 「…………」 次第に落ち着きを取り戻した彼女は、動かなくなったハシュテッドを見つめる。 どうやら息はあるようだ。 いっその事、このまま…… そんなことが頭をよぎるが、何故かそんな気にはなれなかった。 結局、転がったままのハシュテッドを捨て置き、彼女はゆっくりとその場を離れた。 イエルに辿り着いたダリアの表情は悲惨なものだった。 まるで屍のように生気がなく、目も虚ろ。 通りかかる街人は、その姿を見るや、彼女を避けるように道を開けた。 「私は何を……」 何かを失ったかのように、ただ茫然とここまで歩いて来たことは覚えている。 ――任務を終えて必ず帰る 「そうだ……私は…………」 何かを思い出したように空を見上げる彼女。 その瞳には徐々に輝きが戻り始め、表情もしっかりとしたものになっていく。 「私はダリア。団長に仕える夜の鍵の使者だ……!」 +愛の世界を抱く騎士ノア 「必ず何か痕跡があるはず。もっとしっかり探しなさい!」 “夜蛍の都ミール”から少し離れた山の中。 この土地ではそこそこ有名な盗賊団のアジトの中で、盗まれた財宝や金品が次々と発見されていく。 地元の自警団が立ち会う中、ノアは部下に檄を飛ばしていた。 「必ずあります。これが本当に夜の鍵の仕業ならば……!」 キッチンには冷めきってはいるが、まだ中身が腐っていない鍋が置かれている。 一見なんの変哲もない山小屋だが、明らかについ最近まで人がいた形跡があった。 しかし、ここにいたはずの盗賊団は捕まった訳ではない。 数日前、地元の人間が叫び声を聞きつけてやってくると、ドアの開いたアジトを発見。 その中には一つとして人影はなく、まるで神隠しにあったような状態だった。 報告を受けたミールの自警団“レッドピース”はアジトの中を捜査したが、痕跡らしきものは見つける事が出来なかった。 そして、街の中では“夜の鍵”の仕業だという噂が瞬く間に広まり、その噂を聞きつけたカルテット騎士団は、ハート隊に調査の命を下したため、この場にノアがいる。 「隊長。やはり部屋の中は荒らされた形跡がありません。もし金品目的であれば、このような物を残しておく訳がない。やはり、奴らなのでしょうか……」 男は豪華な宝石のついたネックレスをノアに見せながら、真剣な眼差しを向ける。 ネックレスはどこかの王族の物だと言っても疑う余地のない輝きを放ち、売り払えば屋敷の一つくらい建てることが出来そうだ。 ノアは頷いてから命令を下す。 「確証はないですが、間違いないと言っていいでしょう。何を狙っての犯行か、そしていなくなった人達がどこに行ったのか調べる必要がありますね。皆さん、一旦外に出て周囲を調べてください。足跡の一つでもあれば真相に近付くかもしれません。くれぐれも見落としのないように」 ノアの兵隊は、胸に付けた番号に手を当てて敬礼すると、次々に外へと出て行く。 残されたノアは、アジトの中を更にくまなく調査する事にした。 「ハート隊散開するぞ。何か見つけたら直ぐに声をあげるんだ!」 一人が声を発すると、各々別の方向へ歩き出す。 2番から13番までの計12人の兵隊は、いかにも屈強な戦士と言わんばかりの男から、杖を持ったサポート役の女性まで、様々な顔を並べてはいるものの、一丸となって仕事に取り組む姿勢はそんじょそこらの兵団よりも統率が取れている。 人種や出身も様々な彼らだが、ただ一つ、夜の鍵を潰すという目的のため、全力を尽くしていた。 「ねぇ!これ!ちょっと来て!」 兵隊の一人が何かを見つけて声をあげる。 直ぐに周りから集まってきた兵隊達が見たものは―― 「隊長!至急確認して頂きたいのですが、少々宜しいでしょ……んん?」 急いで盗賊の山小屋に戻った男は室内を見渡す。 先程までそこにあったノアの姿がない。 「隊長……?どちらに……?」 部屋の奥へと進むと、一番奥の暖炉に違和感を覚える。 横に90度回転している暖炉の先に、漆黒の深い闇が見えた。 「隠し扉……?」 警戒しながら近付いて行くと、暗闇の先には階段が伸びている。 どうやら、本格的に隠し部屋のようだ。 「隊長ーー!奥におられるのですか!?」 階段の奥に広がる闇に向かって声を張るが、返事はない。 仕方なく、手を壁につけて確かめながら一段一段地下へと歩を進めた。 螺旋状に伸びる階段は想像よりも深く、一体なんの為に作られたものなのかを想像して嫌気がさす。 これだけ厳重に隠すものと言えば、人に見聞きされると困るような何かが眠っていると相場が決まっているからだ。 嫌な汗を流しながら慎重に進むと、やがて半開きになっている大きな木のドアが現れた。 ドアの中からはランプの火が揺れているような明かりが漏れていて、暗闇に慣れきった目には少々明るすぎる。 腕で光を遮りながら中を覗くと、隊長ノアの姿がそこにあった。 「隊長……?ここは……」 部屋の中に入ると、中央にテーブルが設置され、壁際には本棚が並んでいる。 そのテーブルの前に立ったノアは、ゆっくりと振り返った。 「奴らの狙いはどうやらこれだったようですね……」 ノアは手に持った物を兵隊の男の前に出した。 何かの……箱。 周りには装飾が施された豪華な箱。 どうやら鍵が掛けられる仕組み“だった”ようだ。 「その箱は……破壊されている……?」 小さな宝箱のような上面が丸々開けられるような作り。 鍵を入れなければ蓋をガッチリと止めていたであろう金具が無残に壊され、力なくプラプラと揺れている。 「中には何もありませんでした。1階にも一般的に宝と呼べるような物があった事を考えると、こんな地下に隠さなければいけない箱の中身とは、一体どんなものだったのでしょうか……」 きっと金品などではなく、何か強大な力を持った物。 そう考えると納得がいく状況だった。 ただ、兵隊の男は、それは一つの仮説にすぎないと異を唱える。 「しかし、奴らがここを見つけて入り込み、その箱を破壊したという証拠はありません。ここをねぐらにしていた盗賊達が無理矢理こじ開けたという線も残っている……いや、普通に考えればその方が可能性は高いように思えますが……」 「この地下室に入る為には、壁に埋め込まれたパズルを解かなければなりませんでした。しかし、アタシはパズルを解いていません」 なぞなぞのような返答に、頭を悩ませる男。 「えっと……それはどういう……」 「この隠し部屋に入る仕掛けも壊されていたのです。ここの住人である盗賊団がわざわざ壊して侵入するでしょうか?」 「なるほど……」 もし盗賊団がこの場所をアジトにした際に壊したという事も考えられるが、こんな場所を見つけられるのだろうかと疑問を抱く。 実際に、ミールの自警団も含めて先程調査していた時はこの場所の存在は分からなかったのだから。 「隊長はどのようにここの入り口を見つけたのですか?」 「魔素の流れをほんの僅かに感じました。本当の愛がなければ感じることができないほど、微量なものでしたので、あなた達が見つけられなかったのは仕方がないと思います」 ノアはそういうと、箱を手に持ったまま部屋のドアを抜けようとする。 兵隊の男はその姿を見て、ここに来た本来の理由を思い出した。 「隊長!すみません、報告が遅れてしまったのですが、外で何やら戦闘の跡のようなものがありまして、是非隊長に確認頂きたいと思いまして……」 「そんな事だろうと思っていました。でなければこんなに早くアタシを呼びに来ることもないでしょうしね」 ノアはニッと笑うと、そのまま階段を登っていった。 「これは……焼け跡……?それも、そこら辺の火の魔法じゃないわね……」 兵隊に連れられて来たノアは、のどかな山道の不自然な焦げ目の前で膝を付く。 明らかに落雷などで自然に出来たものではない事を確かめると、注意深くその焼け跡を観察した。 「隊長……やはり……」 ノアは立ち上がると、12人の兵隊に向き直り口火を切る。 「これはかつてない成果です。皆さん、本当に良くやってくれました。早速ですが、報告の為に我々の城へ戻りましょう」 鎮魂の街ソーンから北に数刻程歩くと、森の中に突如大きな古城が姿を現す。 かつては王都の王族の避暑地とされていただとか、ヴァンパイアの王が住んでいた、幽霊が巣食っている、などなど様々な噂が立っている為、基本的には人が近付く事はないような古城。 こんな場所にカルテット騎士団の本拠地があるとは、誰もが夢にも思わないだろう。 城の正面玄関を潜ると、大きく開けた聖堂のような場所に出る。 勿論今は信仰などしているものはこの騎士団にはいない為、兵隊達の憩いの場になっていた。 上方に掲げられた4つの旗には、トランプのマークがそれぞれ堂々と描かれている。 このマークこそが、騎士団の誇りであり、4つの小隊で大きな騎士団が構成されている事を示す重要なもの。 「ハート隊戻りました!」 ノアに続き、12人の兵隊も繰り返す。 「「ハート隊戻りました」」 ノアを先頭に足を揃えて歩く兵隊達の横を、ガルムの少女がすれ違う。 「相っ変わらずアンタんトコはきっちりしとるなぁ~。ウチやったら堅っ苦しゅうて窒息してまうわ」 独特のトーンで話す少女は、フワフワとウェーブ掛かったブロンドの髪を靡かせ、少し高いヒールの踵をコツコツと言わせながら、にこやかにノアを見る。 胸元にダイヤの宝石を光らせている彼女はダイヤ隊の隊長なのだが、ノアは少し苦手としていた。 「アタシの隊には愛があるからよ!あなたの隊とは、そもそも出来が違うの!すぐどこかに遊びに行くあなたの隊と一緒にされても困るわ!」 「なんや……今日はえらい機嫌悪そうやな。まぁ、ウチは遊んどった方が楽しいし……ってアホか!遊んどる訳やないって何回言えば分かんねん!?ほんま、これやから商いもした事ないお子ちゃんには困ってまうわぁ」 「数字ばかり見てるから気持ちっていうものがなくなるのよ!愛がなければお金なんてなんの意味もないもの!」 「待ちぃや!!ウチは“ココ”!!心で商売しとるんや!商売人は心が一番大切なんて常識中の常識やっちゅうのに……はぁ……これやから素人は……って!!人が話しとる最中にどっか行く奴がおるか!!」 ガヤガヤとうるさい少女を尻目に、ノアは騎士団本部に向かう。 ノアは口ではあぁ言っているものの、カルテット騎士団の財政管理を任されているダイヤの隊長にはある程度信頼を置いていた。 ハート隊の兵隊は、顔を合わせればこのようないがみ合いをしている彼女達にすっかりと慣れてしまっているのだが、その内では隊長同士、もう少し素直になって欲しいと皆が思っている事はノアだけが知らない。 騎士団の本部となっている作戦室。 兵隊を廊下に置いてきたノアを、カルテット騎士団の総司令であるスペード隊隊長の男が背中で出迎えた。 「戻ったか……」 ノアは、盗賊団のアジトで見てきた事を全て話し終えると、例の箱をスペードへ手渡す。 「これがその箱です」 「ふん……。なるほどな……」 まじまじと箱を見ると、そのままノアの手に返し、いつも通り刺すような目を向けた。 「盗賊の失踪に関しては、一旦こちらで調査する。ハート隊はこの箱の出処を探ってくれ」 「わかりました。では、ハート隊、出発します」 「戻ったばかりで悪いな」 優しい言葉を掛けてはいるが、その目の奥は殺意のような黒い感情があるようにノアは感じ取る。 「少しは寝て下さいね」 目の下にクマを作るスペードの身体を案じた後、大きな音を立てないようにゆっくりと部屋のドアを閉める。 廊下で待つ12人の兵隊に命令を下す前に、一番手がかりを持っていそうな人物に話を聞きに走った。 「ちょっとあなた!待ちなさい!!」 後ろから走って来たノアに対し、怪訝な表情で振り返る少女。 「なんや騒々しい……。今さっきアンタが話終わらせたんやろ」 「スペードから任務が下って仕方なくよ……。あなたなら何か知ってる可能性が高いと思って……」 「はぁ……反省して頭下げに来たか思うたウチがアホやったわ。ほんで?なんや?」 ノアは例の箱をダイヤの少女に見せる。 「これを見たことはない?似ている物でもいいわ」 「なんやその箱?……んーー。見てくれは綺麗やけど、中身空っぽやんか。もしかしてアンタ、これ売りつけなアカンほど物入りなんか?……せや!ほならウチが他よりも高値つけたる!なんぼ必要なんか言うてみ?」 商人の血が騒いでいるのだろうか。 明らかに悪そうな笑顔を見せながら、少女は箱をまじまじと見つめている。 きっと箱を買い取ったのち、他の業者に高額で売りつけて利益を出すつもりなのだろう。 「任務だって言ったでしょ。これの中身を夜の鍵が持っていったかもしれないの。アタシが知りたいのはこの箱の出処よ」 「なんや……そんならそうと、はよ言うて欲しいわ。見せてみ」 落胆したかと思えば、コロッと態度を変えて真剣な顔つきになるダイヤの少女。 「これまたえらい古いもんやな。錠の作りは300年くらい前に王都で流行っとった4本歯のやつやわ。彫り物は……シャムールの物に似とるなぁ。ん……そーいやこれ前にどっかで……?そうや!」 足をトンと鳴らすダイヤの少女。 「何か分かったの?」 「どっかで見たことある思たら、ヴィレスの骨董商がこれに似たもんぶら下げてたん思い出したわ。見せてみ言うたら『これは売りもんじゃねぇ』とか言うとったっけ……。これと同じかは分からへんけど、調べる価値はあるかもしれんな」 思っていたよりも真相に近そうな情報を持っていた少女に、ノアは笑顔を向ける。 「ありがとう。あなたも少しは愛があるみたいね!一緒にヴィレスに来てくれる?その骨董商とは顔見知りなんでしょ?」 「いやいやいやいや、ウチは忙しい言うてるやろ!?ほんまちょっと親切にしたらすーぐ付け上がりよる。自分の兵隊連れてさっさ出発しぃや!あ、情報料はツケとくわ!膨れる前に返済してなぁ~。ほなぁ!」 そこまで言うと背中を向けて腕を振りながら歩きだす。 「前言撤回……なんて歪んだ愛を持ってるのかしら……」 情報料というのは事ある毎に彼女が口にする冗談だと分かってはいるものの、やはり何か気分が悪い。 「もういいわ!皆さん!ヴィレスに行きましょう!」 歯をギリギリと鳴らしながら大股で進み始めるノアの後ろで、兵隊達は顔を見合わせてからため息を吐くと一拍置いてから足を踏み出した。 カルテット騎士団の城を出発したハート隊は、ソーンの街で旅の支度を整えると、王都の東側へと足を運ぶ。 この辺りは帝国の目も厳しくなっているため、13人もの武装集団ともなれば、出来るだけ人目につかないように街道から少し外れた道なき道を進まなければならず、険しい道程となっていた。 しかし、当のノアだけでなく、兵隊ですらも文句一つ言わずに、ただ忠実に任務をこなすことだけを考えている。 それはカルテット騎士団のスペードに忠義を尽くしている訳ではなく、やはり各々が夜の鍵を潰すという大きな目的を持っているからこそ、自然と団結が湧き出ているのだろう。 「止まって下さい。これは……」 ノアが手の平を兵隊に向けると、ピタッとその場で止まり息を殺す。 視線の先にはまだ何も見えてはいないが、草木が燃えているような匂いが鼻をついた。 「慎重に進みましょう」 目の前の丘に続く坂道を、体勢を低くしながら登りきると、いくつかの人影が目に入った。 「帝国軍……」 ノアの目に映るその人影が着用している黒の鎧。 一夜にしてレミエール王国を滅ぼした軍隊。 それは、ノアからすれば許す事の出来ないねじ曲がった愛を持つ集団。 許すことの出来ない存在だ。 しかし、それでも彼らはまだ人道的だと思えるところがあるようにも思える。 制圧した街の人々は生かされており、人としての生活が与えられているからだ。 それに比べ、夜の鍵は全てを消していく。 それも、今まで起こしてきたと言われる事件の殆どが、犯行の方法すら分からない。 そこまで徹底された悪の組織を、許す訳にはいかないのだ。 とは言え、カルテット騎士団が活動する上では帝国の動きというのは非常に重要な情報の一つ。 帝国軍に目をつけられると、最悪潰される可能性すらある。 あの王国を一夜で陥落させた組織なのだから、自分達のような少数の騎士団を潰すなんて造作もない事だろう。 ノアは帝国の兵士達が何をしているのだろうかと見定めるように見下ろす。 しかし、その様子がおかしい事に気が付いた。 帝国の小隊だろうか、武装した十数人の兵士達は、皆一様に何かから全力で逃げているように思える。 その後方ではとてつもない火柱が上がり、炎の中には数人が焼かれたのだろうか、真っ黒に焦げた人影はピクリとも動いていない。 そして、炎の先に帝国の兵士達をゆっくりと追いかける人影が一つ。 「あの帝国兵達を一人でここまでやるなんて……何者でしょうか」 ノアは静かに呟く。 ハートの兵隊達も、生唾を飲み込んでその様子をじっと伺っていた。 そして、ノアはある事に気が付く。 「あの焼け跡……まさか……!!」 視界に入っている火柱。 そこから出てくる大きな尻尾を持った女性。 尖った耳を空に向け、カール掛かった長い黒髪をかきあげる。 そして、そのずっと後方の焼け跡。 非常に高い温度で、一瞬にして蒸発したように燃えた跡。 それはつい先日盗賊のアジトの付近で見た物に酷似していた。 「まさか……あの女が夜の鍵の……」 兵隊の一人がそう声を発すると、ノアは拳を握りしめた。 これだけ追い続けて、初めてその容疑者となる人物を見つけた事で高揚した気持ちを必死に抑え、冷静になろうとする。 見た事もないような技を披露してくれているが、果たして交戦したところで勝てるのだろうか。 なんの確証もない。 しかし、このままにしておくわけにはいかない。 「5番から7番の3名に任務を与えます。この箱をヴィレスの骨董商に見てもらって来てください」 ノアはカバンから例の箱を出すと、兵隊の男にそれを手渡した。 「しかし……」 箱を受け取った男の表情から、今から敵対しようとしている眼下の女との戦闘に参加しなくてもいいのか、と考えているのだろう。 「問題ありません。こちらも大事な任務ですので、よろしくお願いしますね」 兵隊の男は自分が背負った重たい使命を認識したように深く頷くと、6,7番の兵隊と視線を合わせてその場を後にした。 見送ったノアは、盾を強く握りしめると、その場に立ち上がる。 そして、一言放ち走り出す。 「愛がある者が勝利するわ!愛があるならアタシに着いてきてください!」 それを聞いて、兵隊達は一斉に立ち上がり、ノアの後を追う。 丘を一気に下りきると、燃え広がる平原に立つガルムの女もこちらに気が付いたようだ。 するとガルムの女は涼しそうな声でハート隊の面々を迎えた。 「今日は随分とお客さんが多いようね。どちら様?」 「アタシはカルテット騎士団ハート隊、隊長のノア!!貴女がしてきた事は分かっているの!正直に全てを話しなさい!」 ビシっと人差し指を向けるノア。 しかし、相手の女は不思議そうな顔をしている。 「何を言っているの?話が見えないのだけれど……」 「知らないとは言わせないわ!夜の鍵の事も、盗賊団のアジトの事も!あの盗賊団が持っていた箱には何が入っていたの!?答えなさい!!」 「夜の鍵……?聞いた事はあるけれど……どんな人と勘違いしているのかしら……」 女は尻尾をクネクネと動かしながら困ったような表情を浮かべている。 「とぼけても無駄よ!今出していたその炎の跡は、誰かが簡単に真似できる物じゃないもの!貴女があそこに居たという動く事のない証拠じゃない!!観念しなさい!!」 そう話した瞬間。 それまでは流すように聞いていた女だったが、目の色が変わったように見えた。 女はノアを正面から見ると、先程よりも低いトーンで話し出す。 「その話は本当なの?詳しく教えてくれないかしら」 「なんて愛がない人なのかしら……。あくまでもしらを切るのね!とぼけても無駄だって言うのに!そんなに話したくないなら、話せるように教育してあげるわ!!」 ノアは引き下がらない。 盾を構えて女へと敵意をむき出しにした。 兵隊達も剣を構え、今にも交戦が始まりそうだ。 「ちょっと待ちなさい……はぁ……仕方がないわね。そこまで言うなら少し相手をしてあげるわ。でも、その前にやらなきゃいけない事があるの。少し待ってて貰えるかしら?」 女は持っていた大剣を背に仕舞うと、背中を向けようとする。 「待つのは貴女よ!逃げるつもりなの!?」 ノアは今にも殴り掛かりそうな勢いで言い放つが、女は冷静だった。 「お願い。夜には必ず戻るわ。大事な用事なの……」 それを聞いてノアは少し考え、そして結論を出した。 「仕方ないわね。わかったわ。必ず戻ってくるのよ」 ハート隊の面々は驚く。 「隊長!!良いのですか!?このまま逃げてしまうかもしれませんが……というよりあの女は絶対に逃げ――」 「大丈夫よ。あの目は何かを決意した目。貴方も本当の愛があるならば、彼女を信じて待ちなさい」 ノアは真剣な表情で説き伏せる。 女の背中が見えなくなると、その場に座り込み、じっと夜を待つ事になる。 空が茜色に染まる。 ハート隊は座ったまま、女が来るのを待ち続ける。 あの女は逃げたのではないだろうかと考える者は誰一人いない。 隊長の信じたものを信じる。 ノアが何を考えているのか解るものは少ないものの、ノアを心から信頼している者達だからこそできる事だ。 そういう者達だからこそ、ノアに命を預けて戦う事が出来、更にはノアからの信頼も得られている。 端から見れば、敵に待ってくれと言われて待つ騎士なんて遊びにも見えるかもしれない。 それを当然のようにしてしまう隊長のノアを、兵隊は誇りに想っていた。 日が地平線から消えた頃、兵隊の一人が沈黙を破る。 「5番、6番、7番が戻ってきました」 指差す方向を見ると、例の箱を骨董商に確認しに行った3名がこちらに向かって来ていた。 「隊長、お待たせいたしました。報告致します」 ノアは真剣な表情で頷く。 「この箱はダイヤの隊長が言っていたように、ヴィレスの骨董品屋の店主が持っていた物でした。中身については知らなかったようです。なんでも、開ける鍵が見つからず中身がもし物凄く高価だった場合の事を考えて売り物にはしていなかったとか。入手先は、知り合いの商人から物々交換で手に入れたという事でしたが、その商人も鍵は探していたという事です。その商人が言うには、中には“祈望の魔石”という物が入っているとか言っていたようで、骨董商も期待をしていたそうですが……」 「それで、どうしてその箱が盗賊団のアジトにあったのですか?」 「はい。最後に見たのは店の中という話です。ある日の夜に物音がしたと、2階から店である1階に降りると男達数人が店を荒らしていたとかで、何もする事が出来ずに商品が殆ど盗まれていたという事でした」 「なるほどね……」 つまり、盗賊団が盗んでいった物の中にこの箱が混ざっていた。 そして、それを夜の鍵が盗んでいった。 そういう事になる。 「箱はどうしたのですか?」 「骨董商に見せると、中身が空っぽになっていたので肩を落としていました。国から盗難の保証も受けたし、この箱はもう見たくもないから持っていけという事で持ち帰ってきました」 兵隊の男は、懐から箱を出すとノアに手渡す。 「うーん……何か引っかかるわね」 ノアは先程帝国と戦っていた女が、夜の鍵のメンバーだったと仮定して考える。 あの女は間違いなくガルムだった。 つまりガルムの国、ヴィレスの住人だという可能性は非情に高いだろう。 現にヴィレス付近で帝国と戦闘していた訳だ。 ヴィレスはまだ帝国の手に落ちていない国。 国を守る為に戦っていたと考えるのが妥当であろう。 ヴィレスに住みながら、夜の鍵として活動をしていたとすれば、骨董商がこの箱を所持していた事を知っていたかもしれない。 いや、それどころか骨董商の元にこの箱が渡るように手を回していたとしてもおかしくはないだろう。 商人である骨董商が普段中々お目にかかれないような豪華な箱を手にしたら、草の根を分けてでも鍵を手に入れて中身を確認したい筈だ。 自らが鍵を探す手間が省ける可能性がある。 もし鍵を見つけて中身を手にする機会があれば買い取るか奪うかすれば良い訳だ。 しかし、箱は盗賊団に奪われてしまった。 ならば、箱を取り返しに盗賊団を襲ったとしたら……。 「一応辻褄は合うと思うのだけれど、どう思いますか?」 ノアは兵隊達に意見を求める。 「しかし、自分がもしその女であれば、錠を壊す方法があったのなら最初から箱を壊してしまうと思います。鼻から鍵を探す手間もなくなりますし……」 「では……そもそも箱の存在を知らなかったとしたら……」 骨董商は国から盗難にあった事を報告して保証を受けた。 つまり、盗まれた財産のリストを作成した筈だ。 その中にその箱があったと記載したならば、そのリストから箱の存在を知り……。 「確かに!それから盗賊団を追ったのであれば、話が通りますね」 「あくまでも仮説に過ぎません。真相は、自分の口から話して貰いましょうか。あの女に……」 ノアが顔を上げる。 その視線の先には人影が一つ、こちらに向かい歩いて来ていた。 「来ましたね」 ノアはその影から一切目を離さずに立ち上がり、盾を強く握りしめる。 兵隊達にそのギリギリという音が聞こえる程強い力で。 「本当にここで待っていたの?少し驚きね……」 「貴女が待てと言ったでしょう?何をしてきたのかは知らないけれど、覚悟は出来たのかしら?」 ハート隊と女の距離は8m程。 しかし、その距離は既に互いの間合いに入っていた。 緊張が辺りを包み、空気がビリビリと唸っているように感じる。 「覚悟……?そうね。それに似たものはしてきたかしら……」 この女が夜の鍵の構成員だとすれば、自分達、カルテット騎士団が接触してきた事は筒抜けだろう。 しかし、それでいいのだ。 もしかしたら、この女を足がかりにして、芋づる式に夜の鍵の団員を捕える事が出来る可能性がある。 「そう。だったら、全部本当の事を話してくれるわね?」 固唾をのんで見守る兵隊達。 しかし、女が発した言葉は、彼らの期待とは違った物だった。 「あなた達は何か勘違いをしているわ。私は夜の鍵なんて噂話でしか聞いた事がないの」 ノアは怒りを込めた言葉をぶつける。 「まだしらを切るつもりなの!?この箱を見ても何も知らないとは言わせないわ!!」 例の箱を女に突きつけるが、女は不思議そうな表情を浮かべる。 「なぁに?その箱は……初めて見たけれど……」 「本当に救えない程愛がない人ですね……!!もう怒ったわ!!」 ノアが盾をズドンと地面に叩きつけると、衝撃で土煙が舞う。 盾を持ったもう片方の手の箱を持った手を後ろに伸ばした。 「あなた達はこの箱を城に持って帰りなさい。一人もこの場に残る事は許しません。アタシがこの女と一騎打ちをします!!」 ノアがこうなった時は誰がなんと言おうと覆る事はない。 それを知っている兵隊達は、指示に従うしかなかった。 兵隊達は精鋭ではあるものの、戦力ではノアに到底届かない。 それ程までにノアは天才的な能力を持っていた。 しかし、目の前のガルムの女の力も凄まじい事は明白。 ノアと比べても五分と言ったところかもしれない。 つまり、そこに兵隊達が居れば、足手まといになり兼ねない。 隊長のノアの足を引っ張るくらいならば、自分達は自分達に出来る事を全力でする。 それが隊長の愛であり、兵隊としての隊長への愛。 「ご武運を。隊長!」 箱を受け取ると全力で走り出す兵隊達。 ノアは足音で兵隊がある程度離れた事を確認すると、にぃっと白い歯を見せる。 「これで、思いっきり愛の教育が出来るわ!!覚悟しなさい!!」 「はぁ……別にあなたと戦う気はないのだけど……引く気はなさそうね……」 女も大剣を構えた。 夜の静寂に包まれた平原。 2人の距離がひとつ詰まる。 全ての人、動物、虫、植物。 生命は愛を持っている。 愛があるからこそ、繁栄し、未来を繋ぐ。 しかし哀しい事に、時としてねじ曲がった愛を持つ者が現れる事がある。 正しい愛に導くものは、正しい愛を知る者だけ。 ノアは正しい愛を持ち、そして愛を見る。 皆平等に持っているはずの愛。 その愛を正しく育み、与え、宿す。 それが出来るのは、カルテット騎士団ハート隊、隊長ノア。 「歪んだ愛を……このアタシが消し去ります!!!」 ――ノアの見る世界 夜に包まれた平原は、一変して青空が広がり、爽やかな風が吹き抜ける。 青々しい草の絨毯が広がり、鳥も小動物も木も雲も、世界が平和の歌を唄う。 まさに、愛に溢れた世界。 ノアの前には、濁るハートを持った者。 この世界には不必要。 それはハッキリ解っている。 立ち塞がるは夜の鍵。 世をおびやかすその者の、ハートに愛を注ぐため。 悪魔のようなその者の、ハートに愛を注ぐため。 大地も花も木も空も。 全てに愛を咲かす為。 今、この愛の全てをぶつける。 悪魔のハートは濁っている。 その心を赤く灯せば、世界が愛に包まれる。 「はぁああああああ!!!」 踏み込むノア。 悪魔はステップをしながらその拳で地面を殴る。 そして地面から吹き出す炎がノアを襲う。 「危ないわねぇ!!!」 少女とは思えないほど軽やかな重心移動で全ての攻撃をいなすノア。 そして、渾身の一撃をその土手っ腹に叩き込む。 「これでどうですかぁ!!!」 しかし相手も強大な悪魔。 その一撃は間一髪のところで防がれてしまう。 「まだまだ終わらないんだから!!!!」 一瞬の隙をついて上方に飛び上がり、盾を大きく振り下ろす。 一発、悪魔の肩辺りに直撃する。 「やぁあああああああああ!!!」 畳み込むようにして左の脇腹を狙い、盾を押し込もうと足を踏み込んだ。 「えっ……!!」 しかし、その遥か下方から悪魔の左手が尋常ではない速度で振り込まれ、ノアの身体は宙に浮く。 「あぁああああ!!!」 怯んだノアの視界に入ってきたのは、宙に浮き力を溜める悪魔。 その後方には狐の尻尾が幾つも出現し、途方もない熱を出しているようだ。 そして次の瞬間に、信じられない程の速度で悪魔の腕がノアに襲いかかる。 「っ……!!!!」 間一髪のところで盾が間に合い、大きな魔物の腕が鋼鉄の盾に当たりガツンと衝撃を受ける。 「これが愛よっ!!!!!!!!」 相手の力を利用して身体を回転させると、悪魔の頭上に懇親の蹴りを見舞う。 「……いい加減正直に話しなさいよ!!」 2人の壮絶な戦いは続く。 そこら中に火と煙が立ち上り、戦いの激しさを物語っている。 「往生際が悪いわねぇえええええ!!!」 息を荒くするノアだが、退治している悪魔にも疲労が伺える。 「何を勘違いしているの?いい加減疲れるのだけれど」 悪魔が突然喋り出す。 その瞬間に、ノアの世界は薄まって元の夜の闇が戻ってくる。 しかし、辺りが炎で焼かれている為、先程よりも随分と明るい。 女が発した言葉は余裕そうな台詞に聞こえるが、所々に胸を使った呼吸が混ざる。 戦闘は拮抗し、どちらが優勢という訳でもない。 「しぶといわね。一体なんだっていうの?」 「しらばっくれてもあなたの事は分かってるのよ!」 ノアは食い下がる。 絶対に許してはいけない。 そして、この場で白状させなければいけない。 この女は確実に夜の鍵の使者なのだから。 「なんの事だか分らないと言っているでしょう?」 しかしノアの思いも虚しく、彼女は一向に真実を語ろうとはしない。 どこまで歪めばここまで捻くれてしまうのだろうか。 ノアは信じられないという気持ちと、負けられないという気持ちの両者を持ちつつ、盾を真っ直ぐ前に突き出す。 「あなたの愛情は歪んでいますね!私が矯正してあげます!」 そのまま女へと突っ込んでいった。 「仕方ないわね……」 女も大剣を構え直し、臨戦態勢となる。 負ける訳にはいかない。 必ず勝たなければならない。 世界の為、愛の為に。 「待てぇえええ!!」 2人がまさにぶつかろうとしたその時、ひとつの声が2人を引き剥がした。 誰の声だろうか。 カルテット騎士団の兵隊の物ではない。 では―― ノアは後ろに引くと、声の主を確認する。 「戦いを止めろ!!」 屈強な男の兵士。 それが第一印象。 筋骨隆々な肉体美に、大きな肩当てをして、首元には金色のネックレスが光る。 細い尾を腰に巻いているところを見ると、この男もガルムなのは間違いない。 「クレイル!?」 女がビックリしたような声をあげた。 どうやら知り合いのようだが……。 「っ……!!あなたは誰!?」 もしこの女の知り合いで、この戦闘に参加しに来たのであれば、この男も夜の鍵に絡んでいると踏んで間違いないだろう。 ならば、状況は1対1から1対2と分が悪くなる。 一度冷静に状況を見極める必要があるとノアは考えて、更に三歩程身を引く。 すると、クレイルと呼ばれた男は落ち着いたトーンで口火を切った。 「2人共、少し話を聞かせてくれないか」 確かめなければならない。 もし、夜の鍵の者であれば、どうにかして状況を変えなくてはいけない。 まずは確かめなければ。 「誰って聞いてるのよ!もしかして、その女の仲間!?」 男はノアに両手の平を見せて、戦意がないと伝えたいようだ。 「待て。悪かった。俺はクレイルという者だ。ヴィレスの騎士とでも言おう。そこの彼女……フェンテとは――」 この女の名前がようやく分かった。 フェンテ……。 頭の中の人物時点をひっくり返したが、夜の鍵の容疑者として挙がっている名簿の中にその名はない。 そしてクレイルが“ヴィレスの騎士”と言ったところを見ると、まだ表向きは夜の鍵の一員として接触してきている訳ではなさそうだ。 ならば、やはりこの目の前の女、フェンテに直接問い詰めなければならない。 「私はカルテット騎士団ハート隊、隊長のノアです。申し訳ないですが、そこをどいて頂けますか?私はその雌狐に用事があるので」 「カルテット騎士団……!?」 クレイルはひどく驚いたようだ。 もし夜の鍵の団員であれば、カルテット騎士団の噂は耳に届いているだろう。 そして、夜の鍵であれば、カルテット騎士団が夜の鍵を潰そうとしている事も知っていて当然だ。 なにせ、夜の鍵の噂が立った場所は、すぐに我々が調査しているのだから。 彼がその名を聞いて驚くのは当然なのかもしれない。 いや、まだそう決めつけるのは早い。 どうにかしてこの2人が何者か見極めなくては――。 「ノアとやら。すまないがこのフェンテへの用事というのを聞かせて貰えないだろうか。状況が見えていないまま2人を放っておく訳にはいかないんだ」 クレイルは随分と下手に出ている。 フェンテに話を聞きたいというのは、どういうことだろうか。 考えられることは2つ。 ひとつは2人が夜の鍵の団員だったケース。 この場合、今どういう状況で、どの程度知られていて、ノアが消すべき対象なのかどうなのかを知りたいと考えているだろう。 ふたつ目に、フェンテは夜の鍵の団員だとクレイルが知らなかったケース。 その場合、何故こんな所で争っているのか分からず、戦いを止めて何をしているのか問い詰めたいというところだろうか。 そう考えると、後者の方が今までの言動と行動が一致するようにも思える。 いや、決めつけるのは早い。 そう思わせるように巧妙に仕組んでいる可能性もある。 ここは、少し葉っぱをかけてみて、反応を見るのが最適かもしれない。 ノアは考えをまとめ、ひとつ息を吐いてから喋り始めた。 「どうやら貴方はその雌狐の裏の顔を知らないようですね……。ならば教えてあげましょう。その雌狐がどのくらいねじ曲がった愛を持っているかを…………。貴方は“夜の鍵”という組織をご存知ですか?」 「その……聞いた事はあるが……」 この反応。 明らかに動揺している。 しかし、それは先程考えたどちらのケースであってもおかしくない言動。 「誰も見たことがない都市伝説。そう思うのが一般的です。信じている人なんて、子どもか単なるおバカ、もしくは、真実を知るものです」 クレイルの顔が明らかに曇る。 フェンテの方も確認するが、至極真面目な表情でノアの話を聞いているように見える。 先程までの余裕はそこにはない。 「私達、カルテット騎士団は、世間から『愛を持った有志が集った騎士隊』なんて思われているかもしれませんが、私達の目的は、夜の鍵を潰すことです。間違った愛を育む思想を止めなければなりません。ですから、私はその雌狐に本当の愛を教える必要があるんです!」 クレイルの額に汗が滲む。 「待ってくれ!もしそうなら、フェンテが“夜の鍵”の構成員だとでもいうのか!?」 「はい。私には確信があります!当の本人は認めないようですが、そこのフェンテという雌狐は間違いなく“夜の鍵”の団員です!」 ここからどう出るか。 それによってこの男、クレイルが何者かがハッキリする。 「ノアが言っている事は本当なのか?フェンテ……」 「だから、その子の勘違いだと言っているじゃない」 「ならば、何故戦う!?何故突然、特隊を抜けるなどと言い出したのだ!」 この反応、白だろうか。 特隊とは……抜けるという事は何かの機関なのだろう。 しかもフェンテが抜けたという事は……ノアとの戦闘を夜まで引き伸ばしてしてきた“大事な用事”がそれだったと言うことかもしれない。 「その子が挑んで来るから相手をしていただけよ。なぁに?もしかしてクレイル……妬いてるの?」 「茶化すな!お前は何を企んでいる!?」 「企む……?フフフ……そうね。強いて言えば、その子の持つ情報に興味があるからかしら。私の扱う炎と同じものを見たのよね?」 またフェンテに余裕の表情が戻ってきた。 本当にクレイルが夜の鍵の人間ではなかったとしたら、これ程までに余裕を見せていられるだろうか。 夜の鍵というのは、それ程までに大きな力を持った組織なのだろうか。 もう一度、クレイルの前で状況を説明する。 そうすれば、何か掴める筈だ。 「この街道で帝国の兵士が焼き払われた炎の跡を、ある盗賊団のアジトで見ました。その盗賊達は全員消息不明。巷では、“夜の鍵”の仕業だって言われていました。手口から言っても間違いはないでしょう。あの盗賊団を襲ったのは貴女なのでしょう!?」 「何度違うと言えば解るのかしら……。はぁ……」 この女、何故こうも愛がないのか。 これだけ人が丁寧に説明して逃げる口実なんてどこにも無い筈なのに、何故白状しないのか。 クレイルという男とは仲間なのではないのだろうか。 少なくとも、同じ首飾りをしているのだから、何かしら共通点はあるはずだ。 そんな人物に嘘を付き続けるなんて、どこまで歪んだ愛を持った女なのか。 ノアの怒りが限界を超えそうになる。 「これだけ証拠が揃っているのよ!さっさと白状した方が胸もスッキリするんじゃない!?」 「何を言っても聞く耳は持たないようね……」 また武器を構えるフェンテ。 やるしかない。 ノアも盾を構え、臨戦態勢に入る。 「待て待て!!――――――」 クレイルという男が何かを言ったような気がした。 しかし、こうなったらもう止められないのだ。 この女、フェンテの歪んだ愛を―― 「これ以上話しても時間の無駄よ!そのねじ曲がった愛を矯正してあげるんだから!!」 ――戦いは夜通し続いた。 辺りは朝日の優しい温かさで包まれていく。 街道横の平原は一面が焼け野原となり、至る所から煙が上がっていた。 「いい加減にしろ……お前ら……」 クレイルは、2人の攻撃を止めようと事ある度に邪魔し続けた。 「はぁ……はぁ……そこまで邪魔をするなんて……貴方も相当歪んだ愛を持っているようですね……」 ボロボロになりながらも、まだ戦う意志を伝える。 「もう日が登っちゃったじゃない。早くお風呂に入りたいわ……」 一方、本当に懲りる事もなく適当な発言しかしないこのフェンテも、腐った根性を持っているようだ。 だが、彼女も魔力を消耗し、肩で息をしながら立っている事すらままならないような状態にある。 そんなフェンテに、クレイルは怒りの声を上げる。 「フェンテ。お前が腹を割って話せばこの場は収まると、何度言えば解るんだ」 どちらかと言えばクレイルはノア側の立場になっているようだ。 ここまできたのならば、この男は夜の鍵の人間という事はないのだろう。 「そうよ!知っている事を全部話しなさい!!」 クレイルに続き、ノアもフェンテに叫ぶ。 フェンテはため息を吐いた後にポツリと呟いた。 「もういいわ……。私の降参でいいわよ」 フェンテは力なく大剣を置くと、尻もちをついた。 空を見上げ、何かもうどうでも良くなったような、そんな表情をしている。 「やっと白状する気になったのね!」 次の瞬間―― 『ゴォオオオオオオオオオ!!!!』 突如、ドス黒い霧がドーム状に広がった。 「何っ!?なんなの!!?」 ノアは慌てて盾を構えてその方向に構える。 そこは、クレイルが居た筈の場所。 あの男が何か始めたとでも言うのだろうか。 もしかしたら、あの男が本当に夜の鍵の……。 「フェンテ……!!」 ノアは盾を構えながらフェンテを確認する。 彼女は目の前の光景が信じられないという表情で、ただただ目を丸くしている。 「しっかりしなさいよ!!これはなんなの!?」 「わからない!貴女の仕業ではないの!?」 「違うわよ!もう!どうなってるの!?」 ノアは混乱していた。 フェンテは本当に何も知らないようだ。 彼女も、先程置いた剣を拾い、黒い霧に向かって構えている。 「これは一体なんなのよ!!もう!!」 ノアは最後の力を振り絞り、懇親の魔力を盾に溜める。 「私も付き合うわ」 後ろからフェンテが炎をその剣に溜めながら低い姿勢で詰め寄った。 何故かは分からない。 この時、ノアはフェンテが夜の鍵の団員ではないと、直感してしまった。 最初から自分の勘違いだった……。 フェンテは最初から本当の事を言っていたとしたら……。 「もう!!!訳がわからないわよぉおおおおお!!!!!」 目に涙を溜めながら、盾に溜まりきった最後の魔力を放出する。 それに合わせて、フェンテも空中から炎を宿した大剣で斬りかかる。 『ドゴォォォォォオオオオオオオオオオオオオン!!!!』 とてつもない爆発が起きる瞬間、ノアは見逃さなかった。 黒い霧が一瞬で空気のように消え去り……。 その場には何も残っていなかった事……。 2人は全ての魔力を使い果たし、その場に倒れ込んだ。 もう起き上がる気力すらない。 誰かにここを襲われたら、何も抵抗する事なく殺されてしまうだろう。 そんな絶望的な状況の者がもう一人。 「今のは……なんだと思うのよ?」 ノアは、大の字に寝そべったまま、すぐ近くにいるフェンテに話しかける。 「そんなの……分かるわけないでしょ……」 本当に知らない……。 どういう事なのだろうか。 「ねぇ、貴女は本当に夜の鍵とは何の関係もないの?」 「最初からそう言ってるでしょ……あなたの勘違いだって……」 フェンテはやっと分かってくれたのかというニュアンスを含んだため息を吐く。 自分が間違っていた。 今まで手の届かない組織の尻尾をやっとの事で掴んだと、気持ちばかりが先に走っていた。 また振り出しに戻ってしまった。 涙が溢れてくる。 「ごめんなさい……。ごめんなさい……」 今のノアには心から謝罪する事しか出来ない。 フェンテは怒っているだろう。 こんな事になってしまったのだから。 「もういいのよ。泣いてるとガキ臭いからやめなさい」 どちらかというと呆れに近い返答がくる。 「だって……だって……」 涙が止まらない。 ここまでの失態をどうやって取り戻せばいいのだろうか。 「あぁ、もう仕方ないわね。最初から全部話すから、泣き止みなさい」 そういうとフェンテは、身体を起こして、泣きじゃくるノアの顔に小さな布を被せる。 「あ、ありがとう……」 「鼻水つけるなら洗って返しなさいよ」 ―――――― ―――― ―― 「じゃあ、クレイルはフェンテの同僚だったの?」 「そう。アイツは私が小さい時からずっと小言を言い続ける面倒な男だったわ。憎んではなかったけれど、正直鬱陶しい相手ではあったわね」 「そんな事言って!本当に愛がないわね!」 「貴女のその愛の感覚ってどうなってるのよ……」 フェンテの話では、ヴィレスの特殊部隊という所に2人は所属していたらしい。 同僚とは言ったものの、クレイルはフェンテよりも随分先輩だったようだ。 フェンテは幼い頃に両親の手を離れて特隊へと王の命令で入隊したとの事。 それを聞いて、ノアに一つ疑問が浮かぶ。 「なんで小さい頃のアンタがそんな特別な組織に抜擢されたの?」 「貴女自分の事棚に上げすぎじゃない?まぁいいけれど……。私はね、“ヴィレスの篝火”の家系なの」 「篝火?」 「昔からヴィレスの明かりとなる為の家系。有事の際には率先して王の元ヴィレスの為に戦う。それが篝火。私の父も、そうやって生きてきた。だから、王は幼い私を密かに特隊に入れたの」 ノアにはいまいちハッキリとは分からなかったが、きっと国で決められた役割の一つなのだろう。 しかし、疑問が残る。 「なんでその“かがりび”って言う家系なのに、家を継がないで特隊っていうのに入ったのよ」 フェンテは少し間を置いてから言葉を紡ぐ。 「決まりでは長男が家を継ぐ筈だったの。でも、私の弟……レンは事故で小さい時に死んだわ」 「え…………」 「空家で隠れんぼでもしてたみたいなの。良く家を抜け出して遊んでいるようなダメな後継者だったのだけれど、私よりは真面目に修行をしていたわ」 フェンテは唇を噛みしめるようにして話を続ける。 「その空家が火事になったの。弟の骨だけが残った。葬儀で私は涙を流せなかった。彼が死んだなんて、当時の私には受け入れる事が出来なかったから」 それは仕方のないことなのかもしれないと、ノアは彼女の境遇に痛む胸に手を置いて真剣に話を聞き続ける。 「その火事は事故で済まされた。でもね、私は事故じゃないかとも思っているの」 「どういう事?」 急な展開に、ノアは質問をぶつけずには居られなかった。 「レンには友達がいたのよ。よく遊んでいた友達。私はあまり話した事はなかったけれど、よく話は聞いていた。レンが遊びに行く時はいつもその子が一緒だったらしいわ。でもね、レンの葬儀にその子はこなかった。何故かは分からない。私みたいに受け入れたくなかったのかもしれないとも思った」 「…………」 「でもね、それっきり、その子は姿を消してしまったの」 「えっ!?」 事件の当事者が、姿を消している。 それはまさに、あの組織の名前が頭を過る。 「夜の鍵……。もしかしたら、その組織が事件を起こした犯人かもしれないと、私は考えたわ。そんなの、誰に言っても笑われるだけだと思って、誰にも話した事がなかったのだけれど」 フェンテがそう考えるのも無理はない。 「もしかしたら、あの骨は全く別の人の物で、レンは生きているかもしれないって思ってた。だから、私はいつか夜の鍵について調べたいって思ってた」 ノアは彼女の話を黙って聞き入った。 「でも、実際そんな事……夜の鍵を追うなんて出来ない。だってお話の中の組織なのだもの。そんな事言ったって笑われるのが関の山よ。だから、私はその気持ちを押し殺して、特隊の仕事をして、ただ何もないように生きていた。時々、夜の鍵が現れたという事件を聞いてはその詳細を調べるくらいで留めていたわ」 それはそうなのだろう。 もし自分達のように、表立って夜の鍵を追っているなんて一般人が言っていれば、馬鹿にされてもおかしくはない。 「今思えば、あの子が死んでからずっと抜け殻のように生きていた気がする。だからクレイルもあんなに口うるさくしていたんだと思うし……ね」 空に浮かぶ雲を眺めながら、フェンテは何かを懐かしむように手を伸ばした。 「ノアちゃんだったかしら?貴女は私の炎の焼け跡と同じ物を見たと言っていたわね?」 「えぇ……盗賊団のアジトで見たものは確かにアンタの炎と同じ跡だったわ」 「なら、またレンが生きている可能性が高くなったと思っていいと思わない?だって、ヴィレスの篝火の力は、他にそうそうあるものじゃないから……」 「っ……!!確かにそうね!!」 ノアは飛び起きる。 夜の鍵に繋がる糸口が潰えた訳ではなかった。 もし、そのレンという人物が夜の鍵に絡んでいるのであれば、話に筋が通る。 「アナタの騎士団は夜の鍵を探しているのよね。だから、手伝わせて貰えないかしら?」 ノアは気がつけばまた涙を流していた。 フェンテは……本当に弟を大事に想っていた。 彼が死んだと街や国が判断しても、まだどこかで生きていると希望を持って、そして今まで心を隠して生きてきた。 こんなに愛がある人物は、他にそうはいないだろう。 「アンタ……思ったよりも愛があるじゃない!!」 「はぁ……それは光栄ね。ハートの騎士様に認められるなんて……次は王様に表彰でもされるのかしら?」 「アンタ馬鹿なの!?アタシは本気で言ってるのよ!!」 茶化すフェンテに本気で怒鳴るノア。 フェンテは含んだ笑いをしてから続ける。 「ふふふ……でもね、本当に私に愛なんてないの。愛なんてまやかしよ。本当の愛なんてあっても無駄なだけ。私の人生でそれが解ってしまったの」 「アンタ……今なんて言ったの……」 ノアは顔に影を落とす。 「愛なんてま・や・か・し・よ」 ハッキリ言い直したフェンテ。 ノアのどこかで、プツンという音が聞こえた。 「あぁあああああ!!!もう怒ったわ!!フェンテが本当の愛に目覚められるように、アタシが徹底的に教育してあげるわ!!感謝しなさい!今からアタシの下で生活して、朝も昼も夜も愛について勉強するの!!いいわね!!!!」 「そんなの絶対に嫌だわ……。私は貴女にカルテット騎士団が持っている夜の鍵の情報を教えて貰えればいいのだけれど……」 「どれだけ虫が良い事をいう人なのかしら!?そんなの簡単に教えられる訳ないじゃない!!そうね……本当の愛に目覚めたと、アタシが判断したら教えてあげるわ!!その歪んだ心をしっかり開いて真実と愛を教えてあげる!!!」 フェンテはおもむろに立ち上がった。 「ならいいわ。短い付き合いだったけれど、私は私で組織を探す。特隊に辞表も出しちゃったしね。楽しかったわ。ノアちゃん。またどこかで会いましょう」 フェンテはそう言うと背中を向けて手を振る。 「ちょっと待ちなさいよ!!!アンタ宛てがある訳じゃないでしょう!?アタシがいないと何も出来ないんでしょう!?探すってどこを探す気なのよ!!」 追っかけてくるノアに、フェンテは振り向きもせず、歩きながら返答をする。 「少し前に妖精から話があったの。大陸の裏の話がよく入りそうな組織があるらしいわ。色々な情報が入ってくる組織。今は帝国軍と敵対しているみたいだけれど、そこに加入すれば私も妖精から情報を貰える約束をしているのよ」 「なななな!!なんですって!!」 妖精と言えば、この大陸の情報屋でも頂点に君臨する種族。 その妖精の話であれば、信用に値するものだろう。 「フェンテ待ちなさい!!アタシもそこに行くわ!!でも兵隊も一緒にっていうのはちょっと難しいのかしら……まぁ、なんとかなるわ!ちょっとフェンテ!!待ちなさいって言ってるでしょう!?」 ノアがこうしていると、ただの子どもに見えるだろう。 フェンテはため息を吐くと、ギャーギャーとうるさい少女に冷たく言葉を吐く。 「付いてくるのはかまわないけど、私の側で騒ぐのはやめてね。私が変に思われちゃうし……なによりうるさいったらないわ」 「なんですってーーーー!!ちょっと待ちなさい!!アンタにも本当の愛に気付かせてあげるから!!絶対だからね!!フェンテの中にも絶対にあるもの!!本当の愛をその身体でしっかり感じるといいわ!!ちょっと!!聞いてるの!!!?もう!!!!!!!!!フェンテェエエエエ!!!!!!」 満身創痍の身体を引きずりながら、二つの影は平原の彼方へと消えていく。 夜の鍵という組織に近付く為に、革命軍の門を叩く。 それがどれだけ長い旅になるのか、そしてどんな困難が待っているのか。 先に待つ組織がどれだけ大きなものなのか。 2人は、知る由もない。